月別アーカイブ: 2014年3月

悟りとは?-色即是空の自然観ー

面壁達磨は、まる9年間只ひたすらに洞窟の中の壁に向かって座禅をした。壁は何も答えてくれない。世間の生活とは隔絶して、壁に向かい、己に問いかけ、自問自答の壁が己の出す答えを反射して来るにまかせて過ごしたのだろうと勝手に解釈する。しかし、全く世間と途絶しては生きて行けない。近隣で、食べ物を差し入れてくれたり、身の回りの世話を陰で支えた人は居ただろう。そんな壁に向かった姿は尋常には映らず、無意味な業と蔑まされるような所業であっただろう。しかし、必ずや納得する『悟り』を得たと思う。その悟りとはどんなものであろうか?

般若心経と自然科学 『般若心経』と言われる経典がある。それは一体誰が膨大なインド仏教の経典から、要約して取りまとめたのだろうか?こんな短い文章に纏めるとは至難の業である。当然『悟りの人』でなければできない事である。その経典を読んでも、なかなか理解できない。しかし、世界を「色即是空 空即是色」と看破した眼力・勘力には悟り人の真骨頂が現れていると観る。筆者はただ『エネルギー』一つしか見えないので、それが『色(シキ)』に当たるとの解釈である(2023/12/22/ 訂正。実はこの捉え方は間違っていた。『色』は目の前に見える自然界の姿である。焚火の炎や花の形や色彩あるいは物理量の質量などを指す。更に、『エネルギー』は決して人が見る事が出来ない。その観ることも、空間に在ることを科学実験で測定することも出来ない。それが『空』と言う対象の意味になる)。しかし、『エネルギー』は『色』に成って現れるかと思っても、それは変幻自在の『空(クウ)』の中での幻みたいなものである。だから形として『色』に成って現れても、何時消え去るかは分からない。それが『色』があると思えば、『空』の何もなかったと思い当たると言う意味であろう。今筆者は『エネルギー』と言う自然世界を統べる根源として、言わば素粒子論での「素粒子」に当たる基本に到達したと思っているから『色即是空』の意味に共感できるのである。科学論のしかし自然科学などと言う物理学的な思考を昔の人は採らなかった筈である。それにも拘らず、現代物理学論の根源(もし、筆者が唱える『エネルギー』の世界観をそこにあてはめられるなら)に到達していたと考えざるを得ない悟り人の精神的な感性に驚く。現代物理学の世界はとても複雑で、宇宙論から素粒子論まで、素人の筆者が理解できる訳は無いのであるが、とても納得し、信じられる世界観ではない。

(2023/12/22)追記。『色』と『空』の意味として、一つ具体的な例を挙げたい。誰もが日常使うもの、マグネットを例にする。マグネットには、物理学理論では磁束があると成って居るいるがそれは無意味な解釈論である。マグネットの物理的特性はその接合力である。金属面でのメモ止めの力。その力は目の前で、確実に認識できる自然界の『色』に当たる。しかし、その自然界の真相を物理学理論では理解していない。磁極のN極側からマグネットを見た時、時計回りにそのマグネット面の周辺を『電気エネルギー』が流れているのである。その『エネルギー』は見ることも出来ないし、実験的に測ることも出来ない。その見えない『エネルギー』こそ『空』なのである。以上追記。

科学理論と市民感覚 先日も『重力波』の検出云々の科学者の話がニュースに流れていた。例えビックバンにより、爆発があったとしても、その衝撃波が検出に掛かるのは有り得る訳であるが、何故それが衝撃波と異なる『重力波』と言うことになるのかの論理性が誰にも理解できるように説明されなければ、その論は信用出来ない。市民の科学認識力で理解できないような説明で済ます専門家の牙城での論には閉口する。そもそもビックバンと言う自然事象が起きたと言うことさえ、何の証拠も無ければ、検証も出来ない事なのである。宇宙に初めと終わりが有ると考える事自体が、何の証拠も無い論に惑わされているのである。人間は寿命が有るから、宇宙にも初めと終わりが有ると考えるのが理に叶うと感じ易いだけなのであろう。人間初め動植物には男性・女性と言う二つの対照的な世界が有るから、『電荷』にもプラスとマイナスが有るとの社会的合意・認識が生まれた。それは、それが当たり前と考えやすい人間的性(サガ)から生まれた概念解釈法に基づいているからであろう。日常生活で遭遇しないような世界を科学論として唱えれば、一般市民は偉い科学者がいうことだから、兎に角専門家として敬い、黙って信じればその仲間に入ったと安心出来る錯覚に浸れるからではないかと思う。結局原子核理論の専門性など当てに成らない事を『福島原発事故』が示した。放射性・放射線の正体も厳密性は示せない事ははっきりしてしまった。そこに政治、経済が関係し、業界の特殊性が加わるととても複雑になり、益々曖昧性が幅を利かせる話に成る。論理的とか、真実等は掻き消されて流されるのである。東洋哲学の禪は複雑さは排除する。科学論さえ日常生活感覚から判別する。余計な概念は捨て去る事が禪の本筋である。原子は電子と同じく現代物理学の論拠である。しかし禪は、原子さえ基本粒子とは見ないだろう。素粒子論のあらゆる素粒子さえ一つの『色』と『空』で解釈する。『エネルギー』はさまざまな姿に変幻自在に変化するから、これという形・実像でとどまらない。だから『原子』もエネルギーの局所化した、宇宙構成の流れゆく一つの仮の過程の姿でしかないと観る。世界に留まる物・確定した物・変化しない物など無いと言うのが「色即是空空即是色」の意味である。どうすれば『悟り』に辿り着くかは未知の中。日常生活の中での市民感覚での科学的認識の共有が出来た時に世界は悟りに到達したと言えるのかと。長岡技術科学大学の第2代学長 斎藤進六先生が就任時の話で、創造性の『創』の字の意味を話された。心に痛手を受ける深い傷の意味と。その時は自分がそんな思いを経験するとはつゆ知らず感心して聞いていた。禪と科学

日常生活での発見 自然現象に見る不思議の具体例を挙げよう。世間的常識、科学的学説否定の見解を拾い上げておく。『雷の正体』で、雷は空気中の水蒸気の熱エネルギーが原因である。日本雨蛙は、土の中に産卵し、土から生まれる。水の中でのオタマジャクシの生態を取らない。雨蛙と幼生生殖ドアノブの火花ー熱電変換ー。雷と同じく『電荷』など存在しない。電圧計が計るもの。技術の意味を解説した。大津波の発生原因を探る。地震の学説を否定した。地球の生い立ちを問う。石は何から出来たかを問う。石炭の意味も併せ考えて欲しい。こんな単純な自然観に辿り着いてしまった。これ以上何を求めれば、自然世界に心が共鳴できるのだろうか。それにしても科学技術と自然界の真理との間の関わり方に、人間の思考を重ねて見るとあるいは物理学者などの専門家の論理を手繰ると、人間の知識とは何かと考え込まざるを得ない。

脳と生体制御の謎

朝日新聞2014年3月16日のGLOBE No.131 脳のふしぎ に触発されて、自分の『脳』の働き方をまた考えて見たくなった。

脳の発心 筆者は脳は外部の情報に触発されて、その個人的な特性に従って機能を発揮するというのが基本的な脳機能と解釈している。『基礎科学』とは何だろうの記事を書いた。そこで考えた自己流の解釈を更に身体制御の面まで広めてみようかと無駄な挑戦をする。身体には神経が脳から脊髄などを通して全身に張り巡らされている。指先の皮膚の微かな感触も脳は感知する。嗅覚、触覚、聴覚、味覚あるいは視覚とその身体を取り巻く外界事象を常に脳は統合して、認識し、身の安全を保つように監視している。般若心経に「無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。」と言う文言がある。人の感覚器官と人間の意識・脳との関係を考える起点を述べていると解釈したい。『無』の文字が頭に着く意味は何か?そこに般若心経を読み取る鍵があろうと、蛇足かも知れない挿入。さて、感覚器官も睡眠時はそれさえ休むことに成る。生命全体を統合する役目が脳であろう。その外界事象を認識する為の機関が『神経細胞』と考える。こんな素人考えを言えば、医学の専門家には、またトンデモナイ出鱈目を言うと非難されよう。しかし、自分の感覚的認識では、そう考えざるを得ないのだ。脳が働くのは、基本的に外界事象の刺激を切っ掛けとしているという解釈に基くことからの見方である。脳が基本的に始めに物事を考えるのではないと思う。世界の事件、自分の失敗、商売上の損失、流れ星等、身の周りに起こる外部事象が脳を働かせると思う。物理学理論に取り組むにしても、その基には何かそうしたいと行動・思考する切っ掛け、原因がある筈だ。ペンを取る事でも、何かを書きたいからであり、そこにペンがあるのを見ての行動である。そのペンを取る為に、手を伸ばす時の身体の動きはほとんど全身の動きが絡んでいると考える。各部の身体制御をする統制された制御信号はどのようなエネルギー波であろうかと言うのが基本的な疑問点である。神経細胞を通して物質的な質量の伝送と言う情報信号ではないだろうから、物質によりコントロールされると言う風には考えたくない。身体制御信号は電磁信号と言っても良い、エネルギー波であろう。その波形が脳の発する放射信号として複雑に統合されているだろうと考える。(2018/12/14)追記。ただし臓器間での生命制御物質はエネルギー波ではない。あくまでも脳と身体活動の間の情報のやり取りの信号はエネルギーの縦波の波形のように思える。

制御信号伝送路 どこを通るかは、骨組や靭帯・筋肉などのあらゆる身体全体が通信伝播路として働くと解釈したい。脳から発信される生体の制御信号はどこを通って生体の末端に届くか。2002年7月に腰痛に見舞われる。どの辺が原因かを手で探って、腰の部位の仙骨や寛骨当たりかと疑って調べた。しかし診断は椎間板ヘルニヤであった。その後ストレッチに励み、靭帯を鍛えるのが効果的であろうと思った。その時に書き写した図が残っていたので下に挙げる。制御信号の伝送路の主体は骨格であろうと考える。

その信号伝送路の一部の参考図。 ①は肩。②は後右腰部。仙骨と寛骨などを繋ぐ強烈な靭帯。③は手と指の図。骨と骨を繋ぐのが靭帯である。よく話に出るのがアキレス腱である。腱は骨と筋肉を繋ぐ。腱は鞘に保護された靭帯と解釈しても良いのかな?よく腱鞘炎と聞く。手、指の働きが鈍く、痛みを伴う症状である。鞘と中の筋が付着して動き難くなる炎症だ。靭帯

動作は骨格の骨を動かすことである。骨を動かすのは筋肉であり、その筋肉に制御信号を伝えて脳の指令動作を実行させるのだ。骨と骨は軟骨を介して互いの動きを滑らかに保つ。軟骨を通しているから、骨と骨は直接繋がってはいない。骨と骨を繋ぐのが靭帯であるから、制御信号は制御対象の骨の動きに迄届くには、骨と靭帯を通して最後の筋肉制御信号となる迄が伝播経路となろう。軟骨より靭帯を経路と考える根拠は、骨から筋肉に信号が伝播するとすれば、腱を通す訳だから、靭帯がその意味で可能性が大きかろうと言うことである。また、途中で信号はそれぞれの制御量に応じて、各部の筋肉(骨)を動かすエネルギーとして配分される筈である。その配分と統合制御信号との波形成分がどのように識別されるかという問題が脳機能の仕組み解釈に重要となろう。脳の各部からの制御信号が複雑に組み合わされて纏まった統合制御信号となっているのかも知れない。そこには波形(エネルギーの縦波)の組み合わせ方として現れる可能性が大きかろう。最終的には、筋肉内のカルシュウムやエネルギー消費物質の消費によって運動量が支えられるのであろう。その消費に脳からのエネルギー波がエネルギー変換作用として機能すると考える。主に骨に関わる運動機能で見て来たが、他に眼球の動きで物を見る事象を考えてみよう。動きとしては、首全体も方向を変え、眼球と虹彩を制御する。全てその動きを司る筋肉などの制御に成る。物を見る動作でも、多くの運動が統合されて機能を果たす訳である。その制御信号は首の骨を伝わるだけでは説明できないから、直接眼球の筋肉に伝わるのであろう。特に取り上げたかった考えは、生体の活動を制御する脳指令は神経細胞を通して伝えられるのではなかろうと言うことである。神経細胞は身体の動きや状況など外部の情報を脳に伝える『フィードバック回路』であろうと考える。『無色聲香味觸法』の感覚信号の通路が神経細胞であろうと。話が飛ぶが、身体機能を保つにはストレッチによる靭帯や腱を柔軟にする事と思っていると、蛇足。

初めに挙げた、GLOBE脳のふしぎの中にも記されている、念じて動くロボットの記事は以前から取り上げられている話題の科学技術の研究である。脳の内部、表面から外部に放射される電磁信号がコンピュータを通してロボットを動かす実験の話である。身体の各部がそのエネルギー波のどのような成分に反応するかの問題と考える。それぞれ各部に特有な信号認識、仕分けの意味が隠されていると考えたい。工学では『シーケンシャル制御』と『フィードバック制御』と組み合わせで統制される訳である。脳発信制御信号との身体制御量との付き合わせの偏差値「ゼロ」の制御が脳で計られる筈である。神経細胞はその『フィードバック信号』の伝達路と解釈したい。一言追記(2015/03/30)。電磁波はすべてエネルギーの縦波である。光も同じく縦波である。その認識が上の脳の生体制御信号の解釈の基になっている。マックスウエル電磁場方程式の横波解釈では理解できないエネルギー波かもしれない。

原発と事故時避難計画の矛盾

(2014/4/10追記) 今日も新潟県の原子力事故時の避難計画がニュースになっていた。何故一度事故が起きたら取り返しが効かない原子力発電所の運転を前提とする事故時避難計画を容認するのか。福島第一原子力発電所の事故原因が検証されていないのに、県知事が指摘するにも拘らず柏崎刈羽原子力発電所の運転を考えるのか。住民は行政の原発事故時の避難訓練を受け入れるのか。事故で、二度と元の生活に戻れないで、生活が破壊されても良いと認めるのか。そんな犠牲的精神の住民とは信じられない。どんな危険でも承知するのか。核燃料の廃棄処理が不可能になっている事実を知っているのだろうか。その処理にどれだけの政府予算を投入しなければならないかを了解しているのか。

もし原子力発電を稼働させるなら、絶対住民に危険を及ぼすようなことを想定してはいけない。どんな事があっても、住民は自由に自分の住みたいところに住む権利を保有している。行政が先頭を切って、災害時を想定して避難計画を立てるとは何たる無責任か。そんな無駄なことに行政が関わる事自体が、原発の安全性を行政自身が確信できずに、民間事業者の思惑に迎合している事を公表しているとしか言えない。原発事故時避難計画を策定すること自体が間違いである。住民の安全は原子力発電事業者に責任を取らせるのが筋である。どのように責任をとれるかを住民全員に確約させる事を原子力事業者に要求すべきである。計画の中に「屋内待機」などトンデモナイ事だ。『日本国憲法』の基本的人権の意味は何か。自然災害に対する避難計画は行政が立案し、実効の手立てを整えるべきではある。原発事故が起きるなら原発の運転は出来ない

意味不明の訳語『放射能』

専門用語『放射能』が広く使われている。しかし、専門家はその用語の意味を的確に説明できるのか。私には全く理解できない用語だ。日本語の曖昧用語の代表格に取り上げたい。英語で、radioactivityを引くと、訳語に「物理」放射能、放射性などと示されている。辞書にあるので、使うのは当然で、異論を唱えるお前がおかしいと言われそうだ。それでは『・・能』と言う文字の意味は何を表しているのか。普通は「能力の高さ・強さ」等と有る現象を起こす強さのレベル、程度を意味する。『能』が実在するものではない。専門記事で、『放射能』の影響、あるいは『放射能』が有る、等と使う。『放射能』は存在するものではない。世界に存在しない。放射性物質が存在するのである。放射性物質の量により放射される、その放射線の人体への強度・影響などが問題なのである。存在するものは放射性物質あるいは放射線量であり、その人体への影響の度合いを的確に問題視しなければならないのだ。用語はその科学論の論理の明確さ、曖昧さを判断する基準の言葉である。訳語が紹介された時は、未だ放射性物質等と言うものの存在も理解されなかったであろう。今は時代が違う。
医学の専門家が、空気中のラドン、食物中のカリウムなどと言うものを取上げて、その放射線を浴びているから、原子力発電の放出した放射性物質の影響を過度に危険視するべきでないというような記事を書いている。そんな記事を見ると、その人は危険性を量的に的確に評価し切れていないと観なければならない。その方(ある大学の放射線医学県民健康管理センター長)の記事は 放射線と健康リスク(平成24年6月20日発行、消化器now No.57) の題で、こんな書き出しだ。「東京電力株式会社福島第一原発の事故後、放射能や放射線は私たちの身の回りにも存在することが広く知られるようになりました。空気中のラドンや食物中のカリウム、また、大地や宇宙から常に浴びている放射線もその例です。生物は過酷な地球環境で進化してきましたので、酸素毒(フリーラジカル)と比べても微量な放射能や放射線の影響への過剰な心配は無用です。」専門家が記事に書けば、普通はそれを信じる。しかしその記事は曖昧な世間的常識で記述しているとしか見えないから問題なのである。この書き出しは、その記事の主旨をまとめてあると観る。原発事故による放射線も普段の自然界による放射線も同じように存在するから心配無用だ。と言っているようだ。どうして無条件にそんな事を放射線医学の専門家が言えるのか。また、その方は「すでに私たちの体の構成成分には成人で7000ベクレル程度の放射能があります。そのうち4000ベクレルがカリウム40と言う放射性物質です。」と書いている。上の記事を、医学の他の専門家はどのように思うだろうか。7000ベクレル、4000ベクレルと言う値が人体に対する影響の度合いを評価できる物で無いことが解っていると思うが、何故殊更にそのような大きな数値を示さなければならないのかを考えると、記事全体に対するその専門家の意図を怪しいと解釈せざるを得ない。水素でも、酸素でもその原子のエネルギー保有状態と環境のエネルギーレベルにより、エネルギー放射をする。原子核分裂だけをベクレルと言う数値で区別することさえ怪しいのであれば、何千ベクレル㏃と言っても何の意味にもならないのだ。㏃ベクレル値が人体へのリスクを示し得ないのだ。蛍光灯の放射線でも水銀の紫外線もあり、蛍光物質からの放射線もあり、1秒当たりの放射と言う意味で考えれば同じ放射線だから。光でさえ放射線だ。光は目に見えて可視光線と言うけれども、原子・分子からのエネルギー放射に変わりはない。ただ違うのは、何ベクレルとは言わない。ベクレルと言う数値が厳密に何を計測しているかさえ曖昧であると考える。上の7000㏃の意味は、人体の構成成分の原子が全体で1秒間に7000回の核分裂をしていると理解して良いのだろうか。それではその元素は半減期がどのくらいと解釈すれば良いのか。そんな核分裂が人体の中で起きていると解釈すること自体が怪しい。それは一体何なのだろう?カリウム40の半減期は12.48億年と検索すると出て来る。そんなのが人体リスクに何の関係があると言うのか。専門家とは?放射能と発熱の正体は何か?(自分も使ってしまった放射能)等に関連記事。

国家・民族とは何なのか

人類発祥に対する解釈はアフリカ説などの学説にある。アフリカ大陸がどのような時の話か分からないが、地球上の至る所の、様々な海と陸の境界地点で生まれたと考えても許されよう。人類の発祥の起源が単純ではなく、発祥形態も複雑であったと考えたい。その人類の発現形態自体が複雑なら、その後の人類の歩みも様々な違いを辿る筈である。現代の地球上の紛争が絶えない原因はどこにあるかを皆が理解し、認識し合っているのだろうか。発祥から人類に種別があれば、その後に民族意識が消える訳は無いだろう。そんな過去を夢想して、現代の紛争の意味を考えて見ようかと無駄な抵抗をする。そこで、人類という歴史に視点を当てて考えた時、どこからどのように民族に分離され始めたのだろうか。世界は宗教紛争・民族紛争あるいは政治的権力闘争等で混乱と悲惨な姿を曝している。地域社会とその連帯の絆が人々の助け合いで希望を支えた。国家・民族などと言う途方も無い事を考えたのは、東日本大震災後の復興が遅々として進まない惨状を、日本と言う社会制度の中で理解できない苛立ちを覚えたのが切っ掛けでもある。また、世界は「テロ」もあれば、ウクライナなどの政治的混乱などが世界の至る所で起きている。それは「人間」の持つ本質なのだろうか。他の動物や植物にはこんな大規模な暴虐無人な所業は無いだろう。人間とはそれ自体が悲しい存在なのだろうか。広大な宇宙の果てにもこんな人間のような生物が存在するかもしれない。

日本国憲法と原子力発電所災害 福島県の震災と原発事故から3年経ったのに、復興も回復も無い惨状をNHKで放送している。これは「日本国憲法」の意味を重ねて、その意義を問わなければならない。基本的人権を保障しているのだ。誰もが自然災害はどこにおいても遭遇する事を覚悟していなければならない。しかし、『原子力発電所』の崩壊事故は人間の人間に因る科学技術の犯罪行為と認識しなければならない。日本のどこに住もうが、皆その故郷の絆によって結びあって生活を営むのである。その『衣・食・住』の権利は、人間が基本的に保障された最大級の人権の筈である。その法的社会基盤の根本が『日本国憲法』で定められている事なのである。そこを考えなければ、『日本国憲法』の存在理由も怪しくなる。原発事故は自然災害ではないのだ。日本人全体が引き起こした人権侵害の犯罪行為なのだ。直ちに元の状況に戻すことが『内閣・行政機関』に課せられた『日本国憲法』に基づく緊急に要求される業務の筈だ。日本人がその生活を奪ってしまった。こんな時に民族意識や国家意識が役立たなければならないのに、難しいで済むまい。皇祖皇祖・・などと日本民族を声高に唱える者がいるが、そんなのは戦争用の戯言である。復興庁の職員が全て災害被災地に常駐するのが当然のことである。その事で、その言動がその役割を果たす説得力に成る筈だ。それがなければ、何時までも復興は進まない。どうか民族意識を言うなら、こんな時こそ一体に成りたい。

民族という人間区別の族化社会意識 それはどこから始まったのか。人は何故世界の平和と唱えながら、民族や国家あるいは宗教に固執する意識が強いのだろうか。その帰属意識を満足する為なら、近隣の異なる集団との『戦争』も厭わないようである。何かおかしい人間の意識に見えないだろうか。そんな戦争の殺し合い、破壊闘争にどうして突き進まなければならないのか。単に殺人行為でしかなかろう。人間以外にそんな殺害の憎しみ合う『動物』がこの世界に居るか。人間ほど下劣な、欲張りの醜さを曝す動物はいない。人間の尊厳などと何を基準に言えるのか。如何にも『軍事力競争』は世界の国家正義のように際限なく膨張している。人間の恥と思わないのか。『イマジン』と言う歌がある。何の為に「国家」があるのか?そんなに「国家」の為なら犠牲を厭わないのか。国家の為に生命を捧げる行動など真っ平御免だ。殺人用軍事産業がのさばる世界に平和など有る訳がない。日本の『愛国心』と言う政治の仕掛けによる戦争用用兵など糞位だ。サバンナの動物にも縄張りや群れの戦いはある。そこには人間の醜さは無い。『愛国心』の正体を尋ねて戦争と平和

民族と言語 世界中には多くの言語がある。恥ずかしながら、筆者は日本語しか使う機会がなかった。国家と言う生活共同体毎にそれぞれ共通の言語を使うように区分されている。言葉がその生活共同体で共通語として定着するまでにはそれぞれに特徴的な歴史の変遷があっただろう。初めに言葉を発したのが誰かと考えても、その謎を解き明かす術は遠くに埋もれて辿り様がない。しかし、社会共同体の分離統合を繰り返す中で、統合権力者や智慧者に因って共同言語に纏められたと考えたい。日本の文字文化の歴史を辿れば、大陸、中国の偉大な漢字文化を取り入れて、その文字に共通会話言語を当てはめて出来上がったということだろう。この漢字文字の事には感謝しなければならい。それ以前に日本語の文字表記が全くなかった訳でもなかろう。しかしそんな歴史の痕跡はもう探しようがない。どこの民族・国家もそれぞれの歴史の上で共同生活体としての集団的意識構造を築いて来たのであろう。その過去に執着するが故の歴史的団結意識が強く働くのかもしれない。もうそんな過去の国家意識や民族意識は捨て去らなければならない。言語が異なるから反目しなければならない理由など何処にも無い。皮膚の色や経済力あるいは学歴あるいは家系そして民族、国家で人は区別すべきでない事ぐらいみんな共通認識している筈だ。ところが紛争や戦争の悲惨な人間の愚かさに走る。それは何が原因なのだろう。

国家権力者の柵(シガラミ) 国家の政治の統合責任者がその時々の政治的采配を任されている。民主主義国家なら、三権分立と言う社会制度の枠組みの中で、許された範囲の責任と権限がゆだねられる。現在、日本の安倍総理大臣のような、突出した全権被委任者の如き誤った意識の人にはなかなか認識が改まらないだろう。日本の社会制度の極端な変更は総理大臣の思惑で決められない筈なのであるが、制度の不備を逆手にとって利用しているのが現状である。時の権力者は政治家であり、その時々の様々な組織からの軋轢(アツレキ)・柵に縛られる。経済・社会状況・外交環境・時代の様相などが時の権力者の思想・信条との関わりで醸し出される空気によって、危険な方向に走り出すことが有り得る。その些細な事で重大な事件の引き金に成る。その人格により、権力と支配権を持つ優越感の魔力の虜に成るのじゃなかろうか。独裁的支配に与しないように覚悟を皆が決めなければ危ない。争いの戦争など全てが独裁的支配者によってもたらされる人間の悲劇であるから。殊更民族・国家の尊厳、自立などと声高に唱える人間は元々危険人物である。

グローバルな絆世界の政治 これほど経済活動が世界中と繋がって展開され、それぞれの国民との共同、共有社会の仕組みで成り立っている事はなかった筈だ。戦争は、軍事力強化はそんな世界をも否定する国家的罪悪なのだ。もう国家・民族などと唱える政治思想意識は世界の不正義なのだ。全て紛争は、自国の経済的優位と世界支配への権力者(それを支える資本主義の美名の下の利益獲得の正当性の柵)の欲望が世界の平和的均衡を揺るがすことにより引き起こされる。資源確保と他国より競争的優位さを暴力的に、軍事力で獲得しようとの政治指導者の闘争心が原因じゃないか。植民地支配が過去の、平和で力の弱い社会組織に強圧的に土足で踏み込み、勝手な横暴の支配力を駆使した事実を物語っている。この経済競争の戦いとその世界支配の欲望をどう世界的に均衡させ得るかが政治指導者の粘り強い会話に因る努力義務なのであろう。自ら積極的に、話し合う努力をして機会を模索する事が政治指導者の責任と義務と思う。こんな事を記す自分が愚かに見えてくる。恥ずかしい。「恥愚」の赤面。

専門家とは?

2014/3/5/朝日新聞記事「東日本大震災3年 リスクと向き合う オピニオン」。が気に入った。専門家という言葉から受けるその意味は、権威がありしかもその分野のことに関して何でも知っている、特別信頼できる知識人と認識していた。特に、弁護士・裁判官等の司法関係者、経済学者更に会計士等は特別の専門的知識人と思っている。筆者が幾らか一般市民より理解している自然科学の分野については、その専門家の専門性に対して疑念を抱いてはいた。その疑念を一気に確信にしてしまったのが東日本大震災の津波と原子力発電所崩壊事故であった。原子核理論および原子力ムラの専門性という虚像がその災害・事故で、人間性の暗部と共に曝け出されたと確信した。

放射能 『放射能』という言葉にその虚像が写されている。原子核および原子構造とその放射原理そのものがいい加減な村的知識であるのだ。そこに専門性を確かめても自然現象としての物理的意味を説得するだけの知識が確立されていないのである。曖昧性が専門家を牙城の中に守っているのだ。原子という物質的単位がどんな構造をしているかさえ明確ではない。核子とか外殻電子とかの話になると怪しいものである。原子から『放射線』という人体に極めて危険な『エネルギー流』が放射されることは確実である。その放射されるエネルギーは様々な空間的形態・様相を備えたものである。専門家に言わせれば、α線、β線あるいはγ線等と表現している。しかしそんな単純な物でもなかろうし、その意味そのものが曖昧でもある。『放射性元素』が「放射線」を放出するのは確実である。『放射能』等を放出するのではない。『放射能』という用語は曖昧で、何を表すかを掴めない。放射線を放出する能力を持つ元素くらいの意味で、放射性物質・元素とその放射線という異なる物と現象を混合した意味で使っているようである。『放射能』等というものは無いのである。こんな不明確な用語を伝統的に使う専門性が専門家という実態なのである。

津波 更に「津波」の高さという意味がとても大きな矛盾を持っている。陸に上陸した津波の波の高さは海の津波の高さとは異なるのである。何が津波をもたらすかの認識で専門家が間違っている。津波のエネルギーが高さを決定するのである。どんどん海から押し寄せて来る津波のエネルギーが陸上に上がってから行き場が閉ざされれば、エネルギー量でどんどん水の高さは高くまで上昇するのである。その到達の高さは津波の高さという意味をどう分析するかに掛かっているのである。海の水面が示す津波の高さとは異なるのである。陸地の形状で上昇する高さは同じエネルギーの津波でも異なるのである。防波堤の高さ設計における認識が曖昧である。止めれば高くまで上昇するのが津波の本質である。防潮堤の高さについて、設計基準の認識が間違っていませんか?エネルギーで見る世界ー津波ーに計算例。海と共に人は生きる。海を遮ってどう人が生きるのですか。海の恵みは危険な自然の生命と共にある。

専門用語 『用語』特に『専門用語』が厳密な意味で使われているかという点で、改めて専門性を問わなければならないのである。専門家が市民に説得するだけの専門性を備えていないと言わなければならない。放射性物質(ウランが分裂した後の分裂元素の集団物プルトニューム等)が放射する放射線を線量計で計る。その放射線は人の内部に入るから、人の細胞の遺伝情報に影響を与え、場合によれば細胞分裂時にその悪影響が生じる可能性が大きいということであろう。宇宙からも、地上からも放射線は人に注がれてはいる。太陽光線も人の内部に入る。同じ現象である。しかしその影響の度合いが強いか弱いかがある。原子核分裂の放射線は極めて放射エネルギーの強度が強い場合が多い。危険な度合いが大きいということである。レントゲンを長く浴びれば危険であることは知っている。強ければ時間が一瞬でも人体のダメージは大きくなる。しかし、その計量単位が曖昧な業界用単位なのである。シーベルトやベクレルという計量単位が何を表しているかを専門家は説明できないのである。それは何も原子核理論に限ったことではない。光の計測量の『ルーメンlm』も同じ事である。統計的に過去の計測量の単位を踏襲しているだけで、厳密にその単位が何かと説明できないのである。しかも、それがどれだけ人体に影響を及ぼすかは医学的な統計情報に基づいて評価されるものであろう。医学的評価はそれなりに、過去の統計から算定されるから、ほぼ正しい評価を下せると観て良かろう。だからと言って、計量単位がそのままで良いかは分からない。ベクレルとは核分裂の度合いを表すようである。ある物質の放射性の強さを評価したいとする。その物体に、どんな核種の、どれだけの放射性物質の量が含まれているかによって、単位重量当たりの計測量に違いが出る訳だ。数値が低ければ安心かと言えば、そうは言えなかろう。その物質の傍に居ても影響は少ないだろうが、それを食するとなると統計的な意味からだけで安全とは言い切れない。放射性のプルトニューム原子がどんな割合で放射線を放出して強度が減衰してゆくかは分からないが、放射性原子を人体内に取り込んだとき、内部被曝の影響を受けるであろう。その確率は評価するとしても分母の集団に対する確率論からの評価でしかない。個人に対する影響は分からないのであろう。私が気になることは、例えば一つのプルトニューム放射性原子核が一度放射線を放出した後、もう放射線を放射することがないのかどうかである。それほど明確に放射性の有る無しが決まる訳ではないだろうと思う。プルトニュームという原子はどのような意味で、人体への危険性が認識されるのがが分からない。骨の成分として取り込まれる確率が高いらしいが、一度の放射だけで危険な放射性が減少するなら、それ程では無かろうとも思える。が実際はそうでないようだから、ベクレルという単位時間当たりの崩壊分裂の意味が人体への危険性という意味では曖昧に思える。単位と次元についてエネルギー[J(ジュール)]とJHFM単位系に記す。

専門家 それぞれ人はその天分を生かして、得意な分野を職業として選び、その仕事を通して生計を営む。何らかの仕事を通じて社会的存在としての自己実現を成す。ところが、生計の為の収入があれば、その人はそれで専門家であるとは一般的には言わない。専門家の定義は何かとなる。具体例として、原子力に携わる人たちを考えて見よう。原子力発電所の運転要員は極めて特殊な業務に携わり、原子力プラントの安全性を保つ為の日常の運転意識で、緊張を持って働く専門家(専門家と言わないで専門技術者・管理者と言うかもしれない)と言えよう。しかし、問題は原子力ムラという『原子力発電』に関わる利益誘導業務の業界・官僚のお偉い責任者群にある。しかも政治家絡みで専門性が疑われる者も、その利益誘導力で裏から集団に属する者まで専門家らしく思われるところに問題が隠されている。兎角深く自然科学の論理性を考察する訳でもなく、ただ単に人の理論を有り難く利用するだけの業界集団が問題なのである。みんな原子の周りに電子が廻っている有り難い社会的常識に乗った専門家である。そんなところに、原子力発電の危険性等論議できる訳がないのである。経済成長と金銭的利益だけで物事を評価する、特殊な疑似専門家集団が幅を利かしているのである。そんな利益集約集団業界関係者がその専門家になっている場合が多いように思う。それが「ムラ社会」の特徴であろう。原発崩壊事故まで、経済産業省の役人がどれだけ安全性に責任を果たし得たかを考えれば、結果に示されている。役人性専門家であると言えよう。原発再稼働を進める集団がその怪しい専門家を支えているのである。生活が掛っているから、政治家が暗躍して、再稼働推進を策略するのは、その政治専門家と言えば良いかも知れない。

ネオジムマグネット

希少金属として話題になった。磁石が科学技術に欠かせない電磁気部品である。ネオジムはその磁気特性が優れている。携帯電話の振動(バイブ)等にも使われているようだ。磁石をはじめ磁気現象全体が不思議だ。その物理的意味が今でも分からない。磁束概念を否定して、磁場空間のエネルギー流で解釈すべきであることは間違いない。しかし、それでもまだ謎が多く、不思議な物理的意味を理解し切れない。

磁気繋ぎ1

磁気繋ぎ2

相当前に購入したネオジムマグネットがある。直径30mmほど。とても高価であった。物理学会で、磁場模様の発表に使いたかったが、2個を買うだけの資金がなかった。だから使えないままである。

写真1 釘で磁気繋ぎを形にした。5cmと2.5cmの釘。

写真2 磁力が強く、危険な為磁石を桐の板で両面を塞いでいる。そのカバーの上で釘を繋いだ。2.5cm釘。

こんな写真を示して何を伝えたいかと言うことである。電気理論を学校で勉強して、電気の技術者として、社会で活躍している人々が多い。みんな磁石のことは知っている。台所には、何処の家庭でも、マグネットでメモが留められている。鉄に磁石を近付ければ、たちまち張り付いてしまう。こんな便利な器具は他になかなか見当たらない。電気の専門家、例えば学校の先生に磁石のことを尋ねれば、すぐさま教科書通りの解説で説明してくれる。その説明でも分からないと言えば、頭が悪いか素直で無いかと切り捨てられる。先生にそれ以上のことを質問してはいけないのである。何と言っても「文部科学省」のお墨付きを得た日本国家の威信が掛った教科書の解説に従った先生の国家への従順さに敬意を払わなければならないから。それに逆らったら、「単位」は頂けず、電気の習得が認定されないかも。

磁石への疑問 教科書に書かれている内容で、何処に不都合があるか?と言われるだろう。上の磁気繋ぎの釘模様を見れば、マグネットからの磁束が鉄釘の中を通り、次々と磁石釘の繋がりとなるだけのことであると。こんな当たり前の理屈が解らないかとお叱りを受けるだろう。普通はその説明で、納得して理解したと引き下がるのが常識人である。社会的混乱をつくらない所謂大人で、社会人として通用する。それに反論したら、社会的お邪魔虫と蔑(サゲス)まれるから、気を付けないと生きて行けない。集団化が阻害される(村社会に属さない) と、日本では排除される危険が特に大きい。磁石に対して、どんな疑問を抱くか。『鉄』は磁気特性に優れている。何で鉄がそんなに他の元素と異なる特性を持つのか?物理学では、元素毎にこんな特性があるから、それぞれの特性に合った使い方をすれば良い。それだけの知識を習得(暗記)して社会に役立てば良い。『酸素』と同じく、『鉄』が何故そんな特性を示すかを追究しては社会的な規範からはみ出すので、それはいけない。『鉄』元素の構造にその特徴が隠されているのだが、『超伝導』現象と同じくとことん追求する時になって初めて、分からない事に気付くのが普通である。子年のマグネット下手な版画を臆面もなく年賀にした。2008年3月、日本物理学会で磁気に関する疑問を問う発表をした。その磁石を題材にした版画。磁石が何故引き合うかの疑問を掛けた絵図。

自然現象の本質を追究することは、余り経済的、社会的利益につながらない事がほとんどである。現象の利用に視点を置かないと、利益に繋がらない。『鉄』系元素の磁気特性の特徴は、その磁石の近傍における「空間」内に何か見えない力が存在する点である。「磁束」が存在したと仮定しても、その磁束がどのように力の基(原因)になるかと言う意味を説明しようがない。近付く程強い力になる訳は何か。近付くと磁束が太くなるのだろうか?磁気のクーロン力で数式の説明があるが、それは距離の大きさが変化するだけで、磁束(磁気量)の変化は全くない。磁束を基に、力を説明するなら磁束の変化、磁気量の変化で解説されなければならない筈だ。距離が磁気力の基とは言えまい。磁石空間の磁気量の解釈が磁気理論には無い。私が否定するのが距離に因るクーロン力である。同じくニュートンの万有引力も遠隔作用力で、エネルギー量には無関係の法則である。同じく磁気力も遠隔作用力で、近傍空間のエネルギー量等は全く解釈の中に考慮されていない。いくら物理学理論が遅れているとしても、現在は『磁気量』と言う物理量を磁石の表面にある等とは解釈していない。磁場空間を、div B =0に従って理解する。それは磁気(単位ウエーバー)と言うものが存在しないと誰もが認識しているが故の原則である。しかし、何時まで経ってもその存在しないと解釈している『磁気』でのクーロン則を掲げて、教育現場を飾っているのである。教育用『お飾り法則』と言いたい。何故単純に離隔距離が磁力の基になると考えるのかが不思議な科学論の人間性への疑問である。

磁石金属原子にどのようにエネルギーが蓄えられるのか?外殻電子がスピンをつくる等と言う解釈は矛盾が多過ぎよう。「磁区」とはどのような元素結合が生みだすのか。マグネットの磁区はどのような金属結晶で構成されて、生まれるのか?磁石表面にその金属内部の磁区の磁気状態が現れると解釈できるだろうか。あるいは内部に因らないで、磁石表面だけに存在するエネルギー状態と解釈すべきなのか?それにしても、磁石表面近傍空間に局所化されて蓄えられるエネルギーを磁石金属元素が保持する機能は何なのか?そんな疑問が経済的利益に今のところ繋がらないかも知れないが、価値ある重要な疑問として挙げておこう。その磁気模様の例を挙げておく道草問答(4)マグネットの砂鉄模様

糸電話ー力学的解剖ー

エネルギーの物理的意味を考える例題として、糸電話が役立つだろう。

糸電話の縦波最近は糸電話での子供の遊びは無くなっただろう。紙筒にセロハン紙などを張り、そこに糸を留める。糸を通して相手に話をする糸電話である。時代がスマートフォンになれば、糸電話に興味など向かないのは当然だ。しかしその音声伝播の物理的解釈は、自然の意味を理解するには有効である。高等学校、大学では、『波動論』の難しい論説が授業内容になっている。シュレーディンガー波動方程式等の論理は、波を基本的に正弦波で解釈する。ところが、現実には水面の波でさえ、正弦波ではない。殆どの波は縦波であり、そこには正弦波形は無い(電気回路のエネルギー流のような局部的な波形は特殊なのである)。エネルギーの縦波伝播の具体例が糸電話になる。音声は空気に乗せた縦波伝播現象である。糸電話も同じ糸に乗せたエネルギーの縦波伝播現象である。

糸電話の力学的解釈 話して側で、紙筒に口を当てて言葉を発しても、糸で繋がっていなければ、聞き手側の紙筒を耳に当てても話し言葉は聞こえなかろう。その紙筒を糸でつなぐと話し言葉が相手側に伝わる。セロハン紙は縦に振動するが、空気だけでは拡散して相手側に音声エネルギーの縦波は届かないのであろう。糸が張られると、その糸の伸び縮みとなって、話し声が伝わるのである。そのエネルギー波が縦波である。その辺の意味をまとめて図に示した。同じような記事に三味線と縦波がある。

力学問題として、過去の記事を拾っておく。不思議の国の弥次郎兵衛道草問答(5)津波と真空破壊力隕石突入の衝撃波など。

扇子

扇子二本。扇子2本

日本の伝統工芸が手元の生活用品であった。科学技術の世界と異なる生活空間に思える。浴衣に似合う夏の用品だ。

地球温暖化を叫ばなくても良かった時代があった。それを職人の手仕事が支えていた。

アユと松並木の絵柄の扇子が出て来た。

 

松

アユ

電圧計が計るもの

科学技術を支える理論に電気理論がある。しかしその技術概念は物理的な意味を追究すれば、極めて曖昧なものである。技術と物理学理論との関係を明らかにすることが、明日への学問に必要であると考える。今回は『電圧』と言う科学技術の概念を、電圧計が何を計っているかについて考えることによって、少しでも明らかに出来たらと思う。電流と電圧の正体で述べた事であるが、少し補足の意味で追加する。電圧と回路

無負荷時の回路を示す。電圧計の内部は電気回路である。直流の電圧計は可動コイル型計器である。電流計が導線内を流れる『電流』等を計っていないと同じく、電圧計も『電圧』など計ってはいないのだ。電圧計にも図のように『電流』が流れているように表現する。電流 iv の値で電圧計の表示値が決まる。

可動コイル型電圧計とエネルギー流電圧計も電流計も内部の電気的回路構成は全く同じものである。磁石の中に回転する可動コイルが支持されている。その軸に制動バネ(コイルの回転を妨げるバネ)と電圧値の表示用指針が固定されている。軸受で、軸がコイルと共に回転する。その回転力がトルクτである。コイルに電流が流れるという意味は、コイル導体の周辺にエネルギーが貯蔵されることを表していて、そのエネルギー量を表現していると解釈すれば良い。アンペアーの法則やフレミングの法則で電気理論では解説されるが、本質は単にエネルギーの自然現象である。それを電磁エネルギーと言うインダクタンスLv内の貯蔵量として理論で説明されているのである。そのエネルギーの状況をどのように認識するかが重要なのである。磁石内の空間ギャップには磁石自身が造るエネルギー流が存在する。そこに可動コイルの貯蔵エネルギーが追加されれば、エネルギー流間での相互干渉が起こる。図にギャップエネルギー流とした。そのエネルギー流間の相互作用が力の『近接作用』と言うものである。水の流れで、互いに接する間の水流は相互作用をし合う訳である。それと少しも変わりの無い現象である。水の流れは目に見える。しかし、電磁エネルギー流(熱や光のエネルギーの流れ)は目に見えない。目に見えなくても、自然の現象は同じであるという極めて単純性がその本質なのである。人間が自然を解釈するのに、勝手に複雑に考えているだけなのである。ただ、空間を流れるエネルギー流の間の相互近接作用力をどのように数式で表現すれば良いかは、実験的に評価できないままである。電圧計指示値

電圧計が指示する計測量の意味を最初に挙げた無負荷回路との関係で、数式で示せば、ファイルのようになろう。

(2015/06/23)追記。線路電圧の新しい概念解釈を示しておこう。エネルギーで観る線路電圧 。