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戦争 その惨禍は身の周りから始まる

日本では戦争放棄が日本国憲法第9条で明文規定されている。その中でもし戦争に至るとすれば、その主たる原因は政治に対する日本人の「無関心」と利益(税金)配分権の政治権力行政からの締め付けおよび周辺との意見対立に因る確執・対立からの無難を求める『逃げ』である。自分がそうであっただろう。しかも戦争の悲惨な経験が無く、実感として感じない社会になっている。そこに悪しき政治権力志向の人間支配欲、人間の物欲願望、世界支配欲が増幅する時代(心理・経済)の偶然に重なった社会的油断。みんなの心にそれはある。人は幸せになりたい。人よりたくさん儲けたい。誰にも有る幸福追求の許される思いだ。選挙など自分一人が参加しなくても世界が変わる訳じゃない。みんなそう思うから投票しない理由を付けて楽な方へ逃げる。身の回りの何処にも有る人の生活の術である。特に悪意が有る訳ではなく、ただ無関心の法的に裁かれはしない最大の心の隠れた社会的アトノ祭リの無意識犯行行動。

曼珠沙華曼珠沙華

1997年(平成9年)秋分彼岸の中日。長い自己存立確認の旅で、ようやく舞鶴鎮守府の戦争の傷跡に辿り着いて、外務省や最高裁判所あるいは国会に行ってみたり、無益な行脚をしては見たが何しろ無能が足枷となり何の結果も出せずに何年か過ぎた。だからと言って、何が出来るかと考えてもその道が見えない。橋本 龍太郎第二次改造内閣の成立直後である。IMG_1170そんな戦争の途轍もない履歴は行政によって隠蔽されて、腹に収めるより術を得なかった。その時の手持ち無沙汰を木彫りに込めた。『法刀の思いを納めて曼珠沙華』と記して、新しい道に踏み出そうと思ったのだろう。秋に日本物理学会に参加登録させてもらった。過去に戻れば、それは平成2年の秋の事。人知れずノートに書き留めてまとめておいた[JHFM]単位系の資料が有った。それを物理学根幹への挑戦の初陣に取上げて、新しい科学論を展開しようと思った。日本物理学会第53回年会。東邦大学・日本大学会場で、「物理的概念とその次元」の標題で初めて発表した。今やっと電気回路と光の速度で「エネルギー(J)」に纏めるところまで辿り着いたと思う。空間定数の次元HFが空間と時間の関係を一つに結び付けとしてけりを付けられたと思う。勿論空間の寸法の次元Mは空間認識の基である。 エネルギー[J(ジュール)]とJHFM単位系 。今は空間の誘電率・透磁率と言う科学技術用語の定義したその本質は何かと言う哲学的問答が残っている。その問答は難しい。丁度生命がDNAと言うたった4個の分子の組み合わせから「何故」出来るかの不思議の意味を問う問答と同じ程かと。戦争の傷跡の上に刻む科学論の道は長い。

人間の生業と戦争 人間は豊かさを求めて競争をする。2001年9月11日日本時間の夜9時、ニュースの時間に突然衝撃のTV映像が目に飛び込んで来た。ニューヨークの世界貿易センタービルに飛行機が突入し、程なくもう一つのビルも同じように飛行機が激突して、間もなく二つの超高層ビルが崩れ落ちて行った。何故このようなことが起きたのだろうか。世界に恐怖と怒りが渦巻いた。信じられない事は、アメリカ大陸のど真ん中で、世界の力による秩序を守ると自認しているアメリカ合衆国の中心の町で起きた事件である。テロと言う見え難い組織的主体の襲撃事件であった。これ程の悲惨な破壊行動を引き起すことの根源に何が有るのだろうか。人間はどんなに貧しくても、隣同士でひもじさの中でも分け合いながら生活できれば不満は解消できるようだ。しかし物質的な量的競争の時代で、競争がどんなに激烈であっても、すべて正当な人間の正義行動の範疇に入るとして、その富の獲得競争の過激化が進行すると、『一杯のワイングラス』の話に在るような生活の格差を世界規模で拡張することになる。それが現代の資本主義経済競争の問題の解決すべき課題になりつつある。ニューヨークの9.11事件はアフガニスタンの武装集団を率いたオサマビン・ラディンを首謀者とするテロ事件であった。おそらく、世界的規模での資本主義社会の経済の格差問題に異議を唱えて、世界の貿易の中心を襲撃したテロ攻撃で有ったのだろうと解釈する。それ以外の理由を知らない。その事件が一つの世界の事件の区切りとして、国際的軍事組織と国の無い軍事テロ組織との殺戮の武力闘争が世界に広がった。イラクへの攻撃がその拡大を更に進めた。戦争と言う人間の行動は、その本源に在る他より優越した自己実現の競争的欲望満足への限りない闘争本能が生みだすのかもしれない。それなら人間と言う存在を肯定する限り、戦争と言う武力衝突への闘争心は人間性の本質的宿命かもしれない。ちょっとした油断が大きな戦争に発展する人間の宿命かもしれない。

更に戦争に関係して本質的な人間の営みが有る。

靖国神社は「戦死者」がその存立・繁栄を助けるように構築された国家的過去の全体主義の遺物。

宗教法人は死者が生活・存立の糧である。今回の戦争実施準備法案は日本国憲法第九条の明文規定に完全に違反した、内閣の憲法遵守義務違反の法律である。それでも日本の宗教法人から、戦争による過去の歴史の教訓を踏まえた法案への異議も何も唱えられていないようだ。宗教法人は大きな税的保護の庇護下に有るが故かと勘繰りたくもなる。命の尊さを唱える宗教なら、戦争は否定する筈と思うが?神・仏関係者は先の戦争にも召集されなかったのだろうか。

軍需産業は戦争での武器の消費がその存立の原資である。この仕事でどれだけの人が生計を立て営んでいる事か。どのようなことが有れば、生活が豊かになるのだろうか。決して平和の為の活動ではない。

大学も軍事技術開発研究で潤う。

70年前の敗戦と戦争責任 70年前の日本の国家的精神構造は全体主義と言う劣悪な人権無視の中に統制されていた。一般庶民は、誰もがその社会体制に従わざるを得ない偏屈の、体制の奴隷化状態に置かれていた。だから当然な成り行きの敗戦で終了した。その訳は、無謀な政治指導者と無謀な戦争を許さざるを得ないまでに全体主義の弊害として、一部の軍部・軍人の暴力的支配を許す羽目になっての泥沼に引き摺られていった戦争であったから。お陰さまで、アメリカの民主主義の政治制度の基で、新しい敗戦後の個人尊重の自由・平等思想に基づく回復の道を進むことが出来た。全体主義と民主主義の急転の社会意識の変革は表面上は思いがけない、その制度の恩恵に浴しながらも、その意味を庶民の中に定着することなしに、70年間が過ぎ去ってしまったような感じを今に受ける。敗戦の激変の中で、戦争の意味を問う余裕など何処にもなかった。だから今でも全体主義思想、制度がどのような結果に導くかも考えずに70年間を過ごして来たと思う。300何十万人の人命の犠牲者を出したことが政治の責任でないとは決して言えない筈だ。全体主義と言う恐ろしさは、そこに隷属される人間の弱さを政治権力側に簡単に利用されると言う意味で恐ろしいのだ。それを止められない異常な状況を作り出すまで気付かない事が恐ろしいのだ。外務省がロシアの北方領土支配権を強める現状に対しても、ただ犬の遠吠えのような対応しかできない原因は何だろう。戦後の外務省官僚は、戦前の政治権力側で戦争に対する責任者であった者たちが殆どで、その支配してきた70年間が有るから、真剣に取り組めば自己責任が浮上する。だから何もできないのである。そんな姿が現在の日本の政治的仕組みの根幹を成している。年数が経てばたつほど、その戦争責任問題が浮上してきて、はじめてその戦争の意味を問うことを忘れて来たことに日本人の民主主義が問われることになるだろう。

現在の異常な集団的戦争法案審議国会 戦争責任者が、戦争責任を感じながらもひた隠しに否定した過去を引き摺る政治勢力が今も権力支配の全体主義体制に憧れる様相がいろいろの場面で噴き出している。言論抑圧や超保守国家主義の権力統制の危険な状況が現在にある。過去を消したい願望の政治。侵略の罪は侵略された側が許すことを何時までも努力して待つこと以外なかろう。

戦争とは破壊だ

何故人間は戦争をするのか?知る限りの人類の歩みは戦争に因って足跡を残して来た。戦争の過ぎ去った足跡に平和も幸せもすべて破壊して悲しみだけを残した。

戦争とは戦争

人として生きる基本的人権。あらゆる事柄の真理、眞實更に正義。社会の安全と平和。人の生活する幸福。これらは戦争によって悉く切り捨てられる。押し潰される。昭和20年6月23日、沖縄に起きた悲劇がそれを物語る。それでも戦争を続けて、広島・長崎の原爆の壊滅的悲劇に導いたその責任を日本人は検証していない。そんな人の尊厳が押し潰される意味を上の筆墨に込めた。

人の安全と生命・財産を守る為にと触れ込まれる戦争準備法案は決して安全でも生命・財産を守るものでもない事だけは間違いない。戦争の意味を知らない人々多数を占めると、日本国憲法違反にも繋がりそうだ。地方議会で、今正に戦争準備法案が通るかと言う瀬戸際に立っても、その成立阻止の決議も否決? 決して戦争を止めようという意思が?長岡の花火は有名であるが、戦争を否定する意思が。戦争の悲劇を語る集会はあるが。

国家・民族とは何なのか

人類発祥に対する解釈はアフリカ説などの学説にある。アフリカ大陸がどのような時の話か分からないが、地球上の至る所の、様々な海と陸の境界地点で生まれたと考えても許されよう。人類の発祥の起源が単純ではなく、発祥形態も複雑であったと考えたい。その人類の発現形態自体が複雑なら、その後の人類の歩みも様々な違いを辿る筈である。現代の地球上の紛争が絶えない原因はどこにあるかを皆が理解し、認識し合っているのだろうか。発祥から人類に種別があれば、その後に民族意識が消える訳は無いだろう。そんな過去を夢想して、現代の紛争の意味を考えて見ようかと無駄な抵抗をする。そこで、人類という歴史に視点を当てて考えた時、どこからどのように民族に分離され始めたのだろうか。世界は宗教紛争・民族紛争あるいは政治的権力闘争等で混乱と悲惨な姿を曝している。地域社会とその連帯の絆が人々の助け合いで希望を支えた。国家・民族などと言う途方も無い事を考えたのは、東日本大震災後の復興が遅々として進まない惨状を、日本と言う社会制度の中で理解できない苛立ちを覚えたのが切っ掛けでもある。また、世界は「テロ」もあれば、ウクライナなどの政治的混乱などが世界の至る所で起きている。それは「人間」の持つ本質なのだろうか。他の動物や植物にはこんな大規模な暴虐無人な所業は無いだろう。人間とはそれ自体が悲しい存在なのだろうか。広大な宇宙の果てにもこんな人間のような生物が存在するかもしれない。

日本国憲法と原子力発電所災害 福島県の震災と原発事故から3年経ったのに、復興も回復も無い惨状をNHKで放送している。これは「日本国憲法」の意味を重ねて、その意義を問わなければならない。基本的人権を保障しているのだ。誰もが自然災害はどこにおいても遭遇する事を覚悟していなければならない。しかし、『原子力発電所』の崩壊事故は人間の人間に因る科学技術の犯罪行為と認識しなければならない。日本のどこに住もうが、皆その故郷の絆によって結びあって生活を営むのである。その『衣・食・住』の権利は、人間が基本的に保障された最大級の人権の筈である。その法的社会基盤の根本が『日本国憲法』で定められている事なのである。そこを考えなければ、『日本国憲法』の存在理由も怪しくなる。原発事故は自然災害ではないのだ。日本人全体が引き起こした人権侵害の犯罪行為なのだ。直ちに元の状況に戻すことが『内閣・行政機関』に課せられた『日本国憲法』に基づく緊急に要求される業務の筈だ。日本人がその生活を奪ってしまった。こんな時に民族意識や国家意識が役立たなければならないのに、難しいで済むまい。皇祖皇祖・・などと日本民族を声高に唱える者がいるが、そんなのは戦争用の戯言である。復興庁の職員が全て災害被災地に常駐するのが当然のことである。その事で、その言動がその役割を果たす説得力に成る筈だ。それがなければ、何時までも復興は進まない。どうか民族意識を言うなら、こんな時こそ一体に成りたい。

民族という人間区別の族化社会意識 それはどこから始まったのか。人は何故世界の平和と唱えながら、民族や国家あるいは宗教に固執する意識が強いのだろうか。その帰属意識を満足する為なら、近隣の異なる集団との『戦争』も厭わないようである。何かおかしい人間の意識に見えないだろうか。そんな戦争の殺し合い、破壊闘争にどうして突き進まなければならないのか。単に殺人行為でしかなかろう。人間以外にそんな殺害の憎しみ合う『動物』がこの世界に居るか。人間ほど下劣な、欲張りの醜さを曝す動物はいない。人間の尊厳などと何を基準に言えるのか。如何にも『軍事力競争』は世界の国家正義のように際限なく膨張している。人間の恥と思わないのか。『イマジン』と言う歌がある。何の為に「国家」があるのか?そんなに「国家」の為なら犠牲を厭わないのか。国家の為に生命を捧げる行動など真っ平御免だ。殺人用軍事産業がのさばる世界に平和など有る訳がない。日本の『愛国心』と言う政治の仕掛けによる戦争用用兵など糞位だ。サバンナの動物にも縄張りや群れの戦いはある。そこには人間の醜さは無い。『愛国心』の正体を尋ねて戦争と平和

民族と言語 世界中には多くの言語がある。恥ずかしながら、筆者は日本語しか使う機会がなかった。国家と言う生活共同体毎にそれぞれ共通の言語を使うように区分されている。言葉がその生活共同体で共通語として定着するまでにはそれぞれに特徴的な歴史の変遷があっただろう。初めに言葉を発したのが誰かと考えても、その謎を解き明かす術は遠くに埋もれて辿り様がない。しかし、社会共同体の分離統合を繰り返す中で、統合権力者や智慧者に因って共同言語に纏められたと考えたい。日本の文字文化の歴史を辿れば、大陸、中国の偉大な漢字文化を取り入れて、その文字に共通会話言語を当てはめて出来上がったということだろう。この漢字文字の事には感謝しなければならい。それ以前に日本語の文字表記が全くなかった訳でもなかろう。しかしそんな歴史の痕跡はもう探しようがない。どこの民族・国家もそれぞれの歴史の上で共同生活体としての集団的意識構造を築いて来たのであろう。その過去に執着するが故の歴史的団結意識が強く働くのかもしれない。もうそんな過去の国家意識や民族意識は捨て去らなければならない。言語が異なるから反目しなければならない理由など何処にも無い。皮膚の色や経済力あるいは学歴あるいは家系そして民族、国家で人は区別すべきでない事ぐらいみんな共通認識している筈だ。ところが紛争や戦争の悲惨な人間の愚かさに走る。それは何が原因なのだろう。

国家権力者の柵(シガラミ) 国家の政治の統合責任者がその時々の政治的采配を任されている。民主主義国家なら、三権分立と言う社会制度の枠組みの中で、許された範囲の責任と権限がゆだねられる。現在、日本の安倍総理大臣のような、突出した全権被委任者の如き誤った意識の人にはなかなか認識が改まらないだろう。日本の社会制度の極端な変更は総理大臣の思惑で決められない筈なのであるが、制度の不備を逆手にとって利用しているのが現状である。時の権力者は政治家であり、その時々の様々な組織からの軋轢(アツレキ)・柵に縛られる。経済・社会状況・外交環境・時代の様相などが時の権力者の思想・信条との関わりで醸し出される空気によって、危険な方向に走り出すことが有り得る。その些細な事で重大な事件の引き金に成る。その人格により、権力と支配権を持つ優越感の魔力の虜に成るのじゃなかろうか。独裁的支配に与しないように覚悟を皆が決めなければ危ない。争いの戦争など全てが独裁的支配者によってもたらされる人間の悲劇であるから。殊更民族・国家の尊厳、自立などと声高に唱える人間は元々危険人物である。

グローバルな絆世界の政治 これほど経済活動が世界中と繋がって展開され、それぞれの国民との共同、共有社会の仕組みで成り立っている事はなかった筈だ。戦争は、軍事力強化はそんな世界をも否定する国家的罪悪なのだ。もう国家・民族などと唱える政治思想意識は世界の不正義なのだ。全て紛争は、自国の経済的優位と世界支配への権力者(それを支える資本主義の美名の下の利益獲得の正当性の柵)の欲望が世界の平和的均衡を揺るがすことにより引き起こされる。資源確保と他国より競争的優位さを暴力的に、軍事力で獲得しようとの政治指導者の闘争心が原因じゃないか。植民地支配が過去の、平和で力の弱い社会組織に強圧的に土足で踏み込み、勝手な横暴の支配力を駆使した事実を物語っている。この経済競争の戦いとその世界支配の欲望をどう世界的に均衡させ得るかが政治指導者の粘り強い会話に因る努力義務なのであろう。自ら積極的に、話し合う努力をして機会を模索する事が政治指導者の責任と義務と思う。こんな事を記す自分が愚かに見えてくる。恥ずかしい。「恥愚」の赤面。