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プランク定数の概念

光とは何か 

光の物理的意味をどのように理解するか。光を振動数や電磁波の横波で論じていてはその本質を理解できない筈だ。光は粒子であり、波動であると言われる。確かに粒子のような性質で解釈できる現象を示し、また波動であると解釈できる現象をも示すであろう。その粒子性と波動性の両方を備えた光の空間像を空間エネルギー分布像 光とは何か?-光量子像-として提唱した。また、光の物理的特性はプランクの定数h[Js]によって決定的に特徴づけられる意味が分かっている。すべての光がプランク定数hによってそのエネルギーの評価が出来るという画期的発見に支えられて、光の特性を理解できると考えてよい。(2020/07/16)追記。ここに述べたエネルギーの評価ができるという意味について少し書き加えておく。このエネルギーの評価とは、光のエネルギーが計量できるという意味ではない。ある波長の光の単位量子の物性に作用する力の意味を評価するに極めて有効な捉え方であるという意味である。しかしエネルギー量を評価できるものではない。その波長の光の作用性としての概念で特段の意義がある。

光とプランク定数

光を述べる教科書には必ずプランク定数が登場する。プランク定数がどれ程重要であるかは、教科書をみれば良く分かる。ところが、物理学での光は振動数で解釈されている。光に振動する物理的実体など全く無いと考える筆者には、その振動数という意味が理解できない。改めて、振動数とは何を意味しているかをエネルギーの縦波との関係で解釈したい。合わせてプランク定数の物理的意味を光エネルギーの空間像との関係でもう一度示しておきたい。

光の空間エネルギー像

光は空間エネルギー分布波の縦波の連続波である。その事は実験で証明できない空間エネルギー密度波での解釈であれば、科学論として受け入れられないかもしれない。しかし、最初から光を振動数で解釈する物理学理論に疑問を持っていた。『エネルギー』に対する電気技術感覚からの違和感であった#脚注(1)。

光の物理的最小単位

光は空間を光速度で伝播する物理的実体である。空間内にある体積を占有する物理量実体である。その実体をどのように認識するかが問われていると考える。光を振動数で解釈するのであれば、光の何が振動しているかを明確に示さなければならない筈だ。筆者は光の実体として、振動数に変えて空間エネルギー分布の最小単位εの連続の縦波で解釈する考え方を提唱したい。

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物理的最小単位

表現式ε=hνには空間的な意味が観えない。しかし波長λで表現すれば、空間寸法内のエネルギー量と観ることが出来よう。波長λに因るその光の最小エネルギー量を物理的最小単位εと解釈する。その光の最小単位が占める空間寸法をどのように解釈するかの問題は残るが、波長λに関係付けた体積と考えて良いだろう。このエネルギー量の ε[J]が波長λの空間長さ内に一塊りとしてある分布形を成す物理的実体と看做す。全く質量の無い空間エネルギーの実在体。このエネルギー感覚が物理学理論・概念には無いように思う。その認識が理解されるかの問題と思う。

波長について(2018/09/04)追記

今まで、光の波長λ[m]について無意識にエネルギー分布波の繰り返しの波長として取り扱って来た。その波長は標準的な正弦波の波長とは異なる。一般には正弦波の一サイクルを1波長と定義している。正弦波の一サイクルはエネルギー波で見れば二つのエネルギー波から成り、エネルギー波の2波長分となる。例えば正弦波50[Hz]の電圧波ではエネルギーの波100[Hz]となる。従って電磁波の周波数および波長に対して、エネルギー分布波の周波数は2倍、波長は二分の一の長さとなる。光の物理的実験の経験が無いから実際の光の波長観測の意味は分からない。この事から、振動数νと波長λについての意味もエネルギー波で全て評価して来たので、一般的な定義と異なることを指摘させて頂きたい。

光量子空間像と概念

光の正体で示した図である。(2018/09/03)追記。この光量子空間像の表現には波長とエネルギー分布波形で、波頭値の意味が分かり難い。波長との関係を次の図で示す。

波長とエネルギー分布模様

大よその波長比較として、4つの波長のエネルギー分布を取上げてその模様を描いた。その光の先頭値である波頭値の比較を(波頭値比較)として図の左側に描いた。光の波長で、その作用の強さが異なる訳は周波数の高い程エネルギー分布の波頭値密度が高いからだと解釈する。その波形分布式を次に示す。

光の空間像 

光のエネルギー分布波形を時間を止めた瞬間でのエネルギー分布波形の一つの表現式である。この波頭値Hλ[J/㎥]が波長の4乗に反比例する場合の式である。この表現式はエネルギー分布が進行方向に均等分布平面波との一つの条件での式であり、条件で変わる筈である。光のエネルギー分布の軸性(光の偏光に関係すると考える)は考慮していない波形である。

  プランク定数の物理的概念

光の最小エネルギー単位εの空間寸法λは空間を通過する時間の周期τで置き換えられる。すべての光はその最小エネルギー単位εとその空間通過時間の周期τとの積が一定であるというプランク定数の物理的意味を持っている。特別目新しい内容は無いが、プランク定数の物理的意味は光の空間エネルギー分布形態で解釈する処にあると言えよう。

 

#脚注(1)

  • 金澤:物理学が問われていること 日本物理学会講演概要集 第55巻2号2分冊310頁(2000)
  • 金澤:プランク定数の次元と実在概念 同上 56-1-2、p.310. (2001)

光量子の波動関数形と作用

はじめに(過去と光量子像) 過去のファイルから光量子像を拾い出す。

光量子像 光は質量的な粒子ではない。横波の振動体ではない。曖昧な波動ではない。『エネルギー』の空間密度分布の光速度の縦波流である。

光量子と指数関数 雷様の光エネルギー放射現象の衝撃波形からの類推による導出波形関数が(1)式である。決して科学実験により証明は出来ない光量子像であろう。実験での証明が科学論の本質だと言われれば、この光量子像は科学論の範疇には入らないことになろう。自然現象に対する個人的『勘』に基づく提案でしかない。この式の導出過程などについては光とは何か?-光量子像ーに述べてある。

求められる人間像に程遠い未熟の人間のまま、科学常識から程遠い非常識の自然感覚から求める世界を彷徨う。見えない物を見たような嘘を言うと非難されるような光量子概念の提案をして来た。目で見えない物を見たとは言えない。しかし、心・感性で観ることもあろう。物理学理論のある時は「粒子性」でまた或る時は『波動性』で同じ現象を解釈し分ける。「粒子性」という場合の粒子とは質量の塊のような物を言うのか、そこに電荷という得体の知れない物を纏った電子のような粒子を念頭に描くのか、なかなか素人には理解できない。時には電子を雲のような捉えどころのない波動のようなものと言うようだ。そんな不明確な捉え方に満足出来ずに、2001年『プランク定数の次元と実在概念』を未熟な内容のまま発表した。その基には雷様の衝撃波形が自然現象波形のモデルとして意識に在った。電力設備の管理上雷の衝撃波は重要な研究対象でもあった。雷の衝撃電圧波形は急峻な立ち上り波頭の指数関数減衰波尾長の波形で認識している。決して正弦波には成らない。しかしその衝撃波表現法にも不満足である。指数関数表現式は時間が無限大に成っても決して現象がゼロには成らない式である。自然現象解釈式には指数減衰式が基本的に使われる。原子核分裂崩壊現象も半減期が幾らと言うように同じ指数減衰関数式で解釈される。プルトニュウムの半減期が何万年と言うような場合の解釈式なら問題にしなくて良かろう。普通の一般的自然現象では無限にゼロに成らない事はなかろう。そんな無限大に続く現象は自然界には無い。宇宙もすべて変転の中に在る。星座も消滅し、新たに産まれ来る天体の星座もある。光の一粒と言う空間エネルギーは波長と言う周期で必ずゼロに成らなければならない。その意味を指数関数式に含めた結果の式が(1)式である。

指数関数と波動関数形 エネルギーの縦波波としての光の表現。

波動関数形 変数xに対する波動関数形として③を選んだ。ただし、変数xの範囲は1≧x≧0で定義する。この変数については、光量子の(1)式では変数ζを使っている。それは無次元数で、波長λや周期τで正規化している。無次元の変数xで、③の場合にx^2^e^(x-1)などと高次とすると、関数波形はもっと急峻な形状となる。なお指数関数についての関連記事がある。指数関数の形と特性(2013/07/03)、指数関数の微分・積分(2015/02/10)および周期関数(科学技術と自然と数学) (2016/01/13) 等である。

光量子の作用性と波頭エネルギー密度H[J/m^3^] 光量子の波動関数形(指数関数)で光を認識すれば、光の一粒の波頭Hが光の作用性に大きく関係していると見做される。

波長λと波頭値H 光量子ε=hν=hc/λで、xに比例する。しかし作用性、波頭値のエネルギー密度で観れば、xの4乗に比例することに成る。光の波長が短くなれば、いわゆる振動数が高くなれば、その作用性は波頭値のエネルギー密度で効いてくると言う解釈ができる。なおここでは変数x=1/λで無次元ではないが、空間距離x/λのようにζは正規化した光量子表式(1)の無次元変数で解釈する。

まとめ 眼で見ることもできない、実験で証明することもできない科学認識は専門的には多分認められないだろう。しかし曖昧な粒子性と波動性の混合解釈論では、その論理は自然の眞髄では通らない話ではなかろうか。見ることが出来ない物には『電荷』も同じ事のように思う。雷が水蒸気の熱の放射現象だと言っても、専門的には、学説では理解されないかもしれない。雷は決して実在しない『電荷』などの現象ではない。上に一通り光量子の自己流(自分にとっては確信論)の解釈をまとめた。しかし大きな矛盾も抱えている。それは光の作用性で、波長の寸法が数千オングストロームで、原子、分子寸法との兼ね合いでの関係性が理解できていない。水素原子H2の放射スペクトラムと言う物理学の最初の解説で、1Åの寸法とその水素原子放射光の寸法の関係を論じることが出来れば良いのだが。追究しようと思うと、光の波長の意味が理解困難にもなるのだ。波長λに対してエネルギー分布空間の長さが波頭部分に集中している場合への解釈が残されてはいよう。

燃える『酸素』の力とは?

身近な事を考えると殆ど分からない事ばかりだ。『酸素』は『水素』と同じくとても日常に密接な元素だ。しかし、何も分かっていない事に気付く。酸素がなければ生きては行けない。地球には十分の酸素がある。何も答えを得られないままに『酸素』への疑問だけを記す記事ではある。

その酸素の最大の謎はこの地球上に『いつ、どのようにして酸素ができたか』であろう。水も植物もいつどのように生まれたかが分からない。水と酸素が無ければ地球上に生命は誕生しなかろう。水と酸素が植物をどのように芽生えさせたかと不思議に迷い込んでしまう。

酸素は誰が造るか

酸素の働き

そんな大本にまで答えを探すなどは間違いとしよう。

現実の日常生活の中で、本当に基本と思うような事さえ分からないのである。そこで、酸素の働きとはどんな事かと分類してみた。大体3つ程に成るかと思う。

1.空気中の燃焼 火を使うには酸素が要る。透明のガラス容器に燃料を封入して、レンズでその燃料を加熱しても容器内が真空なら、燃えないだろう。いや、燃えるかも知れない?そんな実験はしてないから、結果は想像するだけである。一応仮想実験として、何の経済効果も無さそうな純粋の『物理学』に特化した考察図を挙げておきたい。仮想真空燃焼実験真空容器の中に可燃性の黒い布切れでも封入した。真空管でも良いが、頭に焦点距離の合うレンズがある。『問答』:日光に当てると、布切れは燃えるだろうか?こんな答の見えない問題が、自然現象としてどれ程考える感性を持っているかの自己評価に成るかと思う。Exhaust pipe(用語?) から真空に排気しているとする。考える時は自由な発想が好ましい。光とエネルギーの関係をどう解釈するか、振動数で説明しても良い。ギリシャでのオリンピック聖火の採火式は太陽光線での加熱(反射鏡)方式である。摩擦熱と同じく、光はエネルギーそのものの縦波の流れである。(2017/10/30)追記。一応問答の『答』を書き足す。想像の結果やはり燃える筈だ。真空中でも布切れが太陽光線エネルギーで加熱されるから、熱分解してガスの発光燃焼になる。従って結果的には真空でなくなる。この燃焼は布切れの熱分解で酸素も発生するから酸素燃焼と言えるかもしれない。結果的には、太陽光線が真空容器内に入るため、元の布切れの質量に太陽光線入射エネルギー分だけ等価質量が増加したと同じ意味で解釈すべきだ。即ち光と質量は全く等価であると言う結論だ。

学術的物理学理論による光エネルギーは、「振動数とプランク定数の積」で解釈する。学術論では、市民が『光の振動数』を認識できなければ理解できない高度な理論なのである。市民的感覚論で捉える事を第一に考えたい。お日様に当たると暖かい。それは光の振動数が体を振動させるからではない。光一粒でも、それはエネルギーそのものの流れであり、身体に入り込み、熱エネルギーに成るからである。その光の流れと観る場合は、光エネルギーが質量(分子)内の空間への蓄積に因るエネルギー変換方式による着火(エネルギー放射)と看做す。これは普通の日常的な酸素の燃焼の働きにも関係するものと看做したい。この燃焼における酸素の状態はどのような変化によるのだろうか。単に酸素が何の変化も無しに、燃料の高温加熱でのガス化だけでは燃焼には至らないだろうと思う。「何を言いたいのか?」と訝しく思うだろう。『酸素』原子の8個の電子周回構造を破棄したいのである。IT検索では、まことしやかに『電子』の増減で様々な酸素の活性化を論じている記事がある。『電子』でなく、酸素原子の状態が環境の熱エネルギーに因りどのようにエネルギーが増加し、活性化されるのかの問題であろう。何で電子同士が二つ重なるような『クーロン則』違反の結合論が罷り通るのか。クーロンの法則を斬るに反して電子の負の『電荷』同士が「対を成す引力」を発生するのかを論理的に説明しなければならない。結論を言えば、空気中の『酸素』も加熱の熱エネルギーにより、そのエネルギー量が増えて、活性化した事で燃焼の力を発揮できるのであろう。『酸素』原子そのもののエネルギー量が増減すると解釈する。

燃焼作用における疑問 熱化学方程式と言うものがある。燃料ごとにモル当たりの発生熱量が異なる。炭素、水素、窒素と酸化の発熱エネルギー量が事細かに分かっているようだ。燃料電池が未来のエネルギー源として注目されている。発電装置としての役割で考えても、結局発生熱の『熱エネルギー』の形を変換しているのでしかない。自然科学は、自然の科学的に解釈する方法で、その仕組みを社会生活に利用できれば、それが主目的であり、科学のすべてである様に捉えられているようだ。だから、『酸素』が燃料の元素と化合して発熱するだけ分かれば十分と考えている。そこには何故かという『問答』が欠けている。物理的本質を理解しようと考えないのが、今までの「理科教育」の実情である。子供達の質問と思うが、IT検索のなかにも貴重な『問答』が多くある。しかし、回答者がその質問に十分応えようと考えていない。お座成りの『こういうものだ』式回答で済ませている。最大の燃焼の疑問は「何故酸素が他の元素と異なる性質・特性を持っているのか」である。原子構造上にその本質が隠されている筈である。それを見極めるのが「物理学」の道であろう。『電子』では決して結論には到達できない。何故窒素と少し異なるだけで、特別な燃焼特性を示すのか?

電気エネルギーと熱エネルギーが異なるエネルギーと考えて欲しくない。電気エネルギーも空間の伝播エネルギーである事から、熱の伝播エネルギーと全く同じものである。『電荷』が実在しない事実に立てば、電子と言う実体概念をどのように考えるかが重要な観点となろう。原子構造上のエネルギーの増減をどのような空間に描くかであろう。生活電気と『光速度』ご参照ください。

2.生体内の生命活動エネルギー生産 生命が燃えるにも酸素が欠かせない。血液循環により生体内のあらゆる細胞・組織の生命の機能保全を司る。細胞が生きるには酸素を必要とし、燃えカスを廃棄する。その運搬の役割を赤血球のヘモグロビンが担っている。ヘモグロビンの寿命も120日で再生されるらしい。時間管理されている生命の循環は世界・宇宙に秘められた絶対的原理と観ると、とても不思議に思える。『癌』は生命の循環の原則から、時間管理(細胞再生循環)の狂いによる絶対的原理違反の宿命と観たかった。生命の全体像を思うと、その細胞一つからの営みが全てに広がり、統制制御される活動全体の姿は何と不思議であるかと驚くばかりだ。人間が設計するロボットがあるが、二足歩行一つをとっても、まっすぐ伸ばした足で、つま先立ち歩行の平衡感覚の全体制御性を比較してしまう。そんな細胞に酸素が果たす役割を考えると、『酸素』元素の力は神の力に思える。どんな秘力を尽くして、生命のエネルギーを生み、そのエネルギーをどのように細胞の活動に生かしているのかと考えてしまう。酸素とエネルギー及びその細胞運動への活かし方に不思議を思う。エネルギーが世界の素原と言う解釈から見ると、指先の筋肉運動にエネルギーがどう生体的・生理学的機能を司っているかを考えてしまう。『鉄』が元素周期の変遷の到達点と言う考えもあるようであるから、世界の循環から『元素』も変遷すると観る。エネルギーが世界の素原であるから、元素もエネルギーの局所化の諸相であると観られる。エネルギーと空間と質量に関連して。

生体・生理学的身体活動とエネルギー 確かにヘモグロビンが末端細胞まで酸素を供給しているのは間違いないだろう。それでは、細胞に酸素が供給されるとその酸素はどのような生理学的働きをするのだろうか。単に細胞内の細胞質の分解・再生の為だけに酸素が使われる訳ではあるまい。細胞の生命活動に酸素が必要な筈だ。活動エネルギーを生みだし、そのエネルギーが何に使われるかが重要な視点に成ろう。筋肉のどのような生理機能がエネルギーを運動に変換するか。皮膚感覚をどのようなエネルギーとして神経伝達機能に生かすのか。それらの生命活動全てが酸素の働きにより造り出されるエネルギーによってなされると観る。エネルギーが筋肉の収縮・弛緩に変換される。それがエネルギーが消費されると言う事の意味であろう。二酸化炭素と酸素の呼吸作用におけるTCAサイクルとどんな関係に成るのか等、観えない事ばかりである。

ヘモグロビンは何故赤い? 赤血球の構成分子がヘモグロビンらしい。赤血球と言うように血の色は赤い。ヘモグロビンで、鉄原子Feが酸素の運び手の役を担っているらしい。廃棄する炭酸ガスCo2の運搬もFeが担うとはなかなか上手いものだ。そんなFeがあるが故に赤色となると解釈すれば良いのだろうか。ヘモグロビンの分子構造に占める鉄Feの比率はとても小さかろう。あの血の赤色はやはり色の不思議に挙げて良かろう。色の世界を尋ねてに重ねてみたい。色彩も不思議がいっぱいだ。

3.水、高タンパク質などの分子構成元素 燃焼を司り、エネルギーを生みだす酸素が水素と結び合えば、その分子が燃焼を消す水になると言う。燃焼と消火を繋ぐのが酸素とは。

光合成と酸素 植物の生命活動。地球上の生命を支える基に成るのが緑の森林である。太陽光線と葉緑素の生命の紡ぎ合いに『酸素』がどんな役割を果たしているかと疑問が増える。

回折と光の属性

どうして素人の私が『物理学』の原理を探求して、ブログ等で論じなければならない事態に至ったのだろうか。

(2015/06/28)この部分の記事削除した。

光の属性光の属性 光をどのように認識するかを端的にまとめてみた。光を振動数で認識するのが、量子力学や光学の専門的基本概念になっている。しかしそんな認識では、様々な光が呈する現象を理解する事は出来ない。今回は『回折』を取り上げる。その理解のためには、光の属性として、3つ程基本に挙げた。①エネルギー密度の縦波である。②光は振動等していない。③直進性と拡散性を光の呈する現象の基に持っている。特に、①と③がここで論じる『回折現象』の理解に必要である。

エネルギー密度の縦波 エネルギー密度の縦波

もう何度も示した光の縦波模様の図である。光が横に触れるような振動波形で解説されているのが、普通の専門書や教科書である。何が横に触れるかの説明が出来ないような解説図は、どう見ても学習者はただ『暗記学習』の訓練をするだけになろう。Attribute of Light

直進性と拡散性 光は空間を伝播する時、ほぼまっすぐ直進すると基本認識している。しかし、必ず光の中心から逸れて、横に漏れるのも基本的特性である。空間を伝播するに、そのエネルギーの縦波であれば、エネルギーが漏れて伝播効率が落ちるのもやむを得ない。このような光の拡散も基本的属性である。Diffraction

回折現象の正体 光の干渉縞も、実験で見た事が無い。2つのスリットを通して、光の干渉が起きるのも基本的物理現象として、理解している人が多かろう。そのスリットを光が通ると、出口側で、光が回折して、本来なら陰になる方向まで光が曲がる現象を『回折』というと理解している。ホイヘンス・フレネルの原理などで専門的な解説がなされている。しかしその解説を読んでも、少しも納得できない。何故回折するかの物理的説明になっていないと思う。これこれの法則でこのように解釈すれば、昔からの皆が最大公約的に共通認識で定まっているから、その通りに覚えなさい。それで、大学入試試験には合格する事請け合います的な論法で済んでいる。素人の解釈で誠に申し訳ないが、光をエネルギーの縦波と捉えれば、スリットに入ってから出るまでの間に、光のスリットの側面と接触する部分があり、そこでその障害物との間で相互作用が起きる筈である。これも光エネルギーの物体との摩擦現象になると考える。所謂『近接作用』現象である。エネルギー波が接触すれば、上の図のように、摩擦により遅れとエネルギーロスが起きる筈である。その結果、出口でスリットに近い部分の光のエネルギー量は減少する事になり、そこに光が拡散する現象を引き起すと考える事ができる。そのエネルギーの廻り込みとして光が広がるのである。

(2013/07/28)追記。上の記事の摩擦と言う文章を読みながら、スリットが超伝導体に開いている場合は意外に光エネルギーのロスが無いかも知れないと思った。回折現象が起きにくいと。自分の超伝導の原理解釈は、導線に電磁エネルギーが進入しない現象と認識しているから。導線表面でのエネルギーの反射で、損失にならないのだと。

上に述べた解釈は、いろいろの現象に対して、新たな解釈を迫ると理解している。『重力波』等の存在は信じられない。水星の近日点による光の重力曲がり観測(アインシュタインの予言と1919年、イギリス観測隊)についても誤解と認識する。

天眼鏡の屈折司令官

IMG_0653窓際で『天眼鏡(こんな呼び名があった)』を陽射しに置いた。太陽光は、そのエネルギーの強烈さを秘めている。オリンピックの採火も鏡で太陽のエネルギーを使う。陽射しの中に居れば、ポカポカと暖かい。その熱エネルギーは光が持っている。レンズを使えば、すぐに火起こしができる。平行光線の太陽光をレンズで屈折させて、焦点に集めれば木材は燃え上がる。理科や物理学で光を解釈すると、とても複雑な意味付けがされる。難しくなる。波長、振動数あるいは周波数などの言葉で説明されると、光の温かみも消えてしまう。

温かみの基は何だろう 物理学的、教科書的解釈には、日常生活で感じる感覚に応えて欲しい。温かみや温度の意味が説明できるだろうか。『エネルギー』とは何か?

屈折の司令官 レンズ、天眼鏡あるいはプリズムは光の性質を理解する大切な意味を示してくれる。『屈折』と言う現象である。光の進行方向が変化する現象である。光は基本的に曲がらず、直進する。この光の直進と言う意味一つをとっても、それは難しい意味を含んでいる。余談になるので避けたいが、光の進む空間と言う意味は惑わされ易いので、その進む空間の意味を明確に定義しておかなければ、論議が成り立たないのである。例えば、今真上の頭上に向かって、光を点滅させたとすれば、その光は頭上を真っ直ぐ進みはしないのである。地球は自転、公転しているから、光の進む空間に対して常に方向を変化させているからである。以上が余談である。ここで取り上げる光の話は、手元の狭い範囲の話であるので光の直線進行の意味は光の相対速度まで考える必要はない。屈折と光路

(2016/11/22)追記。上の図で、レンズ軸に平行な光線が焦点Fを通過すると言う解釈は間違いである。教科書の誤りを信じていた結果の間違いでした。間違いで済みませんでした。焦点距離がもしFの位置であれば、その位置にスクリーンを置けば、A点からの光はそのスクリーンの面の一点にすべて集中し、像がはっきりと映し出されることになる訳です。従って上の図は間違いであります。以上訂正させて頂きます。(2017/12/04)再追記。間違いと言うのはFと言う焦点の概念だけであり、観測対象の一点Aからの光とレンズの屈折現象の角度の説明は良く出来ていて、正しい。平行光線が焦点を通ると言う意味が無意味である。図では眼で観測する時どの位置でも殆どAの文字は見える事を表現した。どの光路からの光であるかはレンズと眼と対象の間の関係で決まるだけである。しかし眼でなくて衝立などやフイルムに像を写すとなれば、Aからの光の様々な光路を通る光がフイルムの或る一点に全て集まる事により、Aと言う文字の像が鮮明に写る事になる。そのフイルムの位置とレンズの間の距離を焦点距離と表現しているのだ。焦点距離は観測対象のレンズからの距離で変わるのである。だからレンズが幾らの焦点距離かという表現は意味がない。無限遠の太陽の写像の距離を焦点距離と言うように定義すれば、レンズ一つに一つの焦点が決まるから混乱は避けられるだろう。そのような定義にすれば、衝立、フイルムに写す写像の位置は写像距離となり、焦点距離とは異なる事になる。しかしカメラなどの実際の焦点距離が写像距離を意味しているから、レンズの無限遠の定義を使うのは困難ではある。しかし、レンズの焦点と言う概念が平行光線からの教科書の解釈である限り、レンズと光の関係は混乱し続ける問題である。

光の屈折は光が進む空間の媒質(空気、水あるいはプラスチックなどの進行空間の材質)の特性の違いで起きる境界面の現象である。上に示した図はレンズに観測対象のA点から光が入ると、そのレンズへの入射角が様々であるから、それぞれの入射光線で屈折の方向も変化する。従って、レンズから出る光の方向もばらばらの方向性を持っている。手元に天眼鏡があれば、物を見て欲しい。人の目とレンズからの像と言う意味には、余り焦点には関係ない事が分かる筈である。どんなに位置を変えても眼には物がほぼ良く見える筈だ。どの方向の光路を辿って来た光かは分からなくても、対象物はよく見える。ある一筋の光があれば、他の光路の光は無関係なのである。目での観測に、レンズの焦点など余り関係ないと言いたい。写真機、カメラでのレンズの組み合わせは、とても技術的にも工夫されていて、その場合の光の光路はもっと複雑ではある。それは写真の撮影画面の広さに全面で鮮明な像が写らなければならないからである。画面に他の対象点の光が混じれば、ボケの像になるから。フォカスの調整と言う事になる。さて屈折の司令官とは?屈折は媒質の境界面で起きる。光の進行方向が変わるのである。何故変わるのだろうか?この理由を説明するのが物理学の専門領域になるのだろう。ここで『問答』をしたい。物理学では、このような現象になると言う結論を説明しているが、その原因までの「何故か」と言う事には答えていない。ある程度詳しく媒質について明らかにされていよう。角度に関して、『スネルの屈折の法則』がある。屈折率が詳しく分かっているようだ。光の屈折で『色収差』と言うプリズムの光分散の問題がある。波長に関係ない屈折の問題に話題を絞るとしても、屈折の問題を預ける司令官の采配を論じるには、光の物理学的特性の振動数を採り上げざるを得ない。司令官と光の振動数の取り組みを論じたいのが主題ではある。レンズに入射する光が何故進行方向を曲げて、屈折しなければならないのだろうか。レンズの中に入れば光の進行方向は直進すると観る。媒質の変化する境界だけで変化する。その進行方向を変化させる仕組みを決める基準を司令官と名付けた。物理学では光は振動数で解釈される。光の一粒も光子というhν[J]と言う振動数ν[1/s]で解釈される。屈折はレンズ面への入射角を検知して、その到来の光路から進行方向を司令官が判断すると観よう。司令官は入射光の何を検知してその入射角を判断するのだろうか。司令官がもし、可視光線の振動数を判断基準にするとしたら、光の横に(物理学理論では、縦の振動数ではないと思う)振動すると言う何を検知して入射角を計量・判断するだろうか。次に、何を基準に屈折角度を決めるだろうか。そこには光の速度での時間的余裕は与えられず、瞬時性が求められる。瞬時性とは振動数を検知する余裕は与えられないと言う事である。光速度で入射する光の入射角度および屈折角度は何を持って瞬時に判断するだろうか。光の本質を振動数で捉えている限りは、この『問答』は成立しないと思う。光一粒のエネルギー分布で、その波頭値の入射瞬時ですべての方向性が決まると解釈しなければならない。光のエネルギーが暖かさそのものであり、その波頭値のエネルギー分布が光の特質を決める司令官の判断基準である。光とは何か?-光量子像ーがその意味を示している。この記事は前のレンズと光路の追加説明でもある。

エネルギー(energy)とは?

一粒の砂』 今日古い紙に書き記した『詩』を見つけた。その詩には、何処か東洋的な匂いがする。カレンダーの裏に書き記してあった。久しぶりにその詩を筆にしてみた。検索で調べると、イギリスの詩人・画家と有る。名前はウイリアム・ブレイクで、有名な詩であった。

一粒の砂に 世界を見 野の花に 宇宙を見る 手のひらに 無限を知り 一瞬に永遠を知る。

何かこの詩には計り知れない謎めいた意味が込められていると感じるらしく、意味を質問する人がいるようだ。私が気に入ったのも、その意味である。この詩文の意味を理解するに参考に成るかもしれない。その私の一夏の経験を記した記事がある。『眼から鱗が落ちる』と言う言葉がある。それはそれまで想像できなかった世界の神秘に触れる時であろう。そんな経験である。自然は愛響ー揚羽蝶ー がその1つである。また、最大の巡り合せは「雨蛙」であろう。そんな事や、物理学理論、特殊相対性理論等の矛盾に遭遇した事等、精神に驚愕を覚える事があるという経験。そんな点で、その詩文は私が思う世界観に極めて近いものを感じたから、書き記して置いたのである。私の感覚では、物理学理論の根源を支える未来像が『エネルギー』に集約されると言う直覚的感覚で捉えたからである。今まで、このブログにも『エネルギーで観る世界ー・・・-』と言う標題で記して来た。最初が、エネルギーで観る世界ー序論ー で始まった。人類発祥の1つはインドを含めた東南アジアの複雑な島の海と陸の関わりと私は見ている。一方西洋文明はギリシャなどの地中海の海と陸も人類発祥にも関わるかと思っている。東洋哲学は物の根源に迫るに『そぎ落とし』の感覚が基にあるように思う。西洋哲学は現代科学理論の示すように、新たな概念による『積み重ね』の感覚が基本に成っていると感じる。しかし私が東洋的な匂いを感じたことは、上のWilliam Blake の詩と同時に、やはりイギリスの哲学者で、数学者のバートランド・ラッセル卿の言葉がある。『世界はエネルギーに集約されるだろう・・』と言うような物理学への捉え方を示していた。私が『静電界は磁界を伴う』と言う電気磁気学理論の世界に疑義を提起したのは、正しく『エネルギー』への世界の統一に踏み込んだ事に成る。やはり西洋にも東洋哲学と同一の思想が根底に流れていると見るべきであろう。『一粒の砂』の詩文はまさに私が感じる『東洋哲学的世界観』を表現したものと言えよう。『電荷』概念に固執する世界観では自然の世界の深い営みや魅力には到達できないだろうと思う。そのような世界の不思議の魅力に取りつかれる一瞬が、人に遣って来る事を表現したものと思う。それには『条件』があろう。自然の問いかけを素直に受け入れられるかどうかは、問掛けられたその人の心・精神状態が自然の世界に同化して、雑念から解放されている必要があろう。私はそれを「素心」の状態と言う。在るがままを見つめて、自然と心を通い合わせる『天真爛漫』な子供のような心根が欲しい。人は欲に支配される。天真爛漫は難しい。そんなところに『悟り』の意味があるのだろうかと?『エネルギー』とは何かを何も述べずに来た。何時か追加しようと思う。

自然はエネルギーの種々相 エネルギーとは何かを述べよう。端的に定義すれば、『エネルギーとはそれ以上分解できない物理量-(2018/07/27追記)。この“それ以上分解できない”という意味は、光を含め空間に存在するエネルギーをそれ以上の構成要素(素粒子など)には分解できないという意味である-であると言える。学問としては自然科学の対象である。哲学では『般若心経』の色即是空の『空』に当たろう。しかし、私が思うエネルギーの実相は、自然世界そのものがエネルギーの種々相として表れているその根源が『エネルギー』であると解釈している。即ち自然はエネルギーの具現像であり、その見える姿が『色』である。エネルギーと言う物理量は目に見えず、計りもできない。だから『空』即ち何も無いように見えるとなる。エネルギーは空間で本領を発揮する。自然科学の本質を捉える根本に『エネルギーの実在性』を意識して欲しい。物理学理論は膨大な分野から成り立ち、それぞれが専門領域に分かれて、全体を纏めて見渡すことが困難に成っている。それでは、一般市民がその自然科学にコメントする事も、理解する事も出来ない。市民的迫り方の基本は『エネルギー』と言う世界の真の実在量に着目して、それぞれの専門分野を意識することが重要であり、有効である。物理学理論は、小学校から大学まで、『エネルギー』そのものの実在性を認識できない処を漂っているのが実態である。エネルギーは質量が無いと論理に乗せられないのである。量子力学と言う学問領域でも、光放射現象一つをとっても、原子の外殻軌道を回る電子の質量が運動エネルギーの増減で起きる現象などと解釈している。位置エネルギーも質量が無ければどうにも理論が成り立たない。世界は唯一のエネルギーの実相の空間であり、『質量』もエネルギーが局所的に集約された姿である。だから、アインシュタインの知見として有名な『質量はエネルギーである』と言う事なのである。E=mc^2^と言う式で簡潔に表されている。これは光は吸収されて、エネルギー保存則に従い、質量に成るのである。『エネルギーと質量は等価である』今までいろいろな形で表現して来たエネルギーに関するいくつかを纏めて、例示しておく。エネルギー[J(ジュール)]とJHFM単位系エネルギーで見る世界ー津波ーエネルギーで観る世界ー素粒子ー 。経済成長はエネルギー多消費世界である。エネルギーで観る世界ー地球の生命ー。にその警告を示した。

光束[lm(ルーメン)]と比視感度

追記(2013/04/09)。光の計量単位ルーメンとエネルギー量ジュールの関係について、量的評価が出来ない事の結論になった。光の量的評価は、特に人が感知する感度に関わることで、エネルギー量とは無関係となる。その事を最初に記す。光束の単位ルーメン[lm]は光のエネルギー量の単位ジュール[J]と関係付ける事は無理である。人が光の強さを感じる感度は必ずしもエネルギーの量に比例する訳ではない。波長に対して感度が異なる事だけは間違いない。だから照明に関する単位は元々エネルギー量との関係を定義できないのである。それがルーメンに対する結論である。だから無理に『エネルギー量』と関係付けようと考える以下の論理は矛盾している事をお含み頂きたい。この事から照明と配光曲線の場合においても、光源と比視感度曲線からの算出光束F[lm]もエネルギー量に関係付けられないものである。

追記(2013/04/26)。この記事をご覧くださる方が今でも居られる。標題に『比視感度』の用語がありながら、その図解説が無い。ここに参考図を提示する。比視感度正確なものではない。波長に対して、人の感度がどのようであるかを教科書などの解説に基づいて図案にしたものである。5550Å([Å]は1× 10^-10^[m])が最大の感度を示すと言われている。その色が橙色か黄色かも本当のところは自分は知らない。その波長に対する人の感度の傾向は、大体図の様に見做してよかろう。それぞれ人によって異なるかも知れない。波長λで表現すると、面白い事に、赤外線までの限界に対して、ちょうど半分の波長分が可視領域である。

(2013/10/03) 追記。 人の光に対する波長感度が実際にどのようであるかは測定できない部分も多かろう。その波長感度の解釈図が上の様に照明学で評価していると言う意味であろう。そのグラフで、光と波長の関係が示されているので、その図の上から、光の波長と作用性の『問答』を一つ取り上げて論じておく。波長λが3800Å(オングストローム)以下で、紫外線、X線あるいはγ線等とエネルギー基準が高い光の領域になる。波長が短い程エネルギーが大きい光と看做されている。光速度で進行する光のエネルギーの空間領域が小さい光ほど、そのエネルギーの働きが強くなると言うことである。波長が短い程、光一粒の空間占有領域が小さい程、その光の原子、分子への作用性が強まると言うことである。その意味を物理的にどのように解釈するかが重要であろう。その解釈で、光の振動数概念では、十分理解できない筈である。その光の作用性の意味をエネルギーの空間分布密度から解釈したい。領域が小さい光ほど、その作用性が強まる意味は何か。その事に対する解釈を示しておく。それが光のエネルギー空間分布形に在り、波頭値のエネルギー密度が大きくなると言う意味である。光は正弦波のような波ではなく、雷の波形の先頭の衝撃波状である基本的認識が大事である。光に振動性はない事を理解すべきである。光の先頭の波頭値のエネルギー密度がその光の作用性を理解する基本認識でなければならない。その光の空間像は光量子の波動関数形と作用に示した。その詳細は光とは何か?-光量子像ーに示した。

物理量の単位は複雑である。国際度量衡会議で共通の単位系を決めている。MKSA系である。しかし、なかなか理解し難い単位がある。それが光の量を表す「光束」と言う単位である。ルーメンと言う。磁束と同じに、光の束あるいは光の線の密度と言う考え方で決められた単位であろう。世界はすべてエネルギー一つから成り立っている。他の物理量概念は全て便宜上の仮想量でしかない。エネルギーの単位は[J(ジュール)]であり、全てはそのジュールとの関係で解釈・認識出来なければならない

さて、人間の視感度が光の量及び波長とに関わってくる。明るい、暗いで物を見る見方が違う。光には色彩がある。いや光には色は無い。しかし自然は彩り豊かな世界として目の前に現れる。その色は、本来光に在るものではなく、人間の眼の中の仕組み・機能あるいは脳がそのような彩りがあるものとして認識しているに過ぎないのである。その色を7色とか、何色に分類すればよいかは分からないが、兎に角、光の波長で人間の目の感度が異なると言われている。普通は、波長が7600[Å(オングストローム)]~3800[Å]の範囲の光を認識出来ると言われている。単位[Å]は長さの単位であり、極めて微細なものである。一つの原子の直径が大体1[Å]程度である。人間の目の感度は、上記の範囲の光が見える訳で、その光を「可視光線」と言う。その中心の波長の光が緑色で、最大の視感度を持っていると言われている。その波長5550[Å]での最大感度を680[lm/W]と文献(#)に在る。(#:電気工学必携 改訂新版 尾本義一監修 三省堂、いつもこのポケット型ハンドブック一つで重宝させてもらっている)。この単位も良く分からない。単位[lm/W]=[lm s/J]は光束lmと時間sの積でエネルギー量と解釈できる。だからエネルギーのジュールJとの比率で、目に入った光の内、視覚に寄与したエネルギー量の比率を表していると見做せる。だから一応論理的には筋が通っている視感度の単位である。単位で問題にしたいのは[lm]である。照明関係の量的評価量はこのルーメンlmである。時間との積分で初めてエネルギー量になると言うことは、一体どんな意味があるのか理解できないのである。ここで中断して、照明関係の単位等を一覧する事にしたい。ここで、光と色彩の関係を考えるには、人の目の仕組みおよびその神経伝達信号の生理学的認識が欠かせなかろう。その為には、人の目の構造を理解する必要がある。眼球の光ファイバーと色覚にまとめた。

一般には、部屋の明るさを照度E[lx(ルックス)]と言う単位で表現する。このルクスは部屋の壁、床あるいは本の紙面に入射する単位面積当たりの光束でE[lm/㎡]を表す。参考までに、晴天の日向の照度は10万ルクス、満月の夜は0.2ルクスらしい。図書館などの設計照度は500ルクス程度。さてもう一つ光源の明るさを表現する単位がある。それはI[cd(カンデラ)]である。ちょっと聞き慣れない空間角の単位ω[st.rad(ステラディアン)]を使った定義量になっている。全空間の立体角は4π[st.rad]である。即ち光源から放射される単位立体角当たりの光束量を持って、その光源の光度I[cd](=[lm/st.rad])として評価する。このように照明に関する単位はいろいろ複雑である。基本になっている量は、光束量ルーメンである。先に、最大視感度680[lm/W]と言う単位について示した。単位[lm s]がエネルギー[J]ならばと考えたが、どうもこの光束量F[lm]の正体が分からない。

何を言いたいかと言うと、光の量で明るさを論じるのが照明であろう。光の測定に疑問を持っているのである。照度計でEルクスと言う。光のエネルギー測定の基本法則は「プランクの法則(1900年のノーベル賞受賞対象論文)」である。プランク定数h=6.625×10(-34乗)[Js]が光の基本定数となっている。この基本法則の光スペクトル測定が正しく行われたのかを疑うのである。照度ルクスも何を測定しているのか理解できないのである。ルーメン[lm]はエネルギー量に比例した物理量を評価しているのかが理解できないのである。照度計で測定するとき、時間の長さに関係なく或る一定値を表示する訳であるから、入射エネルギーの時間比率を表示している事になる。即ちE[J/s]の単位と同じ意味の量を計っている事になると考える。すべての可視光線の波長成分を積算するものとして計測しているのであろうが、光源によっては波長スペクトル分布に大きな差がある。ここで人間の視感度曲線・特性との絡みが関係してくるのである。最大視感度を基準にして、可視光線の全体の波長に対する眼の感度を『比視感度』曲線として表して解釈する。紫色は感度が悪いとは思うが、赤の感度は感覚的に本当に比視感度曲線のようになっているか疑問に思う。赤色に対しては、人間の感度は非常に良いように感じられる。

以上から、工学的実用量ルーメン[lm]が物理量エネルギーのジュール[J]とどのような関係に在るかを明らかにする必要がある。冒頭にも訂正したが、結局ルーメンという単位はエネルギー量ジュールには換算できない特殊な単位である事に成る(2013/04/26追記)。曖昧さを排除するに欠かせない点である。更に比視感度曲線が、教科書のような特性になっているか大変疑問に思う。光のエネルギーをどう認識するかは極めて重要である。物理学教科書で、プリズムの屈折現象に関する解釈は曖昧のままである。光の何が屈折の原因であるかを説明できない。『光量子一粒の空間エネルギー分布』が屈折現象の要をなす。日常の生活空間に現れる光の魅力を大切にしたい。