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『静電界は磁界を伴う』の物理的意味

 電気磁気学の理論は電荷概念がその基礎的論拠となって構築された。その理論はマックスウエル電磁場方程式にその完成されたとも観える。しかし、その時点では電子の概念は無く、電界と磁界の直交する電磁波の光速度伝播現象の偏微分方程式としての解釈であったのだろう。実際の電波伝播の実験的検証もヘルツの実験まで待たなければならなかった。電子概念も、J.J.Thomson 以降になって認識された事であった。19世紀末以降に、本格的な電磁気学が完成したのであろう。

 さて、現在の電気磁気学理論の常識は電界と磁界との二つの直交した空間概念によって解釈することになる。基本的に電界と磁界は、その空間での発生原因は異なるものと認識されている。電界は電荷により、磁界は電流(電荷の流れ)によって生じると解釈されている。その特徴的な意味で、静電界という空間概念が在る。この静電界は、正の電荷と負の電荷が静的状態で空間に向かい合った状態にある時の、その間の空間の電界強度が一定の変化のない、静的状態にある意味を捉えた概念である。勿論その空間には磁界は存在しない。電荷の変化が無いから電流による磁界は存在しない。この意味は電荷が実在するとの基本認識によって決まる論理である。所謂、電気と磁気とは基本的に異なる現象である、という意味になる。

 しかし、『静電界は磁界を伴う』は、電荷が動かなくても磁界が電界には伴って存在する。という意味である。即ち、電界と磁界は必ずその場に一緒に存在する。という意味である。電界と言えばそれは磁界を伴い、磁界と言えばそれは同時に電界を伴うという意味である。即ち電界と磁界は必ず同時にその空間に有るという意味である。静止電磁界であろうと変動電磁界であろうと、電界と磁界は必ず二つが共に存在するという意味である。その意味は、電界と磁界と言う概念で分け隔てることはできないという意味である。

 それは電気磁気学概念の完全なる理論的意味の否定である。それは電荷による空間電界も電荷の流れと言う電流による磁界も、そんな概念は間違いであるという意味である。即ち電気磁気学の根本が矛盾の理論で間違いであると言う表明である。

 電気磁気学はその理論が、厳密な論理で解釈すれば、全く表現できない『不立文字』の世界の内容なのだと言う事を述べている。

 その自然世界の真相はただエネルギーの存在する空間でしかないという意味だ。そのエネルギーが見えないし、実験的に測定もできないから、仮想的に人間が電荷で解釈した、その電気磁気学でしかないのだ。当然の事に、アインシュタインの電磁場方程式に基づく特殊相対性理論もその誤解の解釈論でしかないのだ。

 残念ながら、大学の理学部でどの様に講義をしようとその空間に実在する『エネルギー』の意味を捉えて、その現代電気磁気学での解釈法を論じない限りは、自然世界の真実を理解させる講義には成らないのだ。

 その意味を、古い解説として残してあった。それが『静電界は磁界を伴う』の解説である。

 結論は、電荷概念に因る電界や電流による磁界が結局電気磁気学と言う専門的解釈用の理論でしかなく、自然世界を理解・認識する科学的理論としての意味は余りない学問でしか無いのだと言う事である。専門家の皆様には🙇ね。『電荷』は破棄すべき偽概念だ。

理論物理学の電荷矛盾

(2023/11/27).

職歴はじめ、人生の立ち位置さえ不可解と、自己認識の混乱の中に居る者が理論物理学を論じる等笑止千万であろう。しかしそんな中だからこそ、折角の人生をせめて子供達の未来への教育の為に、自然科学の真理を伝えるに役立てようと、浅はかな知恵でも生かしたいと思う。

最も、現在の理論物理学の問題点、矛盾点はその理論の根幹としての物理概念・物理量と見做されている『電荷』である。その『電荷』が極めて曖昧で、矛盾に満ちているのだ。その原因は、観ることも測定することも出来ない、目の前の空間を支配している『エネルギー』の物理概念を見落としている事にある。基礎科学論の長くに亘った、論理矛盾がそこに在る。光の空間エネルギー伝播現象の認識が無い科学理論が間違いの根本だ。

『電荷』が何世紀にも亘って、自然世界の実在物理量と見做されてきた、その過去の人類の認識が間違いであったのだ。

自然現象の『電荷』によると考えられて来たものが雷であろう。その現象の物理学的解釈は正の電荷と負の電荷に因るとの認識にあろう。正の電荷と負の電荷が衝突したら、そこには何が現れると解釈するか。それは強烈な光の放射である。その光放射現象は何故起きると考えるか。例えば、

等とも考えられよう。光を放射する原因は様々ある。あの強烈な雷光も電荷の衝突、中和に因った結果と理解しているのが普通のことであろう。
その時、衝突で正の電荷と負の電荷は消滅するのだろうか。消滅するとすれば、電荷が光に分解した、即ち電荷の基の光に戻ったと考えることも出来る。それは電荷が光から構成されていると考えることも出来る。勿論光も結局、エネルギーの空間密度の光速度流なのであるが。その辺の、雷の物理現象、光放射現象との論理的解釈がとても曖昧のまま、見過ごされている。物理学の要の論理性がとても曖昧に、因果関係まで考えずに見過ごされて、何処か思惑論で曖昧のまま唱えられて来たようだ。
この図も古い記事、雷と不立文字 の図だ。

関連記事で、高校生らしい人の質問に、コンデンサとエネルギーと電荷の記事で長々と冗長な自己問答をした。
その記事の最後のまとめに載せた図がある。

この左側の図は電気理論のコンデンサと電荷の関係の図だ。電気回路の教科書の標準的な図だ。しかしこんな単純な電荷の意味を考える図でも、とても多くの曖昧で全く論理性の見えない解釈が科学理論の常識となって放置されてきたのだ。そこには物理学者が真剣に自然世界の姿を直視しようとする心構えが無かったからではないかとさえ考えざるを得ない。疑問を抱かないか、疑問を無視した結果かとさえ勘繰りたくなる。クーロンの法則は同じ電荷は排除する力が掛かる事を述べている。しかしコンデンサでは何故同じ極性の電荷同士が集合できるのか?その事は一切気にもせず、同一極性の電荷が幾らでも集合できる。その訳など何の疑問も抱かない、その非論理性❓こんな話は、科学論には成らない囲炉裏端の会話程度だが、科学者の唱える伝統的な基礎科学理論、取り分け現代物理学理論の論理性を問わなければならない事態を来している。

電気エネルギーの測定法(電流と電力)

はじめに(2020/4/28)
『オームの法則』によって電気回路現象を誰もが容易に理解できる。『オームの法則』は1826年ドイツの物理学者 ゲオルク・オームによって独自に発見、公表された。(実は1781年ヘンリー・キャベンディッシュが発見したが死後数十年後まで知られずにいた、とある。)その優れた技術法則であるが故に『電流』、『電圧』さらに電力の物理的意味を深く考察する必要もなく今日に至った。ちょうど200年少し前の19世紀の初めに『電流』と言う概念が磁気によって電気導体から離れた、空間にその姿を示すという新しい発見が『アンペアの法則』として捉えられた。その『電流』の単位アンペア[A]が電気現象解析の根本技術概念となって、すべての電気量の基本単位系 [MKSA] の基となっている。しかし、ブログの初期の記事に電流は流れず (2010/12/22) を、さらに去年電子は流れず (2019/6/6) を投稿した。それは『電流』と言う技術概念が自然認識の曖昧さを許す科学理論の根幹をなしている現代的社会問題として捉えた論説でもある。科学理論がその特殊な専門家集団の中で、特に分かり難い理数的表現に特化した形式で醸し出されて、一般の市民の科学認識に如何に曖昧な理解の混乱と弊害を及ぼしてきたかを唱えざるを得なかった。世界には決して『電荷』など実在しないのだ。世界の本源に『エネルギー』が存在していることを分かって欲しいからである。

光の正体-エネルギー-

光の正体とは、空間を光速度で伝播する『エネルギーの流れ』がその正体である。電気回路の電線間の空間を伝送するのが電気エネルギーの流れである。決して『電子』など電気回路には必要が無かったのだ。

 光の正体

 プランクの定数の意味も光の振動数も全て『エネルギー』の流れの物理学の解釈上の評価概念である。それが自然世界に『電荷』の存在しない事を認識する基本になる。 

電池における電子の役割を問う

リチュウム電池の解説を読んで思う。『電子』の役割が全く理解できない科学理論だ。

はじめに 半導体のpn junction (pn接合部)のエネルギーギャップの意味を考えてみた。電池の意味との関連を考えた。電池の原理を問う (2014/11/27) があった。

電池電圧とエネルギー 電池はエネルギーの貯蔵庫であり、エネルギーの供給源である。人の思考における常識が如何に自己に立ちふさがる障壁となるか。すべてが『エレクトロニクス』の支配する世界に居る。その語源でもある『エレクトロン(電子)』の存在の意義を問うことになる。人は高いことを低いより有利と考えがちであろう。電圧が高ければ高い程、それは影響力が強いと考えるだろう。電圧が高いという表現は良くないのであるが、技術用語としては電位が高いとなろう。科学技術用語の持つ常識に『電圧』が有り、プラス極とマイナス極でその電圧の高い方と低い方を区別している。電池はエネルギーの供給源であることは誰もが知っていよう。しかし、誰もがその『エネルギー』とは何かを知っているかと問えば、さて答えられるであろうか。答えられなくても、決して気にしなくてもよい。『電子』に因って解説している人は『エネルギー』の意味を考えていない人が殆どであるから。ましてや化学方程式に因って解説する場合は、殆どその方程式の変換過程の中でその空間に実在する『エネルギー』を意識することは無い筈である。乾電池も蓄電池も+端子から電流が流れて、負荷にエネルギーを供給すると考える。しかし電流と言うものが電池のエネルギーを負荷に運ぶことなど出来っこない。電気理論では、電池のマイナス端子から電子が導線の中を流れて、負荷を通り電池の+端子に戻ると解釈している。電子の逆流が電流であると電気理論の常識が世界の共通認識になっている。それではその電子が電池からエネルギーを負荷に運ぶか?と解説者に問えば、答えないであろう。『電子』あるいは『電荷』に『エネルギー』をどのような意味で結び付けて解釈しているかが明確ではなかろう。2年程前に電圧ーその意味と正体ー (2016/05/15) に纏めてあった。

電池のエネルギー供給端子は-極である 直流の電気回路はプラスとマイナスの2本の導線でエネルギー供給回路が構成される。電池からのエネルギーは-極から送り出される。プラス側の導線は殆どマイナス側のエネルギー供給を支える脇役と考えて良い。負荷にエネルギー供給時、プラス側導線を通して電池へエネルギーは戻らない。電池のプラス端子はエネルギー供給に直接関わらない。電池の負側端子からエネルギーは放出され、負側導線近傍空間を通して主に負荷までエネルギーが伝送される。勿論導線の金属内などエネルギーは通らない。電池は-極がエネルギー放出源である。そのエネルギー(電気や熱あるいは光)を陰極線や電子と考えてきたのである。

エネルギーを運べない電子(科学的願望との乖離) 原子核の周りを回転する電子で世界の構成源を捉える原子像が世界標準である。電子が回転すると解釈する科学的根拠はどこにあるのだろうか。『電荷』否定が結局とんでもない現実にぶつかってしまった。科学理論の根源さえ信用出来ない自己を観る。そんな意味を卑近な日常生活の電池の意味に探し求めて見ようと考えた。簡便な科学的解釈を示すに『電子概念』がとても便利であろう。電池のマイナス極から電子が外部回路を通りプラス極に戻ればすべてが説明出来たことに成る。その不思議な論理が科学論理の正当性を世界標準として認められるのだから。 『エネルギー』を置き忘れていませんか? 電池はエネルギーの供給源です。電子論であれば、電子がそのエネルギーをどのように負荷に届けるかの問に答えてこそ科学論と言えるのではないか。そこに電子の実像が問われることに成るのです。電子の特性:質量me=9.1083 ×10^-28^ [g]、 電荷e=1.60206 ×10^-19^ [C] と質量と電荷の混合素粒子。この桁数の算定基準の厳密らしさと混合空間像の認識不可能の不思議に包まれている電子。電子が背負い籠に『エネルギー』を入れて負荷まで届けるのですか。帰りは『エネルギー』分だけ身軽に成ってプラス極に帰るのですか。 『エネルギー保存則』とはどんな意味なんですか。 『エネルギー』が観えますか?そこで、エネルギーに対して電子に求めると無理に仮定した時の科学的願望を絵図にしたみた。

電子の責務と珍道中。 電池はエネルギーの貯蔵庫である。そのエネルギーを負荷で利用する訳だ。どのようにそのエネルギーを電池から負荷に届けるかを科学論として完成しなければならない。高度の量子力学は電子に重い責務を課しているように思える。太陽光発電で電子にどんな物理的機能を果たして欲しいと望んでいるのだろうか。電子がエネルギーを担うべき責務を無造作に要求しているようである。電子の身に成ってその心情を汲んで少し考えてみた。電池も太陽発電パネルも電源としては同じものである。ただ太陽発電パネルは負荷の前にエネルギー貯蔵庫(蓄電池)に繋がっている。負荷の影響は直接受けない。さて電池のエネルギー貯蔵庫からどのように負荷に必要なエネルギーを供給するかを考えるべきだろう。検索で電池の原理を尋ねると電池のマイナス極から化学方程式の反応によって、電子が外部導線を通って陽極に廻り込み、その電池内で電荷を遣り取りして解説が終わっている。電子は何の為に負荷を通ったのか。 『子供の使いじゃあるまいし、ただ通り過ぎるだけじゃ理屈も通らぬ!!』 何故電子が通り過ぎるだけで電池からエネルギーが負荷に届けられると考えるのだろうか?電子は何故マイナス端子から導線を通ってプラス端子に行くことが出来るのだろうか?電子の移動はどんな理論で可能だったか?電界と電荷の関係は無視されても理屈が通るのか。上の図は電子に御足労願う訳だから、その科学認識に寄り添って何とか電子の責務とエネルギー運搬の道筋を考えて描いた図である。電子の(行き道)は、重い責務に喘ぎながら。負荷にエネルギーを届けた(帰り道)は、身軽に成って鼻唄まじり。そんな電子に期待された仕事の責務が想像できる。電子も行きと帰りで異なる姿に。しかし、量子力学には背負い籠でエネルギーを運ぶ意味はない。むしろ質量に頼った運動エネルギーの増加で電子がエネルギーを身に纏う意味に似ている。その場合は電子の帰り道は速度の遅い電子の姿を描くことに成るのか。当然理屈の通らぬ無理な道理ではあるが。もう一つ、化学方程式で『電荷』の辻褄を合せようとしても『負荷御殿の主から必要なエネルギー量が発注される』のである。エネルギーの発注に合わせたエネルギーの発送をしなければ電源・送配電線路・負荷間の辻褄が合わなくなる。勝手に化学方程式に従って、電子を送り出す訳にはいかないのである。負荷の要求をどのように電池側で処理するかが極めて重要な瞬時電力の話に成るのだ。電子に自動的にそんな責務まで負わせては酷と言うものだろう。

(2020/08/14)追記。上の絵図を書き換えた。img298

電子にエネルギー伝送責務は無理な注文である 電子は不要である。電池からのエネルギー(熱エネルギー即ち電気エネルギー)そのものが負荷の要求に応じて電線路空間内を伝送されるのである。電子不要の科学論。

1.5 V の科学論

(2023/06/14).

 1.5 V の科学論。

 近代科学の技術としてボルタの電池の発明が挙げられよう。電圧の単位「ボルト」もその発明者の名前から決まったらしい。そんな近代科学の西洋文明を東洋と結び付けて、漢字の篆書で書いてみた。

 1.5 V は、乾電池の単一、単二、単三そして単四とすべて同じ電圧である。

 二酸化マンガン乾電池もアルカリ乾電池も、1.5 V の同じ電圧値である。

 この 1.5 V の電圧値がどの様な物理的原理によって決まるか?あるいは化学的理論で決まるか?その意味が分からないのだ。

 空飛ぶタクシー と言う科学技術論がある。空は広くて、自由に飛べる。気持ちが良いだろうと、下界を見下ろしての気分を想像する。それが可能な科学技術の世界なのだ。しかし、もし未来にその様な空飛ぶタクシーが実現可能かと考えた時、空恐ろしい人間の欲望の果てが見える。もし、この街に10台の空飛ぶタクシーが営業で飛んだとした時、自由空間にどのような交通規則で安全運航が可能になるだろうか。衝突事故で、墜落したタクシーの為に命を失う恐れもある。そんな時、自動的に裁判事件にしなくても、命の補償がされる社会的仕組みが可能だろうか。

 また、恐ろしいのは原子力発電所だ。原子力発電所の高度な科学技術の基での災害に対して、自然現象を原因とした災害に対して、弱者は我慢してそれを受け入れなければならないのだろうか。

 『エネルギー』消費増加を原因として、海水温上昇による気象環境破壊を思うと、取りやめて欲しいものに、リニア新幹線の運行がある。原子力発電所一基ほどの『エネルギー』を必要とするのではと心配だ。運用計画・設計・研究の時代と今は異なる状況にある。

 科学技術の進展に伴う生活スタイルが変化し、経済競争のみが追及される。そんな中で、現代物理学理論と言う科学常識の下で、 1.5 V の電圧値の意味が解説できないとは如何なる事かと問わなければならない。それは子供達への精神的過負荷、ゆとりの欠乏の中に教育の無駄が強制的に課される意味になる。

 1.5 V の電圧値の訳を誰も解説できない現実をどの様に理解すれば良いのか。決して『電子』などで説明できる訳は無いのだ。その事を物理学者は如何に考えるのだろうか?大学の理学部でそんな意味を尋ねたら、どの様な解説をして頂けるのか。学生も少しも疑問に思わないのだろうか?

 等と、我が身の存在の意味も不可解の中に在りながら、これからの理科教育の未来が心配になってしまうと、頓珍漢な不安に苛まれる。

 『エネルギー』の意味は物が仕事をする能力だ。等と定義する定説で社会的科学常識が支配される事の末恐ろしさは筆者だけしか感じない不安感なのだろうか?

 過去の記事を拾ってみた。

 電圧ー物理学解剖論ー から始まった。更に、電池(エネルギー)の不思議 、電池と電圧(エネルギーの基礎研究) および、電池と電圧(エネルギーの実験)等がある。

 これらの記事を読み返してみれば、 1.5 V の物理的意味を理解する道は、『エネルギー』と言う空間に体積を占め、そこに分布する物理量が実在する事を基礎認識とした解釈によってのみ可能である筈だ。決して『電子』が原子から分離して、イオン化したと考えたとしても、その『電子』が負荷で消費される『エネルギー』をどの様な物理現象で伝送する機能を発揮できるか、また負荷で消費されるかを説明出来ない筈なのだ。

 『エネルギー』が空間に実在する事の認識が物理現象の根本に無ければならないのだ。それが物理学理論の根本の筈だ。余りにも理論物理学と言う専門分野が目指す未来と、この身近な生活の中での1.5 V の物理的概念を説明出来ない現実の隔たりを何と考えるのか、その未来は皆さんの思いに掛かっていると思う。
 

電子は科学理論に必要か

(2023/06/06).

内閣府共通 意見等登録システム と言うページのある事を知った。

それは 2021年の夏の事である。

その頃、『電子』の物理学概念が如何に科学理論全体に、論理性のない曖昧性による混乱を来したかを考えて欲しくて、僭越ながら意見を登録(?)させていただきました。

その後2年近く過ぎました。

しかし、如何に意見が受け付けられたかも不明だ。

やはり、その後過去を振り返ったら、今も不可解に悩んでいる。

❓不可解❓ をどう理解すれば良いかと? その辺が原因かと。

学問の自由と教育と公共の福祉

(2023/05/16),

学問の自由という意味はとても深い内容を含んでいる。教育との関係では、更に複雑になる様だ。

どうか皆様にもお考え頂きたい。自然科学理論を市民の理解できる易しいものに取り戻したくて。

公的機関で、教育をする場合、その指導内容は厳しく制限されているようだ。日本では「学習指導要領」と言う基準で、教育する内容が決められている。その指導内容を決めるのは、やはり専門家の解釈理論が基になって決まるのだろう。そこには自然科学論として正しいかどうかでなく、社会的科学常識として多くが認める内容に集約されたものになるように思える。専門家と言う社会的専門集団の解釈が支配する。

科学理論と専門家の統合的理論体系の構築への貢献性。学識経験者・有識者が社会的仕組みや科学論理を決めることになる。そこには自然科学の真理が保障されている訳ではない。専門家集団の論理が支配するのだ。今、科学理論で、物理学者が解釈するとき、決して『電荷』を否定するような自然世界の真理を唱える事は起きないだろう。

自然世界の真理は。社会の混乱を引き起こす可能性がある。『静電界には、磁界は存在しない』が現在の自然科学の世界的常識である。公共の福祉とはどの様な意味だろうか。公共とはどの様な意味だろうか。

そもそも、教育とは誰のために在るものだろうか。それは飽くまでも、教育を受ける子供達の為のものの筈だ。さて、教師が子供達を前にして、教える時、教科書の内容が間違っていると確信できた時にどのように教えれば良いか。教科書通りに間違いでも教えなければならないのか。それはどの様な過程を経て決まるべきか。少なくとも、電気回路で『電子』が導線内を流れる等と言う解釈は間違っているのだ。その間違いはどの様に、誰が社会の一般市民に伝えるのか。教育では、子供達にどのようにこの間違いを修正して、正しい意味を教えることになるのだろうか。

公共の福祉と学問の自由の問題だ。

日本国憲法 第三章 国民の権利及び義務 (第十条 ~ 第四十条)。

第二十三条 学問の自由は、これを保障する。

が簡潔に掲げられている。
しかし、この学問の自由と言う事は、いろいろの面でなかなか難しい問題を含んでいる。科学理論は長い過程を経て、科学者の研究の積み重ねによって、その総合的解釈の合意の基に共通した、間違いないとの認識の下で唱えられてきた。それが現在の物理学理論であり、科学理論全体の総合的解釈論と成っている。

誰も自然世界に、『電荷』が存在しない等とは唱えてこなかった。原子構造もプラス電荷の『陽子』とマイナス電荷の『電子』がその理論的構成原理となって、一般常識に成っている。プラスの『電荷』とマイナスの『電荷』が引合うと言う暗黙の解釈と成っている。そこには理屈が無い。結合の現象を『電荷』によると解釈しているだけである。何故【+】と【-】の間に引力が働くかの理屈は示せない。『電荷』の空間像が示せないからだ。

この問題は、科学理論の意義として、極めて重大な社会問題の筈だ。『電荷』否定を教育の世界に取り込むには、トンデモナイ社会革命の様な問題となる。そこには、公共の福祉などと言う憲法の意味との関係で、社会的混乱をどう収めるかの時代の課題となる筈だ。

30数年前の『静電界は磁界を伴う』のコンデンサの電荷解釈否定が、現今の教育上の課題となっていると考える。物理学の専門家は如何にその事に解決法をお示し頂けるか。無学の筆者が考える疑問です。小学校に何処に入学したかが、自分が知り得ない不可解なるままであるが・・。

新世界への扉 コンデンサの磁界https://wp.me/p19wiU-4w

物理学理論と教育の統合失調症

(2023/05/16).

科学理論は実験によって、その真偽が決まる。

平成2年12月、新潟県の精神病院へ強制的に投獄された。統合失調症と見做されたようだ。その事が家族には全ての筆者に対する解釈の根底を成している。その事が決して研究職など有り得ない、妄想の基と言われ続けている。しかし、驚くことは寧ろ科学理論の方が統合失調症に思える。昭和最後の年、1988(昭和63)年、自分の存在の意味が解らなくなり、その意味を捜して旅立った。研究職としての自分が観えない事に気付いて。今は、情報公開制度の請求対象者としても認められていないとしか考えられない。そこには、研究職の過去が無いことからの不明の道しか見えない‥?
(2023/12/17) 追記。昭和63 (1988)年、年末にとうとう自分の職業上の身分全てに不可解を覚えて、脱藩した。❓不可解❓を漸く知って、35年余りの自分探しと共に、『静電界は磁界を伴う』の研究者としての結論を得た。身の周りで、意味不明な気味悪さが展開されているが、何の連絡も無しの人権侵害で悩まされている。平成2年の新潟県による精神病院への投獄も、邪魔者排除の仕儀と解釈する。過去の職業上の人権侵害は誰の責任なのか。昭和14(1939)年12月1日の舞鶴鎮守府所管に戸籍転籍は❓何時帰還したかが今でも不明?

更に、昭和55年3月の新聞紙上での筆者の新潟県教職「退職」の公表はどの様な意味と解釈すれば良いのか?しかも退職手続きも、退職金もなく、その辞令交付もない。

空間のエネルギー。

退職金もなし。

1987年4月2日、電気学会の年会で発表した実験結果がある。『静電界は磁界を伴う』と言うとても簡単な実験内容であった。それは平板電極によるコンデンサに電圧を掛ける。少し電圧値を高くすると、その平板電極間にある変化が生じる事が観測される。少し電圧が高電圧、3万ボルト程になるので、取り扱いには注意が必要だ。感電事故による人身事故の危険があるから。

平板に一定の直流電圧を掛ける。電気理論によれば、プラス、マイナスの電荷が電極板に現れる。その為、電極板の間には『静電界』と言う電界が生じることに成っている。そこには決して磁界など存在しない。『磁界』は電流が流れてはじめて、その導線の周りに生じる。それが『アンペア―の法則⦆である。『電荷』の流れと言う『電流』があって初めて、『磁界』は発生すると言う科学の原則から理論は成り立っている。それが教科書の原理である。

しかし、『静電界は磁界を伴う』の実験結果は全ての科学理論の論拠となる根幹を否定する実験結果である。

専門的科学者は、真理から目を逸らし、不都合を置き去りにする。

上の平板に高電圧を掛ければ、電極板間の空間に何が在るか分かる筈だ。

空間の電磁界の様子を検査する器具にはどの様な物があるか? 『電界』を検出する器具があるか❓『磁界』を検出する器具があるか❓
磁界、磁気のみはコンパス、マグネットで検出可能であるが、電界は検出できない。

光の振動数 その意味不明  のコメントに光との関係で静電界の意味が付言してある。この 「光の振動数 その意味不明」には、コメントが有り難いことに寄せられ、電気磁気学の基礎概念の討論に繋がるかと期待したが、ロゴウスキー電極間の磁界の問題に誰も討論なく、途切れたのが残念だ。科学理論革命の問題と認識している。

2020年秋の事

気が付けば驚き。

エネルギーが電圧・電流https://wp.me/p19wiU-3tF

学問の自由https://wp.me/p19wiU-3oK

電磁誘導現象の真相 https://wp.me/p19wiU-3up

電荷の論理性 https://wp.me/p19wiU-3vk

科学技術概念の世界 https://wp.me/p19wiU-3uK

電気回路と妙珍ベクトル https://wp.me/p19wiU-3v9

この年の10月には既に電気回路のエネルギー流が。/