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地学ガイド 新潟の自然に感応して

この素晴らしい写真資料に触れて

地学ガイドとして残して下さったことに感謝する。それぞれに解釈は異なっても良い。そこに写された写真資料はすべて地球の生きた歴史と証を物語っている。それぞれにその地球の姿を自分の心に写し取って解釈すれば良いと思う。そんな意味から自由に勝手に解釈する楽しみを試みたい。
地球の謎(岩石、原油、土、水、塩)
山と岩石と土と水と塩の歴史の謎を心に留めながら地球の来し方を描きたい。今年最初のNHKの番組で、チコちゃんが地球の自転を話題にしていた。太陽系の全ての星が偶然で同じ方向の自転と公転をする筈はないと思うのだが。偶然という理屈では、何故すべての惑星が同じ方向に公転するのかの理由は何か?と問わなければならない。それも偶然として説明出来るのだろうか。専門家の解説を理解する能力が無くて悩む。それはそれとして、海底が深さ1万m以上になった訳は何だろうか。山岳の峰の高さより、海底の深さの方がより地球の活動の意味を秘めているように感じる。もし海底が深くなかったら海はどんな姿であったか。土は何から出来たのだろうか。石油はどのような動物の化石なんだろうか。何故地下に動物の化石資源が在るのだろうか。地球の直径はどのような変遷を経て来たのだろうか。そんな謎がすべて絡み合って解明されなければ本当の事など分かり様がない。地学の解釈理論に巨樹の化石の解釈が見えない。石や岩石は何から出来たと解釈するのだろうか。塩を創り出す海に動物でも居たのだろうか。岩塩も海水が蒸発した結果と考えたい。魚介類が動物の起源であるならば、海水の塩分濃度が生存環境の必須条件の筈だから。母体の羊水も生命誕生、生育、保全環境としての役割を持っている。塩の創造主が何かは最大の謎の一つとして挙げて良かろう。エネルギー地下資源の原油の生成過程も地球の歴史を理解するに欠かせない視点であろう。何故地下深くに存在するか。湖の湖底に何故泉が出来るか、その水はどこから来るか。雪解け水や雨水だけでは理解しかねる。地下で海と繋がっているのではないかと空想となる。それも巨樹の関わりとして。

島は巨樹の化石

佐渡島の尖閣湾や二ツ亀、小佐渡の小城町、白木の神小岩を見れば、巨樹の姿に見える(p.66~71,p.88)。勿論地球核からの噴火現象との関わりで形成された姿を留めている筈ではある。それは富士山にも言える筈だ。巻町越後七浦海岸(p.72)。岩船郡山北町の笹川流れの島と海岸(p.85)。さらに粟島浦村全体も巨樹の化石と観る(p.87)。県外では、福岡県の世界遺産に登録された沖の島も巨樹の化石で、人々が集い祭る神の島として相応しいのだろう。石の囁き 聞こえますかから、地球と巨樹の関係が益々濃密になって来る。

下田村の八木鼻(p.203) 説明には、“角閃石を含む石英安山岩でできていて、五十嵐川の浸食によりけずられ、切り立った岩壁になった。”とある。しかしこれも柱状節理に似た縦筋の岩壁で、川の流れで削られたとは思えない。巨木の化石と解釈した方が納得し易い。

海と魚介類の化石

小千谷市に塩殿という地名の場所がある。塩殿と言う名がどのような意味から付いたかと、その地名を知った時からとても気掛かりになっていた。小千谷市と十日町市(中魚沼郡)との道筋にある。今の信濃川の水面からはとても高い位置にある。「塩」は海の産物であるから、その地が岩塩でも産しない限り、近くの海から運んだとしか考えられなかった。その塩を取り仕切る地主が居てその者を殿と言ったかと解釈していた。しかし、このガイドブックを見て驚いた。p.138以降に、4 丘陵に産する化石と題して、多くの化石が示されている。長岡市滝谷に産した化石群、中でも中里村産のヒシナイイワシの化石(p.141)は謎の深さを膨らませてくれる。岩手県立博物館だより2015.9 No.146 にもヒシナイイワシの化石の話が載っている。新潟県中里村は清津峡、長野県境に近い信濃川上流である。そこが海のイワシの生息地であったとは、地球全体の海の状況が想像をはるかに超えた高度に広がっていたとしか考えられない。エベレスト山脈の麓のアンモナイトの化石や世界の岩塩あるは小千谷市の地名塩殿の意味とが海の姿の認識を変えるものであるかと想像を膨らませてしまう。

関連記事をまとめておく。岩石や地層は学問領域としては地学になるものであろう。新潟県六日町の巨木館を訪れてから、木の放つ何かに圧倒された。その後、石の囁き ・・の記事にある庭石の化石化した木に遭遇した。今地球の歴史に巨樹と石の関係を無視して考えることは学術的に無理だとの思いになってしまった。植物がなければ、海のプランクトンもなく、魚介類も存在しない。巨樹、巨木が如何に地球の成長と変成に欠かせない生命であったかを考える。生物学、物理学、地学あるいは化学がそれぞれ別の学問分野として独立した研究対象では未来を語れないように思う。電気工学の分野から、顰蹙を買いそうな日本雨蛙や光量子の空間概念、更に岩石にまで興味の赴くままに我儘に死んで来た。 紹介に書いたように何の結果も示されず、得られず誠に皆さんには申し訳ない。ただ、『静電界は磁界を伴う』の物理学の根本概念『電荷』の存在否定への説明責任だけは自己満足ながら貫いた。電力工学の学術分野での論説は困難であった『電荷』否定は間違いでなかった。

石の囁き 聞こえますか(2011/07/23) 化石と硯(2011/09/30) 石に宿る古代神の面影(2014/11/17) 佐渡赤玉石に連想(2014/11/20) 庭に石器か?(2014/12/10) 笠堀ダムと土器(2014/12/16) 八海山岩峰の起源?(2015/09/07 なお、八海と言う意味の由来を地元の役場に尋ねた記録がこの地学ガイドに紙片で残っていた) 柱状節理とは何か(2015/12/23) 富士の霊峰を仰ぐ(2017/11/14) 山の木霊(2018/12/20)

 

 

 

 

木賊(トクサ)と水

羊歯(シダ) 特異な植物の部類になろうシダやコケ類。シダは図鑑に依れば、琉球列島には8mを超すものも有るとあり、八丈島には茎丈4mの物があると。羊歯やコケは温暖で湿原地帯がその生育に適しているのだろう。何か地球の原始の姿がそれらの植物と連想して頭に浮かんでしまう。巨樹の化石が地球の原始世界を作って来たと考える。この水の星・地球は太陽と植物が創造したと考えて良かろう。山の木霊に関連した話。植物はどのような物理現象として水を揚水するか。ポンプがある訳でないのに、100メートルの高い木にも先端まで水を運ぶ。木賊は特別に水を多く体内に蓄えている。節がその水貯蔵に大きな機能を成していると考える。

木賊 庭に木賊が生えている。

木賊 土筆やスギナに似た節が特徴の植物だ。植物の図鑑では羊歯の類に分類されているようだ。少しシダ類とは違うかもしれない。シダ植物の茎の断面と異なるようだから。よく活け花の素材になるのかもしれない。

トクサ断面

 

トクサ寸法と特徴 シダと違って断面は中空である。周りが20個の細管で構成支持された植物だ。生えた茎を切断すると、中には水が充満している。表面の細管も水が満ちているようだ。緑色の茎は結構堅いざらざらした感触であり、支えるに十分な強さを兼ねている。この木賊もシダ植物も地球の古生代、原始の頃に繁茂した植物群のように思える。水の星地球、水を生みだした創造主は植物でなければならなかった筈だ。

トクサ磨き トクサでの汚れ磨きのことで、表面はサンドペーパーのようにザラザラしている。魚焼き器の網皿の油汚れを擦って見た。十分の強さでトクサは破れることもなく、よく磨けた。トクサの水については、切り取って1日放置すると節の間の水はすべて消えてしまう。表面から蒸散してしまうのだろう。実に興味深い特性の植物だ。節の間には大量の水が蓄えられている。あくまでも予想ではあるが、その水は地中から吸い上げた水ではなくて、トクサが生み出した水であろうと思う。この地球星にははじめから水があった訳ではないのだ。古代から地球表面から宇宙に放射される水も含めて、すべてこの星の活動の結果として水が蓄えられたのだ。それは植物しか他には考えられない。古代の巨樹がこの地球上に繁茂していた頃には、相当の温暖で湿度の高い環境と考えたい。3000mを超える高さまでも羊歯やコケの植物群の支配域であったと。トクサと水に思いを掛けてみた。山の木霊から連想してしまう。

水の妖精七変化(エネルギー)

水は産業革命の力を象徴して科学の世界を広げた。蒸気機関車が今もその威力を見せてくれる。水を加熱すると水とは思えない魔法の力を生み出す。燃料電池はエネルギーを生み出す。水を介したエネルギーと力の関係は日常生活の湯沸かしから巨大科学技術機関の発電所まで広い。酸素分子O2と水分子H2Oに悩むの記事を読んで、また自分の頭の知識貯蔵庫に違和感を覚えた。蒸気機関の熱サイクルで、水蒸気の乾き度と湿り度と言う用語がある。乾き度100%は高温・高圧の水蒸気状態である。水蒸気は酸素と水素の混合状態に簡単に変化する。乾き度100%の水蒸気は完全に酸素と水素のガス混合体と考えて良かろう。高温高圧のガスである。酸素と水素と水とエネルギーの間は、日常生活の中で、いつもそこに潜む妖精が支配している世界のように感じる。酸素と水素と水の間柄には、お伽の世界が現実に現れたようにさえ思える不思議を感じる。湯沸かしの沸騰で幾らかが酸素と水素に分解するのもあろう。と言っても湯の中を上昇する内に水蒸気に戻ってしまうだろうが。

水の電気分解 水の電気分解と言う化学反応は良く知られた現象である。水に電気エネルギーを加えることで酸素と水素に分離される。水の電気分解は酸素と水素の原子が結合したものを『電子』と言う素粒子(?)の電気回路を通した供給で元の原子に分解する現象と解説されている。『電子』と言う『電荷と質量の集合粒子』が水の原子結合をどのように分離するのかの詳細な解釈を知らない。理科の大切な実験例として取り上げられ、観察する機会も多かろう。ただ解説によれば、水酸化ナトリュウム等の電解質分子成分が必要らしい。水は電流を流さないからと説明がある。電流と言う電子電荷(質量不要)の逆流は一つの解釈方便でしかないので、『エネルギー』の関係で解釈する以外ないのだ。イオンの『電荷』を否定すれば、酸素と水素の結合・分離は『エネルギー』で解釈するより他になくなる。水酸化ナトリュウム等の電解質イオン水の電気分解で、得られたガス成分の検証を火に因る燃焼音などの現象で確認しているが、それだけで水が電気分解で発生した分離酸素と水素だと言い切れるのだろうか。また、そのガス内に炭などを電極にして発電作用(燃料電池)の確認が出来るかも興味がある。また『エネルギー』で、電気エネルギーと熱エネルギーにどんな違いがあるかと考えるてもその差が分からない。電気エネルギーには二本の導線の間で流れる方向が決まっているから、負の電極(水素)側からエネルギーが供給されるだろう。正の電極(酸素)側のエネルギーはどのよう考えるか。水酸化ナトリュウムは電極と水との間の触媒としての働きを成しているのだろう。原子、分子あるいはイオンの媒体環境でのエネルギーレベルの差がイオン化傾向として理解されている事に関係しているのだろう。ナトリュウムがその鍵を握っているかも知れない。

何故酸素か 南極上空のオゾン層が増減したとニュースになる。物は酸素と結合して燃焼現象を呈する。燃焼は熱・光エネルギーを放射する。その訳を説き明かすのは物理学だ。何故酸素原子が他の元素と違って、結合でエネルギーを放射するのか。そのエネルギーは何がエネルギーに変換したものか。燃料電池は酸素と水素の結合でエネルギーを作り出す電池だ。水に電気のエネルギーを加えると酸素と水素に分解できる。酸素と水素と水の間の変換を取持つのがエネルギーである。酸素と水素の化学結合と言う現象が元の酸素と水素原子に変化が全く無くてエネルギーが創りだせる訳は無い。エネルギーに何が変換されたのかが物理的解釈の要点であろう。決して『無』からエネルギーは生まれない。エネルギー(光や電気)に何かが変換するのである。その何故かが説かれなければ、エネルギーの意味が分かりはしなかろう。いつまでも同じ事(戯言と言われそうだが)を言って申し訳ない。燃える『酸素』の力とは?(2013/11/07)、   『水素』に思う (2013/09/29)など。以上理解力の弱い頭で科学常識について行けない迷い事を述べた。理論無しの、自然の真理はただ純粋の一つに因って解釈すべきだろうと創造力・妄想力を働かして描いた。それが次の絵図である。水とエネルギー流 酸素は2価、水素は1価と考えている。酸素1原子に水素2原子で丁度分子構造が安定した水H2Oになると。酸素、水素の単独では2個が対の分子を成すと。エネルギーの吸収か放出かで水と酸素、水素の関係が決定されるようだ。その辺を『エネルギー』一つで関係付けたらと考えたのが上の絵図である。『電荷』無しの『エネルギー』での解釈である。マグネットじゃないけれども、空間に粒子性のエネルギーと言えば、エネルギー円還流しか思いつかないので、結局磁石と同じような軸極性を持った物になってしまう。序でにもし『電子』と言う科学概念の解釈粒子を考えるならそれも最小のエネルギー円環流になるだろうと考える。水素は最小の原子として少し中心にエネルギー流の塊(質量化)があるのだろう。こんな研究を細々続けられるところが大学の自主体制に必要なのだと思うけれども。経済的利潤・価値を求めた競争研究だけでは、研究の幅が狭まり、延いては大学の独立性・教育力が危ぶまれる。役立たずの夢の絵図かもしれない。

太陽と雪

突然科学論を太陽と雪が仕掛けて来たようだ。だから比べようも無い二つを想念に重ねて見る。似ていることと似ていない点を拾ってみようか。太陽は太陽系を司る中心の存在だ。太陽系と雪の結晶で、似ていることはどちらも平面形状をしている点だ。こんな無意味を文字にすることも、勝手に許されると我儘をする。科学論に乗せようとしても、片や果敢無い(ハカナイ)夢の一瞬の姿で、その実在性も幻の世界にすぎない。しかし、そんな在るかないかに迷う素性も時と処で巨大な姿に変幻し恐怖の世界を演出する。こんな雪の一片も本当に科学論を深めようとすれば、その不思議さ故に素敵な対象なのだ。他方、太陽系は推し量るにも五感に触れる術さえもない、その全体像の巨大さ。ただ毎日太陽の光の中で、その源の循環を知るのみである。自分で確かめようもない理解の縁にやっとしがみ付いているだけだ。太陽は光と熱による活動の支配者。雪の結晶はやはり光と熱の放射による活動停止の姿。太陽の光と熱の基が何であるかは分からないが、雪の光と熱の織りなす素は水の世界だ。発熱と冷凍の対極でありながら、どちらも命の源の役割を担っているようだ。理屈を付けようとしてもどちらも手のひらの指の間から抜け落ちてしまう。ただ確実に言える事が一つある。太陽の光も雪の結晶もその根源は『エネルギー』一つの具現の姿でしかないということだ。

平面形状 太陽系も雪の結晶もどちらも平面形をしている。何故平面形かと頭の中を探しても答に窮してしまう。太陽系の軸性回転体系の訳を有名な万有引力則から理由付けしようとしても無理である。始めから同一方向に回転しているから何とか万有引力で解釈しているだけで、万有引力則や重力理論で軸性回転が生じる訳ではないのだ。自然は何故回転を基本に形作られるのかに答を見つけられない。雪の結晶構造も平面形であるが、何故六角形に展開するのかも水の素性に隠されているのだろうが意味は知らない。「何故か」に自然は彩られている。高尚な一般相対性理論が世界の統一理論の鍵となるとの論議があるが、数式で自然が解釈出来ないように感じるから難しい。雪の結晶一片にも、その心に迫るに数式では太刀打ちできない。関連記事:太陽は何故燃える? 雪と天然 。

科学者の社会的責任

長く科学漫遊の旅を続けて来た。ここまで辿り着いたと内心安堵できる面もある。しかし、何しろ日本語しか理解できず、研究歴も殆ど無く、未来設計が出来る環境にない。ただ、科学の基礎、特に教科書の内容について、教育を受ける子供達を考えた時、余りにも虚飾的な伝統に縛られた『嘘』で固められていると思う認識をどう繕えば良いかに戸惑うばかりである。学歴も怪しく、基礎資格の博士号も無い者がいう事でないかもしれないが、教育の関係者、科学者は科学技術社会における教科書の内容をどう構築すべきとお考えなのだろうか。その意味で、全ての科学者に問う。その社会的責任は何かと。

浮かぶ印象?印象は?

光も電荷も水も日常的に聞き覚えあり、目にする用語です。この用語にどんな印象を受けますか?この言葉・用語に対する科学者の印象を尋ねたい。科学を数学的に解釈する慣習に習熟されておられる方々はどんな印象を受けるだろうか。この三つの用語を日常用語で、数式無しに説明して欲しい。そんな意味を科学者の教育に対する社会的責任として考えて頂きたい。科学の世界も、盗用や、間違い論文が多く指摘されている。競争に潜む科学研究の宿命的な危険であるかも知れない。公的資金を注ぎ込む上での受給者の社会的責任観の希薄さがそこに潜むのであろう。中には信じられない『200回も・・』という発言の真意と研究実体の狭間に何が?とも・・。自分も『電荷』否定を唱えた時から、物理学基礎理論の矛盾を確信していたからここまで来られた。他には何もない。

学説を疑え学説を疑

教科書の学説を疑ってこそ科学者であろう。『光』を物理学的にどう認識するか。光速度とはその定義空間をどのように捉えているか。光の振動数という時、何が振動していると考えるのか。自分に正直にその意味を理解しているのかと。『電荷』が存在していると信じているのかと。『水』はどのように造られると考えているのかと。水蒸気を気体分子運動論で解釈しているのかと。などなど多くの事を物理学は教育の場で役立っているのかと。失礼とは思いながらも、愚かな者の戯言と。

『水素』に思う

今朝の直覚は水素が急に頭に浮かんだ。「浮図」と言う用語は急に図となって頭に浮かぶと言う意味なのだろうか。昨日は、電荷否定は科学的発見か と直覚に絡めて書いた。歳を取ると、理屈や計算は苦手になる。せめて過去に辿った頭の経路の中から関連した事象を引き出して、科学的解釈をする以外はない。2011/03/11東日本大震災での福島第一原子力発電所の『原子炉崩落事故』で気掛かりのことがあった。『水素爆発』である。水素が空気に触れると、7気圧の爆発力になることは工業高校で生徒に教えていたので知っていた。その凄まじさに、新聞記事での写真に遭遇してその水素爆発の意味を改めて考えてしまった。まさか、『陽子爆発』と言う意味ではないのだろうと疑念のままで来た。陽子と水素の違いはなんだろうかと考える。何も違いは無いだろうと。

水素の命名者は誰か? 元素名がそれぞれ成程と言う思いにさせる用語で付けられている。IT検索で、塩素を調べた。幕末の蘭学者 宇田川榕庵が「舎密開宗(セイミカイソウ)」に塩酸の翻訳用語で表したらしい。しかし水素を誰が初めて使ったかは分からない。それにしても、『水素』と言う命名は誠に巧いと感心した。また、元素に『素』の字を使う語感にも感心する。昔の日本人は、優れた翻訳の語感を持っていたと改めて思う。今日の直覚は酸素、炭素、窒素の日本語の命名者は誰かと思った事からである。漢字『素』を自分も使いたい。世界を構成する基が『エネルギー』であると考えた。その『エネルギー』の日本語訳に『素原』を使いたい。何処か『元素』に似ている。『エネルギー』が世界の「素粒子」である、それが前からの思いである。

水素の発見 1766年ヘンリー・キャヴェンディッシュが分離発見したらしい。1783年アントワーヌ・ラヴォアジェがhydrogeneと命名したらしい。その日本語訳を『水素』としたのは巧い翻訳と感心する。物理的には、陽子と水素の判別が分からないけれども。それは電子の実像不明である故。電荷否定について『電荷』という虚像 をご覧いただきたい。

水素製造の消費エネルギー とても不思議に思っている事がある。『燃料電池』のことである。新しい発電方式として、急に脚光を浴びて、実用化が進められている。家庭の発電方式やハイブリット自動車などに燃料として使われる。水素の製造過程で、どれ程のエネルギーを消費するのかがとても気掛かりだ。エネルギーを生み出す原料・燃料『水素』を造り出すことになるが、その製造工程でのエネルギー消費量がいくらなのかという素朴な疑問が解消しない。家庭の発電方式で使う場合は、その機械の製造から材料の調達・発掘すべての産業の関係したエネルギー消費量を計算して、発電エネルギー量との損得勘定を明らかにする必要があろう。燃料自動車は確かに、排気ガスでは水だけしか排出しないから、環境の問題は幾らか改善されるだろう。地球環境過熱化の問題は科学技術全体のエネルギー消費量の総量で抑制する方向でなければならないのである。経済成長と言う視点だけで、政策・技術が論じられ、推進され易い現実を未来の為にどう考えるべきかが問われているのだ。悩ましい問題に、リニア新幹線問題がある。どれ程エネルギーを多量に使うかを考えているのか?地球がどんどん過熱化されて、植物が枯渇し、生物の多様性が消滅し、生態系全体が崩れた時、すでに人間もその生存が不可能になることを認識したうえで、エネルギー消費を競って行くのだろうか。北極海の航路開設とエネルギー掘削など、温暖・過熱化の加速である事を。水素熱資源活用の問題を地球過熱化との視点で見るべきだ。

燃料電池の原理? 水素の酸化現象。それが化学反応によるエネルギー発生の原理らしい。化学反応式で表せば、 O2+2×H2=2×H2O+E(エネルギー) となるようだ。こんな単純な化学反応でも、水が生まれて、エネルギーを利用できるとは大変なことに思える。原料の酸素と水素の保有する熱エネルギーと化学反応後の水の保有して排出されるエネルギーおよび利用される熱エネルギー(あるいは電気エネルギーと言うのかもしれないが)(損失も含んで)等の総エネルギー量は幾らなんだろう。原子が結合すると何故エネルギーを放出するのだろうか。『質量とエネルギーの等価性』から解釈すれば、水素と酸素が結合して、どんなエネルギー変換を引き起すのだろうか。どの質量がエネルギーに変換するのだろうか。そのエネルギー変換現象の物理的意味を理解できないのである。燃焼と言う熱エネルギーに関する関係記事、燃える『酸素』の力とは?および太陽は何故燃える? がある。

エネルギーで観る世界ー地球の生命ー

(7月25日追記) 今年の猛暑でこんな姿に成り、哀れなり。地球が灼熱地獄に変わる前兆か?植物が太陽光に耐えられない状況は人の生命もその行く末を暗示していると思える。

草・木の夏姿。目前の緑に目をやる。椿の堅い葉が強い日照りで黒褐色に焦げている。去年当りから目立つ状況だ。今年は、更に紫陽花の葉が日中に萎びて哀れな姿を呈している。緑は太陽光を吸収して、地球の生命を守る大切な働きをする筈であった。萎れる程になったら、とてもその役目は果たせない。寒さには強くても、暑さには耐えられない限界がある筈。自然に寄り添えば、自然の思いや訴えが聞こえる年を追うごとに、飛んで来る虫や昆虫の姿が激減している。もう、春に食い荒らされる筈の山椒の葉も、揚羽蝶の生存数が激減し、卵を産み付けないから、そのまま残っている。もう何年もあの大きいカラスアゲハもクロアゲハも普通の揚羽蝶も見れなくなった。左の写真は上が椿の日焼け、下が紫陽花の萎れた日焼け。こんな哀れな緑の苦しみを見たくない。

酷暑化する日本の夏ーその常態化ーどこまで上昇するか?風の無い気温50℃までか、60℃になるか想像してみて欲しい。技術が進んで科学が滅びる』経済成長と言う欲望の追求は自然を破壊する事で成し遂げてきた。人間の本姓の成せる業である。今は昔と成ってしまった。庭にも自然が見えた。古いネガフィルムの写真から拾ってみた。1996年頃の庭に来た揚羽蝶である。(上の右側の揚羽が黄揚羽である。)秋アカネが信濃川の右岸で絶滅して、もう二度とここの田畑上での秋の日本の風景は見れなくなってしまった(2020/03/14)追記。最近また戻ってきた。一つの安心をアキアカネが教えてくれた。感謝!。日本社会を進めてきた指導的人達は、霞が関と言うコンクリートの建物で、エネルギーを使う様に仕組みを構築して来た。冷房の空間で、夏に向き合わずに過ごす経済成長を追い求めてきた。ある物理学の大学教授が言っていた。有名な大学で高等数学を教えている方らしい。「私は自然を見ないようにしている」と仰っている方が教育する『物理学』とは何の為の物理学かととても気掛かりになった。自然は、何処かに旅行にでも出かけた時に、そこで味わえれば事足りるものと思うのだろうと悲しい。

周りの田んぼを見れば、春は量販店に山積みされた『除草剤』が田の畔にたっぷりと撒かれて、枯れ草の生命が哀れな姿を曝している。『水は誰が造りだしていると考えるのか』二酸化炭素がどうこう言うが、水は自然が作り出している事を知らないのではないか。それが『科学』だと思う。技術じゃありません。Spring 8 の電子加速原理も専門家はどんな理論で説明できるのか不思議でならない。自然を見ないようにすると色々儲かるようだ。Spring8 は円形加速装置で電子を光速度近くまで加速できると言う。電磁気学の基本法則で電荷加速は電界の他は無い。装置は殆どが磁気加速装置であろう。ローレンツ力の磁界加速は円運動の中心軸方向への加速度運動と成り、同一半径の円形リングでの加速は出来ないのが「教科書理論」である。電荷概念の加速理論は円形加速装置では不可能である。理論の噓を置き去りにした『理論物理学の素粒子理論』は論理性を無視した素粒子論業界の迷走研究だ。

エネルギーが質量の基』日本物理学会講演概要集第64巻第1号第1分冊 p.20 (2009) これも発表出来ずに終わった。この論文の主張は、質量はすべて光のエネルギーが局所空間に集まった結果の表れである。アインシュタインが提唱した『質量はエネルギーである』の『E=mc^2^』の式が示す事からの当然の帰結である。質量がエネルギーだからこそ、エネルギーが質量なのである。物理学理論で、『エネルギー』の実在性を認識できないうちは日本の夏の気温は何処までも人間が住めなくなるまで上りつづけるであろう。世界のグローバル化は過熱地獄の地球を作ろうとしている。