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❓不可解❓

(2023/05/22).

不可解の文字を書いてみた。特徴のある、魅力的な字形だ。不可解と言う言葉の意味も、自分と重ねて考え込んでしまう。何故こんな大事な事にも気付かないで、人生を棒に振るようなことになってしまったのかと。

 追記(2024/03/18)。 最近愚かにも気付いた。1980年新潟県教育委員会から全く辞令も無しに、3月の教員移動の新聞記事に、自分が退職で出ていた。1964年4月20日過ぎに、新潟県県教育委員会の採用辞令を確かに受け取った。1980年4月長岡技術科学大学に『割愛人事』で転勤する筈だった。しかしその人事異動(?)が極めて不可解であった。辞令には前職もない大学の辞令(?)。3月下旬に、新潟県立新津工業高等学校、八子校長に『退職届』を出すように言われた。しかし長岡技術科学大学への転勤の為辞職願として出した。4月に入って、履歴書に印を押して提出するように、前任校の事務職員から依頼が来たので提出した。と同時に、始業式での離任の挨拶に来るように依頼されて、長岡技術科学大学へに転勤と挨拶をした。しかし、その日に校長はおらず教頭先生が対応した。しかし、退職の新聞報道と、退職辞令もなく、退職金の手続きもない。一体どういう人事異動だったか不可解だ。前年7月県教育長からの指示による1週間の『高等学校指導者講習会受講(文部省)』を受講した。何か県教育委員会と工業高等学校では、辞令の交付も無しに、『免職』となっているようだと最近知った。不可解❓

気付けば、長い人生の間選挙の投票の権利が無かった。 新潟県中魚沼郡貝野村で生れた。成人になったのは予備校で悪い頭を鍛えさせて頂いた時、1959年(東京都練馬区江古田に下宿時)だ。翌1960(昭和35)年に新潟大学に入学(?)させて頂いた時から年1987(昭和62)年まで新潟県新潟市と長岡市に住まわせてもらった。その間、選挙の投票入場券を頂いていなかった。

もう間もなく人生も終りの近い時だ。「私は偽者か」の記事を前に書いた。Find more information here (2019/10/18) 。

考えれば考える程、人生の意味を書けないのか?職歴も書けない身分だったと確信できる。住民登録されていないから、憲法の人権の意味を保障される『選挙投票権が無かった』と言う事実は❓

歌でも笑われる『あの鐘を鳴らすのは誰だ』と町内会の小型消防車が朝、鐘を鳴らし乍ら前を通る。

最近で、今月の27日土曜日の朝、10時30分頃にまた轟音を浴びせる様なヘリコプター。何処かで暗黙の合図の意味だ。今日はまた、朝の花火の打ち上げ音が始まった。

それにしても現代物理学理論の矛盾が置き去りにされ続ける現状は、そして自然界に存在もしない『電子』の矛盾が子供達に教育され続ける現状を放置して良いものか❓

偽者扱いのままに過行く、その続きの、人権侵害状態だ。研究室もなく、文部省の共済組合にも加入資格が無かった筈だ。住民登録が無いままだから。

健康保険証は身分証明書か (2017/02/15)。

戦後75年間の不可解? (2020/06/23)。

憲法と身分(新潟大学生の身分と選挙権) (2023/04/19)。

憲法第十条:日本国民たる要件と労働基準法 (2023/04/24)。

憲法と自分の社会的役割❓ (2023/05/03)。

教育の政治的中立性と中曽根臨教審 (2023/05/19)。

大学入試問題例(エネルギー問題)

基礎ほど難しい。『電荷』と『エネルギー』の間の問題。記事の文末に追記した。電気現象の解釈矛盾の最大問題、それが電池が『エネルギー』の供給源であるとの認識の欠落であると理解した。論理性の欠落が科学論の課題だ。電気回路技術論は貴重な実用における技術科学文化である事には変わりがない。『電子』による科学理論・物理学理論が自然現象の真理を説くものではない事である。『電荷』は決して自然界には存在しないのだ。そこで次の問題である。

大学入学試験で、次のような問題を課したなら。

【問題】上の図の電気回路で、電池をスイッチSでコンデンサにつないだ。次の問いに答えなさい。

(問1)電池は何を供給する機能用品ですか。

(答) (         )

(問2)コンデンサには何が貯まりますか。

(答) (         )

現在の教育課程で子供たちに教えている事に対して、その教育内容をどれだけ修得し、大学での進んだ高等教育を受けるに必要な能力を備えているかを見るのが入学試験の目的であろう。

答えは (エネルギー) でなければならない筈だ。

もし (電荷)と回答したら、おそらく教育内容を修得した効果が出た事に成りそうだ。特に、(問2)のコンデンサに電荷が貯まるとなれば、教育内容に沿うとなろう。

コンデンサの正電極側には電池からどのように『正の電荷』が貯まる事になるか。クーロンの法則に逆らって、どれ程の同じ『正の電荷』が密集できるのだろうか。

(2021/05/27)追記。コンデンサと電荷‥についての記事で、電流は流れないけれども電荷は貯まると❓ この解説記事は余りにも酷過ぎる。こんな内容を学習する羽目にある学習者はどうなるのか。間違いを世界に広げる手先になるのか。通商産業省は、こんな解説の試験問題が出題されるとすれば、受験生に対して誤った知識を要求する事に成る。これが科学技術論か? と言わなければならない事態になった事はとても悲しい。50年前に、筆者も電気主任技術者第二種免許(宮澤喜一通産大臣)の認定を受けた。当時の電気工事士、高圧電気工事士などの免許も取得した。電気回路の解析は得意だ。しかし残念ながら、電気技術理論は極めて重要な技術論ではあるが、それは自然界の真理からは程遠い科学技術用の仮想概念(自然の真理としては、電圧や電流の概念が)でしかないのだ。その理論的現状の混乱の責任は『現代物理学理論』が背負わなければならない問題である。更に子供達への教育の未来について、喫緊の課題として教育機関及び授業担当の教育者・教科書編集者がその責任を負わなければならないのだ。論理的矛盾に目をつむる事は許されない筈だ。科学技術理論と物理学理論の違いを明確にすることが求められている。

電気現象の基礎を深く考えると、だんだん科学理論と言う内容はその論理性が無いことに気付く筈なんだが?結局『電荷』と言う自然界に存在しない物理概念量を仮想して構築したところに問題が有ったのだ。

哲学と科学

哲学と科学の違いは?と検索に多くの記事が出ている。それだけ違いが分かりずらい主題でもある。だからみんなはっきりと理解したいと思うのだろう。しかし、解説記事を見ても殆ど満足する人はいないのじゃなかろうか。科学とは何かと簡単には答えられないだろう。更に哲学は人の精神活動に関わる上に歴史の社会状況を踏まえた深い考察が根底に無ければならず、科学以上にとても広い分野を網羅するものであろう。最近頓に思う事がある。それは今まで考える事が自然科学についてだと思っていたが、どうも科学に対する科学界の一般の問題意識と全くかけ離れた処を自分は彷徨っているようだと思う様になった。それは科学論なのかあるいは哲学なのかと分からなくなってしまった。解らなくなったところで、その分からない中味を分析して、哲学と科学について考えてみようと思った。何の社会的評価も特別の専門的評価(博士など)も受けていない者が論じることに賛同は得られないかも知れないが。

哲学は科学も包含 哲学は科学の基盤を整える。博士・博士号はPh.D. でDoctor of Philosophy の略であるように、哲学の無い科学は無いのであろう。最近は極めて狭い専門分野で博士号を取得できる体制に成っているようで、何とも言えない状況だ。自然科学に対して自然哲学と哲学に自然を被せた使い方もある。自然哲学と言う表現でどのような意味を持たせるのかは分からない。哲学と科学を対比させながら、その違いを明らかにするのはとても難しい予感がする。それには少なくとも科学とは何かがハッキリと捉まえられていなければならない筈だ。そこの処で困難な壁に突き当たる。その科学とは何かを考えることが既に哲学に成るように思うから。『電荷』が実在し、しかもそれには『正』と『負』の違いがある事を誰が観測し、証明したのか。正と負の『電荷』をどのような空間像と認識するのか。自然科学の根本原則まで問わなければならなくなる。科学論の根本を解剖する論証は哲学であろう。放電管の放電現象を観測しても、陰極線は観測されるが、陽極線(正極線)が観測されたという報告は無いのじゃないか。それなのになぜ『正電荷』が存在すると成っているのか。誰が『正電荷』の存在を確認し、証明したのか。今でも電気回路の『電流』に関しては『負電荷』の電子のみしか解釈に関わっていない。しかも電子は『電荷』と『質量』の両方で構成された複合素粒子概念で解釈されている。このように科学論の根本原理になる程曖昧性が色濃く成る。

科学と哲学の違い 科学論の根本・原理を科学論の論理性を持って解剖する分析法は哲学になると考える。科学と哲学を論じるには、科学の本質を暴きだす作務がなければならなかろう。そこには科学の本質をよく知り、それを洞察する眼力が欲しい。それは東洋哲学の特徴的な『削ぎ落とし』の思考になるのではなかろうか。『不立文字』への覚悟。捉え難い『エネルギー』の何たるかを問う必要があろう。

燃える『酸素』の力とは?

身近な事を考えると殆ど分からない事ばかりだ。『酸素』は『水素』と同じくとても日常に密接な元素だ。しかし、何も分かっていない事に気付く。酸素がなければ生きては行けない。地球には十分の酸素がある。何も答えを得られないままに『酸素』への疑問だけを記す記事ではある。

その酸素の最大の謎はこの地球上に『いつ、どのようにして酸素ができたか』であろう。水も植物もいつどのように生まれたかが分からない。水と酸素が無ければ地球上に生命は誕生しなかろう。水と酸素が植物をどのように芽生えさせたかと不思議に迷い込んでしまう。

酸素は誰が造るか

酸素の働き

そんな大本にまで答えを探すなどは間違いとしよう。

現実の日常生活の中で、本当に基本と思うような事さえ分からないのである。そこで、酸素の働きとはどんな事かと分類してみた。大体3つ程に成るかと思う。

1.空気中の燃焼 火を使うには酸素が要る。透明のガラス容器に燃料を封入して、レンズでその燃料を加熱しても容器内が真空なら、燃えないだろう。いや、燃えるかも知れない?そんな実験はしてないから、結果は想像するだけである。一応仮想実験として、何の経済効果も無さそうな純粋の『物理学』に特化した考察図を挙げておきたい。仮想真空燃焼実験真空容器の中に可燃性の黒い布切れでも封入した。真空管でも良いが、頭に焦点距離の合うレンズがある。『問答』:日光に当てると、布切れは燃えるだろうか?こんな答の見えない問題が、自然現象としてどれ程考える感性を持っているかの自己評価に成るかと思う。Exhaust pipe(用語?) から真空に排気しているとする。考える時は自由な発想が好ましい。光とエネルギーの関係をどう解釈するか、振動数で説明しても良い。ギリシャでのオリンピック聖火の採火式は太陽光線での加熱(反射鏡)方式である。摩擦熱と同じく、光はエネルギーそのものの縦波の流れである。(2017/10/30)追記。一応問答の『答』を書き足す。想像の結果やはり燃える筈だ。真空中でも布切れが太陽光線エネルギーで加熱されるから、熱分解してガスの発光燃焼になる。従って結果的には真空でなくなる。この燃焼は布切れの熱分解で酸素も発生するから酸素燃焼と言えるかもしれない。結果的には、太陽光線が真空容器内に入るため、元の布切れの質量に太陽光線入射エネルギー分だけ等価質量が増加したと同じ意味で解釈すべきだ。即ち光と質量は全く等価であると言う結論だ。

学術的物理学理論による光エネルギーは、「振動数とプランク定数の積」で解釈する。学術論では、市民が『光の振動数』を認識できなければ理解できない高度な理論なのである。市民的感覚論で捉える事を第一に考えたい。お日様に当たると暖かい。それは光の振動数が体を振動させるからではない。光一粒でも、それはエネルギーそのものの流れであり、身体に入り込み、熱エネルギーに成るからである。その光の流れと観る場合は、光エネルギーが質量(分子)内の空間への蓄積に因るエネルギー変換方式による着火(エネルギー放射)と看做す。これは普通の日常的な酸素の燃焼の働きにも関係するものと看做したい。この燃焼における酸素の状態はどのような変化によるのだろうか。単に酸素が何の変化も無しに、燃料の高温加熱でのガス化だけでは燃焼には至らないだろうと思う。「何を言いたいのか?」と訝しく思うだろう。『酸素』原子の8個の電子周回構造を破棄したいのである。IT検索では、まことしやかに『電子』の増減で様々な酸素の活性化を論じている記事がある。『電子』でなく、酸素原子の状態が環境の熱エネルギーに因りどのようにエネルギーが増加し、活性化されるのかの問題であろう。何で電子同士が二つ重なるような『クーロン則』違反の結合論が罷り通るのか。クーロンの法則を斬るに反して電子の負の『電荷』同士が「対を成す引力」を発生するのかを論理的に説明しなければならない。結論を言えば、空気中の『酸素』も加熱の熱エネルギーにより、そのエネルギー量が増えて、活性化した事で燃焼の力を発揮できるのであろう。『酸素』原子そのもののエネルギー量が増減すると解釈する。

燃焼作用における疑問 熱化学方程式と言うものがある。燃料ごとにモル当たりの発生熱量が異なる。炭素、水素、窒素と酸化の発熱エネルギー量が事細かに分かっているようだ。燃料電池が未来のエネルギー源として注目されている。発電装置としての役割で考えても、結局発生熱の『熱エネルギー』の形を変換しているのでしかない。自然科学は、自然の科学的に解釈する方法で、その仕組みを社会生活に利用できれば、それが主目的であり、科学のすべてである様に捉えられているようだ。だから、『酸素』が燃料の元素と化合して発熱するだけ分かれば十分と考えている。そこには何故かという『問答』が欠けている。物理的本質を理解しようと考えないのが、今までの「理科教育」の実情である。子供達の質問と思うが、IT検索のなかにも貴重な『問答』が多くある。しかし、回答者がその質問に十分応えようと考えていない。お座成りの『こういうものだ』式回答で済ませている。最大の燃焼の疑問は「何故酸素が他の元素と異なる性質・特性を持っているのか」である。原子構造上にその本質が隠されている筈である。それを見極めるのが「物理学」の道であろう。『電子』では決して結論には到達できない。何故窒素と少し異なるだけで、特別な燃焼特性を示すのか?

電気エネルギーと熱エネルギーが異なるエネルギーと考えて欲しくない。電気エネルギーも空間の伝播エネルギーである事から、熱の伝播エネルギーと全く同じものである。『電荷』が実在しない事実に立てば、電子と言う実体概念をどのように考えるかが重要な観点となろう。原子構造上のエネルギーの増減をどのような空間に描くかであろう。生活電気と『光速度』ご参照ください。

2.生体内の生命活動エネルギー生産 生命が燃えるにも酸素が欠かせない。血液循環により生体内のあらゆる細胞・組織の生命の機能保全を司る。細胞が生きるには酸素を必要とし、燃えカスを廃棄する。その運搬の役割を赤血球のヘモグロビンが担っている。ヘモグロビンの寿命も120日で再生されるらしい。時間管理されている生命の循環は世界・宇宙に秘められた絶対的原理と観ると、とても不思議に思える。『癌』は生命の循環の原則から、時間管理(細胞再生循環)の狂いによる絶対的原理違反の宿命と観たかった。生命の全体像を思うと、その細胞一つからの営みが全てに広がり、統制制御される活動全体の姿は何と不思議であるかと驚くばかりだ。人間が設計するロボットがあるが、二足歩行一つをとっても、まっすぐ伸ばした足で、つま先立ち歩行の平衡感覚の全体制御性を比較してしまう。そんな細胞に酸素が果たす役割を考えると、『酸素』元素の力は神の力に思える。どんな秘力を尽くして、生命のエネルギーを生み、そのエネルギーをどのように細胞の活動に生かしているのかと考えてしまう。酸素とエネルギー及びその細胞運動への活かし方に不思議を思う。エネルギーが世界の素原と言う解釈から見ると、指先の筋肉運動にエネルギーがどう生体的・生理学的機能を司っているかを考えてしまう。『鉄』が元素周期の変遷の到達点と言う考えもあるようであるから、世界の循環から『元素』も変遷すると観る。エネルギーが世界の素原であるから、元素もエネルギーの局所化の諸相であると観られる。エネルギーと空間と質量に関連して。

生体・生理学的身体活動とエネルギー 確かにヘモグロビンが末端細胞まで酸素を供給しているのは間違いないだろう。それでは、細胞に酸素が供給されるとその酸素はどのような生理学的働きをするのだろうか。単に細胞内の細胞質の分解・再生の為だけに酸素が使われる訳ではあるまい。細胞の生命活動に酸素が必要な筈だ。活動エネルギーを生みだし、そのエネルギーが何に使われるかが重要な視点に成ろう。筋肉のどのような生理機能がエネルギーを運動に変換するか。皮膚感覚をどのようなエネルギーとして神経伝達機能に生かすのか。それらの生命活動全てが酸素の働きにより造り出されるエネルギーによってなされると観る。エネルギーが筋肉の収縮・弛緩に変換される。それがエネルギーが消費されると言う事の意味であろう。二酸化炭素と酸素の呼吸作用におけるTCAサイクルとどんな関係に成るのか等、観えない事ばかりである。

ヘモグロビンは何故赤い? 赤血球の構成分子がヘモグロビンらしい。赤血球と言うように血の色は赤い。ヘモグロビンで、鉄原子Feが酸素の運び手の役を担っているらしい。廃棄する炭酸ガスCo2の運搬もFeが担うとはなかなか上手いものだ。そんなFeがあるが故に赤色となると解釈すれば良いのだろうか。ヘモグロビンの分子構造に占める鉄Feの比率はとても小さかろう。あの血の赤色はやはり色の不思議に挙げて良かろう。色の世界を尋ねてに重ねてみたい。色彩も不思議がいっぱいだ。

3.水、高タンパク質などの分子構成元素 燃焼を司り、エネルギーを生みだす酸素が水素と結び合えば、その分子が燃焼を消す水になると言う。燃焼と消火を繋ぐのが酸素とは。

光合成と酸素 植物の生命活動。地球上の生命を支える基に成るのが緑の森林である。太陽光線と葉緑素の生命の紡ぎ合いに『酸素』がどんな役割を果たしているかと疑問が増える。

電荷の否定は科学的発見か

自然科学は新しい発見によって、その基盤が拡大して来た。発見は古い解釈を新しい観点から見直す切っ掛けとなる。しかし、微動だにしないできた『不動明王』の如き概念に『電荷』がある。いつ、誰が発見し、どのようにその概念の修正がなされてきたかも判然とせず、今日まで『電荷』概念はあらゆる物理学理論の根幹をなす基礎として社会的に確立している。それにも拘らず、筆者はその『電荷』がこの世界には存在しないと断言して来た。自然科学の研究者の多くの方々の意見や社会認識と異なる訳だから、自分は自然科学について認識不足であるがための間違った主張と言われそうだ。世界の物理学の科学者が疑いもせず、存在を信じて来た『電荷』であるのだから。しかし、社会認識・科学常識に反する解釈でも、自分にとっては自然界を認識するための原理・原則と成ってしまった『電荷』否定の観点は譲れない。

直覚は・・

直覚は禪で使われもする。自分も何か格別な感覚で受け取りたくなる言葉だ。別の言葉で言えば、直覚は自然との融合の絆とでも言えるように思う。ただ共鳴する心の姿。そこには数式や理論は妨げになる。語句『感応』について。服部宇之吉 小柳司氣太 共著 修訂 増補 詳解漢和大字典 冨山房 で見つけた。㋑感じて饗応する。㋺外界のことが自然に心にひびきうごく。㋥(物理)導体が磁石、発電機などに接近して電気又は磁気を感じ起す。感応コイル。等と感応の解説がある。語句、直覚と感応は良く響き合う意味に思う。こんな筆墨が自然科学に程遠いかもしれないが、自然との心の絆に的を得た表現と思う。こんな観点から自分の自然観を振り返ってみたくなった。

科学的発見とは何か? 下村 脩氏が発見した『オワンクラゲ』の生物学の偉業がある。自然の不思議を説き明かしたノーベル化学賞の栄誉を得た。まさしく科学的発見と言える。それに対して、理論物理学はとても評価できるものに思えない。その事に関して、例えば標題に記した『電荷否定』の観点から考えてみる。それは何も発見していない。それどころか筆者は、長い自然科学史の根幹をなし、殆どの科学者が理論の論拠として来た『電荷』を否定し、電荷は世界に存在しないと言う認識にある。自然科学は、新しい発見が次々と積み重なって、自然認識の奥行きが深まり、どんどん複雑な自然観に展開されて来たように思われていよう。そんな自然科学に対する認識さえも、否定しなければならない心境にある。根幹的基礎概念の否定は科学的発見に当たるのだろうか?過去の自然科学の理論を否定することでもある。

直覚の道 電気磁気学の講義の中で、アンペアの周回積分・ファラディの電磁誘導則の矛盾に気付いた。誰も矛盾に気付かなかったのだろうか。そう考えると、筆者が感じた矛盾はどこから、どんな理由で湧きあがって来たのだろうか。電気磁気学は数式により、論理性の高い厳密な理論科学論の代表である筈だ。それなら、筆者が数学的な理解が無くて、電気磁気学の本質を分からないが故の矛盾観と看做されると言うことだろうか。確かに、高等数学とも言える現代数学については全く無関心で、それを理解する能力も無い。先日、NHKスペシャルで「神の数式」と言う現代物理学の話題が二夜連続で、放送されていた。その数式の表現形式の意味さへ珍紛漢紛で、それが数学の式との認識も出来ない程無知である。数式を放送で取上げるなら、その意味が理解できる視聴者がどれ程居るかを十分考えての放送とは思うが、筆者にも全く分からない数式である事を考えると、相当放送の意義に疑問を抱かざるを得ない思いだ。マックスウエルの電磁場方程式さえ、十分条件を満たしていないと観なければならない現実で、いったい高等数学で表現する物理的現象など意味があるのだろうかと疑問に思う。筆者が過去に懐いた疑問や矛盾は、殆ど瞬間的に頭の中に湧きあがる感覚である。その感覚の中味を具体的に後から確認することで、次第に確信的な問答として明確になってくる。その時に、理論はその意味を追究することで、矛盾に満ちているとの認識に至るのである。従って、その時には数学的表現式そのものが同時に意味の無いものとして理解されるのである。今まで自身も信奉して来た原理・原則が崩れ去るのである。大事に学習して来た理論付の基礎が崩れ去って、何も無くなるのである。全くの理論的武装力が崩壊し、何も無い状態に落ち込むのである。無手勝流と言う用語があるが、柳生但馬の守・石舟斎の無刀取にも成らない、何も無いことになる。その結果の確信が『電荷概念の噓』と言う結論であり、初めに懐いた疑問・矛盾の始発の観点である。自然科学理論の根幹を否定する、科学概念論は科学的発見の名には当たらない反逆科学論とでも言うものになるのかと思う。しかし、自然の真理は我が解釈論に在るのだ。科学者が『電荷』を信じるなら、その空間実像を明確に示すことが科学者としての責任である。市民の科学論としての意義を『未来の自然の真理』に求めるべきであるとの思いを強くする。基本さえ間違わないで、理解できれば、曖昧で不安な『放射性物質事件』も、誰もが真相を理解したうえで、『原子力発電』の是非を論じられる筈である。

技術社会と未来の安全性 原子核理論はじめ原子構造論も真理を捉えていない。今は専門家さえその明確な理解が出来ていないのである。放射能と放射線の意味が理解されているか。その用語の社会的認知はどうであるか。そんな不安は、『電子』一つもその実像を捉えられずに重ねている科学論に問題の根源がある。曖昧な科学論の上に重ねる「矛盾・不安」が現代社会の暗闇として広がっている。理論・理論と大学教育が偏重している事が、技術社会の技術力を欠落させ、益々技術欠陥社会の危険の増大を来たすのである。経済成長が社会的進歩と認識する流れは、高度技術に支配された社会に対応できない技術音痴の乖離性精神拘束社会に流れて行く。しかも指導的支配層が、技術音痴の法律・経済家が進めるとなれば、社会は益々危険になる。技術と社会安全性の統合力が欠落する危機が増える。身近な問題を挙げれば、テレビ番組の録画と記録利用の方法を誰もが利用できるかと言う問題である。複雑で操作も難しいが、それを時代の進歩と考えること自体が、社会的統合失調症の未来に向かっているのだ。技術統合失調症社会である。自然の基礎が如何なるかを誰もが理解でき、間違わないなら社会的合意の未来に勧める。複雑な、ヒッグス粒子などを論じるなら、その基礎の陽子のプラス『電荷』がどのようなものかを市民に説明して論じるべきだ。最近自動車の制御方式で、機械による自動制御運転の話題がある。しかし、道路上に高度制御された車とポンコツ車が同時に走る場合に、その統合された安全性をどう保てるのかが気掛かりだ。高所得者は、エコ対策での税制優遇を受けられるが、貧乏人にはない。また最近は高級車で、『前照灯』の白の高輝度ランプが増えて来て、対向車に視界の眩しさによる安全性の危惧がある。技術と調和した安全性の整合性欠落の問題が問われている。

電子科学論の無責任

近代科学は『電子』の発見で幕が開かれたと理解していた。しかし、その基本概念が怪しいものである事がハッキリして来た。これからの科学論の未来がどうあるべきかを考える原点はやはり電子科学論の真相を明らかにする事から始めなければならない。正体不明の電子

辞書を調べると、電子の定義が載っている。上のように、質量と電荷量で定義されている。その桁数の多さに驚く。科学理論は正確でなければならない。だから数値の桁数が多ければ、正確で正しいと思うのかも知れない。しかし、こんな桁数の数値が有名な辞典に載っている事自体が科学論の怪しさを示していると言わなければならない。電子による現代科学理論が自然科学理論の主流となっている訳であるから、その定義として示されている桁数の意味を説明して頂かなければならない。

電子の人間感と自然則 自然の本質は単純で多様な素粒子など持たない。みんな人間の思惑と利害によって社会的概念化を進められたものである。その代表的な基本概念が『電子』である。法則の人間性

電子の電荷も質量も何を定義したものかも不明のままで、大原則の法則が出来上がっている。電荷はこの世界に存在しないのだ。だから、電界の電場で電子の電荷が加速されて、運動が始るなどと言う解釈も理解できない。素粒子加速の実験装置を見れば、決して電界で粒子加速などしていないのである。すべて電磁石による磁界加速で、エネルギー付加・増加装置なのである。先ず『電荷』とは何かが日常用語で説明されることが市民社会への責任である。子供たちへの専門家が問われている「教育上の課題」でもある。

(2018/05/17)追記。 記事に過激な表現があったので削除と修正をした。

クーロンの法則を斬る

(2022/02/23)追記。この記事について、気掛かりが生じた。『クーロンの法則』と言えば無意識に『電荷』に関する法則と思う。その『電荷』の単位がクーロン[C]であるから。しかし、一寸勘違いしていたのではないかと心配になった。フランス人のクーロン(Charles Augustine De Coulomb  1736-1806) は、その当時それ程『電荷』概念が科学基礎物理量と認識されては居なかったのではないかと思った。

実は、「電圧概念の起源」で何時頃から『電圧』と言う用語が使われたかと検索した。ボルタの電池当たりかと、その定義がどの様に成されたかを知りたかった。その関連記事の、電気の歴史年表と言う記事を見た。そこに、クーロンは磁石には二つの異なった極があり、同じ極は反発しあい、異なる極は引合う。力は距離の2乗に反比例する。

と言う記事を見た。この記事で、クーロンは『電荷』などの事ではなく、磁気に関する力について解釈を示したのではないかと、少し安堵した。おそらく当時は未だ『電荷』等それほど意識されてはいなかった筈だ。憶測であるが、多分1900年以降に、クーロンのお名前との関係で、『電荷』の単位「クーロン [C]」から何時の間にか、物理学理論の教科書で『電荷』に関するクーロンが唱えた法則として誤解をした解釈を広めたのではなかろうか考えた。

(2020/5/4)追記。力の概念と電気物理 (2019/5/21) なぜ今まで「クーロン力」の力の物理的概念矛盾に気付かなかったのだろうか?科学パラダイムの恐ろしさを覚える。

物理学理論の中で、電気磁気学がその主要な基礎をなしている。なかでも『電荷』に基づく基本法則が『クーロンの法則』である。電波伝播の基礎方程式を理解するには、マックスウエルの電磁場方程式で解釈するのが普通である。そこでも空間の変位電流と言う『電荷』概念に基づく解釈が求められる。ここで取り上げたクーロンの法則を斬るの標題は『電荷』の実在を否定する立場から、その基本法則と言われる『クーロンの法則』を取上げて、その曖昧さや論理的矛盾を論じて、電気磁気学の根本から、その解釈の誤った全体像を明らかにしようとするものである。(要点として未来の方向性を示せば、次のようになろう)現行教育では、電磁気学のまとめで、マックスウエルの電磁場方程式が重要な学習の要点に成っている。しかし、光の放射現象で、「配光曲線」等の空間分布特性は『エネルギー』の放射現象として、そのまま『電磁エネルギー放射特性』と解釈できる。エネルギーの空間伝播現象が理解できれば、難しそうに見える電磁場方程式など無用の長物である。元もと、電磁波は電界・磁界などの横波解釈(シュレーディンガー波動方程式の正弦波解釈)は誤った仮想概念でしかなく、すべてエネルギーの進行性の縦波で解釈すべきである。だから、振動数と言う意味も横波解釈の仮想的な概念に基づいて定義されたものである。光エネルギーの光速度伝播は「ポインティングベクトル」で理解できよう。電気照明工学の光照射論を学習すれば、電磁エネルギーの縦波伝播の意味が理解できる筈である。照明と配光曲線が参考になればと思う。私がここに述べた事の論拠として、新世界への扉ーコンデンサの磁界ーの記事を上げておこう。

クーロンの法則『電荷』が素粒子理論等の現代物理学の最先端の研究でも、その概念の曖昧さにもかかわらず、ただ存在が暗黙の事実として認められている。クーロンの法則 は 1785年に、 Coulomb’s law として、フランスの物理学者 Charles de Coulomb によって唱えられた法則のようである。上にその法則の意味を数式で示した。電荷間に生まれる力関係を表現したものである。空間の誘電率と二つの電荷間の距離 r の二乗に反比例すると言う意味で解釈される。『電荷』そのものが、質量に付帯する物なのか、独立に存在しうるものなのかさえ明確に出来ないのである。その存在が不明確でありながら、電荷間に遠隔作用力が働くと言うのである。電荷の間の空間の状況がどの様であるかを明確にしなくても、距離の逆2乗則で力の大きさが決まると言うのである。ここでの『遠隔作用力』とは、二つの物の間の空間の関係はせいぜい誘電率で関係づけて、単に離れた物同士の間の距離だけに因る、遠隔的に作用し合う力の意味で捉える。『電荷』が空間に存在した時、その電荷の周辺の状況をどのように捉えるかが極めて曖昧である。電荷は空間的に独立して空間体積を占める物かと尋ねても答えられないのである。大きさが無い物では、その実在性は主張出来ない筈である。存在は空間の体積を占める。『負電荷』が電子に付帯するなら、電子の質量との空間的付帯状況からの関わりを説明しなければならない筈である。以上の空間に存在する『電荷』の状況を考えるには、一つの図面を採り上げて考えたい。電荷とクーロン力

この図は以前『電荷』と言う虚像で取り上げたものとほとんど同じである。先ず空間に電荷Q[C]が有るとしよう。その空間の誘電率がεとする。電気磁気学では電荷から四方に電気力線が放射されていると解釈される。基本的な問題として、空間に電気力線が有れば、その力線が持つ意味はエネルギーを伴うと解釈すべきである。その空間のエネルギー密度を w(r) として図に記した。前に述べた『遠隔作用力』はエネルギーの存在する空間なら、その空間のエネルギーとの関わりから、『近接作用力』と解釈すべき物になる筈である。その意味で、『電気磁気学基礎論』が空間のエネルギーの存在をどのように解釈すべきかが問われている。(2016/05/09)上の図の数式が理論として考えるのに重要な共通理解の基本と看做される。しかしそんな式で表されるような数量を確認する方法など無いのである。理論は数式で書き表すと如何にも真理であるかの如くに強制的に信じる事を要求する。殆ど当てに成らない数式なのであるが、理屈上論理的であるが如き形式論に成っているのだ。実際クーロン力の数量など計れない現実である(追記)。それが『電荷』そのものの存在性、実在性をはっきりさせる基本論点になる。クーロン力は原子構造論の基本的拠り所であるにもかかわらず、その論理性が問われている。2011.03.11 の原発事故がその物理学理論の根底をも揺さぶる事になったと考える。

物理学理論の論拠である『電子像』を問う。(電子の空間的実在性の真偽をただして) 何点かに分けて考えてみたい。①『点電荷』の寸法と意味。 ②『電荷』は中和するか。 ③『電荷』と雷の関係の矛盾。 ④原子構造論の周回電子像の矛盾。 ⑤『電荷』金属遮蔽と磁界矛盾(この内容は、クーロンの法則よりも『電流と磁場』の観点となるので、別に投稿する)などの観点から考えてみたい。

①『点電荷』の寸法と意味を理解できるか? クーロンの法則の解釈に、『点電荷』と言う用語が使われる。前出の図の電荷Q[C]は点電荷と言う。その大きさはどの程度と認識するか。空間的存在を理解するには、その大きさが欠かせない。元もと人間が大きさを捉えるには、目で見える大きさの範囲が基になる。しかし、原子や光子の話になるとその基準は役に立たない。空間寸法も『相対認識』の量である。蚤が見る世界と人が見る世界の違いや、太陽系外から見る世界と顕微鏡を覗いた世界とは異なる。『点電荷』の点がどの程度の大きさと理解すれば良いかは抽象的概念と具象的概念との違いに関係すると言う意味で、考え方を明らかにしておく必要があろう。『点電荷』と言う、その点の大きさ定義しないで論じる事は、科学論の論理性を無視した無謀な科学論になる。何故『点』に拘るかは『電荷』の曖昧さを質すに大切な論点になるからである。『電荷』の最小基本量は幾らか?長さにも大きさの最小基本量は無い。何処までも小さくなる。だから『電荷』にも基本量は無くてもかまわないと言えるかという問題である。長さは実在性を測る物差しである。『電荷』を測る物差しが有るかと言う問いである。『電荷』は存在しないから決して測定できない。ましてやクーロン力を測れる筈もない。以上『点電荷』から自分勝手な論法で、『電荷』概念の曖昧さを質してみた。数式無しの言葉での反論を期待したい。素粒子論の最先端の研究者に聞けば、きっとそれは「波のような物」であるから、もっと勉強をしてから考えなさい。と言うであろう。この問題を『電子像』に関係づけて、まとめてみた。電子概念と仮想像図の仮想電子像は、教科書的な意味に近い電子の像を考えて表現した。電荷と質量の分布をどう表現するかも困難である。その電子が青い外周線で、その影響する範囲がどこまでかも分からないが、その領域も記してみた。それは電界(これも存在しないが)と言う領域の話に繋がる。

②『電荷』は中和するか? プラスとマイナスの電荷が合体したら、その合体物は『電荷』の無い電気的中性体となるか?と言う疑問への物理的解答が欲しい。自然科学の研究は、新しい発見によって新たな発展を促すものであろう。しかし、過去の知見、特に基礎概念など、を全く否定するような科学研究は殆ど受け入れられないのが通例である。それは今までの研究者の功績を否定することに繋がるから。科学研究集団は、その過去の成果を互いに賞賛することにより、より集団的力の強化を経済的利益の裏付けの為に望む本質的特質を備えているから。だから、『電荷』を否定する論理は学術研究集団にとってはとても邪魔なものとなる。一般に、科学的発見は過去の知見を否定することなく、新しい解釈を積み重ねる手法が主流となり、古い法則もそのまま温存しながら、差し障りなく新しい研究分野に集団化するものとなる。『電荷』など有ろうが無かろうが、そんな利益が得られない事柄に関わる暇も考える意識も無いのが、最先端の科学研究者の実情である。理科教育が子供に為になるとか、役立たないとか、嘘であるとか、そんな事を考えるより、勢力が拡大することが当面の目的である。

誰かが『電荷』など存在しないと言わなければ、科学理論の本当の意味が社会に認識されない。怪しい(曖昧と言う意味で)研究に多額の財政負担の負荷が掛けられる事になる。『真理』や「平和」は実現するのがとても難しい。『電荷』にはプラスとマイナスが有る事になっている。それでは、プラスとマイナスの電荷の空間的存在形態の違いを明確に定義づける必要があろう。当然であるが、専門家(特に素粒子研究者で、プラスとマイナスの電荷の存在を肯定する人)は、決してその違いがどの様であるかは論じないし、答えようとしない。専門的研究者に属さない自分のような者が言うのは気が引けるが、素人の論理で『電荷』のプラスとマイナスの意味を探ってみた。電荷が中和する?『電荷』にプラスとマイナスが有ると言うが、その実体は何かが問われている。上にプラスとマイナスの電荷が合体したら、電気的に中和して、電荷が無くなると考えたい。電荷が無くなると言う事は、自然界には長い間で電荷の存在が消滅する筈と思う。上の(1)で、勝手な想像をしてみたが、電荷が消滅する説明にはならない。(2)の電気回路の例題が一番『電荷』のプラスとマイナスの意味を説明していると思う。ー投稿途中でIT遮断されるため、中断するので途中公開するーこの電気回路で、ダイオードで整流してコンデンサを充電したとする。電気理論によれば、コンデンサにはプラスとマイナスの電荷が蓄えられる事になっている。電源電圧の最大値と同じ電圧までコンデンサの電圧が充電される。コンデンサの容量をC[F(ファラッド)]とすれば、貯蔵される電荷量はQ=C・V_m_[C(クーロン)] となる。ただし電源電圧ピーク値 V_m_[V(ボルト)] である。コンデンサの上下の電極表面にそれぞれプラスとマイナスの『電荷』が対極的の貯蔵されると解釈される。そこで電源側のスイッチを開く(OFF)。次にランプ負荷側のスイッチを閉じる(ON)。さて、コンデンサに蓄えられた『電荷』はどのような事になるだろうか?私自身が、半導体の回路に少しは詳しい専門家らしい真似事をしていた。しかしこんな単純な回路で『電荷』の意味を考えた事は無い。コンデンサの電荷がランプの中で合体して、燃え上がる為、発光放射現象を引き起すとでも解釈すれば良いのだろうか?こんな電気の物理現象は、「理科教育」のとても良い例題になると思う。『電荷』の本質の理解と『エネルギー』の深い意味の理解の為に。ランプで起こる現象は、電気技術的な解釈では、ランプがエネルギー変換装置として、コンデンサの貯蔵エネルギーを空間に『熱』と『光』として解き放す放射現象の役目をしているのである。コンデンサの『電荷』のプラスとマイナスがためられて、その電荷が中和したからランプからエネルギー放射が起きたなどと言う理論は全く理解できない事である。『電荷』などの役目は破棄すべきだ。電荷中和問題で、図の(2)電荷はどこに消えるか?でダイオードの整流動作の意味が分からなくなった。ひとつ後の考察材料として、挙げておこう。ダイオードの電荷分離作用先日ダイオードの動作原理を検索で確認した。私が、工業高校で初めて担当した科目が電気科の『電子工学』であった。当時は、未だ教科書は『真空管』回路が主であった。ダイオードやトランジスタは参考程度の走りであったように記憶している。しかし、フェルミレベルや伝導帯、空乏層あるいは禁制帯などの専門用語を何とか理解して教えて来た。しかし、今になって検索しても、昭和39年当時と同じ説明しかなかった。当時教えていた事は今自分が分かっていない事を伝えていただけであると反省せざるを得ない。右図で、トランス2次側には、何処にも『電荷』のプラス、マイナスが初めからは存在しない。しかし、ダイオードを通して電源電圧を整流するとコンデンサにはプラスとマイナスの『電荷』が分離されて蓄電されると言う解釈が常識になっている。こんな当たり前の単純な電気回路でも、私には理解するに、難しい意味を含んでいるように見える。ここでは理解が十分でない私の事を挙げておき、後ほどの課題としておきたい。(2018/11/25)追記。5年後の現在、このダイオードとコンデンサと電荷に関する認識が明確になったと思う。それはダイオードの機能とコンデンサとエネルギーと電荷(2017/08/31)に纏まったかと思う。課題の解決として。

③『電荷』解釈の雷矛盾 雷は天候が荒れる時に起こる。雷雲が生じ、そこから稲妻の発光現象として見られる。ベンジャミン フランクリンが凧を揚げて電気現象である事を突き止めたと伝説に成っているようだ。荒天に凧上げ、更にビリビリと電気を感じて確かめたと言う話は信じられない。感電死間違いない。雷は電気現象として、高電圧工学の調査・研究対象となっている。自然現象は殆どその原因を『電荷』にその理論的論拠を求めている。それ程『電荷』と言う概念は便利である。余りの便利さから、『電荷』の本質を探ろうとはしないで過ごして来た。学術・学理・学問は高尚で、深遠である為、簡単に素人が取り付けない分野であると見られている。雷の正体で、雷は水蒸気の熱エネルギーの空間放出量の限界に起きる現象であると唱えた。まさか、水蒸気の話では、高尚な学術・学理の問題とは言えなかろう。雷が電気現象であると言うのが現在の学術論であろう。しかし、雷の姿はその「稲妻」の発光現象に在り、それに物理的解釈を下すことが重要であろう。『電荷』がどのような物理的論理で、光変換現象を引き起すかの説明であろう。私も衝撃電圧の実験をしていたが、『電荷』の実在性に疑問を持つような事は無かった。「在る」のが当然という固定観念に囚われていたからである。理論の根底に疑問を持つと、どこまでもその究極に迫る事になる。自然の仕組みが少し見えて来ると、感覚で判断しても余り誤った結論に惑わされる危険はなくなるように思う。高尚な数学的論理式が正しい自然感に導く事は期待出来なかろう。『電荷』の意味を考えるのに、何が光変換するかの図を挙げておく。雷と電荷

何度も取り上げたような題材で少し申し訳ない。冬のドアノブの火花や雷は「電気現象」と解釈されている。静電気と言う『電荷』問題でもある。しかしその本質を噛み砕いてみると、以外に別の観方ができるようである。雷の現象を調べるのが高電圧の発生装置で、衝撃電圧発生回路である。その簡略図が①の平板ギャップ放電回路と見做せる。実際は多数のコンデンサとスイッチSの組み合わせの並列・直列切り替えにより、瞬時に高電圧を発生する回路構成に工夫されている。等価的には図の①で解釈できよう。スイッチSオンで、コンデンサの貯蔵エネルギーが瞬時にギャップに供給される。そのエネルギー量がギャップで保持できない時放電と言われる火花放射現象を引き起す。それが「アーク放電」と名付けられる。前段の電荷中和問題での(2)のランプ発光とエネルギー放射現象としてみれば同じものであるが、状況が違う様に見えるだけである。この場合も、コンデンサの電荷がギャップに供給されて、プラスとマイナスの電荷がギャップ空間で、合体して電荷中和を生じ、光に変換したと解釈できるだろうか。電荷の合体中和が光放射現象を引き起すなどの理屈は全く理解不可能である。電気回路は電荷と電流 i で解釈されるが、電荷も電流も物理原理としては教科書的、教育現場用『仮想概念』でしかない。②の雷の『稲妻』火花発光現象も本質的には①のギャップ放電と同じである。ただ違いは、コンデンサのようなエネルギー源が無い。即ち電気的な閉ループが構成されていない。エネルギーが雷雲と地上との間の空間に貯蔵されていたものが、発光の引き金となる状況が生じて、一気にエネルギー放射現象になる結果である。火花放電と言う状況は空間のエネルギー貯蔵限界により引き起こされるもので、電気的な表現によれば、空間の『電界強度』が30kV/cm と看做されている。空間の誘電率 ε[F/m] =1/(36π)×10^-9^[F/m] とすれば、空間の限界エネルギー密度はw≒40[J/㎥] と計算される(初めに挙げた図の 電荷の意味とクーロン力? のw(r)の計算式を参照)。ここで雷と電荷解釈の疑問を採り上げる。②の拡大で③に示す。クーロン力は同じ電荷間には反発力として働く。だから『電子』などの負電荷同士が集中的に集まる事は論理的に矛盾した法則上の解釈である。同じ電荷同士は反発し、異種電荷同士が合体力を生みだす。と言うのが『クーロンの法則』である。空間で光放射現象に発展するには、相当のエネルギー貯蔵がされなければならない筈である。電荷が空間に『クーロン力』に逆らって、局所化するとは論理の矛盾である。

④原子構造論と周回電子像 物心がついた頃から、原子構造はこのようであると教えられて来た。それは誰でも知っている構造である。原子の中心に原子核が有り、その周りを電子が周回運動していると。?原子構造?

何故、このような原子構造であると決められたのだろうか?ラザフォード(Ernest Rutherford (1871-1937)  ノーベル化学賞受賞者) が1911年頃に、原子核の構造についての考えを提唱した。原子の中心に核として、陽子と中性子が有ると示唆した。しかし、電子が周回運動をしているとの解釈は、未だ定着していないようだ。すでに一般的には、電子で原子が満たされているとは考えられていたのであろう。誰が周回運動する電子像の解釈を提唱したのかは分からない。クーロンの法則が、すでに1785年に唱えられていたとすれば、物質が電子で構成されていると言う解釈はすでに科学的常識と成っていたのであろう。原子核の様子が少しずつ明らかになり、誰とはなしに、周回電子論が常識化して来たのであろう。結局、周回軌道電子像は現在も、量子論初め、全ての原子に関わる理論構築の基礎をなしている。周回軌道電子の運動エネルギーの増減で、原子放射光のスペクトル解釈をしている。

上に述べた事を、原子の数例について考えを纏めたので、次に示す。

原子構造の例

原子質量単位

(2013/2/4)の疑問追記は私の間違いでしたので削除しました。ただ、金属原子などにも、1mol のアボガドロ数との関係が成り立つ意味が理解できない。

1月20日は、大学入学試験が有った。自分が上に述べた事を考えると、これからの「理科教育」はどのようにあるべきかと、教科書との乖離に悩みも深くなる。先日(19日)も、NHKの教育番組で、MITの『電荷』に関する講義内容が放送されていた。その講義を聞いて、「エボナイト棒の摩擦」が電荷の実験的検証の題材に成っている。確かに摩擦をすれば、仕事に対するエネルギーがエボナイト棒に蓄えられると解釈できる。そのエネルギーは普通は『熱エネルギー』である。エボナイト棒の周辺空間には確かにその影響が現れている。そのエボナイト棒が他の物を引き付けるからと言って、それが『電荷』が原因であると断定できない筈である。確かに『エネルギー』もその空間的状況では、磁場のN極とS極のように、その回転流方向性として如何にも2極性を示す。だから、『電荷』もプラスとマイナスの2極性に見えるのであろう。その物を引きつけるからと言って、それが『電荷』と言う確認は出来ないであろう。『電荷』の空間的姿の認識も出来ないし、観察もできないのだから。熱エネルギーも電磁エネルギーも『エネルギー』と言う物理量から解釈すれば、同じものである。今までの物理学と言う世界は『電荷』の存在を基礎概念として自然科学の理論を組み立てている。本当に『電荷』の存在を未来の自然科学の『真理』として子供達に教えて行くのだろうか。

『共有結合』 原子構造で、その原子間の結合力・仕組みの解釈の合理性の問題が有ろう。その基本は周回電子が担っているとなっている。化学物質の結合手について、高分子結合まで『イオン結合』や『共有結合』など原子外殻に存在する電子がその役目を負わされている。その殆どは原子の外殻の負の電荷同士の関係で説明されている。もし、クーロンの電荷間の法則の力を自然界の『真理』とするのであれば、原子結合の論理性の矛盾を上げなければならない。クーロン排力の強力な空間領域でありながら、その影響は無視できると言はんばかりに、論理の矛盾を抱えた解釈に成っている。原子同士の強力な結合を実現する解釈法は原子表面の磁力以外は無かろうと考えた。その視点で『ダイヤモンド結晶』について考えた。炭素結合の秘め事

素粒子ーその実相ー

素粒子とは何か? この素粒子の実像をどのように描き得るかを考えて来た。自然世界を統べる基礎は『エネルギー』一つである。その基本認識から得た素粒子の描像が右の図である。図の陽子の軸はエネルギー流に対して、矢印方向に磁極のS極があると解釈して頂きたい。その磁極は磁石の磁力を考える方向性である。磁極の意味は、S極とN極間に働く吸引力であり、同磁極間に働く反発力となる力の基である。この描像は、エネルギー流一つの単純性から、あらゆる現象の基に成ると予想される点が魅力的である。『原子核結合』の様子も予測できましょう。『湯川理論』での中間子論は、やはり電荷の有る(陽子)、無し(中性子)から解釈されて産まれた概念でもある事を考えれば、中性子と陽子の結合をエネルギー流の近接作用から考察することがより無理のない解釈に繋がろうと思う。天気図の「高圧」と『低圧』が対を成すように回転エネルギー流の近接作用で納得し易かろう。

電気磁気学の基礎概念『電荷』を否定した。全ての物理学理論の根底から、その裏付けが失われたと考える。あらゆる物理学の基礎を書き換えなければならないと考える。現時点で、今までの様々な考察を通して、益々物理学の基礎概念が、その根底から『嘘』で固められていると思わざるを得なくなった。特に現代物理学の最先端研究で、素粒子論や宇宙論が話題になっている。全てが複雑な新しい概念像を書き加える論に成っているようだ。そんなに自然は人間が考える程複雑性にその基本を置いていないと思う。現代物理学理論と正反対の考え方で、自然を認識したいと強く思う。その結論としての「エネルギー流」ただ一つから矛盾なく認識出来るだろうと結論付けた「素粒子描像」を提示した。

原子核構造論 提示した素粒子像から、原子核構造も自ずからその形が想像される。エネルギー流の局所化された素粒子同士が接近すればそのエネルギー流の間に起こる相互作用に、近接化の吸引力と反発化の排力とが生まれる事は予想が付く。ここには、『遠隔作用力』という物理学理論の『力概念』をも否定する、私の持論が根底にあって求めて来た方向性の『近接作用力』への結論でもある。太陽系の宇宙論にもそのエネルギー回転流が基本に秘められているとの展望に立っての結論でもある。昭和62年の電気学会、電磁界研究会での講演原稿が大変な顰蹙(ヒンシュク)を買った事は記憶している(所属なしで、長岡技術科学大学に?)。陽子と中性子はエネルギー流の構造に磁気的軸性が有るか無いかの違いしかないのである。だから、陽子も中性子もその根本的物理量の意味においては、特段に違いが有る訳ではない。だから陽子と中性子の間ではどちらにも転換する基本的性質が隠されている。原子核理論にも有るように中性子が電子と陽子に転換する核分裂反応が言われているのは、エネルギー回転流というただ一つが基本という、ここにその本質が有るからだ。さらに『電子スピン』という言葉も有るが、電子スピンとは何か?-その空間像ーに記事にまとめた。電子と陽子との磁気的軸性結合が何らかの状態変化で、中性子に変換するのは想像に難くない。

雷と不立文字

また雷の事を書きたくなった。去年11月に「雷と指数関数」の標題で書いた。微分方程式の解法の矛盾点を含めて論じた。今回は『不立文字(フリュウモンジ)』という東洋哲学用語との関係で論じて見ようと思う。雷様と昔から畏敬の念を持って接して来た自然現象でもある。科学的にも中々捉えきれない不思議さを秘めている。不立文字という用語の意味は、或る事象を説明しようとしても、言葉で解説して理解して頂く事が出来ない、という程度の意味と解釈している。ここで雷と不立文字の関係は雷を言葉で説明できないと言う事に結びつく話に成るであろう。書けない事を書くと言う事がそもそも矛盾である。それでも自分なりに「自然科学論」を書く心算でいるのだ。厳密に自然現象を論じようとすると、数式では説明できないだろうと言う事である。しかも『専門用語』の意味を厳密に認識しようとすると、結局矛盾に突き当たり、その専門用語さえ使えなくなると言う意味である。数式も専門用語も使えなくなれば、科学論が成り立たない事になる。落雷は夏に多い天空の自然現象であり、恐ろしい現象でもある。電力工学では、「高電圧工学」の分野として、長年研究されて来た。しかし未だに、すっきりと分かったと言えない状況にあろう。その原因の根本は『電荷』を実在物理量と決めて、解釈しているからに過ぎない。電荷概念を捨てることにより、始めて「雷」の物理的真実に迫れる筈である。 『電荷』という虚像で、少し電荷概念の矛盾について述べた。落雷現象を、自分の能力の無さを棚上げにして、電荷概念なしに解釈してみたい。右にその落雷の考察ポイントを①から④までの番号を付けた所の現象を基に考えてみたい。落雷現象は、先ず初めに「前駆放電」という現象が雷雲と地上の間の空間に起きる。「放電」という言葉そのものが概念では電荷の現象という意味であるから、使えないのであるが光を空間が放射する事の意味に限った解釈で「放電」の用語を捉える事にする。丁度、電磁界の解釈で、電界と磁界という用語を使わなければならなかったと同じ説明上の『不立文字』の問題でもある。電荷概念は、日常生活で遭遇する現象の説明に誠に巧く出来ているから、誰もが信じて疑わないのである。しかし、論理的に追究すると、矛盾だらけの姿を曝すのである。なんとなく「摩擦現象」を電荷で最初に解釈した遠い過去の時点の科学認識も社会状況にも遡って考えてみる必要があろうと思う。『雷雲』が電荷を貯蔵すると言う物理的根本の解釈の基は何か?高電圧工学では、入道雲の発生時に、上昇気流に伴って、水滴や氷粒の摩擦が起きる。その摩擦を基に電荷の分離が起き、雲の中にプラスの電荷部分とマイナスの電荷部分が分かれて生じるような解釈が取られている。何で同じ者同士が摩擦をすると、プラスとマイナスの電荷に分かれなければならないのだろうか。例え分かれたとしても、プラスとマイナスは常に引き合う基本的性質を持つと定義しているのだから、ワザワザなんで分離する力が生じると言うのだろうか。このようなしつこい理屈を述べると、科学論に反すると言われるのである。科学論は数学的論理方程式によって、科学的論理解釈に脳が訓練された特有の思考方式による科学者の集団的論理場領域なのである。①の雷の発生起点となる雲の状況をどう認識するかが一つの要点になろう。クーロンの法則を基にしなければ、電磁気学が成り立たないと解釈する点に大問題がある。電荷を否定すれば、クーロンの法則は即座に破棄しなければならない。雷の現象には、雲の中での放電と雲と地上との間の落雷とがある。落雷は高速度撮影の観測写真等で、前駆放電現象が見られる。番号①を起点に複雑な軌跡の光の筋が②のように天空に広がり、如何にも何処に放電すれば良いかと、触手を伸ばして相手を探しているような姿の光の筋である。その一筋の③から④へと伸びた筋が目的地に到達したが如くに、その筋が「主放電」の落雷現象の道筋に成る。この主放電の光の軌跡がエネルギーの放射源である。落雷現象が如何にも雲と地上の間に貯まった『電荷』の中和現象と解釈すれば、科学論として辻褄が合うように思える。しかしそんなに簡単に落雷現象を『電荷の中和現象』と解釈して納得したと言えるかという事である。触手を何本も空間に伸ばした複雑な前駆放電の光の筋をどのように解釈したら良いかという『問答』になろう。

落雷のエネルギー解放現象 空間の放射エネルギーには様々な種類がある。今問題になっている『放射性物質』からの核分裂放射エネルギーもその一つである。核分裂放射エネルギーは目に見えない。しかし、空間に展開される落雷の放射エネルギーは強烈な放射光を放って、空間の貯蔵エネルギーを解放するのである。「量子力学」で、原子、分子の光の放射現象を取り扱う。蛍光灯の「蛍光物質」の放射光もその理論で解釈されている。しかし、電子の運動エネルギーが何とかこうとかと解釈されるが、そんな原理は当てに成らない。その理論の矛盾を挙げておきます。蛍光灯の発光現象は水銀蒸気の発する紫外線が蛍光物質を刺激する光の波長の可視光線への変換現象と解釈されている。紫外線に比べられないような、150MHz の波長空間(定在波)で 40cm の直管蛍光灯が高輝度で発光する。これは余り理論解釈と違い過ぎましょう。空間への放射エネルギーの形態はさまざまである。あの夜空を引き裂く落雷の主放電の光放射現象を、その光の放射エネルギー量を積算計算したら、途轍もないエネルギー量になろう。要するに空間に貯蔵された空間エネルギーの放射現象が雷現象の正体である。高密度エネルギーに直撃されたら、人の生命は耐えきれない。結局雷現象を科学論として取りまとめられたかと言えば、エネルギーの空間実在量として認識できるかどうかにかかる問題であると言えよう。光をそのエネルギー量として捉えられるかどうかであろう。

質量とエネルギーの等価性 ここで取り上げるにはと躊躇する。しかし、先日NHKの番組で、「宇宙の渚」とかがあった。古い資料の中に見つけた物がある。宇宙と繋がる様な図案である。質量・エネルギーの等価性実は、事情があって、発表出来なかった資料である。日本物理学会第64回年次大会。エネルギーが質量の基 第64巻1号第1分冊 p.20.(2009)  の発表のために準備した資料である。丁度宇宙の渚での「スプライト」の雷放電模様に関係した絵図に連想できると思う。ヒッグス粒子などの素粒子論に対抗した異なる質量概念の解釈絵図である。序でだから、その時のもう一つの資料も示そう。素粒子衝突の模型を描いたものである。丁度粒子加速器での粒子衝突の様子にもなろう。必ず衝突すれば、エネルギーが、質量が光に変換されて、放射される。陽子などの粒子を加速すると言うが、電気磁気学理論では、陽子の電荷加速なら、電界以外の加速力は無い筈である。しかるに、セルン加速器は「磁界」で加速している。陽子の加速に磁界加速は原理的に『嘘の不可能な加速法』である。それは余談として、粒子衝突で放射される光は質量の運動エネルギーが光に変換すると言うより、質量が加速されたエネルギー分まで等価的に「増分質量」と解釈すべきものであり、その分も含めた物の中の一部が『光放射エネルギー』に変換されたと解釈すべきである。その光はエネルギーの大きさに差はあろうが、蝋燭の光と本質的には変わりが無いのである。これらの光はすべて消滅する訳ではないのだ。光はそのままエネルギーなのである。光が放射されて、必ず何かの障害に突き当たる。そこで屈折、反射および吸収の様々な障害という媒体との相互干渉で、状態変換を起こす。遂には吸収されて熱エネルギーなどになる。その熱エネルギーも完全に原子・分子の内部に吸収されれば、それは『質量』になる。それが『質量・エネルギー等価則』という事だ。『エネルギー保存則』は自然界・宇宙の基本法則である。光のエネルギー保存則をどのように解釈するかが素粒子論の問答に成る。

炭素結合の秘め事

#標題下に、『カテゴリー』と『タグ』が入らない訳は?#(投稿 2012/04/15)

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(2013/04/25)記事の修正。 原子結合の一つの解釈に『共有結合』がある。それは外殻電子同士が互いに相手の原子との結合に、共有した二つの電子の組み合わせとして働くような意味と解釈している。二つの負の電荷がともに結合して原子同士を繋ぎ合せる結合力に成ると言う意味であろう。クーロン力は同じ電荷同士は反発する原則を示す。しかし何故『共有結合』という電子同士が融合するのかを論理的に説明しなければ、科学論ではないと言いたい。こんなところにも、科学論の独善的、権威的な姿が見える。市民はそんな科学論でも、納得するだろうか。その『共有結合』という科学論の正体を解剖しようと考えて、その代表例に『ダイヤモンド』を選んだ。『電荷』とか『電子』などの意味を考える為に、クーロンの法則を斬る

この記事の最初の標題はー「ダイヤモンドの秘め事」ーであった。

炭素結合の秘め事 序章 (2012年4月15日に書きだし)

ダイヤモンドは人に特別な思いを抱かせる。その宝石の価値は輝きと希少な存在にあろう。ここでダイヤモンドを採り上げた訳はその原子結合に秘められた『力』の意味を探りたいからである。ダイヤモンドの硬度は工具などにも極めて有用である。それは炭素原子の結合に秘密が隠されている。その結合を物理学や化学理論では『共有結合』と言う電子結合によって解釈している。私がここで論じる事は『電子』と言う負の電荷を破棄した場合に、どんな原子結合論を考えれば良いかと言う「現代物理学理論」の根幹を否定する論になる。昨年の東日本大震災の2次災害として大きな事件を引き起した福島原子力発電所の問題がある。その事件が様々な科学的問題を引き起したと言わなければならない。市民が「自然科学」に無関心で居られない事を突きつけた事件でもある。原子核理論等には素人である私であるが、以前から唱えて来た科学基礎論が何かの因縁のように、この原発問題でその『原子核理論』にまで踏み込まざるを得ない状況になってしまった。ここで、結論に繋がる基本を示しておきたい。陽子、中性子などの結合を繋ぐ『力』は何かという問題である。古くは、湯川秀樹のノーベル賞対象である「中間子理論」がその解釈に採られている。しかし電荷を否定した筆者にはそれは受け入れられない理論である。素粒子はその根源は「エネルギー流」であるとの認識に立った論理になる。簡単にいえば、全ての核子は『磁気マグネット』である。例えば、「地磁気」とは何か?昭和63年電気学会全国大会 32 電磁界の物理的概念と地磁気の解釈 で発表した事がある。地球表面を磁気エネルギーが偏西風(2018/11/15追記。この偏西風という方向は地球自転の方向とは無関係であると理解した。地球自転と周回空気層の関係は海流や貿易風としての意味であった。地球自転の方向と地表のエネルギー流とが何か意味を持っているかと考えるが、その訳は未だ分からない。)と同じ向きに回流していると解釈すべきである。エネルギー流から地球の「北極」は磁石の南極、「南極」は磁石の北極である。世界はエネルギーの回転流に因る『力』で結びつけられている。核子の結合力も、ダイヤモンドの結合力も『磁気マグネット』の結合に因ると解釈すべきである。今書いている 放射能と発熱の正体は何か?に関連した話になりそうである。素粒子とは何かを考えて、素粒子ーその実相ー に解釈を提起した。地磁気に関する最近の認識を示した記事が地磁気とコンパスである。

原子と構造 とても大きな問題に取り掛かるには非力である事を考えると躊躇する。しかも内容は世界の物理学基礎理論に対抗するものである。当然科学研究の機関紙に投稿すべきものであり、査読を経なければ意味が無いかもしれない。残念ながら、やむなくブログであるが『真理・真実』と考える『問答』を提起したい。先ず初めに、エネルギーで観る世界ー素粒子ーをご覧いただきたい。さて、『原子構造』をどのように解釈するかの『問答』に入る。単純な例を考えて見よう。原子力発電の核燃料はウラン235と言う原子である。原子番号は92である。核はプラスの電荷を背負った『陽子』92個と電気的に中性(プラスとマイナスの電荷を釣り合うように保有しているから中性と考えるべきか、あるいは電荷その物を保有していないと考えるべきかは極めて重要な『問答』対象の意味を持つと考える)な中性子143個から成り立つようだ。その次に、その核の周りをどの程度離れているかは分からないが、質量とマイナスの電荷を持った92個の素粒子『電子』が核の陽子と電気的に釣り合うように、核の周辺を回っていると教科書では説明されているようだ。私にはそんな92個の電子がクーロン力の反発を避けながら、なんで中心核の陽子とだけ電気力(クーロン力)で釣り合う力が発揮されると考えるのか、その道理が分からない。近くの電子同士の反発力を避けられて、何故遠くの陽子と引き合う引力が生まれるのか?その点は大きな『問答』の対象である。

(2012/04/23)追記分。原子構造論には、その構成素粒子の意味を確認しておく必要があろう。そこで基本素粒子についてファイルにまとめた。エネルギーで観る世界ー素粒子ーでなく、ここに載せて考える。素粒子素粒子の質量は定数として決まった値のようだ。『質量』とは天然の世界を構成する全ての物の基本概念と考えて良かろう。宇宙全体の存在を形作るものであろう。その全体を統べるものである『光』も質量がその基にある。光速度で伝播する限りは光に『質量』は隠されていて、観えない。しかし光も吸収されれば、『質量』に成り、質量が見える。上の3つの素粒子の質量について量的問答をしてみよう。素粒子問答上に示した問答で、やはり電荷が質量にどのように付帯するかを示すことが「素粒子論」の基本命題と考える。しかしその電荷の事は一先ずおいて、質量の解釈問答をしたい。ヒッグス粒子が発見されたと言うニュースがある。ヒッグス粒子が無いと、世界に『質量』が存在しないかの如く報道されている。私はとても信じられない科学報道事件である。その意味で、やはり自分が信じる『質量』の意味を論じておきたい。そこで、一つの質量問答を提起する。質量問答2勝手に大学入試問題として取り上げたらよかろうと思った問題である。こんな問題は、その解答を評価し、採点するとなると難しい事に成りそうだ。自分の科学論の力量不足を恥じながらも、自分なりの『質量問題』の解答をしてみたい。質量問答2の解答ここで述べた解答例は、エネルギーを独立した物理量と認識しなければ、理解されないものであろう。質量とエネルギーの等価性。その認識に係っていよう。

炭素原子と構造 (2012/05/02)追記分。原子の構成素粒子の話から、そろそろダイヤモンドの話に入ろう。原子の外殻周回電子像を否定せざるを得ない事に成ってしまったから、自分なりに原子構造とその結合について、解釈を示さなければならない。『電荷』概念否定に因る原子構造論。原子構造論への視点原子構造論への視点として纏めた。その観点から原子構造を解釈すれば、エネルギー一つの物理量で世界が認識出来ると思う。その視点で、炭素原子とダイヤモンド結晶の話に繋がると解釈した。炭素原子分1炭素原子分1ダイヤモンドは、石の囁き 聞こえますか の内容にも通じる話である。

炭素原子と構造モデル (2012/04/24)追記分。炭素原子の構造を考えてみた。ファイルで提示したい。炭素原子分2卓球の球を使って、その対象点をカラーシールで表示した。しかし緑と青の色分けが解り難いようである。写真の下辺が緑であるが、青色に見えてしまった。青色シールを球表面の4等分面の中心に貼って記してみた。同様に緑も4等分点に貼った。その緑と青の間に白のシールを張ると、白が6等分面に分割することに成る。空間的な認識はなかなか難しい。蛇足の幾何問題。例えば、直径40mmの球面を、上の絵図のように白で6等分すると、一つの面積は幾らだろうか?球面全体の立体角は4πラジアンであるから、(4π/6)×(4o/2)^2^=837.3[㎜^2]と、立体角(球と立体角)で計算できる。上の絵図は球面で原子構造を表現したが、炭素原子が4価であるから、正4面体で表現しても良かろう。炭素原子分3正四面体で炭素原子を捉えてみた。ダイヤモンド結晶の堅い結合は何が支えているか。そこには特別の強力な結合力が潜んでいると考えたい。電子の『共有結合』などのあやふやな力では、そんな力は生まれないと考えた。身近な日常生活で、誰もが経験している物が、磁石の吸引力である。あのそれこそ『距離の逆何乗法則』かと思えるような、近付けば、近付く程強まる吸引力は強固な結合力を支えるにふふさわしい『力』と考えて良かろう。そこで、図に示すような、赤丸シールがS極、青丸シールがN極の磁極とすれば、実に強固なダイヤモンド結晶を支えると解釈した。電気現象を扱う人なら、電荷や、電界等は殆ど力の源と解釈するには、覚束ない程の微弱な物でしかないと感覚的に感じている筈だ。それに対して、モーター初め、電磁石などの電磁スイッチの強力な動作現象は極めて的確で、頼り甲斐の有る技術と認識している。そんな技術感覚的なところから、当然の結論として結び付けた。その正四面体とマグネットの関係を図式化してみる。IMG_0427正四面体の赤いS極面の表面エネルギー流を矢印で示した。青のN極面も同様にエネルギーの流れる方向を示した。電磁気学で、右ねじの法則で磁場と電流の関係を表現しているが、その手法を取り入れると、図に示したように表せる。『左ねじの法則』で、N極方向を進行方向と解釈する図である。しかし逆に、S極をネジの進む向きとすれば、ネジをS極向きで表現した方がよいかもしれない。それなら地球の磁場(北極がS極である)にも『右ねじの法則』で対応できるから。

追記(2012/05/09)の部分。 炭素原子を正四面体で、その原子結合面をマグネットで対応させる原子モデルを提案した。今までの外殻電子軌道の原子構造論に対して、このマグネット結合を比べると、益々『電荷』論が無意味に思える。ダイヤモンドの秘め事のほぼ最終の「秘め事」に辿り着いたと言えよう。ブリリアントカットがどのような研磨面のことかは知らない。しかし、そのカット面の意味も含むかと思う炭素結合単位の『単位結晶』とも見做せる図案を提示したい。ダイヤモンド結晶以上で、結論とする。