タグ別アーカイブ: 光の正体

自然の世界と科学論の世界

(2024/04/30).

 今年も桜の世界はほとんど終わった。桜の花見は春に人の心をも華やかで、平和な一時に浸れる世界に連れて行ってくれる。

 自然の世界は人の心を縛らない。科学理論の世界は人の心を決まった法則に縛り付け易い。

 学校で、教科として理科や物理学を学ぶ。教えられた事を記憶し、その解釈法を学習して修得しなければならない。

 最近思う。物理学理論と自然世界の間には大きな断裂が深い溝となっていると。科学理論は経済競争の手段として、自然界を利用する視点での解釈法に取りまとめられたものだ。それが多くの『法則』となって人々の意識を縛り付けている。自然界を利用する共通の手段の統一化が図られた。それが物理学理論であり、多くの何々の法則だ。

 科学理論の法則とは何か?

 科学理論は自然世界の現象を利用する為に、人がその便利な利用法を共通理解の手段としてまとめた解釈法である。決して自然世界の真理を捉えたものではない。便利な解釈方法を述べただけである。それを信じれば、自然世界に抱く恐れや、恐怖から解放される安心感が得られると言う事もあろう。みんなと共通意識で繋がる安心感が得られる。

 科学理論の法則の欠格問題。

 それは、その法則の唱える内容を『何故か❓』と言う視点で考える事から、人の意識を遠ざける欠格問題を含んでいる事である。決して、『電荷』とは何か?『電子』とはどんな空間構造体か?等と殆ど人は疑問を抱いて、考える事をしない。

 〈問答〉の欠落した科学理論体系。

 理論:解釈法の羅列が科学理論体系となった。

 〈万有引力の法則〉:代表的法則だ。
 ニュートンが唱えた万有引力の法則。リンゴの落ちる現象を見てその解釈法に閃いて、法則を生み出したと言われている様だ。確かに重力加速度G[m/s²] が地球表面に在ると解釈すれば、殆どの運動の現象は実際の運動を正しく計算できるのだろう。しかしその「万有引力の法則」はどの様な法則かと言えば、自然世界に『質量』が有れば、他の『質量』との間にすべて引合う引力が存在すると言う解釈法を唱えたものだ。地球と月の間に、〈万有引力の法則〉を適用したとしても、地球も月もその『質量』が分からないから、その法則が正しいかどうかを検証はできないと思う。太陽の周りに地球が一定の規則で、公転し、更に地球が自転している物理的現象の意味を知りたいと思っても、〈万有引力の法則〉では理解することはできない。確かに〈万有引力〉で運動の意味を解釈できると思えば、何となく精神的な不安からより安心に居られるかも知れない。何も考えなくて済むから。そんな意味を、社会的安定化の意味を学術理論の権威は備えていると思う。

 『禪問答』がある。その究極の到達点の一つが、『色即是空 空即是色』であるのだろう。『質量』は『エネルギー』である。E = mc² [ J ] がある。その『エネルギー [J] 』が目の前にある事実を人は認識できない。光が『エネルギー』の空間分布構造体であることを認識できない。

 「クーロンの法則」、「アンペアの法則」は『電荷』に関する法則だ。その『電荷』概念を基にして、新しく『磁束』が自然世界に存在すると言う意味を生み出した解釈法だ。『電荷』と『磁束』の間の物理的意味を、その空間における物理的関係をどの様に解釈すれば良いか等と、『禪問答』は殆どしない。『何故か❓』とは問わないで済ます。

 光の屈折問題。何故光は伝播媒体間の境界で、その進行方向を変える『屈折』現象を起こすか?その解釈法にホイヘンスの原理がある。確かに光は境界面で屈折する現象の在ることは誰でも理解できる。ホイヘンスの原理の解釈法が唱えられたとしても、『何故か❓』と言う疑問には全く答えて居ない。それは一つの解釈便法でしかなく、何もその『屈折』の物理的現象に答えていないのだ。単なる解釈法を唱えただけでしかない。光を『エネルギー』光速度伝播現象と捉えない限り、プリズムの屈折現象の物理的意味など理解したとは言えない筈だ。科学技術は幾らでも精密なレンズを作り出し、高度の写真撮影技術は開発できる。光の空間像を理解しなくても。だから光が『振動』する物理的意味など無いにも拘らず、科学理論は『光の振動数』で高度な学術理論が展開される。教育では、『光の振動数』が重要な指導内容となって、子供達に記憶させる。『振動』する物理的実体など光には存在しないのだが、実験室での科学論的解釈法の共通手法に成っているからでしかない。『何故か❓』と疑問を持って、考える事は車座社会では邪魔者として排除され易いのだ。参考(#):プリズム問題で、ご迷惑を掛けたことお詫びしたい。所属が無いことで、大切な内容であったが、発表を故意に欠席した。気持ちに整理が出来ずの所業で、関係者に御迷惑をお掛けしてしまった。他にも多くの発表を無断で欠席し、御迷惑をお掛け致した。しかし内容は全て貴重なものである。

 しかし、科学法則は社会的共通解釈法の世界の構築によって、科学論の専門家の集団体制には大切な事なのだ。

 (#) 金澤:28aYE-2 プリズムと光量子の分散 日本物理学会、第64回年次大会。64-1-2. p.405.(2009).

 

摩擦電気から見る迷走科学理論

(2024/04/26).

 摩擦電気の事を述べようと思った訳がある。雷のエネルギー像 について考えている。その雷と電気の解釈が専門家の学会誌での解説記事が余りにも不可解な曖昧論である。その内容で、上空での氷が落下時に摩擦で『電荷』が発生するとある。摩擦電気の専門家の奇妙奇天烈な解釈である。『正電荷』は陽子でもなく、『負電荷』が電子でもなく、要するにプラスとマイナスの『電荷』がどの様な原子との関係であるかも何の説明もなく、氷の摩擦で分離・発生すると成っている。そんな非論理的な解釈が専門家の学術論である?そこで摩擦電気の意味を考えた。

 『電気』と言う用語はとても曖昧な内容である。静電気、摩擦電気などが代表的曖昧例である。電気エネルギーと言えば少しは具体的な意味が見えるかも知れないが、やはり誰もその物理的意味、現象を理解できない状態にある。電気物理学と言う分野の専門家さえよく理解できていないのだ。『電荷』や『電子』が自然世界に実在していると考える科学者には誠に申し訳ないが、それは明らかに古い物理学概念を踏襲した方々の、間違った理論の、教科書の間違いの内容に従った考え方である。

 摩擦電気❓ (2022/12/20) にも述べた。前の記事、物理学理論の混迷と基礎概念の矛盾 (2024/04/20) にも関係する内容でもある。

 摩擦電気とコンパスの記事、Friction heat and Compass (2020/03/22) でも述べた。この記事でも述べたが、要するに物理学理論で、空間の『エネルギー』の流れと言う物理現象を認識していないのだ。だから、仮想的にその『エネルギー』を『電子』などで取り扱う理論体系になってしまったのである。コンパスは地磁気や磁界を検出する検出器だ。電界を検出する器具はないが、磁界だけは簡単に検出できる、それが磁気のコンパスだ。然し磁気についても物理学理論は磁束で解釈するから、マグネットの表面の『エネルギー』の流れと言う認識はない。それが物理学理論の決定的間違いである。マグネット表面は軸性エネルギー流の場なのだ。磁気も熱も同じ『エネルギー』と言う物理量の空間的形態でしかないのだ。コンパスを準備して、何かプラスチック系の定規などを紙にでも擦って摩擦して御覧なさい。『摩擦電気』じゃないが、定規に熱が籠る。その定規をコンパスに近付ければ、コンパスが反応して回転移動する。逃げるか、近付くかの運動を起こす。決して摩擦で『電荷』が発生した訳でなく、摩擦熱がプラスチックなどの絶縁物質の近傍空間にその『エネルギー』の流れる状況を生じた結果である。『熱』も『静電気』と物理学理論での誤解による解釈の意味も同じ『エネルギー』の形態なのである。静電界と言う場も静磁界と言う場も同じ『エネルギー』の空間形態でしかないのだ。

 先ずは『摩擦電気』とい物理学理論の根幹を成す誤解の意味を解説して置く。

 更に大切な物理的認識が無ければ、物理学理論の矛盾は解消できない。それは『光』の空間像の認識である。光が『エネルギー』の光速度伝播現象である意味を理解する事だ。光には振動する物理的実体など無いのだ。

 

電力p=vi [W] の哲学

(2024/04/04).

 物理学理論での電子概念が電気回路の世界に論理的混乱を蔓延させた。

 大学の理学部でこんな電子概念に論拠を置いた物理学を教育している現状が信じられない。

 それは只過去の古い伝統的、歴史的解釈手法に依存した考えない権威の牙城を守っているだけでしかない。

 「自然を観ないようにして居る」と言う物理学者のお言葉を聞いた事が有る。それは正しく、伝統的学説を守り、その学説を否定する現象は受け付けないようにしていると言う事だ。

 昔、『瞬時実電力・瞬時虚電力』と言う概念で電力系統の解釈論を展開した事がある。電力技術者にとっては『電圧』と『電流』は欠く事の出来ない基本的論拠概念である。しかし、筆者を含めてその『電圧』や『電流』がどの様な物理的意味であるかを説明出来ない科学理論の専門家集団群の中に居たのだ。決して『電圧』の単位ボルト[V]が、『電流』の単位アンペア[A]がどの様な物理量を意味したものであるかを解説できなかったのだ。電気回路では、その電磁気現象は全て光速度流の原理の基に在るのだ。決して『電子』や『電荷』がその光速度流の電磁気現象の解釈論拠概念となど成り得ないのだ。

 筆者は、1987(昭和62)年4月『静電界は磁界を伴う』と言う実験による『電荷』概念否定の発表をした。それは世界の権威ある物理学理論の根底を否定する無謀な発表であった筈だ。当時は中曽根臨時教育審議会の教育公務員としての資格のない(公立学校共済組合にも文部省共済組合にも加入していなかったとの疑い?)組織職員として邪魔な存在が故の抹殺対象として選ばれて、社会的事件のど真ん中で、教育の政治的中立性から見て論外な政治的事件であったと今は理解できる、そんな中で踊らされていたようだった。そんな中での愚かなる考えでの抵抗の結果が、「不可解」と言う闇に彷徨う結果の己の存在の意味を探る旅に、1988(昭和63)年末に旅立ちをした。あれから延べ36年程経過した。

 今、結局分かった政治的意味は1945(昭和20)年終戦時に、
舞鶴鎮守府のー
 (1939年12月1日故郷から強制的に舞鶴鎮守府へ『戸籍転籍』の行政処置がなされて、1941年には長野県栄村志久見の日本発送電株式会社の社宅に母と妹と筆者の3人で住む、父は既に舞鶴鎮守府に9月に召集されて離れて居た。しかも、その頃10月には既に父は巡洋艦「香取丸」の在役艦となっていた。その年の太平洋戦争突入の8日を過ぎた12月19日家族は「香取丸」に戸籍が移動された。1944(昭和19)年2月11日頃、香取丸は被弾沈没、3月31日香取丸船籍除籍となった。『戸籍』の行へは不明のまま消えた❓)
ー京都府舞鶴市の溝尻海軍住宅に家族4人で住んで居た。その時から現在までの筆者の身分は何であったのか❓市民権の対象ではなかったか❓と言う事の政治的問題と認識している。

 電力の電気回路における物理的意味は如何なるか❓
 何故電圧と電流の積で電力が評価できるのか?電力の単位ワット[W]とはどの様な意味かと言う極めて基礎的な物理的意味を問うのである。決して『電子』などと言う仮想概念では解説できない筈なのだ。現代物理学理論では、科学技術理論としての電圧と電流の積と言う計算で算定される電力の物理学的意味が説明できない筈なのだ。その意味、訳を物理学者が真摯に考えられるかを問うのである。筆者の研究者としての働き方改革の、研究室の無い天下の野ざらしの研究の実績が認められた上で初めて未来に繋がるのではないかと思う。現状は筆者への政治的虐待だ❣ 研究室など、身分等どうでも良い。
 子供達への理科教育内容の構築を如何にすべきかが問われている筈だ。全ての科学者の社会的責任として!!
 
 電力の意味を問う。全ての物理学に関わる研究者、教育者に、科学研究に携わる科学者に問う。

〈問〉 電力の単位ワット[W] の意味の物理現象をどの様に解釈しますか。

 電気回路で、その信号は1秒間に地球七回り半する。それは光速度の意味だ。
電力p[W]=[J/s] は1秒間のエネルギー量の消費を表現した単位だ。そのエネルギー量とはどの様な物理量だと理解していますか?どの様に空間に存在する物理量と解釈、理解していますか。それが光速度で伝送されるのだ。その『エネルギー』は空間を伝送されるのだ。それは空間に実在する物理量だ。

古い記事、エネルギー(energy)とは? (2011/09/07) がある。

純粋・自然の実相

(2024/03/31).


 自然現象は極めて『純粋』であるとの認識に至った。その意味を表現してみた。空間に流れる『エネルギー』には光のように、空間的寸法も無限に細分化される。素粒子なる概念も『エネルギー』によって構成されるものと解釈する。

 長く電気回路現象の物理的意味を考えて来た。特にこのブログ記事として投稿しながら、自己問答を繰り返してきた。学術機関では何処か不可解な自己に気付いて、研究室が無いことから、雲水の様な天下での研究に費やした。終戦時(1945年)に舞鶴鎮守府、溝尻海軍住宅で迎えた意味はどの様な身分であったかと考えた時、社会的な存在が❓❓筆者の過去の職歴、所属歴及び「退職、免職など」極めて不可解に気付かずに過ごしてきた。市民権で、長く選挙権も無く、投票の権利が無かった意味まで、行政としては理由を明らかに示して欲しい。

 漸く、電気回路現象の物理学的理論が極めて曖昧で、子供達の教育内容として不適切であるとの確信に至った。
 現在の教科書の内容は、科学技術による経済競争の視点から見れば、それなりの教育上の成果を収めて来た。しかし今、ハッキリした事は、『電荷』なる解釈用の概念が論理的には全くの間違いであったのだ。
 如何にこれからの子供達に対する物理学教育を整えるかは、科学理論としての根幹から立て直さなければならないところに在るのだ。理論物理学者が如何に『電荷』なる概念を、その物理的意味を子供達が分かるように解説できるかに掛かっている社会的責任と思う。世界に問うのはその一点だ。

 そのような科学理論の意義を問う題材として、全ての人に考えて頂きたい高周波伝送回路現象での『定在波』の物理現象を提起したい。

 筆者が初めて、研究報告として1967年、新潟県工業教育紀要に投稿した、
 金沢喜平(何故か『沢』だ):分布定数線路実習に対する考察、新潟県工業教育紀要、第3号(昭和42年)の内容に関するものになる(新潟県立図書館所蔵)。
 
 その関係で、エネルギー流と定在波 (2021/02/27) がある。
この内容で、『定在波』が発生する物理現象を如何に解釈するかを問うのだ。決して電気回路で『電子』が導線内を流れる等と言う解釈論では、この『定在波』の発生理由を理解できない筈だ。
 
 『回路定数L[H/m]、C[F/m]に対する訂正』。ここで過去の記事に対する訂正をさせて頂きます。電気回路の『エネルギー』伝播空間構造係数を k として、
    L= μ₀k [H/m], C= ε₀/k [F/m]
 と訂正させて頂きます。ただし、μ₀およびε₀は真空空間の透磁率および誘電率とする。

 
 電気回路での電気物理現象は、電線路空間の『エネルギー』の光速度流である。こんな単純な電気物理現象が、過去の長い科学技術的解釈概念の多くによって、特有な理論で構築されてきたのだ。電流[A=(C/s)] あるいは電圧[V=(C/F)]などと電荷量[C(クーロン)]によって解釈、定義されてきた。それは誤りであった。
 

光エネルギー流と空間特性

(2024/02/27).

 最近、特に物理学が子供達、高校生や大学生で科目として学習するに人気が無いらしい。それはとても残念な事だ。その訳は、子供達が感覚的にその教科内容に違和感を感じるからではないかと思う。

前の記事で、
 『電圧』とは

〇 電気回路空間へエネルギー [J] を供給する能力を評価した電気技術概念である。
〇 電気エネルギー供給源即ち電源の能力によってその接続電気回路空間に即応したエネルギー供給状態を整える能力評価概念。

とした。

 それは、物理学理論が空間を流れる『エネルギー』を認識していないところに、『電圧』と言う電気用語の意味が正しく認識できていないところに在るからだ。

 この様な単純な科学技術量・概念さえ曖昧な認識にある。『電圧』を『電荷』によって解釈しようとすれば、其れでは結局曖昧な、感覚的に納得しかねる解説を記憶する苦痛を子供達に強いることになる。

 子供達に、自然世界の神秘に感動する経験を与えて欲しい。それは実験室や研究室での観察、計測と異なる、自然の感覚的な経験によって受け取る現象を基に深めて欲しい。それを光のエネルギーの物理的意味に求めて欲しい。

 日向ぼっこ。日光浴の実感を物理現象としてどの様に解釈するか?そんな日常生活の中での経験を、物理的な現象として考えて欲しい。

 日光に全身を晒して、太陽からの光を受ける。その時、身体がポカポカと暖かくなるだろう。その暖かくなると言う物理的現象の意味をどの様に理解するか?それは光・太陽光線によって齎された物理的現象の結果である。
〈問〉その訳を説明してください。
 この回答には、光と熱の関係で、その物理的意味が理解できなければならない筈だ。即ち、光とは何か?の問題だから。

 上の「日向ぼっこ」で、光が『空間エネルギー』の流れであるという意味を知らなければならない。決して科学的実験ではその意味は分からないだろう。光の振動数が幾らだとか、粒子性と波動性を兼ね備えている等と言っても、殆ど、光の実体は分からないのじゃなかろうか。

 『答』 光は空間エネルギー流である。空間を流れるエネルギー [J] の密度分布波である。日光に当たるとは、衣服を通して光のエネルギーを吸収する事だ。そのエネルギーの時間積分で衣服の中にエネルギーが溜まり熱エネルギーとなる。その熱エネルギーの輻射として皮膚から身体に入り込むからだ。

 上の例は光のエネルギーがどの様な物理量か、その空間像をどの様に捉えれば良いかを熱エネルギーへの変換現象を通して、光の意味を考えて欲しくて取り上げた。

 その物理現象は、光エネルギーの流れる空間によって決まる。その空間の科学技術的解釈の基本がある。それは物理量の概念を決める基礎として、『真空透磁率』μ₀ = 4π×10^-7^ [H/m] が決められた。

 その 自由空間の特性は右のように表せる。何も無い空間が、その単位長さ ( 1[m] )当たり、電気回路の静電容量 C[F/m] とインダクタンス L[H/m] と同じ特性で捉えられる。真空空間の誘電率も ε₀ = 1/36π ×10^-9^ [F/m] と決められた。光のエネルギーの流れに対するインピーダンスは空間の特性インピーダンス Zo =120π [Ω]である。光エネルギーの流速、即ち光速度は  co=1/√( μ₀ε₀ ) =3×10⁸ [m/s] となる。なお、電気回路との関係で、光の伝播特性は負荷抵抗が常に整合、α=1の状態にあると見做せる。

 これらの空間の特性が光に対する伝播特性を決める事となる。その事が、電気回路に於ける電気現象が光伝播特性と同じ意味であると解って欲しい。決して『電子』が導線の中を流れる等と言う事はなく、その解釈は無意味な間違い解釈であるのだ。

 光のエネルギーの空間像はどの様な科学実験でも観測できるものではなかろう。観測できない光の空間像を示すとなれば、それは自然現象の多くの具体的姿を感覚的に捉えて、統合的に解釈する以外なかろう。 その表現法の一つを右図に示す。光のエネルギーの空間像をどの様に捉えるかは、科学的実験で観測できるもので無いから、どう説明すれば良いかは分からない。光の空間構造の捉え方は様々であろうが、筆者の解釈は、光量子空間像(D線)がその例だ。

エネルギー像なしに理論物理学は成立しない

(2023/11/24).

 このブログも『エネルギー』概念から始まった。

エネルギー[J(ジュール)]とJHFM単位系
エネルギー(energy)とは?

エネルギーの空間像を認識するには、光の正体およびプランク定数の概念が基本だ。プランクの定数の物理的概念を理解するには、その次元が [Js] である意味を空間的物理像から認識する事が欠かせない。

 光は決して振動する物理的実体など持っていない。エネルギーの空間分布密度の光速度流である。ましてや電子などと言う物理的仮想概念では物理学理論の論理性は保証できない。

 【何故エネルギーが認識されなかったか】
 その訳が『電荷』と『電子』と言う自然世界に実在しない物理概念を仮想的につくり挙げたからだ。
 『電子』の知覚機能像と科学理論の論理
電荷と言う科学的汚点概念
『電荷』という虚像

光の正体-エネルギー-

光の正体とは、空間を光速度で伝播する『エネルギーの流れ』がその正体である。電気回路の電線間の空間を伝送するのが電気エネルギーの流れである。決して『電子』など電気回路には必要が無かったのだ。

 光の正体

 プランクの定数の意味も光の振動数も全て『エネルギー』の流れの物理学の解釈上の評価概念である。それが自然世界に『電荷』の存在しない事を認識する基本になる。 

電圧とエネルギー

 観えなくて測れない物理的実在量、それが空間の『エネルギー』。しかし、それは物理学理論の概念にはない。その空間像の象徴が『光』だ。光に因って物は見えてもその光およびその『エネルギー』は観えない。

 『エネルギー』とは不思議だ。誰もが言葉にするが、その姿を見る事が出来ない。物理学理論で『エネルギー』と言えば、運動エネルギーと位置エネルギーがその意味になる。その物理学理論の『エネルギー』は何となく見えるような気がするかも知れない。ボールが飛んで行けば、その速度で運動エネルギーを感覚的に理解できたように思う。しかし、その飛ぶボールを見ても、ボールが見えるだけで『エネルギー』などどこにも見えないし測れない。速度と質量から計算式で算定することはできるが。

 また、蓄電池は電気エネルギーを蓄えた電気製品だ。しかしその貯えたエネルギーを認識できない。どんな像であるかを理解できない。代わりに『電子』で代用して理論を作り上げる。しかしそこでも『エネルギー』を説明出来ない。

 貯蔵電気エネルギー。電気回路で『エネルギー』を貯蔵できる要素はコイルとコンデンサである。しかしその『エネルギー』を、その像を見る事はできない。また、抵抗も『エネルギー』を貯えない訳ではない。抵抗もその構造体の中に『エネルギー』を貯えるから、時間積分で温度が上昇する。だから『エネルギー』を貯えたことには間違いがない。しかし、電気回路にその『エネルギー』を再び戻す働きを持っていないのが抵抗体の不思議な機能である。

『エネルギー』

 エネルギー W[J] を青色で描いた。それが電気要素の空間に存在する『エネルギー』である。描いて示したと言っても、それは科学的な検証に耐える証明が出来ない。だから物理学理論の概念には成り得なかったのかも知れない。見ることの出来ない『エネルギー』を、その空間像だと言って描いても、物理学理論の概念として受け入れられる論理性もないし、実測できる保証がないから、絵に描いた「餅」と言われても当然のことである。その意味ではこの空間の『エネルギー』の概念認識が無い物理学理論を非難できないかも知れない。それでもこの空間の『エネルギー』を認識することが自然現象を理解するには欠かせない。何か「電荷」の実在を頭ごなしに押し付けるのと、空間の『エネルギー』を押し付けるのと何処か似ているかも知れない。それは電気回路の現象を多くの観点から、各人が確認しながら納得する以外ないのかも知れない。磁石の周りの空間の『エネルギー』の流れと同じことなんだろう。見えないものを在るとは強制的に押し付けるべきではないから。とは言っても、電気回路の動作現象を突き詰めれば総合的に『電荷』と『エネルギー』のどちらがより論理的で、矛盾なく理解できるかで結論は出よう。

電気理論による数式で表せば、

コイルのエネルギー     W =(1/2)L×i^2^ [J]           (1)

コンデンサのエネルギー  W = (1/2)C×v^2^ [J]         (2)

となる。このような数学的表現で纏められる意味はとても大きな科学技術の業績である。いくらコイルの中に『エネルギー』があると力説してみても、その量を計れないことを知れば、(1)式が如何に優れた技術的表式であるかを理解できよう。『電流』と言う技術概念とその測定技術が如何に優れたものであるかを。しかし電線導体の中を『電流』や『電子』などは流れていないことも知らなければならない。そこに科学技術と自然現象の真理との差を知る必要が有るのだ。『電子』での解説者は、そこに『エネルギー』の認識を解説する義務がある事もまた分かってほしい。

電気技術論によってこの数式で算定はできるが、決してコイルやコンデンサの中に蓄えられた『エネルギー』は観えないし、測れない。コイルの空間に『エネルギー』があると理解するためには、電気回路技術の多くの計算を通して、感覚的に認識することが大事だ。学んで、そこから深く理解するには、疑問を抱き分からない不思議に直面して、そこを乗り越えて感覚的に納得できるのだろう。『電流』が流れていないことを理解する迄には、長い難しい道を辿る必要があるかも知れない。

電圧は『エネルギー』の評価技術量。見えない『エネルギー』と電圧の関係を考えてみよう。不平衡の空間の『エネルギーギャップ』を電圧として解釈している。コイルとコンデンサの貯蔵エネルギーに対する、その端子電圧には特徴的な差がある。コイルの中の『エネルギー』量を外から推し量ることはできない。一定値の安定した『エネルギー』の貯蔵状態では、端子電圧は零になり、『エネルギー』の量を推し量れない。一方コンデンサの場合は、その貯蔵の『エネルギー』量は端子電圧に直接現れる。コイルもコンデンサも貯蔵する『エネルギー』に違いがある訳ではない。同じ『エネルギー』を貯蔵するのである。同じ『エネルギー』を貯蔵する、その金属導体によって作られる空間構造が違うだけだ。貯蔵するのは『電荷』でもなければ『磁束』でもない。それは見えない『エネルギー』なのである。

電圧 [V] の次元は [(J/F)^1/2^] 。

電気物理(電圧時間積分とエネルギー) (2019/03/26) との関係での記事となる。

線路定数L[H/m]、 C[F/m]の『エネルギー』と端子電圧の関係を考える。線路容量Cに関わる『エネルギー』分布密度をw[J/m]とする。負荷のコイルとコンデンサの貯蔵エネルギーをW_L[J] W_C[J]とすれば、次の式で表される。

貯蔵『エネルギー』量はそれぞれの要素の端子電圧との関係で決まる。

wL は端子電圧が掛かる限り、その時間積分で増減する。コンデンサのwc は端子電圧そのものが貯蔵エネルギーを表す。この式から、端子電圧は次の図のような意味と解釈できる。

(1) コイルの端子電圧の意味。電線路に繋がれた負荷のインダクタンスLl[H] とする。コイル端子の電圧もその次元は [(J/F)^1/2^] である。コイルが繋がれた電線路は回路定数 C[F/m]の『エネルギー』分布空間である。コイル端子が繋がれた外部条件によってコイルへの『エネルギー』の入出力が決まる。電線路の『エネルギー』がコイル端子の電圧を表している訳である。電圧がコイルに掛かれば、コイルの『エネルギー』は変化し、その微分がまた端子電圧でもある。

(2) コンデンサの端子電圧の意味。容量 Cl[F] のコンデンサ負荷が線路に繋がれている。コンデンサの場合は、線路『エネルギー』分布により、コンデンサとの『エネルギー』は線路定数 L[H/m] を通して行われる。そのコンデンサの端子電圧はコンデンサ自身の保有『エネルギー』量によって直接決まる。コンデンサ内の空間ギャップでの『エネルギー』の空間分布構造が如何なる形態であるかを判断しなければならない。誘電体の分子構造内に貯蔵される訳であろうから、『電荷』否定の上での捉え方としては分子内での軸流以外予想できない。電極の負極側の高密度分布が予想されるが、未だにその誘電体分子構造内の空間エネルギー分布流は不明だ。結局は、磁性体内と誘電体内で同じような軸性エネルギー流になるかも知れない。前にコイルとコンデンサの磁気ループ (2016/07/13) に考え方を示したが、誘電体での微視的分子構造までは考えていなかった。電極間の『エネルギー』不均衡分布が電圧だという解釈との整合性をどう認識するかの課題かもしれない。

何が電池電圧を決めるか?

電池電圧と『エネルギーギャップ』 (2016/05/08) で考察したが、『電子』ではその訳を説明できない筈だ。電池は『エネルギー』の貯蔵器で、『エネルギー』を使っても端子に現れる電圧は常に一定値である。その電圧を決める意味には『電圧』とは何か?の「問」が示されている。『エネルギー』と電圧の関係が問われている筈だ。ここにまとめの意味を含めたい。

色即是空と物理学

 色即是空という文言が表す意味は、簡潔にして深い内容を言い表している。東洋哲学の究極の至言と思う。

 仏教の教えとも採られるが、そうではない筈だ。インド哲学に代表される東洋哲学の到達の至言だと思う。古代の知識人の思索、文化活動の究極の姿が神秘な世界・死後の世界の哲学的な解釈と繋がって来たのも当然の事ではあっただろう。自然世界・人の精神活動・動植物の生態の不思議を突き詰めれば、全てが謎であった筈だ。その姿を突き詰めた結果が、色即是空の至言に昇華したと観たい。古の時代の文明が宗教的な形式に深く結びついて、人々を導く精神的な拠り所となって来たことが当然であった筈だ。その意味で文明の社会的基盤が宗教であったとも言えよう。「魔訶般若心経」というお経として捉えられていようが、その中の文言の『色即是空 空即是色』は自然世界を深く究明した哲学の要点である筈だ。

 一方、西洋哲学もギリシャをはじめ、自然世界の解釈の思考形式が少し東洋的なものと異なる方向性を辿ったのであろう。大きな違いは、自然現象を人間が有効に利用する方法を探る方向性が強く影響して来たように思える。

 自然科学は西洋哲学の思考の方向性が開拓した文化・文明であると見做した。それに対して、色即是空は東洋哲学の思考の方向性が生み出した精神文明であったように思える。

 その事を、纏めれば『色即是空』と『物理学』に分けることが出来よう。『色即是空』と『物理学』の大きな違いは自然世界の観方が全く正反対なのである。

 日本に西洋文明が入って来たのは、鎖国から開かれた明治時代以降である。それ迄の生活様式とまるで違う世界を経験し、その便利な生活様式の導入に取り組んできた。それが物理学という学問であったのだろう。

 一方『色即是空』は『物理学』の思考と全く異なるのだ。

 『物理学』は論理性をその思考の中心に据えた学問体系で、その思考の論拠となる基本概念を創造構築して、体系を整えてきた。その基本用語・概念が質量、力、空間、時間、速度、原子、分子、電荷、電子、陽子、光量子、素粒子等々、多くの概念である。

 それに対して、東洋哲学では『色即是空』以外に他にない。老子の『道』もそれに近いか。『色』は自然世界にあると人が認識できる物『物質』、『質量』等を対象として取りまとめて表現した用語である。しかしその『色』という手に取ったり、目の前に見る事の出来る物も、その究極の姿、本質は『空』である。目の前に在る物即ち『色』も、結局は何も無いと同じものに変幻してしまうものだ。という一つの悟りとしての捉え方で理解する。これはアインシュタインが唱えた『質量とエネルギーの等価性』の意味に繋がる意味であろう。

 E=mc² [J]

 この式が表現するエネルギー E (ジュール)[J] は原子核分裂現象に基づく物理現象で発生する、空間に生まれた熱エネルギーを評価する物理量 [J] を表していると思うが、物理学理論にはそのエネルギー量という物理量を認識していないようで、誠に不可解な事である。『エネルギー』とは何かと問えば、『物が仕事をする能力』と定義づけている。原子核分裂で発生する熱エネルギーは空間に存在する『エネルギー』と認識しないのか?

 『色即是空』の『空』は、焚火で燃やせば燃料の木は熱となって、手の中に捉える事の出来る物では無くなってしまう。跡形もなくなると言う実相を捉えた解釈であったのだろう。その熱はまた姿を変えて、何処かで新たな姿でこの自然世界に生まれ変わるのだという『輪廻転生』の思想で捉えたものであろう。しかし、古のこの『色即是空』という至言に到達した時代から、『空』の意味をどう解釈したかと言えば、その認識はまだ明確ではなかっとだろうと思う。『空』が『エネルギー』であると言う空間概念・物理量の認識は勿論無かっただろう。

 焚火に当たっても、その炎の照り来る熱を、その物理的意味をどう認識すれば良いかは分からなかったのではと思いたい。その意味は西洋哲学、物理学理論の近代思想によって改めて、理解できた筈だ。それが『エネルギー』の流れだとはなかなか理解出来なっかったのではないか?

 その『エネルギー』が空間を流れるという自然現象は、現代物理学理論でさえ、未だに認識していないのではないか。『電磁エネルギー流』が電気回路空間を電源から負荷まで伝送されているという自然現象の本質を!決して『電荷』や『電子』が電気回路で流れている訳ではない事を!

 東洋哲学の根底には、その思考には『削ぎ落し』による根本を求める思考特性があったと。それはイギリスの、Bertrand Russell 卿が唱えた、「質量は単にエネルギーの一形態である、・・・物理学において基本的なものは物質ではなくエネルギーである。」に通じるものである。

 この空間に満ち溢れている『エネルギー』を自然科学論の根本的認識に据える事が必須の要諦である。特に理科教育で!
 決して『エネルギー』を構成する素粒子など自然世界に実在しないのだから。

電圧・電流―その用語の社会的意義と物理的実相―

電圧・電流とは、自然世界におけるどの様な物理量を表現した技術概念か?電気量か?その意味を考究してみよう。初めにお断りさせて頂きます。ここで述べる解釈論は、余りにも現代の学問体系から学問として認められた自然科学理論とは異なる論である。所謂科学論としての常識と真っ向から異なる論であることをお断りさせて頂きます。

電圧と電流、これほど日常生活で馴染みの深い科学用語もなかろう。現代社会生活を営む上で、誰もが知っている用語だ。それは電気エネルギー消費の生活基盤となっているから、常に意識して生活している科学技術用語だ。

その単位がボルト[V] とアンペア[A]であり、その意味を誰もが知っている。だから電気技術、電気回路論で共通に理解し合える訳で、実生活で欠くことのできない科学技術用語・概念である。今から200年~150年ほど前に、世界的な合意の下で完成した用語であり、その御蔭でここまで豊かな科学技術の世界を享受できる事になっているのだ。西洋文明の御蔭だ。

しかし、不思議な事にその用語と単位の意味を殆どの人が、的確に把握できていないのである。その訳が驚くべきことに、物理学理論が極めて曖昧な論理で科学用語を創り出して来た、その長い過去の歴史的な科学研究の世界に原因があるのだ。と言う事は、現代物理学理論を構築してきた科学者の皆さんが、『電荷』、『電子』によって自然現象を科学的な論理で矛盾なく理解できるとお考えになって来られた結果だと言う事になる。そんな事がある訳は無いと、誰も信じたくないであろう。しかし、残念乍らそれが本当の事なんだ。どうか電気回路での『電子』の機能を考えてみてください。電気回路で、電源から『電子』がどの様な機能で『エネルギー』を負荷に伝送するのか?どんな機能を発揮して、電源内から『エネルギー』を負荷に届けるのか?その『エネルギー』の伝送の理屈を明確に示し得るかどうかに掛かっているのだ。しかし、『電子』は電気回路で、『エネルギー』の伝送機能など全く発揮できない仮想概念であったのだ。

上に述べた不可解な意味が科学研究の、正にその中に在ると言う意味を中々御理解頂けないかも知れない。即ち、科学技術文明の社会的意義とその基礎理論の間に得も言われぬ不可解さがあると言う事なのだ。

最も重大な誤りは、自然世界に実在しない『電荷』が存在すると解釈した事である。その『電荷』概念に基づく抽象粒子『電子』と『陽子』などを創造してしまった事だ。『正』と『負』の『電荷』間にどのような空間的作用力が働くかの論理的蓋然性もなく、クーロンの法則と言う解釈論に従った『力』を論拠に構築した結果にその原因があると考える。

電圧・電流と言うと、そこには長く習慣的な科学法則に習熟した頭脳の蓄積知識に基づき、無意識に『電荷』が頭の中に呼び起されることだ。それ程科学理論の論理的解釈概念に『電荷』が強く植え付けられてしまったのだ。教科書が『電荷』、『電子』と言う抽象的な構築概念によって構成されているから、そこの問題をどの様に構築し直すかに、現代的科学理論の再構築の喫緊の社会的課題が突き付けられているのだ。基礎から科学理論の論理性を再検討すべき学会の問題に掛かっているのだ。科学技術開発とは異なる、子供達に対する大人の真摯な教育に対する社会的責任として考えなければならない問題の筈だ。

このような基礎概念『電荷』や『電子』は、実際には有っても無くても、科学技術の開発研究競争には、ほとんど無関係の事なんだ。ジェット機が飛び、ドローンが様々の状況の調査に活躍し、工場の生産機能は複雑なロボットの働きに因って高度な生産性を実現してきた。決して『電子』などがどの様に流れるか流れないか等、実際の技術開発においては『電子』の存在など全く関りが無いにも拘らず、学校教育において、教科書ではとても重要な基礎であるかの如くに解説されている。記憶して置くべき重要な科学理論の根幹を成す基礎情報となっているのだ。金属銅線を繋げば、そこを電流が流れて、回路動作が設計通りに働くのだ。電線の金属導体内を流れるものなど何も無いにも拘らず、全く『電子』など流れる必要もないにも拘らず、物理学基礎教育では『電荷』や『電子』の必要性が特別に詳しく取り上げられる。この電気回路で、『電流』が流れる理屈は無いと確信したのが、1987年8月5日であった。その研究界での発表は(1987年10月8日)巻末〈資料〉。この時は既に、電磁エネルギーと言う物理量が空間を流れていると、何の違和感もなく当たり前の事と認識していた。

それにしても、電圧と言う概念はとても便利な、利用価値の高い計測量であることには間違いないのだ。電圧は電圧計で測定できる数値量である。同じく電流と言う概念量も電流計で測定できる数値量で、それ無しに電気技術理論は成立しない。この計器で測定できると言う点で際立って、実社会における共通理解の概念量として有意義であるのだ。しかし電流が『電荷』の時間での微分値と言う定義量に成っているところが大変悩ましいことになる。電流の単位アンペア[A] =[C/s}と言う『電荷』との関係で定義されて、MKSAの単位系の基本となっているから。だから、『電荷』を否定するような、物理学理論の根幹を否定するような論法の解釈論は、科学論として理解されるにはとても大きな壁に立ちはだかれる訳で、とても悩ましいことになって来る筈だ。だから科学理論と言う研究内容としては桁外れの領域のものになるのだろう。誰もが反感を抱きそうな内容・論法になるから。

もう一つの重大な誤りは、『エネルギー』と『エネルギーギャップ』の空間的その像の認識が無いと言う点である。その代わりに、『電荷』概念を取り入れてしまったところに、物理学理論の論理的混乱の原因があると解釈する。

この『エネルギー』の空間概念を認識できない科学理論、物理学理論を野放しにしたまま科学技術研究等と言う、大学教育を進めて良いものだろうか。大学は企業研究とは経済的競争と言う面から異なる学問的責任があると思う。技術研究の場で、回路を流れる電流と言う用語は、必ず『電荷』の流れと言う物理学理論の基本から意識が離れない。それでは『電荷』が導線内を流れると、負荷までその『電荷』はどの様な機能を発揮すると言うのか?など詳しい論理的な意味を誰も考えないのか。とても曖昧な解釈論で済ませてしまっているのだ。

電圧・電流と『空間エネルギー』

電圧も電流も、その科学技術概念を、もはや『電荷』概念で解釈できるような物理量ではないのだ。自然世界に現実に実在する、『エネルギー』を認識しない科学理論が矛盾なく、この自然世界を解釈できるような事は不可能な事だと知るべきだ。電圧も電流も、金属導体で囲まれた空間内での『エネルギー』の状態を解釈する技術概念であったのだ。『電荷』など全くの仮想概念で、少なくとも電気回路現象ではその存在価値など何も無いのだ。『エネルギー』と言う見ることも、その空間分布を測定することも出来ない、全く新しく認識すべき物理量『エネルギー』の空間像で、電圧も電流も認識しなければならない時代になったのだ。

電圧とエネルギー


今まで『電荷』で解釈してきた電圧の意味が、『電荷』でなく見えない『エネルギー』の分布模様で解釈すべきものとなった。電線を空間に張れば、その電線間にはある空間構造が形成される。その空間構造は、導体の形状である貯蔵機能容量[F]値が決まる。その電線の1[m]当たりの空間の解釈法として静電容量[F/m]で捉える手法が有効である。この過去の手法での『静電』という意味は全く無い。静電と言う言葉は、コンデンサの過去の解釈法の意味と関係付けただけである。コンデンサで貯蔵するのは『エネルギー』以外無いのだ。静電荷など全く無意味な概念なのだ。だから空間の貯蔵できるという意味でエネルギー容量とでも表現すれば、実際の意味に近い用語になる。
更に、同様に エネルギー慣性 L[H/m] という意味で今までのインダクタンスを表現した。エネルギー慣性と言う訳は、インダクタンスLは『エネルギー』の流れを抑制する機能である。光の光速度の意味は、空間を流れるエネルギーに慣性的な流れを抑制する空間構造の機能がある、それを今までインダクタンスL[H]と言う表現で捉えていた訳である。エネルギーの流れを抑制する意味で、力学の質量に対する慣性に似た意味でその特性をエネルギー慣性定数L[H/m]と表現した。

『エネルギー』と言う物理量の特性。それは空間に不均等に分布する基本的特性を持っている。更に物質にはその物質特有の他の物質との接触間に基本的に、『エネルギー』のギャップが生じる。例えば、半導体の PN 接合間には差が生じる。電圧をその極性でプラス、マイナスで捉える評価法が一般だ。そのマイナス側が『エネルギー』の高分布側である。プラス側はエネルギーの無い側に成る。図の青色で表現した『エネルギー』の密度分布を科学的測定での検証はできない。この分布勾配の強さが、いわゆる電界の強度になる。

電流とエネルギー

電流と言う大切な電気回路理論の概念量のアンペア I[A]は何を捉えた物理量かと言えば、それも電線路の空間を流れる『エネルギー』の量を捉えたものだった。回路にはその構造から決まるエネルギー伝送特性を決める特性インピーダンスZo[Ω]が決まる。電気回路の負荷によって、電源から伝送されるエネルギー量が負荷抵抗R[Ω] と特性インピーダンス Zo との関係から決まるとても簡便な関係にある。
負荷係数 α を
R/Zo= α なる関係で捉えれば、
電源から負荷への伝送エネルギー流 δi [J/m] は
δi = δv/α² [J/m]
なる関係で捉えられる。

この伝送エネルギー流の大きさ・数量を測定する技術として電流計が開発された訳である。この電流 I[A] の次元には『電荷』は必要がなく、
I= √(δi/L)^1/2^ [(J/H)^1/2^]
なるエネルギーのジュール値[J]の関係量であったのだ。

電気回路特性は今までのように、『オームの法則』で十分解析できる訳で、何も変わる事は無い。

しかし、『オームの法則』の輝かしい解釈技術と『電子』と言う自然世界に実在しない科学論的仮想概念『電荷』の[C=クーロン]での物理学理論は自然科学論としては、その矛盾から逃れられない運命にある。

この論の基礎は〈資料2〉の1987年4月の発表内容にすべて含まれている。電磁界現象は『エネルギー』の空間伝播現象であり、全ての視点が『エネルギー』一つの物理量から説き起こされる。今までの物理学理論、電気磁気学理論での電界も磁界も空間の『エネルギー』分布の解釈概念量であったのだ。

〈資料〉 電磁エネルギーの発生・伝播・反射および吸収に関する考察  電気学会、電磁界理論研究会資料 資料番号:EMT-87-106 。(1987/10/08)。
〈資料2〉『静電界は磁界を伴う』