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『電圧』その物理的意味

(2024/02/22).

 前の記事で言い過ぎたかと反省している。

 『電圧』の物理的意味が、どの物理学者も答えられない不可解な状態に在るのだ。等と反感を買う恐れ多い事を印した。しかし、その意味は『電荷』が『電圧』の物理的原因だと考える限りでは、『電圧』の物理的意味を理解していないと言わなければならない。そこで、『電荷』と言う物理量の意味不明を問題にしたい。

 『電荷』とは何か?
 『電圧』という意味を解釈するには、先ず『電荷』と言う伝統的基礎概念の物理的意味をハッキリさせなければならない。電気磁気学と言う物理学理論の一つの基幹分野がある。その物理学理論の基幹概念が『電荷』であろう。その『電荷』の物理学的意味を明らかにしなければ、『電圧』という科学技術用語・概念の意味も明らかにはできないと思う。
 誰もが何時でも何処でも、『正電荷』『負電荷』と言う物理量が思い通りに、いとも簡単に発生・消滅するような解釈を展開できる。しかし筆者には『正電荷』という意味が解らないのだ。電気回路でコンデンサと言えば、『正電荷』と『負電荷』がそこに貯蔵されると言う。然し『正電荷』は物理学では、原子核の『陽子』しか持っていない筈だ。その『陽子』は正の電荷と質量から成り立つ素粒子のようだ。他に物理学理論では『正電荷』を保有した物理的実在は無いと考える。従って、電気回路のコンデンサの正電極側に現れる『正電荷』とは一体陽子関係以外何が考えられるのだろうか。『陽子』の質量が身に纏った衣類の様な物が『正電荷』かと考えざるを得ない。更に、『負電荷』も同じことで、『電子』の質量が身に纏ったものが『負電荷』で、それがコンデンサの負電極側に現れる『負電荷』の意味かと考えざるを得ないのだ。こんな余りにも素人的な疑問が、本当はとても重要な意味を持っている筈なんだ。高度な科学論での学術論は、その専門家しか理解できない様な専門用語の羅列で論理が展開される。そのような専門的科学論では、『電荷』がどの様な物理的実体かは全く疑問も持たれずに、その存在は至極当たり前のものとして共通に理解されている。筆者は50年も前に「アンペア―の法則」に疑念を持ち、1987年春には『静電界は磁界を伴う』で『電荷』の物理概念に疑いの発表をした。その夏には遂に『電流』概念の矛盾に気付いた。その後、様々な視点から多くの物理学理論の解釈論と自分の感覚的認識との間のズレを対象に思考を重ねて来た。自然現象の統合的論理性を求めた時、マグネットの電磁力の解釈で Axial energy flow と言う磁場解釈がその要であるとの認識に至った。磁束の物理学的無意味さが決定的な認識の方向性に道を開いてきた。全てが『エネルギー』の流れと言う単純な空間像から、科学実験では計測も、認識もできない意味を知った。現在は、完全に『電荷』が物理学理論の混迷概念の基となっているとの認識にある。

 電気回路現象で重要な事は、電線路の空間を伝送する主役は『エネルギー』である。決して『電荷』や『電子』などは無意味な物理概念である。

 さて、『電荷』概念の矛盾を述べたので、漸く『電圧』の物理的意味を述べることが出来る。『電圧』は『電荷』等では解釈できない概念なのだ。『電流』も『電荷』の流れ等ではない。物理現象として重要な事は『エネルギー』は空間でその本領を発揮すると言う事だ。
 電気回路の『エネルギー』伝送機能を正しく認識するには、電線路の導体で挟まれた空間がその舞台になるのだ。決して導体の中を『電子』など流れないのだ。そもそも自然界に『電荷』等と言う物理量は存在しないのだから、他に何がとなれば『エネルギー』以外無いのだ。今回は、そんな事から電気回路の物理現象の意味を『電圧』という意味を取り上げて、解説しようと思った。

 電気エネルギーも電波のエネルギーも光のエネルギーも基本的には空気や絶縁体空間を流れるのだ。その流れ方を規定するのが、電気技術理論での『静電容量 C
[F] 』と『誘導特性 L[H] 』である。

 その回路定数と電気回路の物理的状態の関係を理解して欲しい。この回路は電線路の回路特性 (2021/08/11)で取り上げた回路である。
 この回路は『電圧』の物理的意味を考えるに役立つ。回路は極めて単純である。直流回路で、電源電圧が電圧値Vである。電気回路が図のように、(A)部と(B)部からなる。負荷は抵抗である。(A)部と(B)部の導体の太さ d や線間間隔 D が違うだけだ。当然この回路の何処で『電圧』を計っても同じ値 V である。しかし(A)部と(B)部では物理的状態は異なるのだ。それは電気回路の回路空間などが違うことで、回路特性が異なる為に生じるのだ。回路の静電容量 C[F] はどの様な機能を持つか。また、インダクタンス L[H] はどの様な機能の定数か。

 C[F] と L[H] の機能。
 静電容量と言うC[F]はその空間に『エネルギー』をどの程度貯蔵するかを評価する電気技術的概念量である。この用語の表現に静電と言う言葉が使われている。静電という意味は正と負の『電荷』が対峙した、その間の空間の状態を言うように学習させられている『静的空間』と関係した『静電荷』との連想に繋がる。しかし、コンデンサは『電荷』等を貯める機能ではないと認識を改めなければならない。

 次に、インダクタンスと言う L[H] はその空間の『エネルギー』の流れる速さを制限する機能要素と考えたら良いだろう。
 回路の空間には、C[F] によってエネルギーの分布量を決める特性がある。その回路空間のエネルギー分布量に対して、L[H] によって時間的なエネルギーの通過量を決めることになる。負荷の値に関わらず、線路空間に分布するエネルギー量が決まり、そのエネルギーの流れ方が決まる。静電容量とインダクタンスの回路定数で、その電気回路空間の『エネルギー』の伝送特性が決まる。

 電気回路の『エネルギー』の伝送速度は回路定数が決める。

 伝送・通過時間は T = √(CL) [s]
となる。

 電線路単位長さ当たりの回路定数が、 C[F/m] , L[H/m] とすれば、

 『エネルギー』の伝送速度は c= 1/√ (LC) [m/s]
となる。

『電圧』の意味を纏めれば、次のように言えよう。

 

常識外れの道端での科学論

過去を振り返ってしまう。

比較的価値があると思う記事が、エネルギー流と定在波だ。

 実は、電力用変圧器の物理現象を解説しようと思った。変圧器の原理は『ファラディーの電磁誘導則』によって19世紀初めに唱えられ、現在の基礎理論と成っている。それが全ての教科書の解説理論である。『磁束』という技術概念を導入しての理論である。しかし『磁束』という物理概念が現実にこの自然世界にある訳ではない。あくまでも科学技術解釈用の概念として導入されたものである。これから論じようとする電力用変圧器の動作物理的原理と定在波の関りとしての科学論は、現在の科学論文として取り扱う分野は無いだろうから、ブログ記事か。そんな高校生の為の教育での教科書問題になるかと思う。

 (2023/08/15) 追記。ここで取り上げる変圧器の物理現象という意味は、『エネルギー』の流れとしての解釈論を念頭に置いている。それは、コンデンサ(容量 [F] )とコイル(リアクトル、変圧器 [H])の間に於ける、『エネルギー』の貯蔵機能としての関係からの解釈論である。コンデンサとコイルとの間における相似性と相違性に関する考察である。自然界は『エネルギー』一つに支配された世界との基本認識に立てば、そこに行くことは自然の流れであろう。技術解釈用概念の『磁束』や『電荷』の自然界に存在しない仮想概念量に縛られない、真の自然世界の物理現象の解釈法を考えての意味だ。

上の定在波は、新潟県立新津工業高等学校で、最初の担当であった『電子工学』の授業の内容で、高周波定在波の意味が解らなかった。そこで、ある事業所の払い下げの通信機を頂いて、それを分解して、発振器部分だけを利用させて頂いた。実際の通信での実用製品だから、とても強力な電磁波発振器であった。真空管は、双三極管(2B29)である。発振周波数は160MHz である。最近気付いたが、その生徒実験に適用した回路構成は、変圧器と同じく、発振器と分布定在波回路とは直接繋がっていない。言わば、変圧器と同じく、空間を通したコイル間の電磁結合となっている。言ってみれば、160MHzの正弦波電磁結合で、基本的には空芯の変圧器結合である。空芯でも、高周波だから所謂技術概念の『磁束飽和現象』は起きないで変圧器動作が可能なのだと解釈できる。この空芯結合変圧器の物理現象は電力用変圧器の動作原理と、自然世界の実相から見れば、至極当然の事なのだ。新潟県立新津工業高等学校での生徒実験実習用の研究が物理学理論の置き忘れた『エネルギー』の実在性の解説になるとは不思議な事だと思った。当時、教育・研究者としての身分が有ったのか無かったのか❓❓。学術的研究でない、市民科学としての自然科学論が大切かと。専門家が取り組まない科学論。

変圧器の物理現象とエネルギー伝送 の前に。

更に、この記事の前に二つの記事がある。『エネルギー』一筋の道 (2021/02/24) と 科学教育の未来を問う (2021/02/27) である。

色即是空と物理学

 色即是空という文言が表す意味は、簡潔にして深い内容を言い表している。東洋哲学の究極の至言と思う。

 仏教の教えとも採られるが、そうではない筈だ。インド哲学に代表される東洋哲学の到達の至言だと思う。古代の知識人の思索、文化活動の究極の姿が神秘な世界・死後の世界の哲学的な解釈と繋がって来たのも当然の事ではあっただろう。自然世界・人の精神活動・動植物の生態の不思議を突き詰めれば、全てが謎であった筈だ。その姿を突き詰めた結果が、色即是空の至言に昇華したと観たい。古の時代の文明が宗教的な形式に深く結びついて、人々を導く精神的な拠り所となって来たことが当然であった筈だ。その意味で文明の社会的基盤が宗教であったとも言えよう。「魔訶般若心経」というお経として捉えられていようが、その中の文言の『色即是空 空即是色』は自然世界を深く究明した哲学の要点である筈だ。

 一方、西洋哲学もギリシャをはじめ、自然世界の解釈の思考形式が少し東洋的なものと異なる方向性を辿ったのであろう。大きな違いは、自然現象を人間が有効に利用する方法を探る方向性が強く影響して来たように思える。

 自然科学は西洋哲学の思考の方向性が開拓した文化・文明であると見做した。それに対して、色即是空は東洋哲学の思考の方向性が生み出した精神文明であったように思える。

 その事を、纏めれば『色即是空』と『物理学』に分けることが出来よう。『色即是空』と『物理学』の大きな違いは自然世界の観方が全く正反対なのである。

 日本に西洋文明が入って来たのは、鎖国から開かれた明治時代以降である。それ迄の生活様式とまるで違う世界を経験し、その便利な生活様式の導入に取り組んできた。それが物理学という学問であったのだろう。

 一方『色即是空』は『物理学』の思考と全く異なるのだ。

 『物理学』は論理性をその思考の中心に据えた学問体系で、その思考の論拠となる基本概念を創造構築して、体系を整えてきた。その基本用語・概念が質量、力、空間、時間、速度、原子、分子、電荷、電子、陽子、光量子、素粒子等々、多くの概念である。

 それに対して、東洋哲学では『色即是空』以外に他にない。老子の『道』もそれに近いか。『色』は自然世界にあると人が認識できる物『物質』、『質量』等を対象として取りまとめて表現した用語である。しかしその『色』という手に取ったり、目の前に見る事の出来る物も、その究極の姿、本質は『空』である。目の前に在る物即ち『色』も、結局は何も無いと同じものに変幻してしまうものだ。という一つの悟りとしての捉え方で理解する。これはアインシュタインが唱えた『質量とエネルギーの等価性』の意味に繋がる意味であろう。

 E=mc² [J]

 この式が表現するエネルギー E (ジュール)[J] は原子核分裂現象に基づく物理現象で発生する、空間に生まれた熱エネルギーを評価する物理量 [J] を表していると思うが、物理学理論にはそのエネルギー量という物理量を認識していないようで、誠に不可解な事である。『エネルギー』とは何かと問えば、『物が仕事をする能力』と定義づけている。原子核分裂で発生する熱エネルギーは空間に存在する『エネルギー』と認識しないのか?

 『色即是空』の『空』は、焚火で燃やせば燃料の木は熱となって、手の中に捉える事の出来る物では無くなってしまう。跡形もなくなると言う実相を捉えた解釈であったのだろう。その熱はまた姿を変えて、何処かで新たな姿でこの自然世界に生まれ変わるのだという『輪廻転生』の思想で捉えたものであろう。しかし、古のこの『色即是空』という至言に到達した時代から、『空』の意味をどう解釈したかと言えば、その認識はまだ明確ではなかっとだろうと思う。『空』が『エネルギー』であると言う空間概念・物理量の認識は勿論無かっただろう。

 焚火に当たっても、その炎の照り来る熱を、その物理的意味をどう認識すれば良いかは分からなかったのではと思いたい。その意味は西洋哲学、物理学理論の近代思想によって改めて、理解できた筈だ。それが『エネルギー』の流れだとはなかなか理解出来なっかったのではないか?

 その『エネルギー』が空間を流れるという自然現象は、現代物理学理論でさえ、未だに認識していないのではないか。『電磁エネルギー流』が電気回路空間を電源から負荷まで伝送されているという自然現象の本質を!決して『電荷』や『電子』が電気回路で流れている訳ではない事を!

 東洋哲学の根底には、その思考には『削ぎ落し』による根本を求める思考特性があったと。それはイギリスの、Bertrand Russell 卿が唱えた、「質量は単にエネルギーの一形態である、・・・物理学において基本的なものは物質ではなくエネルギーである。」に通じるものである。

 この空間に満ち溢れている『エネルギー』を自然科学論の根本的認識に据える事が必須の要諦である。特に理科教育で!
 決して『エネルギー』を構成する素粒子など自然世界に実在しないのだから。

エネルギーの姿・象

物理学理論で認識されていない概念が『エネルギー』である。

その代わり、自然世界に存在しない概念、『電荷』や『電子』が科学論の基礎概念となって理論が構築された。

『エネルギー』を意識しない科学論。科学論文はその専門分野に特化した特殊な『専門用語』で論理が展開される。専門家はその専門分野での高度な先端研究を対象にするから、それは止むを得ない事だ。しかし、その科学論はその専門用語が狭い専門家の為の世界観での解釈となるため、抽象的な表現に思えて、具体的生活空間から乖離したものとも見えて、解釈理論が理解困難となる弊害にもなる。基礎概念が曖昧なまま、教育現場に下ろされ、理解できない未消化な科学知識の市民科学リテラシーとなる。その最大の問題が『電荷』である。検索情報にも、『電荷』とは何か?という当然とも思える質問が提起されている。しかしそれに対して、回答者は、余りにも根本的で・・と答えることが出来ずに、逃げている。

エネルギーの形象。

光・熱。電気。圧力。

エネルギーの諸相

 

このブログでも、『電荷』という虚像 (2011/04/08) 、エネルギー(energy)とは? (2011/09/07)  などから始まった。

自然に対する観方は、自然科学理論では科学技術のための特殊な概念に因ったものになる。そこに『電荷』や『電子』という自然世界に存在しない概念が創造された。

自然界は極めて純粋である。それは『エネルギー』一つで構築された世界である。湯川秀樹が『混沌』と言ったものでもある。世界はエネルギー一つに集約されると、バートランド・ラッセル博士が述べた事でもある。

現在の物理学理論を唱える時、空間に実在する『エネルギー』の存在を意識できていないと言う、大きな理論の矛盾を抱えたものになっている。

上の図、エネルギーの諸相に、科学技術や自然現象が『エネルギー』によって生まれた世界であることに纏めてみた。質量も『エネルギー』の集約された象である。だから、 mc²[J] と『エネルギー』に変換される意味なのだ。

少し関連記事を挙げておく。

光・熱・電気。 雷の正体 (2012/11/13) 。焚火の科学 (2018/05/26)。白熱電球のエネルギー変換技術は? (2018/02/12)。新電気回路理論 (2022/09/01)。

回転動力。 発電技術とエネルギー空間 (2022/05/28) 各部ごとの詳論が未だ未完だ。

膜・弦振動。三味線と縦波 (2012/02/07)。糸電話―力学的解剖― (2014/03/06)

 

 

コンデンサと ❓(+電荷)

(2022/04/12)。分からないのは自分だけか?誰も疑問を抱かないのか?『電荷』と言う不可解な物理量。何世紀もそれは物理学理論の、自然科学理論の、理論物理学者が異論を唱えない基礎概念として厳然と権威の砦と成っている。

筆者の確信。決して自然世界に『電荷』など存在しない。もう一度教育に関わる行政機関の関係者、教育担当者全てに問いたい。

何か「浦島村の秘密基地竜宮城の住人」の如く、科学理論の別世界から眺め続けている様な気分だ。「俺の出番はきっと来る」等と歌の文句に合わせてここまで来た。しかし『電荷』が自然世界に実在しない真理を伝えるに、何処に人を相手に説得する道があるのか、観えない。

今日も子供達が、教科書と言う権威の基で、『電荷』の怪しい世界を学習して居ると思うと、一人悲しみに耽る。

電気理論の『電荷』について、もう一度筆者が理解できないその基礎論理の易しい不可解解剖論を展開して置きたいと念じて。実は、電荷と科学リテラシー (2021/02/10)でも述べた。もう少し具体的に『電荷』の論理矛盾を述べたい。

コンデンサに電圧を印加する。コンデンサにはプラス側とマイナス側の電極版に『電荷』が貯蔵されると学校で教えられる。プラス側には『+電荷』が集まると言われる。

『電荷』の(+)と(-)の違いはその空間像にどのような違いが有るのか?自然世界の空間に実在すると専門家が唱える『電荷』の姿を明確に示すことが科学者の社会的責任であろう。科学理論に『曖昧さ』が有ってはならない。教育に学説に従うだけの考えない姿勢は許されない筈だ。そのような意味で、もう一度『電荷』の意味をコンデンサの充電現象を例として問い質したい。

『+電荷』とはどの様なものか?

今上の電気回路で、電源にコンデンサ C[F] をスイッチで繋いだ。電気理論では電流が流れてコンデンサが電源電圧によって充電される。

① この時『電流』とは何が流れるか?

(解答)決して『電子』が電線金属内を流れる訳はない。しかし、巷の専門家らしき人の解説では、『電子』が『電流』の向きと逆向きに電線内を流れるとの解説が溢れている。電線金属内を『電子』が流れるには、電気理論に因れば、その電線金属内に『電界』が掛からなければ、『-電荷(電子)』には力が掛からないから動けない。即ち『電子』には流れる力が働かない。ところが、以前日本物理学会で同じ話を発表したら、座長さんが金属内にも電界は在りますよと仰った。それには、じっくり1時間程かけて、公開の場で議論をしなければ伝わらないと、ただただ驚いてしまった。その電界で『電子』が金属内を加速されるのかと。

② (+電荷)を担うものは何か。

コンデンサの正電極側に(+電荷)が集合すると言う、その『電荷』は何が担うと考えるのか。実に不可解な事は、『電荷』は自由に(+)も(-)も幾らでも、教科書によれば、質量など無関係にただ『電荷』だけがコンデンサには貯蔵できると解説される。(+電荷)は原子核の『陽子』か、素粒子加速実験で、『陽電子』等にも対象が広がるようだ。それ以外(+電荷)は思い付かない。(+電荷)とは何かを示さなければならない筈だ。『電子』が『電流』と逆向きに流れると言う論理で、コンデンサの『電荷』貯蔵の解説が何故出来るのか、理解できない。

③ (-電荷)は『電子』なのか。

論理的には、『電荷』だけで質量は不用の意味と考える。質量に無関係な(-電荷)だけが欲しいのだと思う。しかし、質量なしには力の論理は成り立たない。結局『電荷』概念での論理そのものが矛盾なのだ。

むすび。 余りにも専門家の解説、教科書の論理と異なる、素人解釈と見做される内容を基に科学理論の基礎概念の矛盾を取り上げた心算だ。昨年の記事、2021年(1)-電子・電荷論と教育危機 (2022/01/10) にも関連した内容だ。『電荷』否定は科学理論の根幹を否定する科学革命のようで、とても気が重い事であるが、自然の真理と思えば教育の未来に議論が欠かせないと思っている。『静電界は磁界を伴う』の実験結果が現在の科学理論の意味・論理性を問うのである。

電流計は何を計るか(2)

初めの頃の記事、電流計は何を計るか (2010/11/10) で、少し長い記事だが磁気の関係を論じた。

電気回路について前の記事で漸く、電線路の回路特性 (2021/08/10) の認識に辿り着いた。線路空間を伝送する『エネルギー』が電気回路の機能の眞相であった。それでは電線路に繋ぐ電流計は何を計るのかと、新たな疑問が浮かぶ。

この記事(下書きは、8月28日で止まっていた。)を書くために、その準備が必要であった。平行二線式回路の定数について がそれだ。

 

図は電灯回路だ。電源は電池の直流電圧だ。

図(1)はプラス側の電線路にコイルLaaが付加されている。このコイルはどんな働きをするのだろうか。直流回路でコイルはどのような機能を持つと考えるか。さらに、プラス側の電線路には『エネルギー』は分布しないと今まで解説してきた。図(2)の電流計の接続との関係も含めて考えてみよう。電流計接続はプラス、マイナス側のどちらでもほとんど変わりなく、同じ値の計測値を示す筈だから。

このような簡単な回路で、電気現象を考えることに科学理論としての価値をどの様に観るだろうか。

その検証は学術理論の専門家の科学論の世界に入って論じても、無理である。『電子』否定の科学論が愚直に、真剣に考えて頂けて意味を持つのは、このような中学生にも解る単純な電気現象にこそ、そのカギが隠されている。今もって、電気回路で『電子』が『エネルギー』を如何に負荷に伝送するかの機能を高度な物理学理論を研究なさる専門家は誰も説明しない。それは論理的に理論が矛盾に満ちているから、『エネルギー』を負荷に伝送するための、どの様な『電子』の具体的機能によって『エネルギー』の保有を担うかの合理的解釈が出来ないからである。

(1)の回路。直流では、定常状態でコイルはインダクタンスとしては機能しない。周波数が無いから、ω=0 であり、ωL=0 である。電源電圧 V「V] とすれば、電流は

式   I=V÷R [A]

となり、コイルのインダクタンスLaa[H]は式には現れず、負荷に影響を与える意味は無く、『エネルギー』伝送に何の意味も持たない解釈となる。

コイル内の『エネルギー』を考えてみよう。電流の式にはコイルの意味は現れない。しかし電気回路内の現象で、コイルが全く存在しないと同じかと言えば、そうではない。コイル内には必ず『エネルギー』が貯蔵される。その『エネルギー』をどの様な物理量と認識するか、それは科学理論での『エネルギー』の概念とは何を指すのかの問題でもある。市民が学校教育で受けるべき科学リテラシーの基礎的素養としての内容に関わる問題でもある。コイル内の空間に実在すると考えるか、数式上の抽象的な意味で考えるかの問答である。

答えは空間には『エネルギー』が実在するだ。それが自然世界の物理的(物理学理論的ではない)実像である。しかし、ここ迄科学技術が進展し、ドローン空撮、極超音速ミサイル、自動運転自動車等空恐ろしい程の、予測し難い未来社会に突入しようとしている。技術は進展すれど、自然認識の基礎となるべき現代物理学理論が余りにも前時代的な認識の誤りの中を彷徨う現状を恐ろしいと思う。

『エネルギー』が空間に実在する物理量だと見做せない意識の中に、基礎理論としての役割を果たしていない科学常識の過ちの中に居る。

そんな自然哲学、社会科学の課題を多寡が電気回路の電磁現象の中からではあるが、明らかにしなければならない未解決の問題の中に居る。『電子』が電気回路で、何の役にも立たない概念である事を長く指摘してきた。電流計のコイル内の『エネルギー』の実像を考えれば、そこに『電子』がどの様な役割を果たすと理解しているかを個々人が考えれば、上の意味が分かる筈と思う。

そんな科学理論の基礎の危うさ、矛盾の困難の中を、皆が泳がされているのだ。科学技術の経済的競争の中で、経済的利益に無関係の基礎概念など、誰も研究対象として取り組まない。電流は『電子』の逆流だ等と逃げているようだ。狭い専門性の細分化された研究体制は哲学を忘れたカナリヤ科学論になる。

『エネルギー』一つの意味を認識して欲しい。波はエネルギー流 (2021/10/08) など誰もが観測できる『エネルギー』の物理現象だ。『エネルギー』を忘れてはカナリヤ科学論から脱却しなければならない。

今までの物理学理論では、光についても『エネルギー』の空間の流れとは認識していないようだから。振動数では空間の『エネルギー』が認識できない。

直流回路の電流計が電気回路内で、どの様な『エネルギー』を計測しているのだろうか。回路定数C[F/m] およびL[H/m]との関係を含めて考えてみよう。

結論。記事 電流計とエネルギー流 (2021/10/ 23 )にまとめた。

 

 

ヤッパリ『電荷』だ❓

(2021/07/03)。『電荷』否定への道 (2014/06/03)に思う。

今、矢張り勘違いでなかったと。科学論の根源概念を否定するなど正気の沙汰ではなかった。

しかし、『電荷』が何時どのように科学理論の岩盤となったかを考えると精々100年少しの期間であったように思う。

いま改めて、30年程の無駄と思える孤軍奮闘を振り返って感謝したい思いだ。

多くの物理学の歴史で、ラザフォードの原子論やアインシュタインの特殊相対性理論などについて、改めて物理学理論の意味を考える具体的な考察対象になるような気がする。何か素人の物理学論と笑われそうだが。『電荷』だけは自然世界には存在しないと確信した。新潟県立十日町高等学校の化学の授業で「共有結合」の意味が理解できずに、化学の学習を諦めた事を思い出す。

雷と電荷の物理

(2021/06/22)。とても興味ある記事が手元に在る。専門家の論説だ。

雷の正体(2012/11/13) は筆者の記事だ。『電荷』が自然界に存在するか、しないかで別れる観方だ。

長く電気回路現象の物理的理屈を考えてきた。結論は電気回路に『電荷』は無意味な概念で、そんな物理量が自然世界に存在する訳はないと確信するに至った。

だから専門家が解説する「雷」の物理現象解釈は全く間違っているとしか言えない。『電荷』など存在しないから、他の解釈に因らなければ意味が無い説だ。

雷の特徴は何か?

『ピッカ』と光の放射を伴う。先ずその光は何が光になったのかを解説しなければ、物理学とは言えない。その光が『エネルギー』と理解しているのか?『エネルギー保存則』と言う物理現象の根本原理をどの様に専門家は意識しているか?『エネルギー』の意識無しの物理論は全く信用できない。それは自然を観ようと意識しておらず、物理学論を論じているだけでしかない。それも専門的解釈論で。

その専門家の論理は、勿論電気回路での『電荷』や『エネルギー』の役割など考えたことも無い中での解説論であると思う。

見えるもの 見えないもの (2015/03/12)。雷は見えるがその本質は見えないようだ。本質は『熱エネルギー』だ。

科学論と検証

(2021/06/16) 。科学論は客観的な検証が要求される。

科学論に限界は無いのか?どのように検証すればよいか。

ロゴウスキー電極とエネルギー流

科学的な計測が出来ない現象。ロゴウスキー電極間の静電界と言う科学概念は『電荷』によって発生すると解釈されていた。しかし、電荷を否定する科学論はその検証法があるだろうか。電極間のエネルギーの流れを唱えても、そのエネルギーを測定する実験的方法が分からない。それは丁度、光のエネルギー流を実験的に測定することと同じように思う。

ロゴウスキー電極間空間のエネルギー流がどの様であるかは分からない。その科学的論証方法はあるだろうか。特に電極中心部のエネルギーの流れが如何に在るか?

新世界への扉‐コンデンサの磁界‐ (2011/02/17) 。

 

大学入試問題例(エネルギー問題)

基礎ほど難しい。『電荷』と『エネルギー』の間の問題。記事の文末に追記した。電気現象の解釈矛盾の最大問題、それが電池が『エネルギー』の供給源であるとの認識の欠落であると理解した。論理性の欠落が科学論の課題だ。電気回路技術論は貴重な実用における技術科学文化である事には変わりがない。『電子』による科学理論・物理学理論が自然現象の真理を説くものではない事である。『電荷』は決して自然界には存在しないのだ。そこで次の問題である。

大学入学試験で、次のような問題を課したなら。

【問題】上の図の電気回路で、電池をスイッチSでコンデンサにつないだ。次の問いに答えなさい。

(問1)電池は何を供給する機能用品ですか。

(答) (         )

(問2)コンデンサには何が貯まりますか。

(答) (         )

現在の教育課程で子供たちに教えている事に対して、その教育内容をどれだけ修得し、大学での進んだ高等教育を受けるに必要な能力を備えているかを見るのが入学試験の目的であろう。

答えは (エネルギー) でなければならない筈だ。

もし (電荷)と回答したら、おそらく教育内容を修得した効果が出た事に成りそうだ。特に、(問2)のコンデンサに電荷が貯まるとなれば、教育内容に沿うとなろう。

コンデンサの正電極側には電池からどのように『正の電荷』が貯まる事になるか。クーロンの法則に逆らって、どれ程の同じ『正の電荷』が密集できるのだろうか。

(2021/05/27)追記。コンデンサと電荷‥についての記事で、電流は流れないけれども電荷は貯まると❓ この解説記事は余りにも酷過ぎる。こんな内容を学習する羽目にある学習者はどうなるのか。間違いを世界に広げる手先になるのか。通商産業省は、こんな解説の試験問題が出題されるとすれば、受験生に対して誤った知識を要求する事に成る。これが科学技術論か? と言わなければならない事態になった事はとても悲しい。50年前に、筆者も電気主任技術者第二種免許(宮澤喜一通産大臣)の認定を受けた。当時の電気工事士、高圧電気工事士などの免許も取得した。電気回路の解析は得意だ。しかし残念ながら、電気技術理論は極めて重要な技術論ではあるが、それは自然界の真理からは程遠い科学技術用の仮想概念(自然の真理としては、電圧や電流の概念が)でしかないのだ。その理論的現状の混乱の責任は『現代物理学理論』が背負わなければならない問題である。更に子供達への教育の未来について、喫緊の課題として教育機関及び授業担当の教育者・教科書編集者がその責任を負わなければならないのだ。論理的矛盾に目をつむる事は許されない筈だ。科学技術理論と物理学理論の違いを明確にすることが求められている。

電気現象の基礎を深く考えると、だんだん科学理論と言う内容はその論理性が無いことに気付く筈なんだが?結局『電荷』と言う自然界に存在しない物理概念量を仮想して構築したところに問題が有ったのだ。