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ハミルトンの風車からエネルギーを観る

「今日(2024/05/01)のダッシュボードに載っていた。人事問題の意味を考え始めた切っ掛けだった。周りで何を騒いでいるのか、その意味が分からずに混乱の中かでじっと我慢しながら日々を過ごした。然し年末に雲隠れをした。根本問題に何か在るかと?

根本的疑念が昭和20年8月15日の終戦の日に、京都府舞鶴市溝尻海軍住宅の住所だった事に関わると認識している。舞鶴市の市民ではなかった。だから、東舞鶴国民学校で4月から4カ月以上勉強したが、入学者名簿には存在しない事を知った。人事問題は、何処で生れ、何処に住み、どの様な経歴を辿ったかが全て確認されて居なければならない筈だ。昭和14年12月1日、貝野村から舞鶴鎮守府所管に『戸籍転籍』。昭和16年9月1日、召集令状。父はその10月巡洋艦「香取丸」の在役艦。その年12月19日、「香取丸」に戸籍異動。昭和19年2月、「香取丸」被弾沈没。同19年3月31日、「香取丸」船籍除籍。その後戸籍に関する行方不明。追記、2024年5月1日。末尾に関連して」

はじめに (またの文末の自分の恥さらしで御免なさい。憲法と市民権など全くの無知であった。権力と市民権の関係の教育を受けた記憶も無い)。ハミルトンの風車はブログの最初の科学の記事で、放電現象と電荷・電流概念(2010/08/02)にある。何故ハミルトンの風車を取上げるかには理由がある。新世界ー科学の要ーで示した静電界のエネルギー流についての解釈を早合点したようだ。訂正しなければならないと思ったからである(2017/11/07追記・修正した)。それはコイルとコンデンサの磁気ループについても訂正になる。

ハミルトンの風車

極性とエネルギー流 ハミルトンの風車を検索すると、その回転現象の解説にはイオン風と言う電荷が原因となった説明が成されている。マイナスの3万ボルト程で大きな卍型の針金が相当の速度で勢いよく回転する。しかもプラス側の電極が無いのに、マイナスを印加するだけで良く回転する。昭和40年頃の高等学校での公開実験での強い印象が残っている。1.6mmΦの屋内配線用銅線で構成した直径30,40cm風車実験結果が思い掛けずも成功したのも不思議であった。何も傍にプラス電極が無い、空間に置かれたマイナス電極の風車である。針金の先端からジーと音を立てて噴射しながら回転する。ただし、印加電圧が正極性の時はそれ程強い回転力は得られない。明らかに極性によって異なる電気現象であることははっきりしている。放電管内の流れがマイナス電極側からしか流れない事も良く分かっている事だ。その流れを陰極線と名付けたのだ。その流れる実体を『電子』と呼んで解釈するのが現代物理学理論の根幹である。『電荷と質量』を備えた素粒子が『電子』である。その電荷と質量の空間的描像も明らかに説明できないにも拘らず、『電子』と言う素粒子(レプトン)が実在し得るとの前提で構築された電磁界理論である。その電子と言う『電荷』概念への疑問を抱いたのが電磁界の新世界に踏み込む事になった原点である。ハミルトンの風車の回転現象を電子とイオンで解説されているのが常識論である。結局、電子もイオンも『電荷』と言う実在しない物理量概念で、見えないが故に、簡便な解釈で伝統的に積み重ねてきた理論体系の基礎概念となって、社会的な常識論の根幹となって来たという事であろう。今唱えたい事は電子やイオンに替わって、それに対応する『エネルギー』一つで統一的に解釈すべき基礎理論が求められていると言う結論になる。

針電極 針電極のような金属の先端を尖らせて、負の高電圧を掛けるとコロナを噴射する。それは導線に沿ってエネルギーが針先端から空間に噴射されるからと解釈する。導線周辺にコンパスを近付ければ導線を周回する向きに磁気ループが存在するだろう。それは電流で解釈すれば、それが先端部から流れ込む向きと同じ方向ではある。このエネルギー流の解釈は、電子・電流の解釈との明確な違いを説明するだけの根拠を示せないのが残念ではある。残念であるというより、目に見えないものを科学技術で自然現象を利用するように概念化して来た多くの先人の業績を讃えるべきであろう。然しながら、自然の真底に横たわる眞髄は科学技術概念の奥に隠れているのだ。それはを認識するのは各人の自然科学的感性に委ねられていると言えよう。

平板コンデンサ内のエネルギー流 そのエネルギー流での解釈は、平板コンデンサ内へのエネルギー貯蔵をどう捉えるかに、その有意性があろう。『電荷』貯蔵に因る解釈よりも矛盾は少ないだろうから。コンデンサ内でのエネルギー消費は殆ど無かろう。従って、エネルギー流は平板コンデンサ内で何らかの回転流として貯蔵されるだろうと考える。二枚の電極板に対して、エネルギー流がどのようであるか、上下二つの流れであるか、一つの流れであるかは見えないものを解釈する訳で、そこに悩ましい決断が求められる。新世界ー科学の要ーで示した解釈は二つのエネルギー流で決断した。それは下部電極表面での磁界の方向が決まるエネルギー流を上部と同じ電極表面に沿って流れ込むと解釈したからであるが、その点が少し早合点であったと反省している。それは新世界への扉ーコンデンサの磁界ーで示したように、下部電極表面でのコンパスの指示方向が電極表面に流れるエネルギー流との合成流に因ると解釈したことに因った。コンパスの磁気の意味をそのエネルギー流が原因と解釈する捉え方そのものが新しい科学的世界観でもあり、その事との関係で迷いがあったと反省している。今回上に示した図の平板間の一つのエネルギー流で解釈する方がコンデンサ内でのエネルギー貯蔵の姿としては共感し易いと言う感覚的な意味合いをも含んで決めた。誠に科学実験による検証方法という手法が採れずの感覚論で誠に不甲斐なさも抱かざるを得ないと同時に、混乱を与えたらと申し訳ないと思う。コンデンサ内のエネルギー貯蔵で、二つの流れは不自然であろうと感じるからである。以上の考えから、結論を図のようなエネルギー流で捉えた。この平板電極内の空間とその外部との関係は明確な描像を描くことはできない。コンデンサ貯蔵エネルギーが完全に電源との繋がりがなく、独立したエネルギー流になるかと考えれば、それは無いだろうと思う。その曖昧なまま表現した図である。負極性の場合で示したが、エネルギー流は電源の負側からの供給が主流になるとの解釈をハミルトンの風車から類推したことで、正極の電極板に対して少し反発する流れになるかと考えざるを得ない。それがその電極近傍でのコンパスの指示方向の原因となる貯蔵エネルギー流とコンパスのエネルギー流との兼ね合いの問題であるから。基本的にはそのエネルギー流がコンパスの指示方向・磁気ループの解釈の拠り所と考えざるを得ない点にある。

アーク・火花放電 高電圧工学と言う分野がある。それは電力系統の保全対策として、送電線路への落雷に対する対策や、支持絶縁碍子の性能向上に欠かせない研究分野である。その電気的特性は高電圧試験によって基礎研究が成される。平板電極間でのアーク放電現象はその基本観測である。電界強度の空気限界は大よそ30kV/cm位と考えられている。それ以上の電界で火花放電し、絶縁は破壊される。その火花放電現象の原因は電極間に塵などが入り込めば、その局部的エネルギー密度が高くなり、局部のコロナが全体としての放電に移行してしまうだろうと考えられる。その辺の現象を電極板の『電荷』で解釈しようとしてもなかなか難しいと思う。丁度、雷が空間の状況と水蒸気の熱エネルギーの供給・放出との兼ね合いで決まる事から思えば、電気現象も『電荷』では捉え切れない謎が多いだろうと思う。

『電荷概念の否定』の観点 伝統的科学理論が常識として世界に受け入れられてきた。正と負の対称な二つの『電荷』が世界の根源を支えていて、その『電荷』無しには科学理論を論じられない事になっている。伝統的科学の世界観で共通理解に在る社会的安定性の観点から観れば、『電荷』否定の反社会的科学論は誠に迷惑な事ではあろうと理解はしている。2000年にワープロ代わりにパソコンを購入した。雨蛙や日本カナヘビ、揚羽蝶など身近なものを眺めて、生活の術もなくただ漫然と流されて来た。科学研究の機関に所属する事も不可能な人生の状況に追い込まれた。今過去を知って見れば、職歴も書けない現実が身に染みている。退職の手続き一つした覚えが無い現実。翻弄され続けている身には日本国憲法(特に、第98条1項 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部または一部は、その効力を有しない。とあるが、その条項は何の為のものか理解できない。)が欲しい。まさか昭和14年12月1日や昭和39年4月1日に戻る訳にもいかないし、どうしたら良かろうか?平成7年7月(11月の間違い?)には、国会で事務局職員にわざわざ筆者の正面写真までお撮りいただいたので、不審者リストにでも御登録されているかも知れない。身分が不明のまま捨て置かれているかと疑いたくもなる。昭和63年2月にも国会で物議の基になったかもしれないが。当の本人筆者は何も知り得ないまま今日に至る(*1)人定証人喚問。しかし正規でなくても幾らかの現場での経験から、身に付いた電気工学の技術感覚から物理学基礎概念の意味が腑に落ちず、光の伝播現象と物理学基礎概念の実相を我儘勝手な解釈で追い求めてきた。今思う、『電荷』概念否定の感覚に間違いは無かったとそれだけは安堵した。種々雑多な内容をITの世界に恥ずかしげもなく、恐ろしさも知らず綴って来た。パソコンでの情報発信で、学会での正規の学術研究には成らないかもしれないが、専門的学術に無関係の方々にも科学の基礎とは何かと考える意味は伝えられたと感じる。どれも特別科学研究となる様な新しい事でもなく、日常生活で感じる科学感覚が基での考えを発表して来た。しかし、『電荷』否定一つが、科学理論と自然科学の解釈論に未来への課題として無視できない処に在ることだけは示せたように思う。未来に向けた、子供たちへの教育の問題として。

(*1) 人定証人喚問:昭和63年1月中頃、自宅に何処からか『長岡工業高等専門学校の健康保険証』が送付されて来た。長岡技術科学大学の電気系事務室で電気系長にこんなものが送られて来たと見せた。そんなものを持って居てはいけないと取り上げられた。その後、その保険証がどのように処理されたかを確認していない。その数日後、長岡工業高等専門学校の事務職員がやはり自宅に「未だお返し頂いてない保険証をお返しください」と封書が届けられた。身に余る不可解に対処し切れずに、無知を曝して今日まで彷徨って来た。今も不届きなへリコプターが飛んでいる。畏れ多くも国会で不届き者と人定喚問でもして、我が身の悪行の所業を解明して頂かないと死に行く人生に辻褄が付きそうもないと考えている処でございます。(2018/10/12)追記。誠にお恥ずかしい次第であります(追記:昭和55年3月新聞紙上の教員移動記事に、筆者が退職となっていた。しかしそれはその4月新潟県立新津工業高等学校での離任式で、恥ずかしながら長岡技術科学大学に転勤と生徒に話をした。しかし、実際は新潟県教育委員会には筆者の正式に採用した履歴は無かったようだ。だから、どうも免職処分となっているようだ❓さらに、平成2年7月長岡技術科学大学で、もう一度免職処分に成ったようだ。しかし、新潟県からも、長岡科学技術大学からも直接『免職辞令』を貰ったことが無い。平成2年に精神病院に投獄されて4年に世間に戻ってからすべてが「免職」になっていた事を知った。その免職理由も知らない。今も理解できないで居る。以上、2024年5月1日追記。)。『静電界は磁界を伴う』電気学会全国大会(1982)の発表から、脱藩したと観られる 瞬時電磁界理論の実験的検証とその意義 電気学会電磁界研究会資料 EMT-88-145 (1988) の発表まで、すべてロゴスキー電極間の静電界中の磁界模様の実験写真である。電場が磁場であることの証明写真である。電気磁気学の電荷概念を否定しなければ、この写真は嘘になる。世界の構成根源要素は『エネルギー』一つに集約される筈と、ハミルトンの風車の実験(1965年頃実施)に結びついた。

純粋・自然の実相

(2024/03/31).


 自然現象は極めて『純粋』であるとの認識に至った。その意味を表現してみた。空間に流れる『エネルギー』には光のように、空間的寸法も無限に細分化される。素粒子なる概念も『エネルギー』によって構成されるものと解釈する。

 長く電気回路現象の物理的意味を考えて来た。特にこのブログ記事として投稿しながら、自己問答を繰り返してきた。学術機関では何処か不可解な自己に気付いて、研究室が無いことから、雲水の様な天下での研究に費やした。終戦時(1945年)に舞鶴鎮守府、溝尻海軍住宅で迎えた意味はどの様な身分であったかと考えた時、社会的な存在が❓❓筆者の過去の職歴、所属歴及び「退職、免職など」極めて不可解に気付かずに過ごしてきた。市民権で、長く選挙権も無く、投票の権利が無かった意味まで、行政としては理由を明らかに示して欲しい。

 漸く、電気回路現象の物理学的理論が極めて曖昧で、子供達の教育内容として不適切であるとの確信に至った。
 現在の教科書の内容は、科学技術による経済競争の視点から見れば、それなりの教育上の成果を収めて来た。しかし今、ハッキリした事は、『電荷』なる解釈用の概念が論理的には全くの間違いであったのだ。
 如何にこれからの子供達に対する物理学教育を整えるかは、科学理論としての根幹から立て直さなければならないところに在るのだ。理論物理学者が如何に『電荷』なる概念を、その物理的意味を子供達が分かるように解説できるかに掛かっている社会的責任と思う。世界に問うのはその一点だ。

 そのような科学理論の意義を問う題材として、全ての人に考えて頂きたい高周波伝送回路現象での『定在波』の物理現象を提起したい。

 筆者が初めて、研究報告として1967年、新潟県工業教育紀要に投稿した、
 金沢喜平(何故か『沢』だ):分布定数線路実習に対する考察、新潟県工業教育紀要、第3号(昭和42年)の内容に関するものになる(新潟県立図書館所蔵)。
 
 その関係で、エネルギー流と定在波 (2021/02/27) がある。
この内容で、『定在波』が発生する物理現象を如何に解釈するかを問うのだ。決して電気回路で『電子』が導線内を流れる等と言う解釈論では、この『定在波』の発生理由を理解できない筈だ。
 
 『回路定数L[H/m]、C[F/m]に対する訂正』。ここで過去の記事に対する訂正をさせて頂きます。電気回路の『エネルギー』伝播空間構造係数を k として、
    L= μ₀k [H/m], C= ε₀/k [F/m]
 と訂正させて頂きます。ただし、μ₀およびε₀は真空空間の透磁率および誘電率とする。

 
 電気回路での電気物理現象は、電線路空間の『エネルギー』の光速度流である。こんな単純な電気物理現象が、過去の長い科学技術的解釈概念の多くによって、特有な理論で構築されてきたのだ。電流[A=(C/s)] あるいは電圧[V=(C/F)]などと電荷量[C(クーロン)]によって解釈、定義されてきた。それは誤りであった。
 

一つの科学実験

一つの科学実験。電気磁気学理論および物理学基礎概念に変革を迫る単純で、明確な科学実験を挙げたい。『それを言ってはお仕舞いよ!!』と誰かに、きっと咎められるだろう。手元に一冊の本がある。昭和59年の訳本で、初版本。「世界を変えた20の科学実験」の標題の本である。世界を変えた20の科学実験

ずっと以前から気掛かりになっていた本である。この表紙の写真が例の有名な科学実験『マイケルソンとモーリーの実験』、地球の速度と光速度の関係の検出実験として知られている手法で採られたと同じ、光の干渉縞の模様である。干渉模様を実験で採る機会に恵まれなかったが、その模様の解釈は教科書に波長との関係で解説されている。マイケルソン・モーリーは結局地球の速度が光の速度に与える影響を検出できずに終わってしまった。その事をアインシュタインは逆に実験の失敗が自然の真理を示す当然の結果だと解釈したのである。そこに大きなアインシュタインの誤算があったと言える。マイケルソン・モーリーの実験的手法と考え方は間違っていなかったのである。残念ながら、現代物理学の『特殊相対性理論』を信奉した理論的拠り所は間違いである。マイケルソン・モーリーの実験は、その腕の長さの調節の難しさや、地球の光規定空間に対する速度の変動を考慮すれば、明確な干渉縞上に現れる実験的光速度に対する「差異」としての結果が得られなかったのである。地球の速度も常時変動している、即ち時刻的に同じくないと考えなければならない。所謂「慣性座標系」と言う概念が採れないのだ。光の実験室での測定では、地球の運行速度は光源との関係での光速度への影響は相殺されて受けないが、マイケルソン・モーリ・の実験の場合は、その考える検出差を求める事は困難であろう。だから失敗したという事になっているだけである。

一つの科学実験 コンデンサ内の磁界20の科学実験に対して、電気磁気学理論に解釈の変更を求める実験として、コンデンサ内に存在する磁場検出実験を挙げたい。

それが昭和62年4月1日に発表した、電気学会全国大会の『静電界は磁界を伴う』である。それに関するカラー写真を一つ再掲したい。自分の人生を掛けた、他に何も無い、たった一つの科学実験データである。この写真の地磁気方位を示した太陽紙上のコンパスはオリエンテーリング用の取り外した磁石である。この磁石はオイル入りである。昭和61年10月に、実験に取り組んだ最初に使った磁石である。この磁石は検出失敗を経験した大切な品物である。もし同じような高電圧での磁界検出実験を試みるなら、オイル入りの磁石では困難である。最初の実験で火花放電でこの方位磁石は焼け傷を付けてしまった。焦げ跡が付いている。その時の失敗が、先行きの自信喪失と生命の保護の意味さえ失いそうで大きな岐路に立ち、研究室内を徘徊していた事を思い出す。その中で、ハタと気付いたのは、オイル内では磁場を検出出来ないという感覚的閃きであった。思い直して、もう一度挑戦する決心を得た。空間の磁場を直接検出する用具を準備した。それが写真の円形磁石とその支持方法である。次の実験に取り組む時の緊張は並大抵のものではなかった。いざ、今日実験するという日の朝、家を出る時から空模様が怪しかった。実験の最中は、天が大荒れに荒れ、雷が鳴り響いていた。誰かに指摘されそうだが、実験ノートなど取っていなかったので少し日付はあやふやだが、おそらく10月30日当たりと思う。天気が大荒れの日であった。だからその時思った。天まで自分が行う実験に怒るのかと。科学の常識に反旗を掲げる自分の思いがどんな事になるかの不安と気持ちの昂ぶりを良く知っているから、そう考えたのが頷ける。何方かが、検証実験をされるなら、直接磁場を検出できるような裸の磁石でなければいけません。

(2015/10/29)追記。関係記事は新世界への扉ーコンデンサの磁界ーおよび『瞬時電磁界理論』とはである。

光とは何か?-光量子像-

(2019/05/06)追記。光量子波頭値Hの光作用性の意味についてプランク定数の概念に記した。

現代物理学理論は人類の知的財産である学問の積み重ねとしての叡智の宝庫であるように見られている。そこには、自然世界の認識の仕方でどのように分析・判断するかに二通りの観点がある様に思う。同じ自然世界を見るのに、インドを源流とする東洋哲学と近代科学文明を推進して来たヨーロッパの西洋哲学の二通りに分けられると考える。そこには人類発祥の源流にさえも遡る異質性が潜んでいるかも知れないと感じる。東洋哲学は無駄を排除して、純粋な一つを求め続ける思考の求道の精神が基本にあると感じる。それに対して、現代物理学の根底を成す基本を分析すると、西洋的思考の特徴が西洋哲学と同一の歩調を成して拡大構築する基本的特徴で捉えられると感じる。物理学的概念はその認識に於いて、共通の解釈基盤に『数学と数式』がある。宇宙空間にまで人類が行き来できる科学技術の成果を獲得してきた原動力はすべて、西洋の自然科学論がその基を成している。それほど、西洋哲学的思考が自然世界の征服に主導的役割を果たしてきた現実に対して驚きを持たずには理解できない。私がそのように思う事の原因は、現代物理学がその数学的解釈法に基づいて構築されて来たその『基礎概念』に自然の真理を読み取ることが出来ない程の違和感を抱かざるを得ない事態を来たしている事である。その代表的概念を二つ挙げれば、『電荷概念』と『光子振動数』となろう。電荷の否定については今まで多く論じてきた。もう一つの「振動数」という概念を否定する、あるいはその曖昧さを明らかにするために、「光量子像」についての空間的実在性を込めて、論じて見たい。物理学理論は数学的解釈法が主流であるが、それでは不十分であるだけでなく、認識の曖昧性を放置する事態を来たしている。現代は、空間にその基礎概念を明確に描ききって見せる事が『科学者』に求められていると言いたい。その意味で「光量子像」を論じることが、極めて重要な現代的課題の解決の糸口になると考える。

光量子とは? 

ファイルを修正して書き換える。 光量子とは何か。現代物理学が明確に定義できなかった。光の一粒と言う物の実体を空間の実在概念で捉えていなかった。これには、元々光に関わった有名なプランク定数で、hの文字で表す概念量の意味が理解できていなかった事に、その原因があると観る。hの単位は[Js]と言うエネルギーと時間の積である。その単位の物理的意味を理解するのが困難であったと考える。エネルギーはその物で完結した物理的実在量である。それに時間を掛けて得られる物理的概念が何を意味するかに鍵が隠されていると解釈した。数式で表現されても、それが日常の生活感覚から観て、実際に空間を光速度で直線状に流れる光の実体をどんなものと感覚的に捉えれば納得できるかと言う問題である。光は確実に空間を通過する実在量である。その実像を空間に描けなければ、光のその概念は完全ではない。光量子のエネルギーの表式は

ε=hγ [J]

ここで振動数γ[1/s]である。この式のエネルギーとは何を表しているかが極めて不明確であった。上の式は光の数が1個でも、100個でも同じ値だという事である。エネルギー量は光が強ければ数値は大きくなる。その日常感覚とのズレを説明しなければならないのが専門家に課せられた課題であるはずだ。しかしその解説が無かった。以上が大まかのファイルの内容である。

光量子像を空間的な視覚概念で捉えるべく、提案して来た。その光量子像を提案するに当りどんな事を考えたかを纏めた。それが上の「光量子とは?」である。光とは何か?-序章ー(2011/09/30) から相当時間が経過した。その具体的な光量子についての解釈を述べたい。先ず初めに光量子一粒の空間描像を示す。その表式、空間的エネルギー密度分布式 δ(ζ)である。

上の(1)式が光量子の空間密度分布を表現したものである。なお、ここに記す内容はすでに2008年12月『詩心 乗せて観世の 帆掛船』物理学解剖論Ⅱ 空間エネルギー で述べたり、日本物理学会の講演概要集に発表した。しかし重要な意味を含んでいるので、一般の市民的理解の広がりの為に書き足したいと思う。img299普通の科学論は数学的な手法で、高度な数式がその表現の基本であろう。しかし私は空間にその実像を認識できないと良く分からないのである。想像するにも頭の中に描けなければ、理解できない不都合な能力である。上のその意味で、何とか描く空間像をまとめ、それを「具象図」として示した。その光一粒の空間像なら、誰でも理解し易かろうと思う。少し科学に近い論を展開しようとすると、どうしても数式で論じる事も必要になる。そこで「抽象図」として表現したのが、変数ジータζで時間tと位置xを光の1波の波長λ、その周期タウτにより正規化した変数表現で表した。抽象図とは大げさの様であろうが、余りにも高度な数学で表現される「科学論」は誰の為の解説かと不満を持っているので、その抽象化の意味を考える為にも成るかと思ったからである。抽象の代表格である虚数なども何の役に立つのかと。大工の棟梁が建造物を設計するに、その空間構造を頭に描くような事と同じ科学論であってほしい。このエネルギー密度分布式は、その初めは「雷の衝撃波」が自然のエネルギー流の形状を備えているとの認識から取り組み、導き出したものである。その為に、雷と指数関数 を予め書き記した。

光量子の体積積分 光量子の空間エネルギー密度の(1)式を空間の積分により、その光量子一粒のエネルギー量を算定できる。変数 ζは空間の位置と時間に因るが、時間を停止した状態で捉えれば、空間だけに注目して積分すれば良い。また、ある位置に停止して光速度で通過する光量子のエネルギー通過量を時間積分しても同じ事である。その変数の定義域とエネルギー密度波頭値を整理した表式(1’)を示す。

 

その(1’)式の指数関数の積分で、光量子1粒のエネルギー量が算定できる。結局、光量子のエネルギーは振動数νとプランク定数 h との積のhν ジュールと同じ結果には成る。しかし、振動数という概念は光量子が何か横ぶれしながら運動エネルギーを持って光速度で流れるような印象を受ける。光子あるいは光量子1粒という空間の実在認識には、振動数という概念は捨てるべきものである。ν= c/λ=1/τ [s^-1^] のような波長λあるいは周期τで表記することが望ましいと考える。

光量子空間像の解説 一応数式による光量子像を表した。しかしその意味を捉えるには具体的に考える必要があろう。そこで、ナトリウムの炎色反応でオレンジ色の波長で考えて見よう。

 

プランク定数の物理的意味と波頭値H 結果的には当たり前の結論になった。光量子のエネルギーとその周期の積という意味で解釈できる。

プランク定数hは上のように結局光量子1粒のエネルギーεとその光速度で通過する時間の周期τとの積という事に成る。それは普通の物理的「定数」という概念に該当するのだろうか。元もと、光量子のエネルギーは ε=h/τ という式であるから、当然の結果ではある。どんな周期の光量子に対してもそのエネルギーは周期の逆数に比例し、その係数がプランクの定数だと言う意味で取れば、確かに定数と言えよう。h=ετ と書き換えて見た時、プランク定数 h という「定数」の意味なのだろうか、これが「定数」という意味だと理解すべきなのだろうか。(2016/08/02)このようにプランク定数の意味を解釈すれば、光エネルギーのエネルギー密度波頭値Hに、その衝撃波形のエネルギー空間分布の鋭さが隠されているから、その意味で光量子の作用力が決まると考えれば良い。

電気磁気学理論の不可解❓

 今日は日本の祝祭日 『文化の日』だ。


 この電気回路で、Lamp の物理的機能は何でしょう?

 電源は Power source と言うが、その Power が電力 [W= J/s ] ようなエネルギー [J] の時間微分値となるから、その物理量の意味が曖昧となる。時間的平均値の物理量の概念は、空間に実在量として存在する物と異なる、抽象的で曖昧な概念となる様だ。上図には、エネルギー源 Energy source と電源が供給する『エネルギー』であることを直接印象付けるべく表記した。電源は負荷が要求する物理量が『エネルギー』である事を認識して、表記するべきと考える。その空間概念が物理学理論には無いようだ。

 科学理論の基礎に電気磁気学がある。
 その電気磁気学理論の全体に極めて大きな矛盾を感じていた。それは物理学理論全体に広がる矛盾でもあった。その事が、この WordPress に投稿させて頂いた初期の記事となった。それをここで纏めておく。

 磁界・磁気概念の本質 (2010/11/16) 。 電流計は何を計るか (2010/11/10) 。電流は流れず (2010/12/22) 。

 10数年かけて、様々な自然世界の現象について、一般社会常識の認識に違和感を抱く事が多くあった。日本雨蛙の生態やら津波現象の物理的解釈やら本当に多くの事で、専門家の論説に違和感を抱き、その都度自分の思いを投稿させて頂いてきた。今に至るも、その思いは間違っていなかったと思っている。

 今月に入り、この11月1日が新潟県の⦅新潟教育の日⦆と定められたようであり、子供達の為の『教育環境』を整える意味でもあるかと考えた。そして思った。今の教科書の内容は、とても子供達に胸を張って進められるようなものでないと思った。これだけ科学技術の恩恵を受けて、便利な世の中に成っているにも拘わらず、子供達には心安らかに日々の生活が、学校生活が楽しく過ごせるかと思うととてもそんな状態でないと思う。それは理科教育で、中学生が『電子』が電流と逆向きの導線内を流れると教えられている一事を考えただけで、空恐ろしさを抱かざるを得ない。決して電気回路の導線内など『電子』が通ることは無い。訳も分からないことを強制的に憶えこませる教育であってはならない。覚えるより自然の姿の不思議さに感動する楽しさを味わえる理科教育の内容が多い教室授業であって欲しい。中学生の理科教育内容はそんな意味で十分と思う。

 このような電子の逆流の説明の現実に、教育の現実に、優れた科学者が多く居られるにも拘らず、子供達の教育内容に心砕いて頂けないのかと。大学の理学部では、本当に現在の電気磁気学の矛盾に気付かないのかと理解出来ない。初期の電気磁気学に関する記事を、もう一度取り上げる手がかりとして拾い上げた。電気回路では、決して『電子』が何の機能、役割も果たし得ないことを解説したい。電流とは何か?について『電子』の意味とエネルギー流更に磁束の意味について述べよう。そんな哲学ともとれる内容であるが、科学的な実験で検証できない空間に流れる『エネルギー』の意味の重要性について御認識頂ければとの思いだ。

常識外れの道端での科学論

過去を振り返ってしまう。

比較的価値があると思う記事が、エネルギー流と定在波だ。

 実は、電力用変圧器の物理現象を解説しようと思った。変圧器の原理は『ファラディーの電磁誘導則』によって19世紀初めに唱えられ、現在の基礎理論と成っている。それが全ての教科書の解説理論である。『磁束』という技術概念を導入しての理論である。しかし『磁束』という物理概念が現実にこの自然世界にある訳ではない。あくまでも科学技術解釈用の概念として導入されたものである。これから論じようとする電力用変圧器の動作物理的原理と定在波の関りとしての科学論は、現在の科学論文として取り扱う分野は無いだろうから、ブログ記事か。そんな高校生の為の教育での教科書問題になるかと思う。

 (2023/08/15) 追記。ここで取り上げる変圧器の物理現象という意味は、『エネルギー』の流れとしての解釈論を念頭に置いている。それは、コンデンサ(容量 [F] )とコイル(リアクトル、変圧器 [H])の間に於ける、『エネルギー』の貯蔵機能としての関係からの解釈論である。コンデンサとコイルとの間における相似性と相違性に関する考察である。自然界は『エネルギー』一つに支配された世界との基本認識に立てば、そこに行くことは自然の流れであろう。技術解釈用概念の『磁束』や『電荷』の自然界に存在しない仮想概念量に縛られない、真の自然世界の物理現象の解釈法を考えての意味だ。

上の定在波は、新潟県立新津工業高等学校で、最初の担当であった『電子工学』の授業の内容で、高周波定在波の意味が解らなかった。そこで、ある事業所の払い下げの通信機を頂いて、それを分解して、発振器部分だけを利用させて頂いた。実際の通信での実用製品だから、とても強力な電磁波発振器であった。真空管は、双三極管(2B29)である。発振周波数は160MHz である。最近気付いたが、その生徒実験に適用した回路構成は、変圧器と同じく、発振器と分布定在波回路とは直接繋がっていない。言わば、変圧器と同じく、空間を通したコイル間の電磁結合となっている。言ってみれば、160MHzの正弦波電磁結合で、基本的には空芯の変圧器結合である。空芯でも、高周波だから所謂技術概念の『磁束飽和現象』は起きないで変圧器動作が可能なのだと解釈できる。この空芯結合変圧器の物理現象は電力用変圧器の動作原理と、自然世界の実相から見れば、至極当然の事なのだ。新潟県立新津工業高等学校での生徒実験実習用の研究が物理学理論の置き忘れた『エネルギー』の実在性の解説になるとは不思議な事だと思った。当時、教育・研究者としての身分が有ったのか無かったのか❓❓。学術的研究でない、市民科学としての自然科学論が大切かと。専門家が取り組まない科学論。

変圧器の物理現象とエネルギー伝送 の前に。

更に、この記事の前に二つの記事がある。『エネルギー』一筋の道 (2021/02/24) と 科学教育の未来を問う (2021/02/27) である。

過去を振り返って(地磁気と電磁エネルギー流)

 ここに反省を込めて!
 我が珍妙なる過去を記憶の限りで記録してみよう。1988年の暮れに、我が身の存在の意味を確認する為、代わりの研究方法を求めて雲隠れ逃走をした。長く35年程経過した今だから分かった事だ。公立学校共済組合、文部省共済組合の何方にも加入していなかったようだ。それは学校の教員と言う教育者でも、学術研究に携わる研究者でもなかったのか?とその訳と意味を理解し切れていないままに居る・・。政治も行政も正義のために存在すると安易に思って、疑いなど持たなかった。しかし今は、とても不審に思う事が多い。

 32 電磁界の物理的概念と地磁気の解釈 (昭和63年電気学会全国大会)。

 研究者とは何か? その何も分からない、闇夜を彷徨うが如き過去の時代の流れの中で、発表したものが上の標題の投稿だ。この論考で、明らかに間違っていたと分かったのでその訂正を兼ねて、現在の「地磁気の物理的解釈」を述べておきたい。また、その投稿者名が筆者一人だけである。研究者の所属、講座について何も考えていなかった事を思うと、我が無知を恥じ反省しなければならない。

 前の1987年10月、「電磁エネルギーの発生・伝播・反射および吸収の関する考察」電気学会電磁界理論研究会資料:EMT-87-106. を発表していた。
 それも筆者一人の投稿者である。どこの研究室に所属している訳でもない。ただ、その年、1987年の年末に、パワー研に誘われて、年末の忘年会に参加させて頂いたが、既に研究対象を物理学理論・電気磁気学理論以外に自分のできる研究対象は無いと思っていた。恐ろしき無知を反省すれども他に進む研究の道は無かった。

 上の論文の間違いは、電磁エネルギーの光速度伝播の上空電離層での反射現象として解釈していた事だ。現在の地磁気現象の認識は、地球表面を自転の方向に電磁エネルギーの光速度伝播流が存在する。その電磁エネルギー流と言う解釈は正しかったのだが、電離層での反射現象では無かった。
 しかし、読み返しても面白く意義がある内容と思う。 1.まえがき と 4.むすび には、今の結論に繋がる意味が既に指摘してあったので再掲したい。

1.まえがき  現代物理学の重要な分野に電磁気学がある。筆者はその電磁界解析に対して、Maxwell電磁場方程式は十分条件を満たしていないと考える。真空自由空間における電磁現象を波動の伝播と言う概念でなく、電磁エネルギーの光速度伝播現象として捉え、その必要・十分条件を満たす空間瞬時電磁界ベクトル解析式を提唱した⁽¹⁾。電磁界に対する本理論の意味を簡単な実験によって確認し、直流定電界(静電界のこと)中に磁界が存在することを報告した。この実験事実について考察し、電磁エネルギーの光速度伝播という概念から電磁気学を統一的に解釈することを試みた。その結果電磁界理論の重要な基礎概念である電荷や電流までも棄却しなければならなくなってしまった⁽²⁾。
 自然現象の物理的概念は単純でしかも統一的な基礎概念に必ず就職するという哲学的願望を捨てることはできない。自然現象を深く認識しようとすれば、今までの理論的考察の拠り所としていた基礎概念をつぎつぎと捨て去らなければならなくなり、最後に残るものは電磁エネルギーの光速度伝播現象になると考える。この電磁エネルギーの概念についても現在の十t頃明確な説明はできないが、本論文では不明確ながら電界と磁界という二つの電気的概念を考察の拠り所として、電磁エネルギーの光速度伝播という物理的概念および電磁エネルギーと電磁的質量との等価性について論じる。(また、この電磁エネルギーの反射現象について考察し、地磁気の発生原因を電磁エネルギーの反射現象として捉えるべきであることをていきする。)この部分は明らかに、誤りであったので削除となる。
 
 2. 電磁界と電磁エネルギーの物理的概念  

 3. 電磁エネルギーの反射と地磁気の解釈

 4. むすびー現代物理学の基礎は何かー   現代科学の学問体系は高度に専門化され、各専門分野ごとに独自に発展して来た面もあり、その専門用語にしても分野によってその意味や概念が必ずしも同一とは限らない。自然科学の目的が自然現象の奥にある心理やその基本法則を明らかにすることであれば、各分野の拠って立つ基礎概念が統一されていなければならない。しかし、「多くの点で今日は基礎が不確かで土台が動揺している時代であるように思われる。⁽³⁾」は今日まで続いていると思う。筆者はその統一的な基礎概念として、電磁エネルギーの光速度伝播という概念になるのではないかと思う。Bertrand Russell の「質量は単にエネルギーの一形態である。・・・物理学において基本的なものは物質ではなくエネルギーである⁽⁴⁾。」という言葉こそ物理学の本質を述べていると思う。
 本論文では、電磁エネルギーと質量の等価性や地磁気の発生原因が電磁エネルギーの反射現象であることを論じた。

 現在は、地磁気の原因を 世界は軸性エネルギー流によって創られた。 の中の地磁気とコンパスに示したような現象として捉えている。

参考文献
(1) 金澤:『静電界は磁界を伴う』-この実験事実に基づく電磁界の本質- 昭62年  電学全大
(2) 〃 :電磁エネルギーの発生・伝播・反射・および吸収に関する考察 電学会、電磁研資 EMT-87-106.
(3)W.パウリ:物理と認識(篠田純一訳)p.49. 講談社
(4) M.ヤンマー:質量と概念(大槻義彦他訳)p.159.講談社

電圧・電流―その用語の社会的意義と物理的実相―

電圧・電流とは、自然世界におけるどの様な物理量を表現した技術概念か?電気量か?その意味を考究してみよう。初めにお断りさせて頂きます。ここで述べる解釈論は、余りにも現代の学問体系から学問として認められた自然科学理論とは異なる論である。所謂科学論としての常識と真っ向から異なる論であることをお断りさせて頂きます。

電圧と電流、これほど日常生活で馴染みの深い科学用語もなかろう。現代社会生活を営む上で、誰もが知っている用語だ。それは電気エネルギー消費の生活基盤となっているから、常に意識して生活している科学技術用語だ。

その単位がボルト[V] とアンペア[A]であり、その意味を誰もが知っている。だから電気技術、電気回路論で共通に理解し合える訳で、実生活で欠くことのできない科学技術用語・概念である。今から200年~150年ほど前に、世界的な合意の下で完成した用語であり、その御蔭でここまで豊かな科学技術の世界を享受できる事になっているのだ。西洋文明の御蔭だ。

しかし、不思議な事にその用語と単位の意味を殆どの人が、的確に把握できていないのである。その訳が驚くべきことに、物理学理論が極めて曖昧な論理で科学用語を創り出して来た、その長い過去の歴史的な科学研究の世界に原因があるのだ。と言う事は、現代物理学理論を構築してきた科学者の皆さんが、『電荷』、『電子』によって自然現象を科学的な論理で矛盾なく理解できるとお考えになって来られた結果だと言う事になる。そんな事がある訳は無いと、誰も信じたくないであろう。しかし、残念乍らそれが本当の事なんだ。どうか電気回路での『電子』の機能を考えてみてください。電気回路で、電源から『電子』がどの様な機能で『エネルギー』を負荷に伝送するのか?どんな機能を発揮して、電源内から『エネルギー』を負荷に届けるのか?その『エネルギー』の伝送の理屈を明確に示し得るかどうかに掛かっているのだ。しかし、『電子』は電気回路で、『エネルギー』の伝送機能など全く発揮できない仮想概念であったのだ。

上に述べた不可解な意味が科学研究の、正にその中に在ると言う意味を中々御理解頂けないかも知れない。即ち、科学技術文明の社会的意義とその基礎理論の間に得も言われぬ不可解さがあると言う事なのだ。

最も重大な誤りは、自然世界に実在しない『電荷』が存在すると解釈した事である。その『電荷』概念に基づく抽象粒子『電子』と『陽子』などを創造してしまった事だ。『正』と『負』の『電荷』間にどのような空間的作用力が働くかの論理的蓋然性もなく、クーロンの法則と言う解釈論に従った『力』を論拠に構築した結果にその原因があると考える。

電圧・電流と言うと、そこには長く習慣的な科学法則に習熟した頭脳の蓄積知識に基づき、無意識に『電荷』が頭の中に呼び起されることだ。それ程科学理論の論理的解釈概念に『電荷』が強く植え付けられてしまったのだ。教科書が『電荷』、『電子』と言う抽象的な構築概念によって構成されているから、そこの問題をどの様に構築し直すかに、現代的科学理論の再構築の喫緊の社会的課題が突き付けられているのだ。基礎から科学理論の論理性を再検討すべき学会の問題に掛かっているのだ。科学技術開発とは異なる、子供達に対する大人の真摯な教育に対する社会的責任として考えなければならない問題の筈だ。

このような基礎概念『電荷』や『電子』は、実際には有っても無くても、科学技術の開発研究競争には、ほとんど無関係の事なんだ。ジェット機が飛び、ドローンが様々の状況の調査に活躍し、工場の生産機能は複雑なロボットの働きに因って高度な生産性を実現してきた。決して『電子』などがどの様に流れるか流れないか等、実際の技術開発においては『電子』の存在など全く関りが無いにも拘らず、学校教育において、教科書ではとても重要な基礎であるかの如くに解説されている。記憶して置くべき重要な科学理論の根幹を成す基礎情報となっているのだ。金属銅線を繋げば、そこを電流が流れて、回路動作が設計通りに働くのだ。電線の金属導体内を流れるものなど何も無いにも拘らず、全く『電子』など流れる必要もないにも拘らず、物理学基礎教育では『電荷』や『電子』の必要性が特別に詳しく取り上げられる。この電気回路で、『電流』が流れる理屈は無いと確信したのが、1987年8月5日であった。その研究界での発表は(1987年10月8日)巻末〈資料〉。この時は既に、電磁エネルギーと言う物理量が空間を流れていると、何の違和感もなく当たり前の事と認識していた。

それにしても、電圧と言う概念はとても便利な、利用価値の高い計測量であることには間違いないのだ。電圧は電圧計で測定できる数値量である。同じく電流と言う概念量も電流計で測定できる数値量で、それ無しに電気技術理論は成立しない。この計器で測定できると言う点で際立って、実社会における共通理解の概念量として有意義であるのだ。しかし電流が『電荷』の時間での微分値と言う定義量に成っているところが大変悩ましいことになる。電流の単位アンペア[A] =[C/s}と言う『電荷』との関係で定義されて、MKSAの単位系の基本となっているから。だから、『電荷』を否定するような、物理学理論の根幹を否定するような論法の解釈論は、科学論として理解されるにはとても大きな壁に立ちはだかれる訳で、とても悩ましいことになって来る筈だ。だから科学理論と言う研究内容としては桁外れの領域のものになるのだろう。誰もが反感を抱きそうな内容・論法になるから。

もう一つの重大な誤りは、『エネルギー』と『エネルギーギャップ』の空間的その像の認識が無いと言う点である。その代わりに、『電荷』概念を取り入れてしまったところに、物理学理論の論理的混乱の原因があると解釈する。

この『エネルギー』の空間概念を認識できない科学理論、物理学理論を野放しにしたまま科学技術研究等と言う、大学教育を進めて良いものだろうか。大学は企業研究とは経済的競争と言う面から異なる学問的責任があると思う。技術研究の場で、回路を流れる電流と言う用語は、必ず『電荷』の流れと言う物理学理論の基本から意識が離れない。それでは『電荷』が導線内を流れると、負荷までその『電荷』はどの様な機能を発揮すると言うのか?など詳しい論理的な意味を誰も考えないのか。とても曖昧な解釈論で済ませてしまっているのだ。

電圧・電流と『空間エネルギー』

電圧も電流も、その科学技術概念を、もはや『電荷』概念で解釈できるような物理量ではないのだ。自然世界に現実に実在する、『エネルギー』を認識しない科学理論が矛盾なく、この自然世界を解釈できるような事は不可能な事だと知るべきだ。電圧も電流も、金属導体で囲まれた空間内での『エネルギー』の状態を解釈する技術概念であったのだ。『電荷』など全くの仮想概念で、少なくとも電気回路現象ではその存在価値など何も無いのだ。『エネルギー』と言う見ることも、その空間分布を測定することも出来ない、全く新しく認識すべき物理量『エネルギー』の空間像で、電圧も電流も認識しなければならない時代になったのだ。

電圧とエネルギー


今まで『電荷』で解釈してきた電圧の意味が、『電荷』でなく見えない『エネルギー』の分布模様で解釈すべきものとなった。電線を空間に張れば、その電線間にはある空間構造が形成される。その空間構造は、導体の形状である貯蔵機能容量[F]値が決まる。その電線の1[m]当たりの空間の解釈法として静電容量[F/m]で捉える手法が有効である。この過去の手法での『静電』という意味は全く無い。静電と言う言葉は、コンデンサの過去の解釈法の意味と関係付けただけである。コンデンサで貯蔵するのは『エネルギー』以外無いのだ。静電荷など全く無意味な概念なのだ。だから空間の貯蔵できるという意味でエネルギー容量とでも表現すれば、実際の意味に近い用語になる。
更に、同様に エネルギー慣性 L[H/m] という意味で今までのインダクタンスを表現した。エネルギー慣性と言う訳は、インダクタンスLは『エネルギー』の流れを抑制する機能である。光の光速度の意味は、空間を流れるエネルギーに慣性的な流れを抑制する空間構造の機能がある、それを今までインダクタンスL[H]と言う表現で捉えていた訳である。エネルギーの流れを抑制する意味で、力学の質量に対する慣性に似た意味でその特性をエネルギー慣性定数L[H/m]と表現した。

『エネルギー』と言う物理量の特性。それは空間に不均等に分布する基本的特性を持っている。更に物質にはその物質特有の他の物質との接触間に基本的に、『エネルギー』のギャップが生じる。例えば、半導体の PN 接合間には差が生じる。電圧をその極性でプラス、マイナスで捉える評価法が一般だ。そのマイナス側が『エネルギー』の高分布側である。プラス側はエネルギーの無い側に成る。図の青色で表現した『エネルギー』の密度分布を科学的測定での検証はできない。この分布勾配の強さが、いわゆる電界の強度になる。

電流とエネルギー

電流と言う大切な電気回路理論の概念量のアンペア I[A]は何を捉えた物理量かと言えば、それも電線路の空間を流れる『エネルギー』の量を捉えたものだった。回路にはその構造から決まるエネルギー伝送特性を決める特性インピーダンスZo[Ω]が決まる。電気回路の負荷によって、電源から伝送されるエネルギー量が負荷抵抗R[Ω] と特性インピーダンス Zo との関係から決まるとても簡便な関係にある。
負荷係数 α を
R/Zo= α なる関係で捉えれば、
電源から負荷への伝送エネルギー流 δi [J/m] は
δi = δv/α² [J/m]
なる関係で捉えられる。

この伝送エネルギー流の大きさ・数量を測定する技術として電流計が開発された訳である。この電流 I[A] の次元には『電荷』は必要がなく、
I= √(δi/L)^1/2^ [(J/H)^1/2^]
なるエネルギーのジュール値[J]の関係量であったのだ。

電気回路特性は今までのように、『オームの法則』で十分解析できる訳で、何も変わる事は無い。

しかし、『オームの法則』の輝かしい解釈技術と『電子』と言う自然世界に実在しない科学論的仮想概念『電荷』の[C=クーロン]での物理学理論は自然科学論としては、その矛盾から逃れられない運命にある。

この論の基礎は〈資料2〉の1987年4月の発表内容にすべて含まれている。電磁界現象は『エネルギー』の空間伝播現象であり、全ての視点が『エネルギー』一つの物理量から説き起こされる。今までの物理学理論、電気磁気学理論での電界も磁界も空間の『エネルギー』分布の解釈概念量であったのだ。

〈資料〉 電磁エネルギーの発生・伝播・反射および吸収に関する考察  電気学会、電磁界理論研究会資料 資料番号:EMT-87-106 。(1987/10/08)。
〈資料2〉『静電界は磁界を伴う』

空間エネルギーの発見

(2023/07/06)

『静電界は磁界を伴う』の発表(1987年4月)は『電荷』概念の否定の意味でもあった。その後、長い年月を経て辿り着いた結論は結局、『空間エネルギーの発見』であったのかも知れない。

しかしその空間エネルギーは、科学的測定法で測定できないのだ。空間エネルギーの卑近な例は、眼前に広がる『光』であり、その空間分布の中に在る、光の構成原なのだ。光が空間分布した『エネルギー』の粗密の流れでしかないのだ。その粗密の波形の繰返しが光の波長、振動数と言う概念である。

1990(平成2)年7月、大学には与えられなかったので、自宅を研究室として、[JHFM単位系]を纏めていた頃(「物理的概念とその次元」を1998年4月に日本物理学会で発表した)免職処分が下された。

その年の12月中頃、長岡市の悠久荘に強制収容された。絶食の抵抗で、他の病院に転院となり、その後も止むなく精神病院で、一切の薬物は拒否して、食事だけ頂戴し乍ら研究を続けた。それが記事、光の相対速度と空間である。

其れからは、異次元の世界を彷徨いながら、初期の『静電界は磁界を伴う』の科学革命にも匹敵する具体的な解釈論を展開してきた。

電気物理、電気回路理論での諸概念、電圧、電流、磁束、電荷などの具体的な概念の論理的矛盾を解きほぐしてきた。結局、理科教育での教科書の記述内容が矛盾に満ちたものであることを明らかにできたとの認識にある。

最後の、科学理論の矛盾を示す具体的な解説は、コンデンサは『エネルギー』を貯蔵する機能素子である事を解説することで可能と考えた。

コンデンサは決して、『電荷』等を貯える機能素子ではない。

図は変圧器の負荷として、コンデンサを繋いだ回路である。変圧器の巻線内で、『電荷』等発生しようがない筈だ。正の『電荷』と負の『電荷』に巻線内で分離できるだろうか。この図は、温故知新も観点一つで(電磁誘導電圧と電荷)の記事で取り上げたものである。

物理学理論は、過去の長い研究の成果として出来上がった。それは常に新しい物理的概念を付け加えることによって完成した。〈クーロンの法則〉、「アンペア―の法則」、「ファラディーの電磁誘導則」そして陰極線の発見により新しい『電子』の概念が構築されてきた。科学理論は科学技術による生活の質の向上を目的として発展し、解釈理論が生まれてきた。過去を振り返れば、それぞれの『法則』の間で、何処か腑に落ちない違和感を覚えても、新しい技術開発のための解釈理論が時代の花形理論として脚光を浴びてきた。決して『電荷』を否定したり、『電子』概念を否定したりするような科学論は唱えられないで来たと思う。『エネルギー』とは、物が仕事をする能力の意味である。等と解釈定義が唱えられ、それが科学常識となっている。光が『エネルギー』の空間密度分布の周期波とは解釈されない。光の振動数その意味不明 で論じたように、『空間エネルギー』と言う物理的認識がどれ程理解されているか、それは分からない。『空間エネルギー』と言う物理量が自然界に存在するとなれば、今までの物理学理論の基礎概念が、ここで改めて考え直さなければならないことになる筈だから、それこそ科学革命の様な社会的混乱の種となってしまう。とても困難な社会的状況を迎えることになると思う。学問の自由と公共の福祉に反するよう(現在の科学論の社会常識を覆すという意味で)な解釈の社会的問題になるからだ。

このコンデンサの貯蔵する物理量が何か? と言う問題は、『電荷』概念と『空間エネルギー』の概念についての、自然界に実在する物理量は何か?の認識を問う問題なのだ。次も問題んで、その意味を考えて欲しい。物理学理論は、余り具体的な電気技術回路理論に詳しい認識を持ち合わせて居ない専門家の解釈理論の様な感がある。変圧器の電圧波形が『方形波』の場合などで、励磁電流がどの様な意味を持ち、『磁束』の物理的概念が如何なる意味であるかを、電気磁気学理論との整合性で矛盾なく理解できるかを、理論的統合性を問う問題意識をもって考えて頂きたい。コイル空間に発生する『磁束』と言う物理概念と電線内に流れる『電子』と言う解釈論に矛盾がないかどうかを次の問題で考えて欲しい。

更に、電源電圧が方形波を変圧器を通してコンデンサに印加した場合を考えた。それが物理学理論(電荷と電圧)の論理性❓である。

コンデンサの極版間の空間には『エネルギー』が貯蔵されるのだ。決して『電荷』等貯蔵することはできないのだ。自然科学理論は広範囲の内容から全体が構成されている。それぞれの専門家がそれぞれの専門領域に分かれて、独自の解釈理論で認識されるようになっている。全体を統合して統一する研究は中々困難になってしまった。科学理論が矛盾の無い整合の取れた論理的なものになるには、その具体的な場教育として教科書になる筈だ。しかし、その教科書の中で取り上げられる多くの『法則』が何故か極めて矛盾のままの寄せ集めとなっているのだ。電気物理で、電気磁気学で、コンデンサと空間エネルギーの関係を考究すれば、『電荷』概念での解釈より、矛盾の無い論理的に整合の取れた解釈理論が完成できる筈なのだ。その意味を纏めたのが、上の記事である。

この意味が理解できれば、『電荷』でコンデンサの解釈はできない筈だ。大学入試問題に『電荷』など取り挙げられない筈だが如何でしょうか。

『空間エネルギー』について、電磁界と空間エネルギー でも論じた。御理解の参考になるかと思う。

1.5 V の科学論

(2023/06/14).

 1.5 V の科学論。

 近代科学の技術としてボルタの電池の発明が挙げられよう。電圧の単位「ボルト」もその発明者の名前から決まったらしい。そんな近代科学の西洋文明を東洋と結び付けて、漢字の篆書で書いてみた。

 1.5 V は、乾電池の単一、単二、単三そして単四とすべて同じ電圧である。

 二酸化マンガン乾電池もアルカリ乾電池も、1.5 V の同じ電圧値である。

 この 1.5 V の電圧値がどの様な物理的原理によって決まるか?あるいは化学的理論で決まるか?その意味が分からないのだ。

 空飛ぶタクシー と言う科学技術論がある。空は広くて、自由に飛べる。気持ちが良いだろうと、下界を見下ろしての気分を想像する。それが可能な科学技術の世界なのだ。しかし、もし未来にその様な空飛ぶタクシーが実現可能かと考えた時、空恐ろしい人間の欲望の果てが見える。もし、この街に10台の空飛ぶタクシーが営業で飛んだとした時、自由空間にどのような交通規則で安全運航が可能になるだろうか。衝突事故で、墜落したタクシーの為に命を失う恐れもある。そんな時、自動的に裁判事件にしなくても、命の補償がされる社会的仕組みが可能だろうか。

 また、恐ろしいのは原子力発電所だ。原子力発電所の高度な科学技術の基での災害に対して、自然現象を原因とした災害に対して、弱者は我慢してそれを受け入れなければならないのだろうか。

 『エネルギー』消費増加を原因として、海水温上昇による気象環境破壊を思うと、取りやめて欲しいものに、リニア新幹線の運行がある。原子力発電所一基ほどの『エネルギー』を必要とするのではと心配だ。運用計画・設計・研究の時代と今は異なる状況にある。

 科学技術の進展に伴う生活スタイルが変化し、経済競争のみが追及される。そんな中で、現代物理学理論と言う科学常識の下で、 1.5 V の電圧値の意味が解説できないとは如何なる事かと問わなければならない。それは子供達への精神的過負荷、ゆとりの欠乏の中に教育の無駄が強制的に課される意味になる。

 1.5 V の電圧値の訳を誰も解説できない現実をどの様に理解すれば良いのか。決して『電子』などで説明できる訳は無いのだ。その事を物理学者は如何に考えるのだろうか?大学の理学部でそんな意味を尋ねたら、どの様な解説をして頂けるのか。学生も少しも疑問に思わないのだろうか?

 等と、我が身の存在の意味も不可解の中に在りながら、これからの理科教育の未来が心配になってしまうと、頓珍漢な不安に苛まれる。

 『エネルギー』の意味は物が仕事をする能力だ。等と定義する定説で社会的科学常識が支配される事の末恐ろしさは筆者だけしか感じない不安感なのだろうか?

 過去の記事を拾ってみた。

 電圧ー物理学解剖論ー から始まった。更に、電池(エネルギー)の不思議 、電池と電圧(エネルギーの基礎研究) および、電池と電圧(エネルギーの実験)等がある。

 これらの記事を読み返してみれば、 1.5 V の物理的意味を理解する道は、『エネルギー』と言う空間に体積を占め、そこに分布する物理量が実在する事を基礎認識とした解釈によってのみ可能である筈だ。決して『電子』が原子から分離して、イオン化したと考えたとしても、その『電子』が負荷で消費される『エネルギー』をどの様な物理現象で伝送する機能を発揮できるか、また負荷で消費されるかを説明出来ない筈なのだ。

 『エネルギー』が空間に実在する事の認識が物理現象の根本に無ければならないのだ。それが物理学理論の根本の筈だ。余りにも理論物理学と言う専門分野が目指す未来と、この身近な生活の中での1.5 V の物理的概念を説明出来ない現実の隔たりを何と考えるのか、その未来は皆さんの思いに掛かっていると思う。