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1.5V とエネルギー

(2023/06/16).

 追記。(2023/06/18).  ダッシュボードに挙がっていた。電圧とエネルギー  電圧とエネルギーについての説明に良い記事と思った。

 1.5V と科学論 として昨日投稿した。

 諄い(クドイ)ようであるが、もう一度空間に実在する『エネルギー』が自然世界の根源である物理量だと言う事を理解して欲しい。その『エネルギー』の構成原となる素粒子などは存在しないのだ。自然世界は、全ての根源が『エネルギー』と言う空間を流れ、回転する物理量によって構成されているのだ。

 『エネルギー』の前にも、後にも素粒子などは有り得ないのだ。当然『電荷』なる物理量は誤って、人が創り上げた創造概念だったのだ。

 
 光のエネルギー。 その空間像をエネルギーの分布として認識出来ますか?

 e = hν [J]  として光のエネルギーの量を評価するのが物理学論の基本にある。然しそのプランク定数
h [Js] によってエネルギー量を評価する物理的解釈法は、余りにも偏った、狭い専門家的解釈法でしかないのだ。振動数 ν [1/s] という意味さえ、極めて曖昧な概念なのだ。誰も物理的なその概念『振動数』という意味を説明できない筈なのだ。光の『何』が振動するという意味か?その具体的な空間概念を説明出来ない筈だ。『エネルギー』と言う物理量の空間分布像を認識できなければ、その解説はできない筈だ。

 光のエネルギーの量はどの様な意味で解釈できるのですか?

 光の同じ波長の成分の、その分量は、その強さはどの様に秤量できるのですか。決して振動数では測れない筈だ。その測れない光の強さが『エネルギー』の量が幾らであるかと言う、極めて日常生活感覚に基づく秤の意識による意味なのだ。その意味の光の強さは『光束』の強さルーメン [lm] で評価するのだが、そのエネルギー量ジュールとの換算が計算できない。換算係数が定義できないのだ。測れない物理量、それがエネルギー [J] だからだ。

 この単純な『エネルギー』と言う物理量が身の周りの空間に満ち溢れている自然の姿の認識が人間には出来ないのだ。

 だから、乾電池の機能能力エネルギー量は [AH] の様な電流と時間の積で評価するようだ。決して『エネルギー量』のジュール [J] での評価はしない。そのジュールは測れないからだ。

 電気回路で伝送されるのは決して電荷などではなく、エネルギーなのだ。『電圧』とか『電流』と言う電気基礎概念がどの様な物理的概念を定義したものかと言う事の認識が曖昧なのだ。
 エネルギー流が電圧・電流 
 乾電池と花一匁
 懐中電灯の特性

 このような乾電池のエネルギーの意味を考える事によって、自然世界は『エネルギー』と言う物理量の実在性を認識せずには困難だと理解できるだろう。
 

1.5 V の科学論

(2023/06/14).

 1.5 V の科学論。

 近代科学の技術としてボルタの電池の発明が挙げられよう。電圧の単位「ボルト」もその発明者の名前から決まったらしい。そんな近代科学の西洋文明を東洋と結び付けて、漢字の篆書で書いてみた。

 1.5 V は、乾電池の単一、単二、単三そして単四とすべて同じ電圧である。

 二酸化マンガン乾電池もアルカリ乾電池も、1.5 V の同じ電圧値である。

 この 1.5 V の電圧値がどの様な物理的原理によって決まるか?あるいは化学的理論で決まるか?その意味が分からないのだ。

 空飛ぶタクシー と言う科学技術論がある。空は広くて、自由に飛べる。気持ちが良いだろうと、下界を見下ろしての気分を想像する。それが可能な科学技術の世界なのだ。しかし、もし未来にその様な空飛ぶタクシーが実現可能かと考えた時、空恐ろしい人間の欲望の果てが見える。もし、この街に10台の空飛ぶタクシーが営業で飛んだとした時、自由空間にどのような交通規則で安全運航が可能になるだろうか。衝突事故で、墜落したタクシーの為に命を失う恐れもある。そんな時、自動的に裁判事件にしなくても、命の補償がされる社会的仕組みが可能だろうか。

 また、恐ろしいのは原子力発電所だ。原子力発電所の高度な科学技術の基での災害に対して、自然現象を原因とした災害に対して、弱者は我慢してそれを受け入れなければならないのだろうか。

 『エネルギー』消費増加を原因として、海水温上昇による気象環境破壊を思うと、取りやめて欲しいものに、リニア新幹線の運行がある。原子力発電所一基ほどの『エネルギー』を必要とするのではと心配だ。運用計画・設計・研究の時代と今は異なる状況にある。

 科学技術の進展に伴う生活スタイルが変化し、経済競争のみが追及される。そんな中で、現代物理学理論と言う科学常識の下で、 1.5 V の電圧値の意味が解説できないとは如何なる事かと問わなければならない。それは子供達への精神的過負荷、ゆとりの欠乏の中に教育の無駄が強制的に課される意味になる。

 1.5 V の電圧値の訳を誰も解説できない現実をどの様に理解すれば良いのか。決して『電子』などで説明できる訳は無いのだ。その事を物理学者は如何に考えるのだろうか?大学の理学部でそんな意味を尋ねたら、どの様な解説をして頂けるのか。学生も少しも疑問に思わないのだろうか?

 等と、我が身の存在の意味も不可解の中に在りながら、これからの理科教育の未来が心配になってしまうと、頓珍漢な不安に苛まれる。

 『エネルギー』の意味は物が仕事をする能力だ。等と定義する定説で社会的科学常識が支配される事の末恐ろしさは筆者だけしか感じない不安感なのだろうか?

 過去の記事を拾ってみた。

 電圧ー物理学解剖論ー から始まった。更に、電池(エネルギー)の不思議 、電池と電圧(エネルギーの基礎研究) および、電池と電圧(エネルギーの実験)等がある。

 これらの記事を読み返してみれば、 1.5 V の物理的意味を理解する道は、『エネルギー』と言う空間に体積を占め、そこに分布する物理量が実在する事を基礎認識とした解釈によってのみ可能である筈だ。決して『電子』が原子から分離して、イオン化したと考えたとしても、その『電子』が負荷で消費される『エネルギー』をどの様な物理現象で伝送する機能を発揮できるか、また負荷で消費されるかを説明出来ない筈なのだ。

 『エネルギー』が空間に実在する事の認識が物理現象の根本に無ければならないのだ。それが物理学理論の根本の筈だ。余りにも理論物理学と言う専門分野が目指す未来と、この身近な生活の中での1.5 V の物理的概念を説明出来ない現実の隔たりを何と考えるのか、その未来は皆さんの思いに掛かっていると思う。
 

乾電池のエネルギーが行方不明

中学2年生が理科、技術の教科で、電池電圧の測定や白熱電球のエネルギー変換を学習している事を知った。
改めて、乾電池の原理をどの様に説明しているかと検索で調べてみた。
予想はしていたが、やはりそこには大変な誤った科学論が唱えられていると認識した。
乾電池は何の機能の製品か。電気用品や電球に『何』を供給する為の電池か。

乾電池は『エネルギー』の貯蔵電源だ。

しかし、電池機能の解説には『エネルギー』の用語がどこにも無い。

図はマンガン乾電池の場合を取り上げて概要を描いた。

構造は二酸化マンガンの練り物合剤を、正極に炭素棒、負極として亜鉛で包んだ形態である。

電池の原理(検索の記事)。負極の亜鉛Znから『電子』が分離して負荷を通って正極に戻る。ただ『電子』が負荷の外部回路を回るだけで、電池の役目は果たされた事に成っている。決して『エネルギー』の用語は何処にも出てこない。化学方程式は複雑の分子で解説されるが、そこでも『電子』は大事な役割を担っているが如くに解説される。ただ『電子』が移動すればそれで電池の機能は果たせたと。

電池の原理。『電子』など何の役にも立たないのだ。『電子』はこの自然世界に存在しない。『電荷』など無い。電池は『エネルギー』を使うための電気技術製品だ。乾電池は『エネルギー』を貯蔵した化学分子成分の開発製品だ。亜鉛の負極側から『エネルギー』が電気回路の空間を伝播して負荷に供給されるのだ。電池の亜鉛と合剤の間の接合面での二つのエネルギー順位差が生じる。それを『エネルギーギャップ』と呼んでいる。丁度化学論での、イオン化傾向によるエネルギー活性度の差の様なものだ。化学物質の合剤が亜鉛に対して持つエネルギー順位がその乾電池の『エネルギー』保有能力として、電池電圧として現れる。

電池電圧。

乾電池に電圧計を繋げば、乾電池の電圧値が測れる。電圧計の中身を示せば右図のよう抵抗とコイルの直列回路の電気回路である。そのコイルをマグネットの間に吊るして、電圧値に応じてコイルが回転する回転角で測定するのである。

電池はどのような回路を繋ごうと、同じ電圧値を示す。その訳は何か?

さて、電圧計の内部構造を示した訳は、それは『電子』がどの様な機能を持ってコイルの回転力を生むかを解釈してもらわなければ成らないからである。電池の原理で『電子』論で解説する方は電子がコイルの導体の中を流れると、コイル導体がマグネットの磁気と『電子』の物理的定義概念との間にどのような力が生じるかを御説明頂かなければ成らない。『電子』の電荷と質量が磁気に作用する訳を。電荷と磁気とはお互いに独立した物理概念として仮想されている。

また『電流』は『電荷』の時間微分値だ一定の『電子』の流れの『電流』の値は零だ。(2021/07/06)追記。この文章の意味を少し説明しておく。『電流』=「電荷」の時間微分値=dQ/dt [A]だ。電線内の電荷の分布量が時間的に変化しないと電流は〇となる。しかし、電線路内を一定の電荷が流れ続ける状態を『電流』と見做せば、ゼロとはならない。多分一定電流という意味を電荷が電線の或る断面を一定の割合で流れ続ける状態と解説されているかも知れない。恐らくその解説しか取れない筈だ。さて、その解釈を採るとすれば、電線のすべての内部に『電子』が等しく充満して、何処の電線内部も一定の電子密度の分布した、電線全体が負の電荷の充満導体となる。そのような状態を、電線外部から電気現象を観測したとき、『電荷』が流れている等とは分からない筈だ。しかも電線路の『電圧』の意味もかき消されて、電気の現象など何も現れない筈だ。科学理論の本当の姿はこんな単純な極めて易しい内容の意味を深く追求することによって、多くの矛盾に満ちた姿が隠されているのだ。科学理論の怪しさは、一般の市民が太刀打ちできない高度な、怪しい概念を『高等数式』で表現するところにその魔術的意味がある事が多いのだ。日常用語の論理性で深く意味を追究することで、矛盾や曖昧さを理解できるのだ。電流の電荷時間微分値という意味一つでも、『電流』概念を深く理解できる筈だ。その意味で追記した。

電池開発研究者はいるが、その製品の科学技術理論を解説できる科学者がいない。電池の中から『エネルギー』が何故発生するかを解説できる科学者が一人もいない。

電池の回路でエネルギー変換の現象を中学生に教える。電池の『エネルギー』の意味が解説できる科学者もいない中で、中学校の先生が『エネルギー変換』を教えるとは如何なる事か。何処かが狂っているとしか思えない。

『電子』に依る解説論法が、自然現象の意味を考える習慣を失わせてしまった。それが科学理論の矛盾を放置させてしまった。だから今でも、物理学理論で、空間に実在する『エネルギー』の概念・認識が無い。光の空間エネルギー分布の認識が無い。

中学生に期待する。『エネルギー』が如何なるものかを理解してほしい。新しい科学理論の未来に向かって、その先陣を担ってほしい。自然は君たちの心を未来に待っている筈だ。

懐中電灯の特性

(2021/01/18)。懐中電灯

右は少しクラシックの高級懐中電灯だ。電源は単一乾電池4個直列に成っている。白熱豆電球が負荷だ。

 

 

電池の放電特性。

右は単一型乾電池のある会社の放電特性の試験結果だ。乾電池と花一匁 (2021/01/13)のデータの意味が不思議で再び取り上げた。放電条件で、電池容量が大きく異なる結果を示す理由が分からない。

実際の懐中電灯がどの様なものかを調べてみたいと思った。懐中電灯の電気回路現象はオームの法則で誰もがよく知っている。しかし、それは回路に電流が流れるという科学技術概念に因った理解だ。電線に『電流』や『電子』が流れていないとの認識に立てば、そう簡単に分かったとは言えない。懐中電灯回路の日常に有り触れた製品でも、科学技術的解釈理論とその中の自然現象の本質とは違う。本当の物理現象は『電流』や『電圧』と言う科学技術概念ではその真相は分からない。自然現象の本質を理解するには『エネルギー』の流れで捉えなければいけない。それは既に教科書の解説理論と異なる内容になる。教科書は『エネルギー』の流れと言う認識では解説されていない。最近分かったと思ってまとめた記事がある。エネルギー流が電圧・電流 (2020/10/01)。  その末尾に、【実験的課題】α<1の時。として疑問を残しておいた。しかし、今回も何も結論を得られなかった。

実際の負荷条件は殆どα>1の場合である。乾電池の回路での配線は普通往復の単線回路だ。冒頭に示した製品の内部を見た。そこに観える回路には何か電気技術感覚の優れた直感からの誇りが隠されているように思えた。電気回路の回路定数はその電線路の空間構造によって決まる。分布定数回路空間の世界 (2019/10/14) に算定式をまとめた。

ここには電線は使われていない。金属導体板で回路が構成されている。直流回路の導線がどの様な意味を持っているかが示されているように思えた。この回路構造で、導体が平板で伝送空間が広く、電線より回路容量 C[F/m] が大きくなり、その為『エネルギー』の伝送容量の増加が見込まれる。以前平板コンデンサ配線回路等と言う記事を書いたこと思い出した。今はもう懐中電灯は新技術やらで、LEDが使われこのような電気現象の原理を考える古き良きものが消えてしまった。ブラウン管テレビが消えたように。

回路構成。

ランプ定格。4.8V,0.5Aと豆電球に記されている。電源電圧を計ると無負荷時 6.4[V] ある。ランプ抵抗は 0.9[Ω]のテスターでの測定結果を示す。ランプ負荷時はフィラメントが高熱になって抵抗が 9.6[Ω]程度に成る。それは500Ωに比べればとても小さい抵抗値だ。負荷は定格容量 P=2.4[W]以上 となろう。

回路現象解釈。

(教科書)。教科書では、当然のごとく、『オームの法則』で解く。電源電圧V=4.8[V] 、抵抗R=9.6[Ω]なら、電流I= o.5[A] と『電流』が求まる。それだけで、負荷電力も直ちに計算できる。科学技術論としてはそれで充分で、それ以上の事は考える必要もない。直流回路では、電気回路の回路定数は考慮しない。実際には特性インピーダンス Zo[Ω]が負荷抵抗R[Ω]との関係で重要な意味を持っている。

(自然現象)。『電流』と言う貴重な科学技術概念の御蔭で、すべてが数式での論理性を持って解析でき、すべて教科書によって理解できる。この科学技術以上の事は世界の電気理論には取り上げられていない。ほぼ『電子』が『電流』と逆向きに電線の中を流れるとの解釈で専門的論理が完結している。そこには負荷にどのように『エネルギー』が電源から伝送され、消費されるかの意味が不明のままである。この単純な懐中電灯の電気回路で、『エネルギー』がどのように振舞うかをまとめた。

(1)α=1の場合。

δp1(α=1の時の伝送エネルギー)を回路整合時の基準値と定義する。負荷抵抗がR=Zoの場合は、電線路伝送の『エネルギー』の分布量δp[J/m]がそのまま負荷に供給され、負荷反射なども起きない。この状態を回路動作の基準と定義し、その値をδp=δp1とする。

(2) α<1の場合。

この場合は、通常考えられない過負荷回路状態である。

(3)α>1の場合。

この場合が通常の負荷状態である。電源電圧保持『エネルギー』より少ない伝送『エネルギー』で十分である。負荷が要求する電力P[W]に対する伝送『エネルギー』分δp[J/m] では電圧保持には不足である。そこに流れない滞留『エネルギー』分布δo[J/m]が生じる事に成る。

分布エネルギー δp+δo=αP(LC)^1/2^ [J/m]

電圧       v={(δp+δo)/C}^1/2^ [V]

直流回路の電気現象について。教育とオームの法則 (2020/09/06) で指摘した。その疑問の一部について、漸く満足の出来る『エネルギー』による解釈に到達できた。この自然現象を理解するのも、慣れないと分かり難いかも知れない。しかし、『電子』と言う科学常識論が誤りである事だけは間違いない。これからの理科教育と言う面で、とても大きな課題がある事を示せたかと思う。それはみんなが『学問の自由』と教育という意味を考える課題でもあると思う。

電磁界と空間エネルギー

はじめに(2020/03/24)。(2020/11/07)追記。この記事の半年後、『電圧と電流』すべてが逆だった (2020/08/24)に漸く電気回路における『エネルギー』の意味を捉えたと言えた。
電気磁気学はあらゆる電気現象を理解する基礎物理学となっている。しかし、物理学理論では空間に『エネルギー』が質量から独立して存在すると認識していないように思える。電気回路のコイルの中には『エネルギー』が貯えられるというが、その『エネルギー』はどこに在ると物理学では認識するのか。物理学理論では『エネルギー』は何から出来ていると考えるのか。素粒子と『エネルギー』のどちらが世界構成の大本と解釈するのか。

電界と磁界
空間に電界が在るという。空間に磁界が在るという。電界や磁界は電気磁気学での空間に仮想した概念の電気物理学用語の代表である。空間に仮想した概念 (*)であるが、電界や磁界は『エネルギー』との関係を持たないのか?その電界や磁界が空間に在るという意味は何を原因として、どのような空間像を表現したものか。空間がコイル(透磁率μo)とコンデンサ(誘電率εo)から成り立つという解釈を『誰が』最初に唱えたのか、きっと仙人かも知れない。仮想した概念(*)という意味が御理解いただけないかと心配だ。その単位に含まれる、空間距離の[m]は現実に在り、それは実在概念だ。しかし電圧 [V] あるいは電流 [A] は確かに測定器で測れるから、仮想した概念とは誰も認められないのじゃないかとも思える。電圧あるいは電流を計るとは測定器の中で何を計っているのだろうか。その測定する実体はコイル内の空間に在る『エネルギー』じゃないですか?とお尋ねしたい。電圧とか電界あるいは磁界と言う概念の物理量は『何』を原因として発生するのか?その意味を以下で考えてみたい。電圧[V]=[(J/F)^1/2^] 、電流[A]=[(J/H)^1/2^] が空間構造特性値L [H]やC [F] と『エネルギー』 [J] との関係にある。

乾電池で豆電球を点灯する。これも専門用語を使えば電磁界の回路となる。スマホで発信する電子回路の複雑さとは違って、電気回路で言えば、小学校の理科の話にも成る、易しい内容である。しかし、筆者が『電流は流れず』と唱えた基本の考察対象に取り上げた回路でもある。易しいことは難しい事でもある。基礎とか基本という事の中には、とても複雑な意味が隠されている。その事に気付くかどうかは、それぞれ各人のそれ迄の生活環境、受けた教育環境即ちどのような高等教育で専門的な事を修得してきたか、また社会人になって仕事としてどの様な専門的業務に携わってきたか等にも因ろう。その点からいえば、筆者は大学の工学部で、電気工学を4年間学んだだけの所謂「工学士」でしかない。そんな筆者が述べる内容が余りにも学術機関に所属して研究をされている方々の研究業績に比べて稚拙で、乖離度が大きく全く研究と言う基準には遠く及ばない内容であろうとも思う。しかし、それも宿命と思いながら、ここまで日常の生活感覚に科学理論や物理学理論を照らし合わせながら、その論理的矛盾を追求してきた。この電気回路は高度の科学研究の対象とはならないが、どこから考えても、おそらく誰にでも考えることの出来そうな、取り付きやすい回路であろう。そんな易しい電気回路でありながら今現在の電気理論で解釈しようとすれば、余りにも矛盾が大きくて、将来の子供達への教育内容としては耐えられないと断ぜざるを得ないのだ。そんな思いから、これからこの回路を通して問い掛けようとする内容はとても気難しいことかも知れない。特に電気理論に関する教育に携わっておられる方々、あるいは電気回路に関する教科書をお書きになられておられる方々にとってはとても反感を覚えるような内容であるかも知れない。そんな何も得るものが無くても書かずにいられない切羽詰まった状況であることをご理解頂きたい。ただ一言付け加えておきたい。それは電気理論として取り扱われる技術理論が悪いという訳ではないのだ。技術法則は電気現象の技術的取り扱いにはとても簡便で、優れた歴史的文化である。その技術的解釈理論が長い科学の伝統を作りながら、今日の科学技術社会を発展させてきたのだ。そんな社会的文化でもある、技術概念を簡単に捨てる訳にはいかないのも当然である。電気技術者として過去に少しは関わった筆者もその辺の意味を十分理解した上での訴えなのである。何が良くない点かが分かり難いとも思う。それは科学技術理論と自然世界の『真相』とは異なるという事を理解してほしいという点である。誠に言い難いことで恐縮なのだが、自然の『真相』は易しくて、きわめて純粋であるという事に尽きるのだ。だから、自然科学理論として社会を導いてきた、その技術法則を自然界の物理的「真理」と捉える考え方、その如何にも権威的な教育の姿勢が間違っているという事である。筆者が我慢できない解説、それは電気回路の電線内を『電子』が『電流』の逆向きに流れるという非論理的な伝統科学論に支配されている事である。『電子』が通ると解釈すると、その回路の『エネルギー』伝送機能と電磁現象の光速度流が見えない科学論になるから。今も手元にある、「科学革命の構造」トーマス・クーン著、中山茂訳 (みすず書房)が。その『パラダイム』に関わる科学理論と自然現象について論じたいと思う。難しい学術論の形式的内容にはならないから、誰でも考えられる内容で論じられると思う。それはどこの家にもある生活用品の懐中電灯の話でしかないから。しかも数式を極力使わないで、日常用語で述べたいと思う。

空間エネルギーと『エネルギー保存則』

『パラダイム』と言う用語の定義で、トーマス・クーン氏も一度撤回せざるを得ない程激しい攻撃にさらされたとも言われている。その用語の持つ意味本来の意味と更に通常科学などの用語の新しい捉え方など合わせて、その論説の優れた先見性も中々受け入れられ難かったからかと思う。『パラダイム』の意味も新たな捉え方で筆者には適切な用語と理解したい。そう訳者あとがきをみて思った。また、英和辞典にも、模範、典型の標準的意味と別に、パラダイム:⦅思想・科学などを規定する方法論・体系⦆として適語が示されている。

空間エネルギー

この言葉・用語が受け入れられ難いのだろう。その理由は、『電流』あるいは『電子』『電荷』など電気理論の根幹である概念と対立する物理概念・量であるから。検索すれば何か精神論と関係付けられた意味が載っている。そのような意味も考えれば必ずしも否定しかねる面もある。人が言葉も文字もなかった、人類生誕の時代も社会的意思の疎通が成された訳であれば、それぞれの思いは精神的な意味のつながりで可能であったとしか思えないから。生きとし生けるすべてがその心のつながりの中に居るのかも知れない。しかしここでは、この『空間エネルギー』と言う筆者が唱える用語の意味は全く物理現象として身の周りの自然界に溢れている物理量を指すのである。その代表が光である。また配電線路が有れば、それは電気エネルギーである『空間エネルギー』の流れの設備であると見える。『空間エネルギー』は質量から独立した『エネルギー』が空間に存在するという事を述べるものである。それは物理量として自然の世界、空間に実在するものを対象に観ているのである。しかし、それは測定することも出来ず、見ることも出来ないものであるところに、認識し難さの大きな壁があるのかも知れない。光の1波長のエネルギー分布を観測する事など夢の世界の話であるから。『空間エネルギー』が理解されにくい最大の原因は『電流』、『電荷』あるいは『磁束』などの基本物理量・概念をすべて飲みつくしてしまう概念・意味を持っているからであろう。だから考えてみれば、空恐ろしいことに挑戦してきたのかと思わざるを得ない。『禪』とは何か?

掲げた懐中電灯の回路で、乾電池から豆電球までの間は導線で繋がれている。その部分を図にエネルギー伝送路とした。電線が何の役割を持っているか。電池は何を貯えたものか。豆電球は何を光に変える電気製品か。光とは何か?豆電球が熱くなるのは何故か。こんな<問答>は、誰でも日頃の日常生活で不図思う疑問に関わるものではなかろうか。このような事を、科学理論・物理学理論の諸概念と突き合わせながら、考えてみよう。

〈第1問〉電池は何を貯える製品ですか。

『電子』ですか?『エネルギー』ですか?『電流』ではありませんね!多数決で決める訳にもいきません。電気技術者は、物理学者は何と答えられるだろうか。

〈第2問〉豆電球は何を光に変える製品ですか。

『電子』ですか?『エネルギー』ですか?

〈第3問〉電線で囲まれた空間の物理的意味は何ですか。

何の意味もないのですか?

〈第4問〉電球から放射される光や熱はどの様な物理量ですか。

『エネルギー』ではないですか?

〈第5問〉『エネルギー保存則』の『エネルギー』とはどの様な物理量ですか。

降り注ぐ太陽光線は保存されますか?その前に太陽光線が『エネルギー』と思いますかと聞かなければなりませんね。トマトもキュウリも太陽光線の『エネルギー』、それを栄養の一つとして食べて成長していると考えたら間違いですか?それを『エネルギー保存則』の意味と考えられませんか?『質量』と『エネルギー』は等価という意味に繋がりませんか?

懐中電灯回路のエネルギー論

上に挙げた幾つかの〈問題〉は電気回路の中に、『空間エネルギー』の存在を理解するか、認識するかの人の意識の問題に掛かっている。ここに在るのは『パラダイム』に関わる問題なのである。その専門性が故に細分化され自然科学と言う広い自然界を包含した学問の哲学性が衰退し、どんどん知的魅力に欠けつつあるように思われる。しかし、日常生活に直結した科学技術の分野の先鋭化は益々経済的競争に資する形で進んでいる。そこに自然の真理と科学技術理論との関わりの乖離が進んだ。理論の矛盾が遠くに霞んでいるように観える。その意味を懐中電灯の中に示したい。残された『パラダイム』の問題として。

回路電磁空間。

乾電池と豆電球を導線で結べば、電球に電圧V[V]が掛かり、電流I[A]が流れる。これが電気回路解釈の基本法則で、「オームの法則」である。この法則から見れば、導線が2本で十分電気現象を理解できる。豆電球の抵抗値が何Ωと分かればすべて解決する。電線で囲まれた空間など殆ど意味がない。殆どの人はその空間など意識しなかろう。電池のマイナス側から『電子』が流れ、電池のプラス側に戻れば、それで科学理論の原理は全て解ったと言っても良い科学論の『パラダイム』に在る。1864年、有名なマックスウエルの電磁場方程式が登場した。電磁波が空間を伝播するという事をその方程式に表現してまとめた。電気信号が空気中を伝わるという科学的発見の理論方程式である。後にヘルツと言う人が無線通信(空気中の電気信号の伝播)の実験に成功した。その後の100年に亘って、電気送電網が生活に灯りをともし、近代生活を支えて来た。今は「携帯通信機」が誰もの生活必需品になっている。情報革命ともいえる時代を生きている。光も電磁波の一種であるという。光の速度は「特殊相対性理論」でとても理解できない数学的記述で、どこで測っても、例えば地球の速度との相対速度にも無関係に『光速度一定』の規範に在ると説かれる。レーマーの光速度測定実験に照らしてその確かさを信じれば、筆者には「特殊相対性理論」の唱える意味がさっぱり理解できない。筆者にはPCや通信機の回路の意味さえ何も知り得ない電子回路の通信技術全盛時代だが。みんな空間を伝播する電気信号理論の筈だ。そんな科学技術が先導する社会に生きて、懐中電灯回路の導線で囲まれた「空間」の電気磁気学的意味を紐解いてみようと思う。光も電波も、それを伝える媒体(昔はエーテルが伝える媒体と考えたこともあった)が何もない真空空間を伝播するというのだ。その電気的な現象が有るのに、何故懐中電灯の回路で、電線で囲まれた空間に電気的意味が無いと考えるのか?電線路空間には本当は電界と磁界と言う電気磁気学の専門用語の空間概念があるという事になっている。しかしオームの法則ではそんな意味は全く考えない。技術法則は誰でもが理解し易く出来ている。しかし少しでも専門性がその威厳を持って、介入してくるととても複雑な理論に化けるのである。オームの法則が電気現象の自然世界の真理を唱えたものかと言えば、それは必ずしも正しくはない。ここで「間違い」と言う言葉を使うことがとても複雑な心理的負担を感じるのだ。「間違い」ならオームの法則は教科書から消して良いかとなるが、それは困るし、正しくないと言わなければならない。しかし「間違い」とそう言わざるを得ないその訳は、本当は電線の中を『電流』が流れられないから。また『電子』が『電流』の代わりに電線の中を逆向きに流れると解説されるが、それも「間違い」である。自然の『真理』と社会的技術概念との間にはとても曖昧で、複雑な意味が隠されているのだ。何故マックスウエルが空間を電波が伝播すると唱えたのか。懐中電灯の電気と電波の電気は違うのだろうか?空間に『電界』と『磁界』があると電気磁気学理論では解説される。しかし、懐中電灯の回路では電線の間の空間に電磁界が在るとは考えなくても、オームの法則だけで立派な電気技術者として社会に貢献できる。それで電気回路の専門家として、いわゆる科学理論の『パラダイム』の専門家集団の一員として立派に責任を果たせる。しかし自然世界の『真理』として『電子(電流の逆向き)』を流さなければならない訳・理由は無い筈だ。金属導体は本質的に『エネルギー』を反射する。『エネルギー』伝播に何の障害にもならない空間がマックスウエルが唱えたように有るのに、その空間を通らない電気現象あるいは『エネルギー』などない筈だ。導線で囲まれた、導かれる空間にこそ電気現象の本質があることを考えて欲しい。光と同じ電気『エネルギー』は空間しか光速度で伝播できないことを理解してほしい。この科学的認識の前提には、光の空間エネルギー分布縦波認識が必要ではあるが、それは別に学習すればよいだろう。振動数では光の1波長の空間のエネルギー分布波は理解できないから。

電圧と空間と電界

マックスウエルが唱えた方程式には、電界と磁界と言う理論の根幹をなす概念がある。電気現象は空間の中に存在するという意味である。右の図のような電池の配置で空間の電気的意味を考えてみよう。乾電池1個なら電圧は1.5ボルトである。その乾電池を2つ繋げばその電圧は2倍の3ボルトとなる。乾電池も電気にはプラスとマイナスがある。このプラスとマイナスという意味も中々意味深な概念で、哲学的論題になる。世界に「マイナス」と言う物の存在は無いのだ。電気だけの特殊な、不思議な世界観のもたらした概念なのだが。身の周りに「マイナス」の物を探してごらんなさい。見つかりますか?「プラス」も「マイナス」も原子論の世界で生れた概念なのでしょう。本筋の論議に戻りましょう。電池の端子から電線を張りましょう。その電線の間には、それぞれ電池の電圧が何処の電線にもかかります。その電線から別の電線を枝分かれして図のように空間に或るギャップを開けて配線した。その間の間隔は A も B も同じとする。今電線路には何も電球などの負荷は繋がっていない。さて何を問題とするか。それは空間が電気的に何か意味を持っているかどうかを考えて欲しいのだ。『電界』と言う概念について。図の AとB で空間の電気的状態が違うことを知ってほしいのだ。A とB の『電界』が違うのだ。と言う事は『空間』がオームの法則では理解できない意味を持っているという事になる。そこに電気現象の本質が隠されているという事だ。世界は空間で出来ている。空気と水の空間で、音も光もその速度が違う。今、A とB のギャップを1㎝とする。Bの方の電池の電圧をどんどん高くしてみよう。とても高い1万ボルトの電圧としてみる。するとそのギャップの空間が何か異常な空気になるかも知れない。 近くの田圃の上に送電線が通っている。多くの電気エネルギーを送る電気設備だ。電線の間が大きく離れている。何故そんなに間隔を開けなければならないのかと理由を考えるだろう。その空間の広がりが必要だからとしか考えられない。電気を送るには無駄と思えるような空間が必要なんだ。『電流』、『電子』が電線の中を流れるだけで、電気を送れるならそんな空間はいらない筈だ。空間が電気現象、電気エネルギーの伝送に必要だからと理解できよう。もう一つ空間の『電界』の意味を取り上げてみよう。

空間と『エネルギー』。電池の導線にもう一つコンデンサを繋いでみよう。コンデンサと言う要素の構造は金属導線を平板に広げた2枚を向かい合わせた形態である。その平板面積に比例してコンデンサの容量 C[F] が決まる。コンデンサ容量が大きいという事は、その金属平板の間の空間により大きな『エネルギー』を貯蔵できることになる。その物理的意味は単に金属の間の空間には『エネルギー』が存在するという事でしかない。細い電線でも2本あればどんなに少なかろうと、そこには『エネルギー』が在るのだと言える。『電荷』の存在と言う基本認識の『パラダイム』に属する科学論に賛同される方も、コンデンサの空間内に『エネルギー』が貯まるという意味を理解できると思うのだが、どの様な『エネルギー像』で認識なされるのかとお尋ねしたい。当然誘電体の分極と言う『電荷』概念に基づく解釈をなさるのではないかと思う。しかし、たとえ誘電体の無い真空空間でも『エネルギー』は貯まる筈と考える。それは光が電気の『エネルギー』と同じ物理量であることからの認識になる。

『電界』と『磁界』

『電界』と『磁界』は本来空間に定義された概念である。そこで、物理学理論ではその空間にある『電界』や『磁界』は何の為に必要と考えるのか。空間に張られた電線の間に電圧が在るという事は、その電線の間隔の距離で電圧を割った値が『電界』の値で、E[V/m]と言う単位の意味である。空間に電圧が掛かっている意味だ。電線の中に『電子』を加速するための電圧が掛かっている意味はない。次に『磁界』とは何か。懐中電灯の二本の電線を広げて空間を作り、その間に磁石のコンパスを近付けると向きが変り、その空間に何かが在ると考えられる。それが電線に流れる『電流』を原因として空間に生じる磁気の意味と考える。電線で囲まれた空間に何も無かったら、コンパスが力を受ける理由が無い。空間に磁気があることは確かだ。その回路の電線を広く広げて空間を大きくする。きっとコンパスの作用する動きの強さが空間の場所によって違うはずだ。コンパスが力を受ける強さで、そこに磁界が在ると考えて良かろう。『磁界』もその大きさを電流の単位アンペア[A]で、 H[A/m]という距離との比率で評価する。電線の『電流』からの距離で評価する。その『電流』が流れないと言いながらの『磁界』であるから、筆者の理屈は矛盾していると言われそうだ。それが『アンペアの法則』と言う電気磁気学の基礎理論の意味の話になる。誰も『アンペアの法則』が間違っている等とは言わないだろう。それを『電流は流れず』という事で、『電流』の概念を否定した解釈を1987年の秋、電気学会の電磁界理論研究会で発表した。『電流』を否定したら、電気理論は使えない『パラダイム』からの離脱と言える状況になる。電気の研究者などと言っていられないことで、職業の場を失う。それは空間の『エネルギー』の実在を認識するかどうかに関わる電磁界理論の根幹を問う課題となる。現在の電気理論を、物理学概念を科学論展開時の論理的論拠として考える専門家は決して『電荷』や『電子』を否定しない筈だ。否定したら『パラダイム』からの離脱を意味するから。『電子』が『電流』の逆向きに電線内を流れるという『パラダイム』の現代科学者集団の専門性に則っているから、『電流』や『電荷』を決して否定はしない。そこにその科学理論が現代社会の規範となって、一般市民も信奉する科学常識に支配された世界となっている。そこに『パラダイム変革』の難しさがあるのだろう。

電球の機能と放射エネルギー

電球の物理現象は何だろうか。電線路空間に『電界』と『磁界』があることは理解されても、だからと言ってそれがどれだけの価値があるのかと反論され、理解されないかも知れない。さて、豆電球は灯りをともす。灯りは空間に光を放射することで得られる。光は電波と同じ電気の姿ともいえる。光は電波と波長が違うだけの空間に放射される『空間エネルギー』である。空間を飛び、伝播する電気の『エネルギー』である。電球はどんな秘術を尽くして光を作るのだろうか。簡単に理解できない魔術的物理現象を使って豆電球のフィラメントを『電子』が通過すると、置き土産に光の『エネルギー』を放射して、しかも『電子』は何も失わず『エネルギー保存則』の原理も無視して世間的に通用する科学常識と言う理論となり得るのだろうか。フィラメントと言う抵抗体のコイル内を『電子』が通過すると、どの様な機能で光の『エネルギー』を放射するのかを解説できなければ、科学の論理性が疑われる。『電子』が『エネルギー』に対してどの様な機能を発揮するのかが説明されていないのだ。『電子』論は『エネルギー』を全く無視しても、その解釈が科学論として通用している。其処が不可解なのだ。

電池の機能

乾電池も図のようなプラスとマイナスの意味を持たせた長短の二本線の記号で表示する。誰もがその記号で電池を理解するだろう。記号からプラスとマイナスの『電荷』による電圧が掛かっている意味の機能素子と思うのではないか。しかし、電池に求める技術的機能は『エネルギー』の貯蔵機能ではないのか。『電子』の貯蔵器とは思わないだろう。Energy Cell とした。「+」と「-」の記号は少しでも電気を学習すると、全く違和感もなく当たり前の科学常識として意識化される。考えてみればプラス、マイナスと言う表現で定義する物がこの世界に存在すると何故考えるのかその訳が理解できない。何故「+」と「-」を必要としたかはクーロンの法則で代表されるような、物の結合力を託す理論構築のための概念が必要だったからであろう。それならそのような『電荷』が空間で引合う結合力を発揮するには、単に「+」と「-」と言うだけで、その空間像がどのように違うから引合う力が生じる現象かを、その空間的理由を論理的に示さなければならない筈だ。日本の「この紋所が見えないか!」と同じ科学的暗黙の威圧だけで納得させているようだ。「+」と「-」に空間的にどのような構造的違いがあるというのか。その違いが無ければ互いに作用し合うという理屈は成り立たない。論理性が理論の根本からないまま、科学常識として暗黙の科学論となってしまった。なぜ電池が「+」と「-」の『電荷』を貯蔵することでその役割を果たせるとなるのか。あくまでも欲しいのは『エネルギー』の筈だ。『電子』と『+イオン』で『エネルギー』がどの空間に、どの様に貯蔵されると考えるのか。『エネルギー』は空間に実在する物理量なのである。『電子』や『電荷』ではコンデンサやコイルの空間に或る『エネルギー』の代わりには成り得ないことを認識すべきではないかと思う。『電荷』を否定した立ち位置で想定できることは、化学材料物質の構造形態の変化として、空間に『エネルギー』が貯蔵されるものなのであろう。

 

まとめ

『空間エネルギー』と『電荷』の間の関りをどう解きほぐすかの社会哲学的課題であるかもしれない。自然世界の『神髄』と自然科学理論の論旨との関係を自覚したうえで、教育に誤った権威的態度を取らないことを目指すべきと思う。この記事を考えながら、『Electrons』の紋所と科学理論 (2020/4/7) と電気回路要素の『エネルギー』処理機能 の関連記事となった。

電池と電圧(エネルギーの実験)

大人のおもちゃのような実験をしてみた(2019/11/13)。専門家の決して考えない実験かも知れない。乾電池の乾電池による充電実験。変圧器の奇想天外診断 (2015/06/03) に似た思い付きの実験だ。

実験の目的と結果

乾電池のエネルギーの意味を電流や電荷概念に依らずに、空間伝送の意味でランプへのエネルギー供給を確認したかったのが本当の目的であった。乾電池はエネルギーの充電ができないだろうという思惑があった。残念ながら思惑外れで乾電池も充電されることが分かって、一寸がっかり。

実験の概要

先ず、電池と電圧(エネルギーの基礎研究) (2019/11/14)で電気回路エネルギーと電圧との関係を具体例で解説しようと考えた。その過程で不図乾電池は充電できるのかと心配になった。早速実験で確かめることにした。初めに書いた通り充電可能であった結果で、思惑外れの失敗である。電荷概念否定あるいは電流否定の実験的検証にはならなかった。

実験回路と思惑

図1.に示した回路は電気回路の実験としては全く意味の分からないものであろう。同じ乾電池4個を3個と1個に分けて、差の電圧を豆電球にかける回路である。この回路を取り上げた訳は乾電池に充電作用が有るかどうかに疑問を抱いたからである。この回路構成で、一つの電池V1が充電せずにランプが点灯することを期待したのである。エネルギーが直接空間を伝送して、電池充電なしにランプだけ点灯となれば回路電流の解釈を否定できるかと思った。

 

図2.実験装置

図1.の回路構成を単3乾電池4個入りの電池ホルダーで作った。アルカリ乾電池4個と3V用豆電球(購入経費の費用891円也)で実験装置とした。

 

実験結果と考察

アルカリ乾電池はみんな同じかと思うが、どうも特性が同じくないように思った。V1用として使う電池で充電特性が異なるようだ。比較的早く電圧が高くなるものと、遅いものがある。充電の特性が異なる。

最初の実験。装置組み立て後すぐに回路でランプを点灯した。V1の電圧を計ったら、2.2[V]まで上がっていた。真逆(マサカ)とは思うが、破裂するかもしれないと少し危険を感じて中止した。数日後にまた同じ実験で電圧を計り、確認した。もうV1 の電圧が2.2[V]になるようなことはなかった。せいぜい1.7[V] 程度にしか充電しなかった。少しずつV1電池が充電され、電圧が上がっている様子は見られる。

スイッチSのon off による回路状態の違いの解釈。

スイッチoff

乾電池の負極側はエネルギーレベルが高い。スイッチと電池にそれぞれエネルギーギャップがある。負荷ランプにはそれが無く、電圧ゼロである。

スイッチ on

スイッチオンでランプにもエネルギーギャップが生じる。それが負荷端子電圧である。ここで、乾電池に充電はないかと予想したが、間違いであった。乾電池から乾電池にも充電でエネルギーが入射することが分かった。電池電圧V2のある割合でランプと電池V1 にエネルギーギャップが印加され、消費と充電が進行する。

考察

各電圧値はテスターで測定した。測定中にゆっくりと電圧値が変って行く。エネルギーの消費と同時に電池 V1 への充電が進む。総体的にはエネルギーが減少する。アルカリ乾電池の充電機能は電池の放電機能と同じく負電極亜鉛と電解質の間のエネルギーギャップの化学物質的エネルギーレベルの解釈に掛かっている。

構造と電池の原理

アルカリ乾電池

アルカリ乾電池の内部構造はマンガン乾電池とは相当違うようだ。しかし基本的には陰極の亜鉛Zn粉末が水酸化カリウムKOH電解質の中でエネルギーギャップを構成していると解釈できる。陽極は二酸化マンガンで構成されている。両極間は一応セパレータ(耐アルカリ性ビニロン)で分けられている。電解質は透過するとある。

アルカリ乾電池の原理

Wikipediaに示されている化学反応式

(負極) Zn(s)   +  2OH⁻(aq) → ZnO(s) + H2O(s) + H2O(l) + 2e⁻

(正極) 2ZnO2(s) + H2O(l) + 2e⁻ → Mn2O3(s) + 2OH⁻ (aq)

この化学式が示す原理は『電子』が負極から外部回路を通って正極に戻り、電荷の収支が整って電池の役割が成り立つという意味である。電子が『エネルギー』を負荷に供給する論理的な解説が全く示されていない。だから化学方程式は電池の『エネルギー』供給の説明には成っていない。物理学にも、化学にも『エネルギー』の概念が定義されていないところに大きな科学論の矛盾がある。『電荷』や『電子』の『エネルギー』との関係性が示されなければ科学理論の矛盾は解消しない。

エネルギーギャップによる原理解釈。

亜鉛Znと水酸化カリウムKOH の化学物質の間における接触エネルギーギャップEg[V]が電池エネルギー供給原理をなしているはずだ。上の化学方程式には水酸化カリウムの役割が示されていない。アルカリ電池であるから、カリウムK がエネルギー源としての主役をなしているはずだ。亜鉛 Zn とカリウム K の間のイオン化傾向の特性差が基本的意味を持っていると解釈する。

まとめ

電池がアルカリ電池であった。アルカリ電池は充電機能も少しは持っているようだ。まだ、マンガン乾電池での確認をしていない。マンガン乾電池も充電するか?

(2020/01/03)追記。元旦に単一乾電池で、マンガン乾電池2本とアルカリ乾電池2本が有ったので、マンガン乾電池1本を3Vランプと直列にして、アルカリ乾電池2本とマンガン乾電池1本の直列電圧4.5Vほどの電圧を掛けた。マンガン乾電池の電圧は徐々に充電され 1.7V以上に高くなった。破裂しないかと気味が悪くてそれ以上続けなかった。マンガン乾電池もアルカリ乾電池と同じく『エネルギー』の充電ができることだけは確認できた。その充電がどの様な化学的反応で成されるのか理由を知らない。

電池と電圧(エネルギーの基礎研究)

自然の本質(2019/11/13)。科学の世界はとても大きい。しかし、その本質は極めて単純にして純粋である。『エネルギー』一つの世界が自然の本質である。水素原子もその根源はただ一つの『エネルギー』の集合体でしかない。それなら『エネルギー』とは何かと問答になる。今日はハヤブサ2がリュウグウの岩石を採取して地球への帰還の途に就いたと報じられた。目出度い事です。地球の岩石の分析と合わせて研究が進むことお祈りします。

電池はエネルギーの供給源

電池のエネルギーとはどんなものか?その『エネルギー』をどのように認識するか。そんな意味を考えて、明確な解釈ができるような考究も科学基礎研究になる筈だ。決して経済競争に資する話ではない。科研費を要求するような研究でもないが。その訳は、次のような意味でも大切であろう。科学的手法でその『エネルギー』を測定する方法がない。『エネルギー』は秤にかからない。ジュール量を測定できない。『エネルギー』の極限は一粒の光の空間分布エネルギーだ。決してそれを見たり感じたりはできない。しかしその『エネルギー』は目の前に無限に存在している。木も草も花も石も光の賜物である。光が無ければ地球も存在しない。そんな不思議な『エネルギー』を電池の中に関連付けて思い描いてみたい。

図1.電圧実験回路 電圧vsの電池がある。容量 C[F] のコンデンサがダイオードを通して図のように電池に繋がった回路を想定する。我々は『エネルギー量』を測定できないから、その量を電圧値によって解釈するしかない。電気回路の解釈において、電気技術では電圧値が重要な量となる。電線路には必ず静電容量がある。その容量C[F]が電線路の空間に在る『エネルギー量』を認識する大切な回路要素である。電圧値ではエネルギー量は分からない。静電容量の値で、同じ電圧値でもそのエネルギー量は変わる。図1.のような回路で電池の電圧という意味をコンデンサの静電容量を変化させて、考えてみたい。

可変コンデンサ。ラジオ放送電波の受信には周波数検波用にバリコンが使われる。

図2.可変コンデンサC(ωt)  たとえば図のような二組の円盤で、1つが周期ω[rad/s]で回転するとする。コンデンサ容量は周期関数で変化する筈である。

図3.容量 C=εkA[F] 回転電極がO-Poの軸からの角度θの位置で重なり面積Aが決まり、コンデンサ静電容量もほぼその位置の関数と考える。なお回転速度は一定でなく、任意でよい。ε[F/m] は極版間の誘電率で、kはギャップなどの構造による定数である。

電圧値v[V]は?電圧はどのように変化するか。コンデンサ電圧は電池電圧より下がらない筈。回路のスイッチがオフの場合を先ず考えよう。回転盤の重なり面積がAoの最大の時に、コンデンサには最大のエネルギーが貯蔵される。面積がそこから減少すると、コンデンサ端子電圧vは上昇する。貯蔵エネルギーの最大値をEm[J]とする。電圧はコンデンサ容量C[F]によって、

v=(Em/C)^1/2^ [V]        (1)

と変化する。重なり面積がゼロとなれば、相当高い電圧値になろう。電極版の回転によって、周期電圧波形となろう。この意味が電線路電圧の意味を理解するに基本となる。この『エネルギー』による解釈に対して、『電荷』論を主張するでしょう。もし『電荷』Qm[C]で解釈するなら、電圧は

v=Qm/C [V]                          (2)

と静電容量に反比例する筈だ。平方根で変化するか、反比例で変化するかで、答えは得られるはずだ。『電荷』概念矛盾の結果になる筈だ。

図1.でスイッチがオンの場合。今度はコンデンサの電圧vと電池電圧vsとの関係で電池にエネルギーが回収される。電池の種類により、電池充電の特性が異なるから、様々な結果になろう。

図4.コンデンサ容量とエネルギー(係数1/2はその意味が確認できないので省く) コンデンサ容量Cは図のように変化する。図の打点部分が静電容量ゼロに向かって変化するときの、コンデンサエネルギー放電(電池エネルギー回収)特性による電圧変化の様子を想像で記した。もしスイッチオフの場合なら、ωt=2πで静電容量ゼロ近くで電圧は最大値に跳ね上がる筈だ。

インダクタンスの場合の例。

ついでにインダクタンスのエネルギー量と電圧の関係を考えてみた。

図1-2.電圧実験(2)

L-r 負荷のスイッチSオフによってLのエネルギー処理の問題が起きる。Lの貯蔵エネルギーは必ず放出しなければ済まない。この場合も余分エネルギーの放出による電池充電動作に入る。Lの電圧とエネルギー量El[J]との関係は図のようになる。

(2019/12/27)追記。上の図1-2 電圧実験(2)に示した回路には不備がありました。修正して電池充電現象の回路を示す。

訂正回路

右のように負荷ランプとスイッチS’の回路とした。スイッチS とS’同時にオフとする回路に変更。コイルのエネルギーはコンデンサCの放電と同時に電源の電池へのエネルギー充電とランプ負荷消費の回路動作となる。なおコイルエネルギーの次元は[J]=[FV^2^]とも解釈できる。L/r^2^[F]だから。以上追記。

電池がマンガン電池の場合、どの様な現象になるか不明だ。アルカリ乾電池では電池でエネルギー回収が起きるようだ。それは 電池と電圧(エネルギーの実験)  で確認した。

まとめ

(エネルギーの基礎研究)というには内容が乏しい結果だ。しかし、電池についてその電気現象を理解するにはとても多くの基礎概念の関係を解きほぐさなければ成らない。次々と理解困難な問答に突き当たり、際限のなさに戸惑う。やはり、『エネルギー』という物理的実在量の意識化が是まで為されてこなかったところに大きな欠陥があるからと思える。電圧とはこの『エネルギー』の技術的評価量であることを認識してほしくて、静電容量との関係でこの記事にした。

電池電圧と『エネルギーギャップ』

科学リテラシーと言う用語がある。みんなが科学に理解ある社会に成ろうということなんだろう。しかしそれには余りにも多過ぎる分野と内容を覚え、記憶する必要が高い絶壁となって道にそびえる。日常生活での不図思い付く科学的疑問に答が得られないのは何故だろうか?『乾電池の電圧』は何故1.5ボルトなのか?『鉛蓄電池の電圧』は何故2ボルトなのか?答は突然難しい化学反応方程式で説明されて、『電子』が解説の主役の舞台の演舞場となる。化学方程式を覚えないと『電池電圧』の値の訳が理解できないのかと、必死に科学の学習に努める。しかし、その内に『電池電圧』を尋ねる事も忘れてゆく。どこにも『電池電圧』の訳を解説するものが無い。化学方程式から、『電子』をとりだして鉛蓄電池のセルの電圧が2ボルトに成る事を説明できなければ、『電子』による科学論の科学リテラシーなどと言えなかろう。電池の原理を問うで鉛蓄電池について述べたが、昨年からの電気回路の線路電圧のエネルギー分布の解釈が纏まった事から、電池電圧の意味を改めて考え直してみた。
何が電池電圧を決めるか。

電池電圧の命題電池電圧の命題 電池には多くの種類がある。乾電池、鉛蓄電池、太陽電池更に燃料電池とその動作原理が異なるように見え、しかもそれぞれに決まった電池電圧の値を発生する。その電圧値に成る訳を説明できないようである。科学理論は数学の解析式で解釈するのが高度の科学論と誤解されているようだが、電池電圧値の訳さえも数式では決して示せない。『電子』や『電荷』では決してその電池電圧値を論理的に説明できないのだ。
エネルギーギャップ 『電子』で電圧の発生原因を説明できないとなれば、他に何かその自然現象としての本質的な原因がある筈である。

鉛蓄電池の原理鉛蓄電池の原理 鉛蓄電池の基本単位はセルと言われ、その端子電圧が2[V]に決まっている。それを6個つなげると12[V]の電源となる。化学魔の還元ー電池電解編 には標準的な解説が成されている。電圧の発生原因を陰極電極の金属元素の鉛Pdと電解液の希硫酸H2SO4間の接触面で『エネルギーギャップ』が生じる事と観る。すべての電圧発生原因は陰極に掛かっていて、陽極は殆ど影響なしと解釈したい。更に鉛蓄電池の放電現象の説明を見ると、陰極面の鉛が硫酸との化学反応で表面が白く覆われると有るから、勝手に亜硫酸鉛PdSO3 が出来たからでないかと考えた。その意味は、陽極PdO2がエネルギー的に硫酸と平衡していると考え水発生の意味をエネルギー放出の原因と捉えたからである。燃料電池のエネルギー放出の直接的原因は水素と酸素の反応の水発生である。水は生命の基であるだけその世界は限りない謎を含んでいる。水のお伽の世界 に描いた絵図のように水の生成・分解は『エネルギー』そのものの根本原因を成している。鉛蓄電池も水の生成として陰極面の『エネルギーギャップ』を電池電圧の空間エネルギー分布として負荷へのエネルギー供給に資するものと考えた。

物質間のエネルギーギャップ 物にはその物に特有の特質がある。特に純度の高い金属、気体あるいは分子、原子となるとそれぞれ特質が際立つ。硫酸は物を溶かす化学的性質が強い。その製造方法では、硫黄から酸化硫黄更に水と反応させて、硫酸となる。その製造過程では、すべての過程で発熱現象を伴うように説明されている。普通は分子結合で発熱を伴えば、基の物質の方がエネルギーを多く保有していて、分子結合によって熱エネルギーを放射すれば、そのエネルギー分だけ結合分子のエネルギーは減少すると考えたいが、最終段階で出来上がった硫酸はその化学的反応作用の強さを考えれば、むしろエネルギーの保有状態が高まっているとしか考えられない。その訳が理解できない大きな疑問として残る。物理現象、化学現象を考える時、先ずその現象の前後に置いて、『エネルギー保存則』は成り立っているかを思う。鉛蓄電池の電解液と言う硫酸の化学的反応力は何故そのように強いのかをエネルギーの保有の対象物質への影響力に成るからだと考えたい。硫酸の持つ特有な性質が何故生まれるのかを『問答』として取り上げるかどうかが「考える理科」の課題であると思う。蓄電池は放電すると電解液の比重が低下する。硫酸が分解して、水分子に成る変化と考えたい。その『水』の分離のエネルギー放出を蓄電池のエネルギー源と考えたい。金属鉛と硫酸との二つの物質間の保有エネルギーレベルの境界面での処理現象が『鉛蓄電池』のエネルギー源としての原理と観たい。物質とエネルギーレベルあるいはエネルギーギャップの問題は熱エネルギーと金属の接合問題として、トムソン効果、ペルチエ効果、ゼーベック効果などに観ることのできる現象である。

電池の原理を問う

電気の不思議に魅せられて、自然の意味を説き明かす科学技術の大きな足跡として、ボルタの電池を挙げて良かろう。電池について、電池・電気分解に良く解説されている。しかし、残念ながらその解説では私は満足できない。理解できないのである。電圧ー物理学解剖論ー に乾電池の電圧は何故1.5ボルトなのかと疑問を呈した。マンガン乾電池は塩化アンモニュームや酸化マンガンを澱粉で練り合せて、炭素棒(+極)と亜鉛(-極)の電極材で構成されている。そんなうまい組み合わせを見つけた技術に感服する。1.5ボルトと言う標準電圧に決めた過程も中々興味あることだ。設計者・発明者はその電池構成が1.5ボルトになる事を理論的に認識していた訳ではなかろう。今、何故1.5ボルトになるかを問うても明確に答えられないのじゃないかと思う。乾電池の練り物が1.5ボルトと成る意味が分からない。これは日常生活の中の極めて科学技術の本質を問う『問答』のように思う。難しい一般相対性理論等の学問に対して、より市民科学のあるべき姿を問う問題であろう。一つの解決の道のりとして、乾電池の使用済みの電解質練り物の状態が初期状態と何がどのように変わっているかを調べる事かも知れない。しかし、決して利益を生まないかもしれない事には、現在の科学研究体制は許さない窮屈さに縛ららている。しかし、理科教室の場合はできるかもしれない。乾電池1.5ボルトの意味を探る実験。学校の理科教育・科学教育の在り方を問うのである。化学式で解説されるが、少し疑問に思うと、本当の事が分からなくなる。教える先生方は、その内容を深く理解しているなら、当然応えられる筈だ。電子が流れて化学式のように巧く説明され、実に世界の真理のような印象を与えるに十分な説得力を持っている。はじめて学習する子供達に対しては。その子供たちが学習すべき世界標準の教育内容が整っている訳である。その事がとても多くの学習すべき、記憶すべき負担を強いているとは考えないのだろうか。むしろ疑問を提起することで、より印象強く記憶に残るとも言えよう。

金属のイオン化傾向 これは化学の学習内容になるのだったか。金属元素にはイオンになり易いものとなり難い物があると言う。しかし『電荷』を否定する立場からすれば、原子のイオン化と言う意味さえ理解できないのだ。しかし、実際に原子の間にはイオン化と言う或る特性において、決まった序列が発生している訳である。その意味をどのように解釈するかの『問答』である。『熱エネルギー』で解釈したい。金属が溶液内で変化する溶融と析出の現象をどのように解釈するかである。物理学、化学では電子のやりとりで解説される。電子と言う意味を何で捉えるかと言うと決して『質量』では考えず、『電荷』だけで理解するだろう。全く『質量』のやりとりの意味を説明できないから。それなら電子等と言わずに、『電荷』と言えばそれで良かろう。物理学では、『質量』が無いと論理を展開できないジレンマを抱えているのだ。『電荷』だけが独立の世界の実在とは言えないのだ。

硫酸銅に亜鉛板を入れた時の現象 イオン化傾向と言う金属特性の解釈法。原子量の小さい原子程、一般的にイオン化傾向は強い。亜鉛Znと銅Cuでは、亜鉛がイオン化の力が強い。だから亜鉛が融け、硫酸銅の銅が固体金属として析出すると言う風にイオン化傾向で解釈される。何故金属にイオン化傾向と言う差が生じるかは問わない。イオン化傾向と言う順序を覚える事を要求される。イオン化傾向と言う金属元素間の物理現象の意味は、熱エネルギーのやりとりの問題なのである。亜鉛が融解し、銅が析出するのは銅から『熱量』が亜鉛に移動する現象である。電解液の温度の環境下で、銅と亜鉛の保有エネルギーの余剰と不足の関係から起こる金属元素間の物理現象と観る。固体の状態がその元素の保有エネルギーレベルのより低い状態に在ると観る。融解するには熱などのエネルギーを吸収する必要がある。分子より原子の方がエネルギーレベルは高い。燃料電池は水素(高圧エネルギー)と酸素のエネルギーレベルの高い元素が結合する事により、水分子のエネルギーレベルの低い状態になるから、余剰熱エネルギーを放出し、動力源として利用できるのである。金属だけではない。水の沸騰も気体になるには蒸発熱を吸収する現象である。元素には特有の熱エネルギーに対する特性差が潜んでいると解釈したい。原子と分子の妙 を書きかけのまま結論がまとまらない。物理・化学の基本問題に素人が意見を書く失礼をご容赦ください。燃料電池は水素が燃料だ。エネルギー問題で、自動車の排気ガスはなくなり、水だけを排出するから空気汚染は解決される。しかし水素製造には電気エネルギーを使わなければならない。その社会システム構築に費やすエネルギー消費問題は、経済成長と言う美名の基に隠されてしまう。地球温暖化の問題が燃料電池自動車で解決される訳でない事を科学技術社会の基本問題として捉えた置かなければならない。水素を創るエネルギー消費と燃料電池の社会的エネルギー消費問題。

鉛蓄電池 1859年、フランス人プランテの発明とある。鉛蓄電池は今も使い続けられている優れた発明だ。150年以上使われ続ける科学技術製品だ。驚くべき歴史を踏襲した製品だ。そんな意味も意識したい。鉛蓄電池も『熱エネルギー』で原理を解釈したい。

鉛蓄電池の解釈鉛蓄電池と陰極

『電荷』否定の新しい蓄電池の解釈を図に示す。鉛蓄電池の電極は陰極の鉛と陽極の酸化鉛で構成される。硫酸が電解液で、陰極の鉛が溶融して、硫酸鉛となると、蓄電エネルギーが消費され減少する。陽極の酸化鉛(二酸化鉛PbO2で上の図に誤りあり)は教科書的解釈では、水素による阻害を抑える減極剤としての働きを兼ねていると。もし陽極も鉛Pbなら電池にならない。鉛蓄電池の原理は陰極と硫酸との境界面に全てが組み込まれていると観る。イオン化傾向で、PbとHは隣接する。硫酸に亜鉛を使えば、激しく反応して、やはり電池にならない。穏やかに蓄電エネルギーを放出できるのは、隣同士のエネルギー保有差が小さいからと考える。鉛が融解して硫酸鉛PbSO4になる時、保有熱エネルギーを放出する。この保有熱エネルギーと言う意味も分かりにくいかもしれない。それは、原子構造が電子概念を否定したうえでの解釈でなければ分かりにくいと言う事になろう。上に挙げた『原子と分子の妙』のエネルギー流の磁気模様で捉える必要がある。磁気エネルギー流は、その量的増減は自由に変化しうると考えれば良かろう。その環境自身がエネルギーの空間だから、エネルギー吸収・放射も変化しうる自由にある。鉛の外界へのエネルギー流の影響と希硫酸の電解液のエネルギー環境との間の何らかの干渉がエネルギー不均衡の修正として関係づけられると解釈する。それが鉛の融解現象の意味との理解である。更に水素も酸素と反応して(燃料電池)更にエネルギーを放出する。その合成分が陰極から負荷に供給される電気エネルギー(熱エネルギー)である。この解釈では、陽極は殆どエネルギー放出に関わらない。その為、鉛蓄電池の『電圧』は陰極と電解液の接触面に、その全ての原因を秘めていると観る。図②にその意味を示した。熱と電気の関係は雷は熱爆発に於けるものに同じである。

電圧ー物理学解剖論ー

(2017/04/21)追記。乾電池の定格電圧は1.5Vである。はじめは1.6V以上あるが使うと電圧が低下してゆく。『エネルギー』が消費されて規定電圧以下になって乾電池としての機能を失う。以下の記事は乾電池について述べてあるが、この何故1.5Vかという問題は自然科学技術と科学理論との関係を問う大変重要な問題と観なければならない。『電荷』では説明ができないのだ。ではどのよな論理性で説明できるかといえば科学技術を支える理論で説明できない論理矛盾を抱えた問題なのである。この1.5Vに成る解釈を、化学あるいは物理学で示せれば大きな功績となる。その意味は電圧の単位ボルト[V]の意味が科学理論で説明できないからである。『エネルギー』で解釈できなければ、永久に無理なままである。

電気回路を考える時、電圧と電流が基本に成る。電流についてはその概念を否定する論を展開して来た。しかし『電圧』については余り論じて来なかったと思う。そこで、電圧の意味も考えて見ようかと思った。先ず身近な生活に関係する乾電池を取り上げて見よう。乾電池の電圧は 1.5 V である。そこで、その電圧値 1.5 V はどんな原因で、その値に成るのかと考えたが、まったく理解できない事に気付いた。確かに測定器、電圧計かテスターを使えば、メーターの指示値は 1.5 V 付近の値を指示する。乾電池の電圧は直流だから、その測定器の型は「可動コイル型」が普通である。その内部構造は電流計に直列に高抵抗が繋がれた形で、言わば『電流計』としての働きをしていると見る事が出来る。私も電気の専門家の部類に属して、少しは知っている心算で居たが、乾電池の電圧の値が決まる理由が解らない事に気付かされた。乾電池の中味は、塩化アンモニウム、塩化亜鉛およびデンプンを練った物、さらに複極剤である同じような練り固めた物が内側にあり、プラス電極の炭素棒とマイナス電極の亜鉛で構成されるとある。乾電池の電圧が何故決まるかを検索しても何も回答が無い。電子が何個出るからとかの解説があるが、そんな解説は何の理解の足しにも成らない。電荷がプラスとマイナスの電極の間に発生するからと言われても、どれだけの電荷が分布するのか等、誰も説明できないのである。単一、単二、単4と形状も寸法も異なるのに、どれも同じ電圧 1.5 V である。単4用の電子と単1用の電子も同じ電子であろうから、寸法が異なれば、静電容量と言うコンデンサの容量は異なる筈である。電子の電荷で説明するなら、形状が異なる事による静電容量が違えば、電圧が異なるのが、電気理論の基本的論理である。

電荷と電圧 電荷で電圧を解釈するなら、電圧の単位を考えておかなければならない。電荷の量をQクーロンと仮定して、その電荷がコンデンサの静電容量Cファラッドの幾何学的形状・寸法から決まる電気要素に貯められたとする。その時の電圧Vボルトは、V=Q÷Cで決まるのが電気理論の基礎である。だから、『電荷』による説明は、解説としては、学習しようとする真剣な学習者に対して、いい加減で曖昧な解説を押し付けるものであると言えよう。乾電池の電圧を決める要因は、その長い技術の積み上げによる『化学物質等と電極材料との組み合わせ』で決まると、単純に解釈すべきであり、電荷がどうのこうのの解釈で決まるのではない筈である。(2017/04/21)追記、以下の・・部分の論述は論理的でないようだ。『電荷』概念の曖昧さから来る自分自身の未消化な解釈を展開している。電荷なら寸法で、電圧が異なるのが電気理論からの結論である。寸法が違っても同じ電圧となるのは、『電荷』論は間違いである事を示している。もう少し静電容量と電荷の関係を述べておく。コンデンサは並列に接続すればどんどん容量は増加する。電池の持つコンデンサ容量を基本として解釈しないと、電荷による電圧概念の説明は付かない。今、電池のプラス、マイナスの極に大きな容量のコンデンサをつないだとする。当然全体とすれば、電池の静電容量が増加した事と同じ意味で解釈できよう。だから電池の外形・寸法による静電容量と電荷の量との兼ね合いとして、電圧を解釈する事は無理であると考える。」要するに乾電池の電圧値は『電荷』と言う物理概念では説明できないのである。電池内部の化学物質の詰め物の「物理・化学的解釈」が論理的に説明できていないのである。技術と科学理論の間に横たわる問題・課題である。一応乾電池の話はひとまず置く事にする。

交流回路を含めて、電圧の意味を 考えて見ようと思う。 100 V 50 Hz の交流電源で考えて見よう。電圧計は交流用の「可動鉄片型」に成る。(2014/11/18)追記。失念していた事がある。交流用の測定器で、「可動鉄片型」は高級な計器である。普通は直流用の「可動コイル型」にダイオードを組み合わせて、交流用『整流器型』として利用している場合がほとんどだ。思い出したので、少しご注意頂きたく追記した。この測定の電圧形も乾電池の話で示した電圧計と同じく、計るものは電圧計に流れる電流値を高抵抗で微弱量に制限して、その電流の電磁石の力で鉄片が吸い込まれる回転トルク力の角度量を指示値として示しているだけなのである。先ず電圧として測定指示している数値が何であるかをきちんと捉えておく必要がある。技術と理論の概念との関係を正確に理解することが、科学理論の実情を捉えるに大切な事と考えて、こんな些細とも思える話を記すのである。結局、電圧値として表示する値は、メーターの中に流れ込む『電流』に基づく「磁場エネルギー」の力を利用しているだけである。測定器は『磁気』の空間エネルギーを利用している物がほとんどであろう。電荷によるクーロン力等教室授業の為だけの無駄な概念であると言いたい。(原子理論も電子電荷の軌道論で構築されているが、悪いけれども、そんな理論は捨てるべきである、内緒話)

電圧の次元 ここで電圧の意味を纏めておきたい。

エネルギー[J(ジュール)] とJHFM単位系』および電流と電圧の正体をご参照ください。