電子レンジと水分子

投稿日: 2017年12月10日 | 投稿者: yoshihirak

はじめに 1945年(太平洋戦争の敗戦の年。広島・長崎の原爆被災の忘れ得ぬ年である。)、アメリカのレイセオン社が電子レンジを発明したとある。火や熱を加えないで食品を温められる家庭用器具の傑作である。マグネトロンは100年程前の1920年にゼネラル・エレクトリック社のAlbert Hullにより発明される。東北帝国大学の岡部金治郎も1927年に業績を残す。マグネトロンはマイクロ波(レーダーや通信用電磁波)の発生用空洞共振器であり、電子レンジの心臓部に当たる。周波数2450MHzが電子レンジでは使われている。今日は76年前の12月8日、無謀な太平洋戦争に突入した日である。科学技術もその根底にある真理や本質を見極めることが禍根を残さないために大切である。それにしても我が身を鑑みれば、土俵の無い一人相撲はお笑い草かもしれない。少しも科学的実験データも無しの我儘解釈論の展開で、失礼の段御勘弁願います。

マグネトロンの原理 昔真空管がラジオに使われていた。熱陰極と陽極から成る二極真空管である。ダイオードと同じ整流作用も持つ。その二極真空管の熱陰極から放射される電子(電荷と質量を持つ素粒子と定義されているが?)と言う熱エネルギーがある。その真空管内に磁場を掛ける。フェライトの磁石で陰極と陽極の間の空間に磁界を掛ける。磁石はその周りの空間にエネルギーが回転した状態を作り出す機能を持っている。N極、S極の棒磁石を左向きにエネルギーが回転しているのだ。地球は南極がN極であるから丁度偏西風の向きに地球表面をエネルギーが地球自転速度より相当の高速度(どれ程かは全く分からない―太陽系及び地球自転公転の回転渦巻を支配する原因と解釈する―)で流れているのである。そのエネルギーの流れと方位磁石の周りのエネルギー流とが重なり合ってコンパスの方向を地球の北極側を向くようなエネルギー間の近接作用力が働く。磁気とはそのようなエネルギーの回転流としてエネルギーを貯蔵した機能の表出現象である。さて電子と言う素粒子はどのような空間構造を持った粒子と考えるか。よく電子スピンと言う表現で説明される。電子と言えば、一粒づつの粒子と言う空間認識で捉えるだろう。専門的な解釈では波動だとも言う。電子を波だとも言う。しかしその実体が粒なのか波なのかを観測できない。電子顕微鏡では波になる。物に当たれば力が働いたように粒子性の現象を示す。電子一つを観測できないから粒子と波動と二つの観方で解釈しているだけである。熱陰極はフィラメントで陰極材を高温に加熱しているのである。要するに熱エネルギーで金属材料を加熱しているのである。白熱電球はフィラメントコイル内にエネルギーを貯蔵して高温に加熱した空間を作り、その温度に応じたエネルギーの貯蔵限界を超えた分が光となって放射されるのである。熱陰極も加熱によるエネルギーが陰極材料から放出するのである。その熱エネルギー・光エネルギーが陰極、陽極間の空間内に充満するのである。電子スピンとは放射エネルギーの空間像がどのような大きさの塊に分解されているかは分からないが、ある程度の空間的寸法を持って粒子的作用性を働くのであろう。そのエネルギーの粒子的空間の存在形態はやはりエネルギーの回転流として存在するものであろうと解釈する。そのようなエネルギー粒子を電子と解釈しているとすれば、電子スピンと言う空間的構造も同様に理解できよう。磁界の空間エネルギー流と電子と言うエネルギー回転粒子とがエネルギー間の近接作用力で互いに影響し合うと考えることができよう。電気回路のエネルギーや光エネルギーに対する考えから、納得する感覚的整合性から、基本的なマグネトロンの動作原理を考えた解釈である。電子寸法は原子寸法1Åに比し、とても小さいと解釈している。その電子がマグネトロンの空洞共振器内で磁場の影響を受けるとすると、余りにも寸法差が大き過ぎて磁場のエネルギー回転流との関係を電磁波発生の原理と考えるには、その空間的作用力を理解できない。マイクロ波のエネルギー波長は6cm程度であろうが、電子がどのような磁界に因る加速でその寸法のエネルギー波を作り出す事になるかを理解できない。マイクロ波の波長との関係を下のマイクロ波と食品加熱の項に述べる。熱陰極から直接熱エネルギーが放出され、その空間の空洞共振器寸法によって規定される寸法のエネルギー流の塊になるだけと考えたい。おそらく空洞共振器の空間寸法が発生電磁波の波長を決める主要因になっているだろう。

水分子と熱エネルギー エネルギーには電気エネルギーも光エネルギーも圧力エネルギーも運動エネルギーも熱エネルギーもある。これら様々な呼び方のエネルギーは『溶けて流れりゃ皆同じ』と言う様に、同じエネルギーなのである。エネルギーの空間分布差で風も起きる。体温をも保持する。質量にもなる。熱エネルギーの特別に際立つ現象が水に対してであるように思える。水とマイクロ波の電磁エネルギーの間に繰り広げられる熱現象を利用する製品が電子レンジである。しかし、一般的な解説を見ると水分子の振動によって食品が加熱されると成っている。温度を質量の持つ振動による運動エネルギーと解釈しているからと察しられる。理解できない気体分子運動論と同じ解釈である。

マイクロ波と食品加熱 マイクロ波と言う電磁波の空間的エネルギーをどのように捉えるのだろうか。一波長のエネルギー分布を考えて欲しい。電磁波はエネルギーの縦波である。光と同じだ。科学技術は生活空間を電磁エネルギーの空間にしている。50,60ヘルツの商用電力エネルギーから、携帯端末の電波エネルギー、衛星からのTV電波、探査電波等の照射エネルギーなど人の感覚で認識できない電磁波のエネルギーが充満している。照明の光も空間のエネルギーだ。太陽光線の照射エネルギーは地球を大きくして来た。秋の落ち葉を集めればそれも太陽から届けられた光熱のエネルギーが質量化した姿だ。電子レンジのマイクロ波は波長12cm(エネルギーの波長は半分の6cmである)程だ。電波としては相当短い波長で、エネルギー流粒子としてマグネトロンの空間寸法に整合しているか。さて食品の加熱現象の原理は如何なるか?電子レンジで加熱するには対象物に水分が無ければ効果は無いようだ。先日黒砂糖を加熱したら、火傷に気を付けなければならない程にマイクロ波を吸収してドロドロに熱く融けた。水分は無い。マイクロ波と言うエネルギー粒子は空洞共振器空間から出力端子を通して食品に照射される。水分子は熱エネルギーに対して際立った特性を発揮する。海の水は最近高温に人間によって(原子力発電の30%程を電力として利用するため、70%近い熱エネルギーを海の水で冷却しなければならない―政治・行政の関係者に知って欲しい科学技術の意味-)加熱され、豪雨災害の原因となっているように、水は熱吸収能力が極めて高い。このマイクロ波熱エネルギーが水分子を振動させてその周りの食物成分を熱く加熱すると言う解説が検索にある。水分子が腰振り運動のような振動をすると周りの食物繊維・細胞が熱くなる訳はどのように考えれば良いか筆者には理解が困難である。水は湯沸かしのように熱エネルギーで沸騰する。分子が振動などする訳ではなかろう。体積の膨張として圧力と温度のボイル・シャルルの法則で変化する現象である。水が吸収する熱エネルギーがそのまま食品の加熱になるだけである。振動など無関係に熱エネルギー(マイクロ波の電磁エネルギー)が物質の空間に貯蔵され、そのエネルギー吸収時間積分で高温になる。

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電気回路理論と電磁気学の関係

投稿日: 2017年12月6日 | 投稿者: yoshihirak

標題のような関係を問われているようだ。言われてみれば、なかなか悩ましい問題かもしれない。電気回路理論は物理学の分野と言うより電気工学の科学技術応用理論になると考えた方が良かろう。回路理論は電流や電圧と言う科学技術概念で論じる分野になるから。しかし電気磁気学はあくまでも自然現象として電気現象の真理を探る学問分野になろうから、電気工学と異なる物理学の範疇の分野になろう。物理学は応用でなく自然の真理を説き明かす学問分野と考える。だから物理学は例えば『電荷』の実在性を説き明かす事を目的とするような学問分野であろう。科学技術概念とその用語は応用分野が広がるにつれ、次々と新しい概念・用語が造りだされる傾向にある。超伝導現象等も古い電気磁気学には無かった、気付かなかった現象である。その新しい応用技術用語・概念が如何なる自然現象なのか、その本質を究めることが物理学である筈だ。そこには電流を自然の真理と解釈するようではとても物理学とは言えない。広く自然哲学としての見極めをする学問が物理学であろう。応用と真理は常に対立する学問分野であるべきだろう。電流概念(電荷と質量の混合素粒子である電子の流れと言う概念。しかし電流はA[C/s]で、その単位には質量は入らないと言う不思議な電流概念論の矛盾)を否定すれば、初めて電気回路内の現象の意味が分かって来る筈だ。電流が流れていない事が分かれば、導体としての銅線の資源量は節約され、設備は軽量化されるのだ。それが自然現象の本質を究める学問・物理学であろう。物理学の電気磁気学は根本から作り直さなければならない処に立っているのだ。電気工学と電気磁気学は全く異なる分野である。科学技術の社会に生きる現代人がその科学技術の本質を理解し、賢く生きる未来を見据えるに欠かせないのがその科学技術に隠された真理を認識しながら、技術との関わりを考えることであろう。技術を理解するには、電気工学で有ればオームの法則やファラディの法則と言う便利な技術法則を使う術を身につける必要がある。ファラディの法則一つをとっても、磁束と言う概念を使うが、科学技術法則として《磁束=コイル印加電圧の時間積分》と言う概念で捉えることが必要である。しかし、その法則さえ物理学として自然世界の真理を求める分野では磁束など存在しない事を理解する必要がある。磁束もただ一つの『エネルギー』の回転流を評価する科学技術概念でしかない事を。

今電子レンジと水について考えている。水分子が衝突し合って加熱されると解説されているのを本当か?なと。マグネトロンと同じく、MRIもなかなか不思議な理論で、すべて磁界と磁束の科学技術概念がその基本理論を構成している。みんな『エネルギー』の様相に観えるから、筆者の迷惑論かと御免なさい。

光の屈折と分散

投稿日: 2017年12月3日 | 投稿者: yoshihirak

初めに 光の実像をどのように認識するか?光は目の前の空間に実在する。眼で物を観ることは眼に光が入り、その光の一粒(?)ずつの総体として物を脳機能に因って理解する。取り入れる情報は光のエネルギーである。光のエネルギーを物理学でどのように解釈しているかと言えば、プランクの定数と光の振動数の積で捉えている。そんな数式で表現されても、光のエネルギーとはこれこれだと、感覚的に捉え切れないのじゃなかろうか。振動するとは何がどのように振動しているのかを説明して貰わなければ解りっこない。振動数と光のエネルギーを結び付けて理解できる方が物理学の世界を語れる事になっているようだ。振動数の意味が理解できない筆者が語る内容はきっと伝統的な物理学教育現場にとっては逆賊者か反逆者の教義ぐらいに思えるだろう。その辺の事情も良く分かるが、やはり光の「振動数」とは何かを明確にする必要がある。意味不明な『振動数』では物の理屈の物理学には成らないと思う。『振動数』が意味する内容は、気体分子運動論で熱エネルギーを解釈する論法の『質量』の振動論に通じる意味であると思う。すべてエネルギーは『質量』が有って初めて存在する事になっている。光の『振動数』も光子と言う光の粒が気体分子運動論の分子と同じく何か隣り同士の光子が体当たりしながら、その体力を競う能力を持って運動エネルギーとしての存在感を発揮する様子を描いているように思える。しかし光子が『質量』を持つとは言えないから、その辺は曖昧のまま説明できない高度な数学的概念が理解できるまで頑張って努力しなさい、そうすれば分かるようになるから。と御高説に至る。おそらくマックスウエル電磁場方程式の電界・磁界の横振動波を思い描いて解説するだろうが、電界や磁界が振動する訳ではなかろう。電界・磁界には光のエネルギーの空間像を見て採るだけの頼りになるものが見えない。エネルギーと結び付いて理解できない。子供達も検索で光に質量は無いのにどうしてエネルギーがある事になるのかと質問する。エネルギーは質量が持つ運動エネルギーだと物理学教育で教えているからだろう。電気回路内は質量の無いエネルギーだけなんだけれども。質量と電荷を持つ電子が必要になる原因もその辺に在る。光のエネルギーを『振動数』で認識するなら、その振動数の意味を明確に分かり易く解説して欲しい。検索で屈折現象の解説がされている。光の伝播媒体で、速度が異なるから異種の媒体の接触境界で屈折すると説明されている。それで正しいと思う。しかし物理学とは、「何故」と問う事から始まる。何故媒質に因って速度が異なるのでしょうか?振動数では説明にならないでしょう。媒体が違っても振動数は変わらない筈だ。変わるのは波長だ。さて屈折する理由は何か?その何故かを問題にするのが物理学の要になる。電磁力の本質と言う記事を書いて、電気現象の空間ベクトルの話に移ろうと努力の甲斐もなく、光とレンズに足止めされたまま動きが出来ずにのた打ち回っているような気分だ。無所属の悲哀をかみしめながら引き籠り状態だ。仕事をと考えても、考えることが科学常識の否定のような事ばかりでは世間で許され、受け入れられる席などやはり無いかと気遅れのままお恥ずかしい限りだ。止むをえず科学理論の常識にまた逆らうような事ではあるが、物理学の未来像への提言をまとめて置こうかと考えた。日常的科学常識に支えられている科学世界の現状を批判するとは、大人気も無く嫌われると分かっていても言わなければならないと思う哀しさ。少しは専門的技能として電気工学と電気回路論から身に染み付いた質量の無い『エネルギー』感覚が筆者の世界観の根底を成している、その『エネルギー』から観る世界・自然界を描きだせればと願っている。ここまでの話には、数式は無い。数式は必ずしも科学論には必要とは限らない。『電荷』が存在するとお考えの方は、その『電荷』の具体的空間像をお示し頂きたい。数式は無くても説明できる筈ではないでしょうか。プラスとマイナスの『電荷』の違う空間的理由を。光も同じ意味で簡単な日常用語で説明できると思う。『振動数』とは何が振動しているかを。

屈折と分散に隠れた意味 ここに書いたことは誰もが当然のこととして分かっていた。筆者だけの不明であったので削除させてもらった。光の散乱・分散分かり易い高校物理の部屋 に在る。しかし、一般に光の速度は一定の光速度と認識しているが、それは媒体が真空でしか通用しない現象と考える。空気中も真空と必ずしも同じとは言えなかろう。確かに空間定数は空気中も真空と同じと解釈しているが、夕焼け(水蒸気含有量)などは分散現象であろう。真空と空気中での光の速度の差は無いと言えるのか?(2017/12/04)以上追記。

屈折現象 何が屈折を起こす原因か?昔“何も足さない 何も引かない”と言うコマーシャルがあった。何か『エネルギー』一つを背負った旅ガラスの心境に思えた。捉えどころのない『エネルギー』だが、光の振動数より分かり易いとここまで引き摺って来た。

光エネルギーの屈折 光は電気エネルギーと同じく、空間に存在するエネルギー密度分布波である。質量など必要としない、エネルギーそのものの空間分布の波である。上の図は学会での発表に使ったもので、プリズムを想定して描いた屈折現象の解説である。光エネルギーあるいは光は光速度で空間を伝播する。その光速度は、障害の無い真空自由空間では何故毎秒30万キロメートルであるのか。その訳は真空の空間が握っていると考えたい。エネルギーが通過するに許された空間の支配条件に従わざるを得ないということであろう。光と同じ電気エネルギーが伝送線路の電力用ケーブルを伝送される状況と比べて考えてみよう。ケーブルは電気絶縁物で充填されている。その中でのエネルギー伝送速度は遅くなる。ケーブルの単位長さ当たりの誘電率と透磁率でほぼその伝送速度は決まる。プリズムのガラスの媒体特性も誘電率と透磁率で評価できるだろう。その媒体の空間定数の値で光の伝播速度が決まるだろう。真空は何も伝播媒体が無い空間であるが、その真空でも誘電率と透磁率が科学技術の単位系を決める根本的定数として決められている。真空透磁率μo=4π×10^-7^[H/m]がMKS単位系の拠り所と決められている。その空間媒体の定数が光エネルギーの伝播速度を規定している。プリズムのガラス中の速度もその定数によって決まる。

光エネルギーの速度 図は波長λの光が空間を伝播する状況を透磁率と誘電率に因って解釈したものである。電力系統のエネルギー伝送と自由空間での光伝播とは同じ物理的現象として解釈すべきである。ここには少し数式が入っている。平方根と分数と三角関数と若干の空間的定数概念[H/m]、[F/m]の空間的ベクトルの方向性を基にした数式である。この図で伝えたい事は光には正弦波の周波数が無く、波長λの繰り返しのエネルギー密度分布波の縦波が空間媒体の定数によって規定された速度で伝播するエネルギー波であるという事である。一波長でエネルギーなのである。媒体は構成成分の分子構造体であろうから、その構造体の物理的特性(空間エネルギーに対する吸収・放射の共鳴度とでも言えば良いかは明確ではないが、何らかの影響度を及ぼす強さ)に因って速度の影響を受ける筈である。その特性が誘電率と透磁率によって決まると解釈する事を示した図である。上の図は真空の空間特性と所謂光速度C[m/s]の意味である。分散は波長λに因って光のエネルギー密度分布波が異なるため、光伝播空間の媒体特性に因って、通過速度に影響が生じることは容易に理解できよう。実験的には分散が起こることは周知の事実であるから、その物理的理由をどのように解釈するかの問題であろう。光の空間的エネルギー分布を計測するなど不可能なことであろうから、科学的な検証は不可能であろう。光のエネルギーを振動数で解釈するという論理で、屈折や分散の物理的意味が感覚的に心に響くかは、高校生に尋ねて見れば分かるであろう。光エネルギーは1波長でエネルギーなのである。光を検出するには周波数や振動数でしか計り様が無いから、振動数が理論的な概念に組み込まれているだけなのである。数式を示してもそれが物理学の目的ではなかろう。自然は不思議の宝庫であり、魅力に溢れている。解ったと言うにはまだ早い。

分散 色収差はカメラなどの光学技術で問題になる。しかし技術は、技術者はその問題を解決して製品の質を高めて来た。しかし物理学は分散の物理学的意味を明らかにしているだろうか。解らない処を噛み砕いて何故かと考える事の大切さを教えているだろうか。不思議と思う事を伝えているだろうか。意味を教えないで伝統的教育法に従った数式を覚えさせるだけて済ませていないだろうか。

光の筋道―眼と望遠鏡ー

投稿日: 2017年11月28日 | 投稿者: yoshihirak

光の道 始めに光あり。光無しに質量は有り得ない。光は世界を知る鍵である。光は障害が無ければ真っ直ぐ筋道を通して進む。地球の傍を通る時は、地球は障害物になる。だから光は筋道を曲げる。それは自由空間でなくなるから。光の速度もその筋道も、観測者との相対関係にあることを理解する事が世界を知る鍵になる。光と観測者の関係は普通の運動速度の相対性がそのまま当てはまる。その関係は決して『特殊』ではない。レーマーの光速度の相対性検出の基本認識が大切。光の速度がその伝播空間によって決まっているから。光が空間の距離と時間の関係を規定する世界の基準であるから。いま店先をシクラメンが飾る。じっと眺めて、何故惹きつけるのかと思う。尋ねても応えは無い。何の役にも立たない時間が過ぎる。シクラメンの花弁の分子構造が光の色合いを人の心に届けて人とつながる。光が無ければつながらない。光が『エネルギー』の縦波であるが故に世界が成り立つ。

(1)眼の機能 眼にはレンズの機能は無い。空気との境界を決める角膜の曲率でほとんどの入射光線は決まる。角膜が光の第一門の関所である。瞳への通行手形が切られる。眼の機能については教科書はじめいろいろと解説されている。カメラのレンズ機能と同じく網膜に像を結ぶと。しかしそれは有り得ないと医学の素人ながら筆者は考える。眼にはレンズ機能が無いと考える訳を説明したい。既に眼は一筋の光を観る で述べてはいるが。

眼の機能 確かに眼球には水晶体と言うレンズがある。しかしその成分は蛋白質であろう。蛋白質(角膜)と空気の境界では、光はその媒体間での透過率*(2017/11/29訂正追記。用語の間違いです。訂正してお詫びします。と同時に適切な用語が浮かばない。光伝播空間媒体の特性であるから、その媒体特有の透磁率と誘電率に基づく伝播速度の意味を表現したかったところ、透過率と早合点して使ってしまった。光の空間エネルギー密度分布波が進行方向に縦波として媒体内を伝播する。その媒体の光伝播現象に対する空間特性は、空間に特有の伝播速度が決まっている。その伝播速度は光の波長に因っても少しずつ違いがあるだろう。それは分散として現れる。従って、媒体間での違いを表現する用語としては光の縦波の『伝播速度』が適切であろう)が変わるから境界面に於いて入射角度によって屈折現象を引き起す。しかし眼球内は光伝播媒体が全てタンパク質と水分(?)であろう。そこでは屈折は起きない筈だ。魚眼の標本? が参考になるとも言えないが、蛋白質の玉葱状の積層構造と思える。人の眼もレンズのような屈折現象を起こす境界は空気と角膜の曲率面しかないと思う。そこに到達する光の内、眼の中心軸上の方向に在る対象からの光だけが瞳に入射するものと考える。 図の①一筋光路認識で文字『ア』を読むとする。文字の各部はあらゆる方向へ光を反射している。カメラのレンズ機能は、対象の一点からの多くの幾筋もの光路を通った光がフイルム面の一点(焦点)に集光し、対象全ての各点の集光された集合画像が写真として鮮明に写される。それに対して眼は対象の一点からの光の内唯一筋の光だけを受け入れる。観測対象『ア』の各部からの光のそれぞれ一筋の光路のみの光を取り入れる。眼の水晶体では光を整える積層構造に成っていて、レンズ終端でファイバー(硝子体管)に光が伝送され、黄斑に届く。網膜に視界の映像などできない。次に②の視界距離感をどのように認識するかも不思議である。望遠鏡や顕微鏡は殆ど片目で観測する。両眼で対象の距離は計れると理解している。しかし片目では、一筋の光による画像に距離を計る識別機能は備わっていないように思う。細い紙筒を覗いて、映る対象のその距離をどのように感じるかを確かめて見た。普通は片目でも、周りの光景も一緒に認識出来るから、長い感覚的脳の学習機能で距離を正しく理解できるだろう。しかし周りの景色が遮断されて極限された狭い平面の対象の距離を計る時、少し遠くに在る様に捉えるのかと感じる。それは各人の感覚に因り違いがあるかもしれないが。以上二つの意味が、望遠鏡(顕微鏡も)で対象を観測する場合の眼の機能として捉えておくべき要点と考えた。

(2)望遠鏡の原理 望遠鏡の解釈では、虚像とか実像と言う用語で解説されることが多いようだ。しかしその様なレンズの『焦点(存在しない概念)』に因る光路合成の作図法での虚像とか実像などは存在しないと考える。実像はカメラのフイルム面(写像面)の二次平面全体がすべての対象点からの焦点になるという意味で、そこに写る写真の画像とすれば、それは実像として理解できる。しかし、眼に因る観測視界は実像とか虚像などの概念では説明できない筈だ。レンズを使うか使わないかに関わりなく、普段の裸眼での視界認識と眼の機能は角膜への入射光線の角度で、全く同じ光路に因って認識している筈だ。その意味を次の図で示す。

望遠鏡の機能 望遠鏡の原理なども今回初めて考えた。ケプラー式で考えた。ここには実像も虚像も無い。眼で観測する光学器具はすべて一筋の光の光路から成り立っている筈だ。対象各点からのただ一筋の光だけで認識する原理である。眼は虚像も実像も見ることはできない。ここでも教科書の解釈とは異なる。図では遠方の大木を観る様子を描いた。天体望遠鏡なら星を観測する事になろう。観測対象の或る一点からの光は四方八方に放射している。その光の内、望遠鏡に入射し、観測の光となる光路は唯一筋の光の道しかないという意味を示した。ここが教科書での解釈と全く異なる。普通の解説は少なくても二筋の光で、望遠鏡内にその交点として在る像を結び、その像がそこに在るかのように考えて、その仮想の像を接眼レンズを通して見ると解釈している。その接眼レンズでの眼に因る観測となっている。それに対して図では、対象の観測点の光情報はある仰角θoの一筋で対物レンズに入射する。対物レンズで僅かに屈折しθで接眼レンズに入射する。接眼レンズの位置を動かせば、レンズ面の曲率によりレンズ入射角が変わることになる。それは屈折角が変化し、結局眼への入射角度が変わることになる。その角度を図ではθeとした。視野角度θeを観測対象の大きさを観る角度として認識する事になる。ただ観測対象の距離を片目でどのように認識するかは理解できない。

レンズの焦点・焦点距離とは?  に(2016/10/28)以降のレンズの記事をまとめた。

富士の霊峰を仰ぐ

投稿日: 2017年11月14日 | 投稿者: yoshihirak

富士山は関東地方の平野に立つ、孤高の独立峰だ。仰ぐと言っても登った事も無いし、傍に立った事も無い。それでも神々しい思いになる。それは広い裾野を広げて聳え立つ。何故と尋ねても応えはしない。その安定感を観る人に与える山の姿。見る人の心を落ち着かせるだけの何事にも動じない悟りの形だ。霊峰と言うに相応しい。世界にも似た形の山がある。富士山大好きな方必見!世界各地に・・。富士山の記事を書こうと思い付いた訳が奥穂高岳に在る。確かに富士山は火山噴火の山でもある。山頂は大きな噴火の火口が口を広げている。火口周辺の距離も相当の長さだ。火山噴火による溶岩が山頂を覆っている。しかし、溶岩とは考え難い岩石が見える。剣ヶ峰(富士山)の岩、釈迦の割れ石あるいは雷岩(イカズチイワ)等は溶岩とは思えない。

奥穂高岳山頂から富士山を連想 奥穂高岳の写真を観た。ヨーロッパアルプスの山の呼び名に関連したジャンダルムとも言う山の壁が聳える。その岩の形状は木の木目の化石に見える。どの岩を観ても木目に見えるではないか。この岩に圧倒される、奥穂西穂縦走「27歳男子二人のロックな山登り―3/。山頂のこの岩石の意味をどのように理解するか。決して火山の山ではない。地球物理学の問題でもあろう。3000m級の山でも巨木の化石としたら、当然富士山ももしやと思った。火山である富士山はずっと溶岩の山と思っていた。しかし考えて見ると、噴火溶岩だけであの素敵な形に成るとは不思議過ぎると思った。四方に対称に裾野が広がっているから。だからと言って巨木の痕跡が山頂に有ったからと言って裾野が広がる理由になる訳ではないが。

富士山剣ヶ峰 富士山の山頂の尖端に構える絶壁である。決して溶岩ではない。剣ヶ峰は霊峰の心意気を突き上げた拳に見える。

石の囁き 聞こえますか に関係して。

気掛かり 奥穂西穂縦走「27歳男子二人のロックな山登り」さんが投稿したロック(岩石)の写真はどれも迫力があり素敵だ。しかし、2011年以降の記事が見えない。

ハミルトンの風車からエネルギーを観る

投稿日: 2017年11月9日 | 投稿者: yoshihirak

はじめに (またの文末の自分の恥さらしで御免なさい。憲法と市民権など全くの無知であった。権力と市民権の関係の教育を受けた記憶も無い)。ハミルトンの風車はブログの最初の科学の記事で、放電現象と電荷・電流概念(2010/08/02)にある。何故ハミルトンの風車を取上げるかには理由がある。新世界ー科学の要ーで示した静電界のエネルギー流についての解釈を早合点したようだ。訂正しなければならないと思ったからである(2017/11/07追記・修正した)。それはコイルとコンデンサの磁気ループについても訂正になる。

ハミルトンの風車

極性とエネルギー流 ハミルトンの風車を検索すると、その回転現象の解説にはイオン風と言う電荷が原因となった説明が成されている。マイナスの3万ボルト程で大きな卍型の針金が相当の速度で勢いよく回転する。しかもプラス側の電極が無いのに、マイナスを印加するだけで良く回転する。昭和40年頃の高等学校での公開実験での強い印象が残っている。1.6mmΦの屋内配線用銅線で構成した直径30,40cm風車実験結果が思い掛けずも成功したのも不思議であった。何も傍にプラス電極が無い、空間に置かれたマイナス電極の風車である。針金の先端からジーと音を立てて噴射しながら回転する。ただし、印加電圧が正極性の時はそれ程強い回転力は得られない。明らかに極性によって異なる電気現象であることははっきりしている。放電管内の流れがマイナス電極側からしか流れない事も良く分かっている事だ。その流れを陰極線と名付けたのだ。その流れる実体を『電子』と呼んで解釈するのが現代物理学理論の根幹である。『電荷と質量』を備えた素粒子が『電子』である。その電荷と質量の空間的描像も明らかに説明できないにも拘らず、『電子』と言う素粒子(レプトン)が実在し得るとの前提で構築された電磁界理論である。その電子と言う『電荷』概念への疑問を抱いたのが電磁界の新世界に踏み込む事になった原点である。ハミルトンの風車の回転現象を電子とイオンで解説されているのが常識論である。結局、電子もイオンも『電荷』と言う実在しない物理量概念で、見えないが故に、簡便な解釈で伝統的に積み重ねてきた理論体系の基礎概念となって、社会的な常識論の根幹となって来たという事であろう。今唱えたい事は電子やイオンに替わって、それに対応する『エネルギー』一つで統一的に解釈すべき基礎理論が求められていると言う結論になる。

針電極 針電極のような金属の先端を尖らせて、負の高電圧を掛けるとコロナを噴射する。それは導線に沿ってエネルギーが針先端から空間に噴射されるからと解釈する。導線周辺にコンパスを近付ければ導線を周回する向きに磁気ループが存在するだろう。それは電流で解釈すれば、それが先端部から流れ込む向きと同じ方向ではある。このエネルギー流の解釈は、電子・電流の解釈との明確な違いを説明するだけの根拠を示せないのが残念ではある。残念であるというより、目に見えないものを科学技術で自然現象を利用するように概念化して来た多くの先人の業績を讃えるべきであろう。然しながら、自然の真底に横たわる眞髄は科学技術概念の奥に隠れているのだ。それはを認識するのは各人の自然科学的感性に委ねられていると言えよう。

平板コンデンサ内のエネルギー流 そのエネルギー流での解釈は、平板コンデンサ内へのエネルギー貯蔵をどう捉えるかに、その有意性があろう。『電荷』貯蔵に因る解釈よりも矛盾は少ないだろうから。コンデンサ内でのエネルギー消費は殆ど無かろう。従って、エネルギー流は平板コンデンサ内で何らかの回転流として貯蔵されるだろうと考える。二枚の電極板に対して、エネルギー流がどのようであるか、上下二つの流れであるか、一つの流れであるかは見えないものを解釈する訳で、そこに悩ましい決断が求められる。新世界ー科学の要ーで示した解釈は二つのエネルギー流で決断した。それは下部電極表面での磁界の方向が決まるエネルギー流を上部と同じ電極表面に沿って流れ込むと解釈したからであるが、その点が少し早合点であったと反省している。それは新世界への扉ーコンデンサの磁界ーで示したように、下部電極表面でのコンパスの指示方向が電極表面に流れるエネルギー流との合成流に因ると解釈したことに因った。コンパスの磁気の意味をそのエネルギー流が原因と解釈する捉え方そのものが新しい科学的世界観でもあり、その事との関係で迷いがあったと反省している。今回上に示した図の平板間の一つのエネルギー流で解釈する方がコンデンサ内でのエネルギー貯蔵の姿としては共感し易いと言う感覚的な意味合いをも含んで決めた。誠に科学実験による検証方法という手法が採れずの感覚論で誠に不甲斐なさも抱かざるを得ないと同時に、混乱を与えたらと申し訳ないと思う。コンデンサ内のエネルギー貯蔵で、二つの流れは不自然であろうと感じるからである。以上の考えから、結論を図のようなエネルギー流で捉えた。この平板電極内の空間とその外部との関係は明確な描像を描くことはできない。コンデンサ貯蔵エネルギーが完全に電源との繋がりがなく、独立したエネルギー流になるかと考えれば、それは無いだろうと思う。その曖昧なまま表現した図である。負極性の場合で示したが、エネルギー流は電源の負側からの供給が主流になるとの解釈をハミルトンの風車から類推したことで、正極の電極板に対して少し反発する流れになるかと考えざるを得ない。それがその電極近傍でのコンパスの指示方向の原因となる貯蔵エネルギー流とコンパスのエネルギー流との兼ね合いの問題であるから。基本的にはそのエネルギー流がコンパスの指示方向・磁気ループの解釈の拠り所と考えざるを得ない点にある。

アーク・火花放電 高電圧工学と言う分野がある。それは電力系統の保全対策として、送電線路への落雷に対する対策や、支持絶縁碍子の性能向上に欠かせない研究分野である。その電気的特性は高電圧試験によって基礎研究が成される。平板電極間でのアーク放電現象はその基本観測である。電界強度の空気限界は大よそ30kV/cm位と考えられている。それ以上の電界で火花放電し、絶縁は破壊される。その火花放電現象の原因は電極間に塵などが入り込めば、その局部的エネルギー密度が高くなり、局部のコロナが全体としての放電に移行してしまうだろうと考えられる。その辺の現象を電極板の『電荷』で解釈しようとしてもなかなか難しいと思う。丁度、雷が空間の状況と水蒸気の熱エネルギーの供給・放出との兼ね合いで決まる事から思えば、電気現象も『電荷』では捉え切れない謎が多いだろうと思う。

『電荷概念の否定』の観点 伝統的科学理論が常識として世界に受け入れられてきた。正と負の対称な二つの『電荷』が世界の根源を支えていて、その『電荷』無しには科学理論を論じられない事になっている。伝統的科学の世界観で共通理解に在る社会的安定性の観点から観れば、『電荷』否定の反社会的科学論は誠に迷惑な事ではあろうと理解はしている。2000年にワープロ代わりにパソコンを購入した。雨蛙や日本カナヘビ、揚羽蝶など身近なものを眺めて、生活の術もなくただ漫然と流されて来た。科学研究の機関に所属する事も不可能な人生の状況に追い込まれた。今過去を知って見れば、職歴も書けない現実が身に染みている。退職の手続き一つした覚えが無い現実。翻弄され続けている身には日本国憲法(特に、第98条1項 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部または一部は、その効力を有しない。とあるが、その条項は何の為のものか理解できない。)が欲しい。まさか昭和14年12月1日や昭和39年4月1日に戻る訳にもいかないし、どうしたら良かろうか?平成7年7月(11月の間違い?)には、国会で事務局職員にわざわざ筆者の正面写真までお撮りいただいたので、不審者リストにでも御登録されているかも知れない。身分が不明のまま捨て置かれているかと疑いたくもなる。昭和63年2月にも国会で物議の基になったかもしれないが。当の本人筆者は何も知り得ないまま今日に至る(*1)人定証人喚問。しかし正規でなくても幾らかの現場での経験から、身に付いた電気工学の技術感覚から物理学基礎概念の意味が腑に落ちず、光の伝播現象と物理学基礎概念の実相を我儘勝手な解釈で追い求めてきた。今思う、『電荷』概念否定の感覚に間違いは無かったとそれだけは安堵した。種々雑多な内容をITの世界に恥ずかしげもなく、恐ろしさも知らず綴って来た。パソコンでの情報発信で、学会での正規の学術研究には成らないかもしれないが、専門的学術に無関係の方々にも科学の基礎とは何かと考える意味は伝えられたと感じる。どれも特別科学研究となる様な新しい事でもなく、日常生活で感じる科学感覚が基での考えを発表して来た。しかし、『電荷』否定一つが、科学理論と自然科学の解釈論に未来への課題として無視できない処に在ることだけは示せたように思う。未来に向けた、子供たちへの教育の問題として。

(*1) 人定証人喚問:昭和63年1月中頃、自宅に何処からか『長岡工業高等専門学校の健康保険証』が送付されて来た。長岡技術科学大学の電気系事務室で電気系長にこんなものが送られて来たと見せた。そんなものを持って居てはいけないと取り上げられた。その後、その保険証がどのように処理されたかを確認していない。その数日後、長岡工業高等専門学校の事務職員がやはり自宅に「未だお返し頂いてない保険証をお返しください」と封書が届けられた。身に余る不可解に対処し切れずに、無知を曝して今日まで彷徨って来た。今も不届きなへリコプターが飛んでいる。畏れ多くも国会で不届き者と人定喚問でもして、我が身の悪行の所業を解明して頂かないと死に行く人生に辻褄が付きそうもないと考えている処でございます。

時計二題

投稿日: 2017年11月3日 | 投稿者: yoshihirak

こんな時計があった。

木箱に収めた。何時作ったかも忘れた。右の丸い時計は防水ラジオについていたがラジオが壊れたので時計だけ生かした。ツインバードの時計だ。何十年も正確に時を刻んでいる。木の木目は自然の芸術作品だ。どんな模様でも決して偽りはない。