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電流 1[A] の論理性 -考える理科教育への科学者の社会的責任‐

花1匁の心の重さ。有るような無いような重さを計ってどうする心算かと自分に問うても詮無い乍ら、やっぱり問わずにいられない。自分が納得できない。電流1[A]の社会的意味もそれに近いかも知れない。現実は実用単位としてMKSAの[A]が世界を繋いでいる。科学理論もその1[A] によってすべてが組み立てられている。糠に釘を打つ様なことはしたくないが。

電流 1[A] の意味。1秒間に1クーロンの電荷が通過する。電線を流れる電流1アンペアの意味はそのように理解してきた。今各種電線路(三相回路、単相回路及び同軸ケーブル)の特性インピーダンスの算定法の論理を考察している。教科書では「電荷」と「電流」によって算定される。しかしその論理はエネルギーとの関係で整合性が取れていなければならない筈だ。電界、磁界あるいは電荷、磁束が決まればそれはエネルギーの空間分布に換算できるはずだ。その課題が解決できない矛盾に困惑している。そこにどうしても電流と電荷の物理的概念の論理性が壁になる。

1[A]の電流の電線の電荷分布は如何にあるか? 1[A] の電流が流れている電線には 1[m] 当たり何[C] の電荷が分布しているか?その問いに答えられないからと言って、他の人に責任を擦り付ける訳ではないが、電荷の流れる速度が決まらないと答えようがないのだ。信号やエネルギーは光速度で伝播するのに、電荷はおっちら、こっちらと超低速では論理のギャップが大きすぎて決まりが付かない。科学の論理性からも世界の科学者の社会的責任として、子供達に分かる説明がなければならない筈だ。

1[A] の電流によるインダクタンス算定とその時の電荷による静電容量算定及びそのエネルギー分布とが、その論理性でうまく合致できればと願いながら。

既に、電流は電子の逆流か?ということを電子とエネルギーと質量に述べてあった。そこに載せた図で、電線路に電子が満ちて

電流は電子の逆流か?流れるとすれば電圧は、負の電荷だけで線路電圧となる理屈が見えない。電荷論での、電流が電子流だとの解説は電圧の発生源の正の電荷をどう説明するのか。前の記事を振り返って改めて追記した。

誘導エネルギーに観る技術と物理

はじめに
電気回路現象を理解するにはその回路内でのエネルギーの振る舞いを感覚的に捉えることが大切である。この記事もロイヤーのインバターの記事の準備として書いている。誘導電動機の運転などでは、その誘導性のエネルギー処理の問題を理解して置かなければならない。インバーターは直流電源を交流電圧波形に変換する技術であり、変圧器と誘導負荷のエネルギーの物理的意味を、電気技術概念の更に深い処の意味で捉えて置きたいと思った。基本的な方形波電圧波形と純誘導負荷のエネルギーの特質を捉えて置く必要があるからである。

単相インバーターと基本動作
最も簡単な基本回路を取り上げ、その負荷が純誘導負荷、リアクトルだけの場合についてまとめておく。物理量のエネルギーをどのように認識しているかが理科教育特に物理学において極めて重要に思える。誘導エネルギーと言う用語は一般的ではないが、コイルに蓄えられるエネルギーの技術的表現である。空心コイルでなく、鉄心に巻いたコイルのエネルギー量が大きく、その電気回路動作に強い影響を及ぼす。鉄心も含めて、コイルの中の空間に蓄えられる貯蔵エネルギーをここでは誘導エネルギーと言う。正弦波交流電圧より直流電圧の一定値を切り替えた方形波電圧波形の方が、そのエネルギーの意味を感覚的に捉え易いだろうと思う。技術的な電流や電圧の意味とエネルギーの関係について、方形波交流電圧源によって考える中身が明確になるだろう。筆者自身の経験で、初めて電気の回路動作を知ったのが方形波電圧源に関わったからである。正弦波電圧では意識しないものが観えて来るからである。

方形波電圧と誘導負荷電流 上の図のように、トランジスタとダイオードを逆向きに繋いだ一対で一つのスイッチを構成する。それを4個使って、負荷Lを電源につなげばトランジスタのオン、オフで方形波電圧が得られる。この方形波電圧で初めて、コイルの電流はどのようになるかを知ることが出来る。コイルの電圧voはLと電流ioの時間微分の積で得られることは知っていても、電流ioが電圧の時間積分となることは意識していない。コイルの電圧時間積分は磁束になる。磁束[Wb]をL[H]で割れば電流[A]になる。このような計算は科学技術理論であり、物理理論(現在の物理学は科学技術理論である)ではない。

科学技術理論と物理論あるいは自然論 科学技術論は電圧、電流などの計測量に基づいて理論を組立てたものである。当然現代物理学理論もその同じ概念に基づいて組み立てられているから自然論とは異なる。自然は人間が創り上げた自然観察手法ほど複雑な原則には無い。磁束も電荷も無い。原子構造もすべての素粒子と考えるものもたった一つの『エネルギー』の世界像である。磁束、インダクタンスおよび電流の単位間で、磁束[Wb]=インダクタンス[H]×電流[A] が何故成り立つのか?自然感覚としてその意味を捉え切れるか。せめて、磁束[(HJ)^1/2^]=インダクタンス[H]×電流[(J/H)^1/2^] なら、次元解析も容易であろう。如何に世界は『エネルギー』が根源を成しているか。エネルギーを論じない物理学は自然を論じているとは言えない。まだ、科学技術論からの要請で取り入れられた空間概念の空間容量ファラッド[F]と誘導容量ヘンリー[H]の時空論の曖昧性は残されたままのように思う。それは哲学的な思考によって解決されるべきものと思う。電流も電圧もそれらがエネルギーと関係付けて捉えられるには、それぞれ2乗によって初めて観えて来る筈だ。もう一つ触れておこう。トランジスタのnpn積層構造でも、ダイオードで表記すれば、ベース端子に対してエミッタもコレクタもダイオードの背向した構造体の筈である。コレクタ側からベースへ電流が流れないダイオードの構造の筈である。何故か不思議にもダイオードの逆向きの電流を制御していることになる。これも実際の製造現場では、単純なnpn積層構造ではない事が分かっているのだろう。考えても単純な頭では理解できない。これも何とも言えない不思議な科学技術論である。トランジスタにはエミッタに電流の方向が示されているが、量子力学論では電流ではなく、逆向きの電子の流れで論じられる。何故電子がコレクタ側に流れるかの明快な解釈は見えない。何しろダイオードの逆向きであるから。それも質量でもなく電荷でもないエネルギーの流れとして捉えなければ真の物理学にはならない筈だ。この辺に対する過去の悩み論を記した記事謎(p n結合は何故エネルギーギャップ空間か)がある。標題に技術と物理としたので少し脇道に逸れてみた。

誘導エネルギーの回生 誘導負荷エネルギーはその処理を的確にしないと、スイッチング素子が破損する。貯蔵されたエネルギーは回路から突然切り離そうとすれば、無限大のエネルギー放射源となり、回路内で炸裂する。だからと言ってそのエネルギー量が多いとは限らない。量は少なくても、そのエネルギーの流れを瞬時に止めることはできない。無理に止めようとすれば火花を放ってエネルギーを放射する。そのエネルギー感覚が電気回路解釈における筆者の感覚の基になっている。コンデンサのエネルギーにはそのような凶暴性を持った回路への危険はない。コンデンサの貯蔵エネルギーは簡単に回路から切り離せる。半導体回路のその誘導エネルギー処理の優れた機能に感心させられた。

リアクトルエネルギーの貯蔵と回生 ここでも技術論である。本来の電圧は電位が高い方がエネルギーの分布が少ないのである。負側がエネルギー源である。然し技術論では如何にも電圧の高い電位がエネルギー供給側のように解釈される。だから電流が流れて、負荷にエネルギーを供給すると理解する。本当は逆なのであるが、如何に科学技術論で頭が飼いならされたかは、電流と電圧の意識が手っ取り早い理解に結びつくかを思い知らされる。実に電圧、電流の技術概念が使いなれると便利であることか。しかしその物理的根本原理を明らかにしようとすれば、並大抵のことで解き明かせるものではない。だから電流が電線導体の中を電子が逆向きに流れる現象だなどと、実しやかなウソで誤魔化す事になる。質量の無い電子は定義されていない。電線の中を質量を移動させるにはどのような力が必要かは知っている筈だ。運動力学論で質量は電界では動かない。だから電荷と電界の関係で力を想定する。一般導線の中に電界をどのように想定できるか厳密に論理を展開出来るか考えてみれば分かろうと思う。無理なのである。それでも巷の電気解説論では堂々と電子が電線内を移動すると解説されている。しかし、だからと言って電流、電圧と言う概念を不要と言って切り捨てる訳にはいかないのだ。これ程実用的な便利な技術概念も無いから。その物理的実像を明確に捉えることは本当の自然の深い真髄を理解する上で大切な事でもある。それはトランジスタの内部あるいは近傍空間をどのようにエネルギーが流れるかを極めることに繋がる話である。技術論と自然の眞髄はどこかで明確に論理的に繋がる筈であるから。エネルギーの回生については何も述べずに来てしまった。一定周期でのスイッチングで、定常状態になった場合の負荷電流ioは三角形状に変化する。その各状態でコイル内にエネルギーが貯蔵される区間と放射(それが電源にエネルギーを回生)する区間とに分かれる。エネルギーの流れと電流値とは同じくはないが、コイルのエネルギーを電流で捉えるのが分かり易いという実に慣れという常識習慣の恐ろしさも感じながらの論理に従って理解する。本当のことは、エネルギーは電流の2乗で捉えられる筈だ。

半導体スイッチ回路をダイオードとスイッチSで書き換えてみた。二つのスイッチSを同時にx 側かy 側に投入すれば、電圧は方形波となる。スイッチの切り替えごとに打点のダイオードが電流の帰還回路を形成し、エネルギーの電源回生動作となる。なおコイルのエネルギーは電流の2乗だから放物線状に変化する。

むすび 電圧、電流と言う技術概念が如何に便利であるかは慣れるに従って益々離れがたい価値を意識する。しかし、自然にはそんな概念は無く人が創りだした技術概念でしかないのだ。実に不思議なことである。こんな事を書くことが社会的な混乱を来たす元になるようで実に気が重い事でもある。社会的組織の中では許されない論議になるかも知れないことから、孤独の世界を歩くことに成ったとも考えられる。過去の電気技術の仲間や工業高校時代の仲間とも全くの繋がりのない世界での思考の論考である。5,6年前に住所録も消えて無くなっていた。日本物理学会での発表も所属欄が書けない無様で今は止めた。学術に関する処に参画するには所属欄の記載がなければ、参画資格が無いようだ。時どき昔のことの闇の声が聞こえる。竹下内閣の『約束』が有ると。地方創生資金配分の関係かとも思うが、何の『約束』かは知らない。

今回の記事で、単相インバーター回路を取上げたが、電流が電気エネルギーの流れを示していると電気技術者ならそう理解する。しかし直流電源のエネルギー放射・伝送は実は負側のマイナス側から送られるのだ。だからトランジスタのスイッチングによるエネルギー伝送機能も負荷に印加する電圧のマイナス側がエネルギー高密度空間の基になっているのだ。大学の電気工学・電子工学の教育上の『参照基準』はその辺に照準を合わせるべきと所属の無い身ながら恥ずかしさを忍んで提言する。残念ながら教科書が間違いあるいは矛盾に気付かない内容を広めているのだ。理論がもっと実学・技術の学びの上に基づくべきだ。何々の法則が矛盾に耐えない筈だ。

政府機関なのかどうかは知らないが、裏で何か決めているようで、実に気味の悪い精神的ストレスの毎日である。正に人権侵害の連続だ。人の繋がりのない断絶した過去の上の浦島退屈論ではあるが。

 

電流と哲学対話

これも科学論(市民の分かる) 科学論は科学者が組織する機関や学会の合意の共通認識の範囲に限られた基本原則を守った中での論議しか許されないのだろうか。電気工学の技術的感性に基づいた自然世界の観照を通して、身に付いた感覚から物理学理論を学習させてもらって来た。所謂専門的常識論に囚われずに自由に自然世界の実相を心に映して、自然との対話を積み重ねて来た。科学理論の中でもその最も基礎理論となる電気磁気学が電気工学技術論と近いことから取り組み易かったため、その内容を分析し、解剖することを通して多くの理論に矛盾の不整合性が存在すると考えざるを得ない事態に至ってしまった。初めはこんな事態になるとは考えていなかったことに戸惑いもある。科学常識からは異端の認識からの科学論は科学論とは言えないのだろうか。失礼ながら電気現象に少しは関わりを持って過ごした昔の過去がある。そんな者にも、数学的数式は使わなくても、日常の言葉だけでも電気現象の基本概念『電流』の意味位は解釈できる。毎日電気磁気学の高度な授業展開をなさっておられる専門家の皆さんは『電流』とは何か等とはお考えになられないのでしょうか。電流は流れずと主張する者からの科学論であるが。

電流と電子の関係 電流とは電子の逆の流れを言うと解説される。決して電気工学の専門家は深く電流の意味を追究しない。それは物理学の領分であるからなのか。しかし、物理学の中の電気磁気学の専門的教科書を開いても、そこには電流そのものの意味を追究する解説は殆ど無い。電線の中を電子が流れていると断定した専門的定義の基で解説が進められる。一方物理学理論の根本的概念を構成する電子には、素粒子論のレプトンとして質量(9.1091 ×10^-31^[kg]等)と電荷(1.602 ×10^-19^[C])から構成されていると認識されている。電流の概念では電荷の他に、特に質量の必要性に言及したその姿を解説する物理学論を見かけることは無い。電流の単位は電荷の時間微分で定義される。しかし電子には質量がある。その電子の流れに因る電流には電荷だけで良いのだが、何故か電子と言う物理学概念に従えば、質量も一緒に流れることになる。何故に電流が電荷の他に質量も伴う電子の逆流として解釈しなければならない概念として電気現象の根本的常識になっているのか。皆さんは少しも疑問を抱かないのでしょうか。(2020/06/16)追記。力の概念と電気物理 (2019/05/21) でクーロンの法則の矛盾を説いた。

光速度との関係の不明確性 電気現象はほぼ光速度で伝播する。その速度に電子がどれ程素早い対応をする論理的根拠が示せるだろうか。例えば1 Kmの配電線に電源電圧を印加したとする。電子は導線の内部を流れると解釈されるようだ。単相交流回路として、二本の導線があり、負荷は何も繋がれていない無負荷の配線とする。負荷端で導線は繋がってはいないから完全に分離した二本の導線が平行に張られているだけである。その時導線内の電子に掛かる電界はどこからどのように掛けられるのか。電源側からただ電圧のそれぞれの(プラスとマイナスの)極をどこも繋がっていない二本の電線につないだだけである。なぜ電線の導体内部に電子に運動を起こすような電界が掛ると言うのだろうか。電力変換技術を通して身に付いた感覚からすれば、導体である電線内部には電界等発生する訳など有る筈が無いと言う認識が定着している。導体内部に電界は無いと。離れた電線に電圧を掛けると電子が電線の終端まで運動力学の質量に加速度を生じる原因が発生し、電子運動が起こり、電線全体に電圧分布が生じると言うのだろうか。この電気現象にはマイナスの電子だけで、プラスの電荷にお出まし頂く余地は無いように思う。電子に運動をさせる加速度の基である電界と言う電気概念はどのように掛けることになるのだろうか。平行の電線が何処ででもが繋がっていなくても、ほぼ光速度で電線間には無負荷終端まで『エネルギー』が伝送され、保有されるのだ。決して電子が『エネルギー』を運ぶ訳ではない。

初期の投稿記事を拾う。

  1. 放電現象と電荷・電流概念 (2010/08/02)
  2. 電流計は何を計るか (2010/11/10)
  3. 磁界・磁気概念の本質 (2010/11/16)
  4. エネルギー[J(ジュール)]とJHFM単位系 (2010/12/18)
  5. 電流は流れず (2010/12/22)
  6. ファラディ電磁誘導則・アンペア周回積分則の物理学的矛盾 (2011/01/30)
  7. 新世界への扉ーコンデンサの磁界ー (2011/02/20)
  8. 『電荷』と言う虚像 (2011/04/08)

電流計は電圧計だ

電流計は電圧計だと言えば、電圧計は電流計だと言うことになる。電圧計の意味は電気の眞相(3)-電圧と負荷ーで電圧計と内部回路に示した。電流や電圧はすべて空間に存在するエネルギーとその伝送現象を科学技術概念として規定した計測量である。エネルギーの発生と消費を科学技術の現代社会基盤に据えてその利用形態概念として確立して来た。電圧計も電流計も直流なら可動コイル型、交流なら可動コイル型にダイオードを組み合わせた整流器型あるいは可動鉄片型が汎用計器として使われている。それらの計器の測定技術は計器内のコイルの貯蔵エネルギーに依る磁気的力を利用している。

可動コイル型可動コイル型 電圧計も電流計も磁石の間のコイルに電流を流してフレミングの力を利用している。図の磁気の極性は内側と考えてください。コイル電流と言いますが、実際はコイルの周りの空間に貯蔵されるエネルギーの回転流だ。その様子を図示すれば、

可動コイル型電圧計とエネルギー流コイルエネルギー流と磁石エネルギー流間の近接作用力 電圧の説明の図であるが電流と同じ作用。そこで標題で電流計は電圧計だと言った意味を説明したい。

写真097負荷と電流計 可動コイル型計器で考える為直流電源とする。線路に多くの負荷が接続された中で、その回路の電流を知りたいところに電流計を繋ぐ。その接続した電流計は何を計測するのかと言うことを知らなければならない。その為には電流計の内部回路を理解しなければならない。電流計もその測定したい回路電流の流れる電線路に直列に接続する。或る物を計測するには、その現象の中の一部のエネルギーを取り込まなければ、計測することは出来ない。電流計が幾ら内部抵抗が無視出来るほどであるとしても、負荷に対して直列に電流計自身が負荷として加味されるのである。電流計の内部回路とその計測機能を考えて見よう。

写真099内部回路と電圧 一つの電流計Aが負荷Pの電流を計る為に接続されている。内部回路は抵抗とコイルの並列回路である。磁石内の可動コイルは微弱電流しか流せない。そこで、負荷電流ipの殆どを流す為の並列抵抗(抵抗値ほとんど零のシャント抵抗) r を組み込む。その抵抗の値を切り替えて、電流の測定範囲(レンジ)を変更する。それでも回路には負荷に直列に抵抗が繋がる。だから、電流計はその微弱抵抗に掛かる電圧を計測のエネルギー源としているのだ。さて、可動コイルLは細い電線のコイルであるから、必ず抵抗 r’ を含む。コイルは直流電圧に対して、電圧を受け付ける事は出来ないから、必ず抵抗が含まれなければならない。電流計に掛かる電圧値Vi は結局並列抵抗(r,r’)の合成抵抗として負荷電圧を取り込む。結局可動コイルには、直流電圧の積分値としての過渡現象分のエネルギーが貯蔵される訳である。それは、前に電気回路要素Lの機能とエネルギー感覚で述べた事である。コイルのエネルギーはコイル空間内に貯蔵されるのであって、決して電流がそのエネルギーを保持するのではない。貯蔵されるのはコイル空間内のエネルギー流である。電流計、電圧計の計測機能は磁石の磁極空間内に生じる磁場と言うエネルギー回転流と可動コイルのコイル内エネルギー流との相互近接作用によって、空間エネルギー力がコイルを制動バネとの釣り合いまで回転させるのである。電流計が指示する測定値 ip は

ip=K(2Wi/L)^(1/2)^

ただし、K=1+(r’/r) の分流定数で可動コイル内の貯蔵エネルギーWi[J]を計測値の基としているのである。全体の電流計の電圧も図のようになる訳だ。

まとめ この記事に電流計の機能をまとめようと考えた理由と意味を述べよう。2年前の2013年6月に、回路とエーネルギー流電流解剖論ーを書いた。その時は直流回路で、負荷供給エネルギーの流れが負側導線からの還流として捉えていた。しかし電圧の系統規模を決める線路間エネルギー分布の意味と統一的に捉えてはいなかった。その時は電圧と電流の二つのエネルギーの流れの曖昧な解釈に留まっていた。今年6月2日の変圧器の奇想天外診断から8月14日の 天晴れ(コイルと電圧とエネルギー) までの考究で確信を得た。それは線路間に分布する空間エネルギーが電圧と言う系統規模を決め、それが負荷供給のエネルギーとなるとの確信に到達した。今回それらの総合的取りまとめとして、直流電源の線路のプラス側であろうと、マイナス側であろうとどちら側に電流計を接続するかには無関係に電流計測が出来ると言うエネルギー流からの疑問解消の解答を得た。その意味を今回の記事として直流電源回路を取上げて解説した。

アンペアの法則を解剖する

(2020/06/10) 追記。現在思う。いくら電流の物理的意味を考察しても、それは技術概念としての価値の論議にしかならない。電線の導体金属内には何も流れていないのだから。関連記事として、Friction heat and Compass (2020/03/22) ,The electron did not exist in the world.(2020/05/15) および電気エネルギーの測定法(電流と電力) (2020/05/03) 。

もう一度初めの原点を見直そうと思った。今から30年前、昭和60年に初めて電気磁気学を教える事に成った。div,rot,grad等の微分計算も計算した経験が無いのに突然のことだ。考えれば、偏微分も3次元空間の中での微分計算だから、計算してみれば難しい事ではないのだった。おそらくその授業の中で、アンペアの法則の意味に何か疑問を抱いたのだと思う。学生にそんな事を言う訳にはいかないから、自分の中で疑問を膨らましたと思う。“実はこの授業は「電気磁気演習」の科目であったように後で気付いた。突然の事で、4月に成って初めて科目を知った。少しピント外れだったかと反省する”。元々、ファラディの法則の教科書の解釈に矛盾を抱いていたから、アンペアの法則も疑問を持って当然なのかもしれないとの認識にはあっただろう。ファラディの法則で、励磁電流で磁束を解釈すること自体がおかしな論理だから。所謂パワーエレクトロニクスの電気技術論では、ファラディの法則は微分形式を積分形式に変換して、磁束は電圧時間積分で決まるという観方で解釈するのが常識であった。そんなところにも人間の思考の面白さ(教科書的常識の滑稽さ)が隠されているようだ。

電流と磁束と人間思考性。 常識の滑稽さの意味を説明すれば、数学では微分と積分は表裏一体の関係に在る事は誰でも知っている。ファラディの法則は磁束の時間微分で示される。それなら磁束は積分形式に書き直せば、励磁電流などが式の中に出て来る訳が無いにも拘らず、アンペアの法則で、磁束は電流によって発生するとの解釈が法則化されているから、その原則・常識から抜け出せない人間の思考性により、磁束が電圧の時間積分で決まるという意識には成り難いのだろうと思う。それが人間の思考形態の滑稽さと看做せよう。アンペアの法則がファラディの法則より10年程先に提起されている。古いほうが新しいものより強く保守的に残る傾向なのかもしれない。その辺の科学に潜む保守性が科学理論の特殊性かもしれない。これから議題のアンペアの法則を解剖する訳であるが、その電流と磁束と電圧の関係について、前以って意識して置いて頂く為の準備として触れた。

電流の遠隔作用電流の遠隔作用? 法則は空間ベクトルの意味を持って表現される。電流と考察点までの距離とその点の磁界の強度の3つは空間ベクトルの意味を持つ。共に他に対して直交したベクトル方向を意味する。それぞれのベクトルの方向を示す単位ベクトルn_in_rおよびn_h=[n_i×n_r](ベクトル積)使って示した。

直線状電流の意味と周辺空間。 アンペアの法則は電流周りの磁界に意味がある。直線状電流の矛盾を指摘したい。img278

電流の周辺。

電流の役割とその周辺空間。電流は一本の直線導体には流れ得ない。電流とは往復導線で初めて意味をなす。電流をベクトル計算で解釈するとき、その電流の周りの磁界で解釈するのが一般的である。その電流 i(t) を取り上げて、図に基いて考えてみよう。この電流による磁界 H(r,t) は実際には意味が無い筈である。しかし、殆どこの図の解釈で説明する。ここに、アンペアの法則の捉え方に誤りがあると気付いた。

アンペアの法則の原型は上の図の q点において、電流 i'(t) が受ける力を電流 i(t) による磁力と考えた事ではなかろうか。(ここまでは前のファイル①の文章である。)(2020/07/09)追記。結局電流は往復二本の電線で囲まれた空間でしか、その技術概念『電流』は意味が無いのであり、一本の導線を流れるとものと言う認識は論理的に矛盾である。

磁界と偏微分。

(ファイル②の書き換え。)ところが、アンペアの法則の解釈は無限長導線の電流 i(t)に対して論じられ、その周りの磁界 H(r,t) が電流に対する垂直平面上の距離 r  だけによって決まるという事になっている。その磁界ベクトル H(r,t) は

と表される。ただし、p 点座標ベクトル rr=xi+yj  である。

さて、上の図が何故使われるかと言うと、マックスウエルの電磁場方程式の解釈からの要請とみる。電磁波伝播方向に対する直交の変位電流を磁界の発生源として捉えた。

その磁界に対する偏微分がその p点の電流密度 J(t)k で、

として関係付ける為であろう。

このようなアンペアの法則を、一本の直線状の導線で解釈する事は電流の概念と相容れない解釈である。

(ファイル③の書き換え。) (参考) 磁界はベクトル成分に分解すると、

この回転の偏微分計算は

 

で、周辺空間の電流密度は0となる。

なお、電流 i(t) が交流のような場合でも、空間的な広がりには時間的遅延の意味は表現されていない。電流と磁界の関係は、瞬時的無限遠への光速度を超えた遠隔作用の式である。

遠隔作用の矛盾。 電流の時間的変化が有っても、法則ではその伝達に無限遠まで時間は不要だ。この関係が次につながる。

電流が流れるという意味は? 水は一本の管の中を流せる。電流は一本の電線の中は流せない。必ず往復の電線が必要である。一本の電線に電子を流し込んで、負荷まで届けられ、その電子の質量と電荷をエネルギーとして消費できれば有り難い。しかし残念ながらそれは無理な話である。空から空間を伝播させる高密度電磁エネルギー伝送の話があるが、それは電線が無く、光の高密度エネルギーと同じものであろう。電流概念には往復導線が必要である。その電流はエネルギー源と負荷との間の進行方向で定義される。電磁波がマックスウエルの方程式で、アンペアの電流・ファラディの磁界法則を統合し、更に「変位電流」を加えてようやく磁界発生原因を方程式に纏めた。やはり『電流』が電気現象の基本に据えられ、磁界発生の原因とした方程式である。しかし、その電流はエネルギー伝播方向に対して横方法に流れるベクトルである。電気回路の電流方向とは90度異なる概念である。この事は電流とエネルギー伝送方向とに関して相当意味が異なるようである。その点は別の機会に論じよう。ここではその変位電流について考えて見よう。電流と磁界の時間的関係は原因と結果の因果律の基で論じられるが、その時間的関係は同時性か遅延を伴うかをどう理解するべきかは判別しかねる。因果律には「同時性」はあり得ず、原因が時間的に早くなければならないと思う。『変位電流』について、その電流の意味は誘電体内の電荷移動で解釈されるようだ。真空内には電荷を定義できる対象物はない筈だ。その時も変位するのは電荷(電子質量の付帯概念電荷と言うようだ)だけではなかろうから電子の質量も伴う筈だ。質量は時間微分するのに不要だから電荷だけで良いのだが、質量を伴うとなると真空内のその存在を納得できない。その質量不要は電線内でも同じことだ。電子の質量は邪魔だ。話を遠隔作用の論に戻す。アンペアの法則は瞬時性で光速度を超えた概念と認識する。それは電気力線の描像でも同じ事であろう。一本の電気力線も空間的に光速度を超える意味だ。その横波電気量(電束、磁束)の描像の発生の起点から終点の時間的関係は、瞬時に広がった閉ループとして描かないと電磁波の縦方向への光速度伝播を説明できない。横に広がる瞬時の描像は論理に矛盾する。光速度を超える瞬時現象は認められない。

磁界・磁束の意味は? 磁界とか磁束と言う用語は今はある程度電気に関心がある人はみんな馴染みの有る言葉だ。精々200年ほど前に、電磁誘導と言う電気現象の存在が分かって、電気技術の根幹を支える概念となるまで歴史を重ね、現在の常識の電気用語となった。人間は偉いと思う。その概念を自然現象の中から有用な科学技術の基礎知識にまで高めて来たのだから。しかし、自然世界にはそんなものはないのである。人間が造り出した技術用語であり、概念である。人間が偉いというのは、たった一つのエネルギーを利用するための解釈法として、実に巧妙に利用し易く、考えやすく分析して、科学技術として育て上げて来たという意味での偉さである。その分析思考能力においては、西洋文明の特徴として称えるべき事であろう。そこには東洋哲学的方向性とは異なる思考形式があると観たい。磁界・磁気概念の本質にエネルギーとの関係の意味を示した。

磁束と電圧の関係。 初めにファラディの法則の電圧時間積分の関係で、磁束を理解するべきだと触れた。電流で磁束が出来るというのも感覚的には違和感を持つが、電圧を掛けてその時間との積分で磁束が出来るというのもやはり同じく違和感を持つ。電圧もエネルギーの一面的評価量である事を知れば、その時間積分が磁束量と言う評価量になるとの解釈は納得できる。同じエネルギーに対する科学技術量としての観方であるから。コイルの中の近傍空間にエネルギーが局所的に蓄積されるのであるから。

電流も電圧もエネルギー空間分布に照らして。 自然世界の包容力は何とその不思議の世界観を楽しませてくれるありがたさに在るとも思う。自然界の真理はこれほど基本が単純であるのかと驚嘆する到達点に在るのかもしれない。新世界ー科学の要ーで、科学技術概念の根源を問う『静電界は磁界を伴う』の意味を解いて、偶然の思い付きからその延長としての天晴れ(コイルと電圧とエネルギー)に到達した。

結び。 アンペアの法則の意味を少し分析的に解剖して、考えを述べた。自然世界の単純性と人間の思考の複雑性の対比として、科学技術概念の意味を電流とその法則を例に考えた。未来の科学技術教育の重要性と共に、理科教育の課題も示したかった。

(研究の余禄)。 『電流は流れず』の持つ意義はとても大きい。太陽光発電設備で、送電線が盗難にあった。電圧が低いから、高電流密度での計算から特に電線断面積は太く要求される。高価な電気銅はその設備管理にも影響が大きかろう。電流は、その本質が電線内などに流れているものでない事を理解すれば、電線は太さだけで中空電線で十分なのだ。その経済効果は技術革新に大きく貢献する筈だ。この特許権者は?

(*)電気の技術史 山崎俊雄、木本忠昭 共著(オーム社) p.31

回路とエネルギー流ー電流解剖論ー

毎日が人権侵害国家・日本。自然科学は数式で表現できる内容は極めて限られた範囲にしかならない。己の心に照らし合わせて、自分が納得できる核心に迫るだけかも知れない。回路とエネルギー流長く追い求めてきた一つの結論を表明する。電流は流れずと言い切って来た。電気回路はエネルギーを供給する機能設備である。(2017/12/16)追記。図のエネルギー流(緑色の流れ)で電源の正極に流れ込む必要はないと考え直す。2015年の変圧器の奇想天外診断での実験で、天晴れ(コイルと電圧とエネルギー)にまとめた線路間のエネルギー分布がその根拠である。以下の記事は、その電源への流入を除けば、的を得た回路のエネルギー流の解釈である。また電流計のコイル内のエネルギー貯蔵量が負荷のエネルギー消費量を直接示す意味は巧く出来ている事だ。以上追記。どのようにエネルギーが負荷に供給されるかは、物理学の究明すべき核心になる。単純な直流回路で、負荷にエネルギーが供給される基本認識を示したい。回路に流れるエネルギー及び貯蔵されるエネルギーを緑色で表現した。その流れる方向と分布を自分の心に共鳴する姿で表現した。回路配線の負側から負荷を通して電源のプラス側に流れ込むと解釈した。負荷抵抗にはそのエネルギー回流の有る分が抵抗表面からエネルギー密度流S[Js^-1^m^-2^]が内部に吸収され、エネルギー貯蔵される。その量が状況に釣り合う時点でエネルギー平衡になり、熱・光の放射量と吸収量が釣り合う。コイルのインダクタンスLにはいはゆる磁気エネルギーとして貯蔵される。
電流概念 電流と言う物理量は無い。電流と言う科学技術量はある。電流計で計測する量は誠に巧い科学技術量である。直接エネルギー流を測ることは出来ないから、電圧計と電流計とにより巧くエネルギー消費量の時間微分値を計算する方法を考えたのである。電流と電圧の正体にその計測するものの意味を記した。技術の持つ深い意味をくみ取らなければならない。しかし同時に、自然科学理論としてそれらの技術量を認識するには、あくまでも「物理量」ではない事を理解しなければならない。

エネルギーの回路主循環流量と負荷吸収消費量ー仮説ー (2018/12/05)追記。この記事を書いた2013年にはまだ十分電線路内のエネルギー流に付いて確信には至っていなかった。だから電源を通して循環するエネルギー分が有るかと迷っていた。その迷いで「主循環流量」等の意味で解釈したのであり、それは間違っていたと今は理解している。だから以下の記事は無意味であったと後悔している。以上追記。回路の電気的規模は感覚的にも、電圧が大きく規模を決めるようである。回路に流れるエネルギーの流量には、回路の電気的規模に基づく主循環流量と負荷が要求する消費量の二つがあると捉えた。これを計測する事は出来ないと思う。あくまでも自分の感覚的共鳴点としての認識である。電圧規模と回路特性により、回路主循環量が決まる。負荷の状況により電流計で計測する流量が負荷吸収量を示すように見える。その状況を図の回路の中央に循環流で示した。エネルギーの循環流速度は光速度に対してどの程度の値かは認識できない。しかし光速度に近いだろうから、主循環流量のエネルギー流量が小さくても、大きな負荷電力を供給する事は容易である。何故なら、エネルギー流量が小さくても、光速度での循環流は連続で、1秒間の負荷への積算エネルギー供給量は大きくなる。その具体的な計算例を、生活電気と『光速度』に示した。

力学から見た電流矛盾

いつまでも同じような事を繰り返して情けなくも思う。また電流かと言われそうだ。しかし、『電流』は物理学理論の根幹をなす概念であり、200年以上の科学理論をひも解く鍵となって来た論拠でもある。自然科学は理論武装されて、その基礎岩盤は盤石と解釈されていよう。その基礎が論理的に『嘘』であったとしたら、自然科学論の権威も地に落ちてしまう。専門性とは?、人間の思考性とは?等と疑問が溢れかえってしまう。それ程の意味を『電流』が抱えているとすれば、徹底的に究明しなければならない。電流とは何か?それを負電荷の『電子』の逆流で解釈して良いものか?などを電気回路から考えてみたい。電流の力学矛盾

考える電気回路は単純な直流の電熱負荷回路とする。同様の回路で、2005年日本物理学会第60回年次大会にて、「誤った電流概念」の標題で発表した。余りにも私が論じる理屈が常識からかけ離れ過ぎているため、理解されなかったと思う。発表時に、指摘されたこと覚えている。導線の中に『電界』は無い筈だと言う発言に対して、導体の中にも電界はありますよ、と言われた。やはり納得して頂けなかった。そこで、もう一度その導線内の電界の意味を考えてみよう。街の電気の専門的学習書を見れば、電子がどのように流れるかと解説されている。導線の中を切り開いて電子が流れている様子を見る事が出来ないから悩ましい問題である。ここでは数式を使わず、電気磁気学の内容を説明したいが、せめて電子の運動方程式だけは使いたい。実は、この記事を書くための下準備に、電子科学論の無責任自然と科学の間にで電子の運動方程式を取り上げた。電子が動くには、その保有する電荷に対して、電界が存在しなければならない。電子電荷は負であるから、プラスの電荷の方向に電気力で引かれるクーロン力の原理で解釈される。電界が無いと『電子』は動けない。だから、導線内にも電界があることになるのが常識からの帰結である。しかし金属内には電界など存在できないと考えるのも私のような電気技術屋からみれば、それも常識だと思う。量子力学や、超伝導等の理論からは、導線内にも電界が存在して当たり前という常識が解釈の基になるのであろう。それらの異なる専門家間の常識論が必ずしも同じではないのが、これまた常識と思う。その場合の論理を取り上げるには、単純で、誰もが汲みとめられるものが良かろう。

さて、導線とヒーター負荷の中を電子が移動するとすれば、その流れる電子数は同一でなければならないだろう。導線の中の通過電子密度も負荷の電子通過密度も同じはずだ。その移動の原動力は力学的な運動方程式を満足すると解釈しなければならないのであろう。そこで、導線内の電界を生じる原因を探してみよう。電子運動の思考回路

思考模擬回路 右のような模擬回路で、電流即ち電子流の意味を考えてみよう。電源100Vをダイオード4個で整流すると、コンデンサで電圧の平滑化をすれば、ほぼ140ボルトのほぼ一定の直流が得られる(使用ダイオードの耐圧電圧300ボルトは欲しい)。導線は無酸素銅でも贅沢に使う。ヒーターはカーボンを想定した。抵抗値Rは固有抵抗ρとして、R=ρl/A (断面積A、長さl)である。その辺を模擬図にどう整合させるかは難しい。そこは御勘弁いただきたい。

電界の発生源 電界の発生はどのような理屈で認識するか?金属導体の銅Cu内でまず考えてみよう。技術屋は金属導体はすべて同一電位に在り、金属内には電界は存在しないと感覚的に捉える。どうも高度な数学的論理で捉える理論家は金属内に電界が存在すると考えるらしい。電気理論の教科書的解釈によれば、電界は『電荷』のプラスとマイナスの存在によって初めて理論付されるとなる。クーロンの法則が大切であるとして、電気の教育の入り口で教えられる。そんな大事な『電荷』が教育されるなら、導体Cu内の電界の説明もする義務があろう。電界が無いと電子は身動きできないのである。Cu内にどんな電荷分布を想像すれば良いのだろうか。子供たちを指導する教育関係者は未来に向かってどうするのだろう。電子の流れ?

電子eの流れ? 直流回路の電流はどこの回路の部分をとっても、一定値の流れと言うことになっている。今図のようなダイオードがONしているとする。その時流れる電子は図のような流れ方で捉える。電流Iは、I=dQ/dt[C/s]のような回路金属内の電荷分布の時間的変化率で定義される筈だ。

電子の加速度αの意味? 例え電界があるとしたら、電子は電界によって加速度運動に入る。電気回路内でどんな加速度運動をするのだろうか。電流一定値との電子運動の論理的整合性は?

何が間違っているか? 『電荷』の存在を信じた事が嘘の始まりである。

電流と電圧の正体

(2017/09/13)追記。2013年頃から電気回路の電流や電圧の意味と計測を考え始めたようだ。2015年に変圧器の奇想天外診断に始まり、電気の眞相(3)-電圧と負荷-コンデンサ型配線のエネルギー伝送等の記事で、ようやく電圧と空間エネルギーの関係が分かった。

今日は、自分の記念日である。『電流』『電圧』の正体を明らかに出来た。しかし肝心の自分の正体は不明である。電流計・電圧計訂正(2013/09/08)訂正追記。また間違いで済みません。上図の電流計内のエネルギーWiの表記に間違いが有りました。(訂正)Wi=(P/R)Li/(1+r’/ri)^2でした。 先ずは直流回路で考える。電源電圧V[V]に負荷電力P[W]、その抵抗値R[Ω]の負荷をつないだ。回路の『電流』は電流計で計る。『電圧』は電圧計で計る。その電流計と電圧計を回路に接続した。電流計も電圧形も共に「可動コイル型」であるとする。どちらもその内部構造は同じである。マグネットの中に、可動コイルを吊り下げて、そのコイル内の磁気エネルギーの量を計測するのである。コイルの磁気エネルギー量で、マグネットとの間の磁気力により、回転角が変化する。その角度の大きさをそれぞれの電気量として読み取るのである。だから計測原理は電流計も電圧形も同じ仕組みである。回路内部で異なる物は内部抵抗値とその接続の形だけである。 電流計は回路電流値が大きいので、コイルに流せないから、分流抵抗ri[Ω]に大部分の電流を流す方法がとられる。僅かなコイル抵抗r'[Ω]も考慮する。 電圧計は直列に大きな抵抗rv[Ω]をつなぎ、回路電流に影響を与えないような、僅かなコイル電流を流して、電圧値の測定をする。 上の図のWv[J]、Wi[J]はそれぞれ電圧計と電流計のコイル内の磁気エネルギーを表す。普通磁気エネルギーは(1/2)Li^2^[J]と計算される。しかし計器の場合は、コイルの磁気エネルギーでは係数の(1/2)はなくて良い。そのコイルのエネルギーWは結局負荷の電力と抵抗値で決まるのである。電流計も電圧形も共にそのコイルの貯蔵エネルギー量Wは負荷の値で決まることを示している。 電力P=V^2^/R=I^2^R[W]である。 電流値Iは I=(Wi/Li)^(1/2)^(1+(r’/ri)) [A] として、Wiと回路の定数値から算定している事になる。Wiは負荷の定数と計器内の定数から算定している訳だから、負荷のエネルギー消費量から、『電流』と言う概念の数値を算定しているのである。電線の中を流れる物など何もないのである。電流単位[A]は[(J/H)^(1/2)^]である。 電圧値Vは V=(Wv/Lv)^(1/2)^rv[V]として、電流と同じく、Wvと回路定数から算定しているのである。電圧単位[V]は[(J/F)^(1/2)^]である。 もう少し電圧計の計る値Vの意味を考えてみる。電圧計の意味? 電圧は余り負荷の状態に関係しないように直感的には思うかも知れない。冒頭の図は電源電圧そのものを測るだけであると解釈したい図だ。そこで、少し電源側にも電源インピーダンスがある場合で考えた方が良いかと思った。それが上の図である。電圧計の厳密な意味では、電流計の負荷(r_A_I^2^)も考慮するべきかもしれない。そんなことまで考えると相当難しくなりそうだ。負荷Loadにも誘導性のエネルギー貯蔵Wもある。しかし、直流電圧一定の場合では、電圧測定には無関係である。 電流計は何を計るか を投稿したのは2010年11月であった。結局負荷の電力を電流計という電気回路の組み合わせの中に検出する方法を技術として確立した。『電流』という実際は電線の中に流れてもいない、物理概念を技術で作り上げたのである。 (2013/09/08)追記。 無負荷時の電圧はどのように解釈するか?本論の電圧の計測値は無負荷時には意味を成さなくなる。無負荷とは、負荷電力P=0であり、負荷抵抗値R=∞と解釈できる。従って、電圧値Vは√(∞×0) と成り、本論での電圧の評価は不定と解釈すべきかと思う。確かに、電圧値は無負荷でも計測量には間違いない値が得られる。しかし、電圧と言う物理的概念を考えれば、電流との組み合わせで、はじめて意味を成すものと言う見方もできると思う。その事にはまだ不明確な点もあるようだ。 追記(2014/09/22) 付け加えて考えた事。電圧計が計るもの。(2014/10/29)追記。電圧の意味を考えた古い記事がある。電圧計の構造と電池電圧の不可解さを書いた。電圧ー物理学解剖論ー

『オームの法則』-物理学解剖論ー

電気回路を学ぶ時の最初に学習する法則が『オームの法則』であろう。今まで様々な観点から、電気磁気学を論じて来た。ここで、最も基本の法則について考えて見ようと思う。ただ、『オームの法則』の教科書的解説をするつもりはない。大学受験や、電気回路の教室授業の参考には成らないであろうことをお断りしておく。簡単な基本ほどその奥に隠れた意味は深い事を伝えたいのである。出来たら大学の電気磁気学を教えている方々にも見て頂いて、批判をして欲しいのである。

最初に先ず『オームの法則』とはどんな事かを述べたい。オームの法則実際に、どれ程の解釈で論じられるかは、自分の能力の無さから先行き不透明なままである。①のファイルの意味で、抵抗に係る電圧と電流の関係が瞬時値で成り立つと考えている。その関係は、直流回路も交流回路も成り立つ。例えば、抵抗にコイルが繋がれている回路を採り上げよう。

 

直流・交流とオームの法則

 

直流回路で、電源電圧Eが少しでも変化すれば、電流が変動するから、コイルの電圧elも0ではなくなる。しかし抵抗の電圧erはどんなに電流 i が変動しても、抵抗の電圧は電流の瞬時値に対して、er=R×i が常に成立する。交流回路の場合も、抵抗の電圧値er は電流瞬時値 i のR倍になる。抵抗の回路要素としての意味は電圧と電流に対して、極めて単純な式が成り立つ事を示している。コイルなどの場合は、インダクタンスLがエネルギーの処理に時間的遅れを伴う為、実に面倒な式の取り扱いの計算が必要になる。(一言お断りしておかなければならない事がある。電流、電圧の概念を明確に出来ずに使用している点である。電流は流れずと論じている事に対する責任を感じて。)(2019/05/12)追記。当時は未だ、電線路内空間の電気エネルギーの分布について今ほど明確ではなかった。技術概念『電流』とその測定などのようにエネルギー流として解釈できるようになった。

瞬時値と言う事に関して、一般的な電気回路でのオームの法則をもう一つ挙げておこう。

回路とオームの法則どんな回路でも、抵抗に流れる電流が決まれば、a のようにその電圧は必ず電流に比例する。もう一つb のように、電力pも電流瞬時値で決まることになる。しかし、この電力pに関しては、エネルギーの時間的消費率ワット[W]で、電流概念(i=dq/dt[C/s] の電荷qの時間tに対する変化率の意味において)とエネルギー量との関係から、自分は理解できていない面がある。何が光に

 

 

 

 

 

 

何が光に 抵抗の意味を考える時、身近な電気器具の電灯が目に入る。エジソンが発明した白熱電球である。最近は「LED」にとって代わられそうで、さびしい思いもする。蒸気機関車の力強さ、竿秤のてこの原理あるいはLPレコード、真空管ラジオなど見て分かる科学技術が懐かしい。携帯電話、IT情報網などの最先端技術は感覚的理解との不協和の世界に彷徨うような思いだ。日常の科学技術が学校教育で教えるべき目標の筈だ。科学技術と人間の感覚との乖離が学校教育の目的・目標をも失う時代になっている。こんな時代に、白熱電球を取り上げる意味も無かろうと言われそうだ。しかし、白熱電球の物理的意味さえ、その本質を理解できていない事実を明らかにしたい。単純な科学技術だからこそ、そこに隠れた自然科学としての真理を説き明かせると思う。日本では「理科教育」と言うが、「科学教育」と言う用語の方が適切かもしれない。何が光になるか?こんな単純な質問なら、誰でもが簡単に答えられなければならないだろう。その答には、電気理論など必要ない筈だ。「理科教育」と言う範疇に縛られた教育の硬直化が、「科学リテラシー」と言う問題をも引き起こしていると観る。電気理論で解釈しようとすると、『電子』が抵抗体の中で「大暴れ」でもして、摩擦熱を発生するか、「量子力学理論」を引きずり出して解釈するかの「迷走論」に陥るのが関の山である。最近は薪を燃やす事も環境の問題で、制限される。迷惑は犯罪の気風にある。薪を燃やして、発光するのと、白熱電球の発光現象と大した違いがある訳ではない。停電時に蝋燭で明かりを灯す。どれも原理は同じである。さて、もう一度「何が光になるか」と考えてみよう。白熱電球の二重コイル

電球定格:100ボルト、40ワット。透明白熱電球(内面つや消し電球が一般的)は中のフィラメントの構造も良く見えて、技術の粋が理解できよう。このフィラメントの構造は二重コイルである。その二重巻は、自動二重巻製造の智慧の、その巧さに感心する。白熱電球の二重コイル(何故か消されたので載せ直す)。

何で二重巻の難しい製造技術のコイルにするか?それは効率を高める為の工夫であり、エネルギー局所空間の高温度化のためであり、そんな所に難しい理論など不要であろう。理論の為の『電子』など不要だ。技術革新で、単純な科学技術の製品が捨てられてしまうと、自然科学の本質をも見失う危険がある。難しい理論だけが取り残され、科学無関心の社会構造になるから。何が光になるか?この問いにどう答えるかが科学技術に対する市民社会の未来志向の道標を示すことになると思う。理科教育で果たすべき学校がその責務を果たせないのだ。教育の行政の問題であり、理科教育を担ってきた大学および教育関係者の問題である。光は、薪も、蝋燭も電気炉も同じく光を放つ事を共通に持っている原因は何かと考えれば、手の指を差し込めない『何か』が原因で放射されると思うでしょう。それを普通は『熱』という。『熱』とは何か?『熱』と『光』は同じものである。その共通に持っている原因はたった一つの『エネルギー』である。関連する用語に『温度』も有る。『温度』とは何か?と物理的意味を問えば、「理科教育」の気体分子運動論が幅を利かす。理科教育が自然科学の学校教育を踏みにじっているのだ。何が光になるか?は雷が水蒸気の熱エネルギーが原因である事と、その本質は同じものなのである(2013/04/20)に追記。御参考に 雷の正体

さて、この電球の抵抗値は幾らだろうか。テスターで計ると、20.3オーム位である。白熱電球点灯時過渡特性点灯スイッチを入れてから、大体0.1~0.2秒程度でほぼ定常値になると言う。点灯時の抵抗値は250オーム位の筈である。抵抗の変化する様子を式で表現してみた。そのグラフを示す。

適当に数式にしてみたので、正確ではない。でもうまい式と思う。0.8秒で式の上では定常状態になっている。ついでに電流の値も参考に示した。この電流値には全く物理的意味は無い。電源が交流100ボルト(50ヘルツ)であるから、電圧は0.02秒ごとに最大値140ボルト正弦波の1サイクルで変化をする。厳密には、二重コイルもエネルギーに対して幾らかのインダクタンス機能を持ち、電流値もR-L回路の過渡現象の繰り返しとなろう。ただどのように減少するかの様子を示した。

抵抗とは何か 白熱電球も点灯初期から、定常状態まで、変化する。フィラメントのタングステンも温度特性がある。高温度で、高い抵抗値になる。点灯時はR=(100^2^)/40=250Ωの抵抗値になる。何故こんなに抵抗値が変化するのか余り考えなかった。何故だろうか?まさか『電子』が熱いフィラメントの中では、通り抜けに苦労するからだなどとは考えないでしょう。高温と逆の現象に絶対温度零度付近で、超伝導現象が起きる。言わば導体の抵抗値ゼロの状態である。最近は非金属の有機材の超伝導現象が研究されている。関連記事で、超伝導とは何か?電気式木炭暖房の二つを挙げておく。木炭暖房は木炭の電子流などでは滑稽と思う記事である。ここで、改めて電流が導体の中を流れる『電子』の時間的変化率と言う概念に対して、どのようにその論理性を主張できるかの『問答』を提起しなければならない。超伝導現象の意味は正にそこの物理学理論の矛盾を問うのである。だから、抵抗とは何かと考えさせられる。

電気技術と抵抗専門的学習は、用語から解釈の仕方まで特殊な壁を乗り越えなければならない性格を持っていると思う。抵抗の単位Ω(オーム)も人の名から付いた単位である。電圧のボルトと電流のアンペアの比が何故オームになるかの意味も分からない。それは電気の基礎の基本だから、覚えなさいとなる。覚えて習熟する内に、それが当然の原理と認識が深く脳に染みつく。脳の論理回路が形成される。それが専門家の専門的能力となる。電気技術者はその集団の共通用語で、互いに共通の認識で、便利で有効な言語体系を構成できる。しかし、抵抗とは何かと改めて考えてみると、どう言う意味なのかと悩む自分がいる。

物理現象と抵抗この⑧のファイルの内容には馴染が無いであろう。自然科学では、その共通理解のために、基本的な事項を定義している。共通な取引単位でエネルギー量に対して、ジュール[J]、電力量キロワットアワー[kWh](これもエネルギー量のジュールと同じ意味。1[kWh]=1000[J/s]×3600[s]=3.6×10^6^[J] だから。)等がある。物理的単位系の基本定数に真空空間の透磁率μo=4π×10^-7^[H/m] が決められている。エネルギー量ジュールに対して、この定数に基づいてすべての単位系が構築されている。高度な科学論、宇宙論や素粒子論など空間と時間の関係を論じる領域で、殆どこの空間定数の論議が入り込まない論理を理解できない。『時空論』は正にこの定数の話になると思う。だから、基本の電気法則の『オームの法則』で抵抗と空間論の話題を取り上げようと思う。以後どのような事になるか自分にも分からない。参考に、エネルギー[J(ジュール)]とJHFM単位系をご覧ください。

空間と抵抗 ここで一つ空間の意味を電気現象から考えてみよう。空間はそこに無数の科学技術の扱う『電波』が溢れている。ドイツ人ハインリッヒ・ヘルツが19世紀末に空間を電気信号が伝わることを実験的に実証した。そこから電気通信が進展して、現在の情報化社会に成っている。伝播伝播と空間特性伝送線路導体も無い空間が電気信号を送れる意味は大変な事なのである。携帯端末もアンテナから電波を放っているのだ。その空間は電気信号を送るに、特性インピーダンスという抵抗値を持っていると考えられている。その抵抗値はほぼ337オームである。その値は丁度、光の光速度cに真空透磁率μo倍で、120πオームとなる。光速度もc=(μoεo)^-1/2^と、空間定数から決まるものである。この空間での電波伝播に於いて、抵抗[Ω]でありながら、損失は殆どない。だから抵抗オームとは何かと考える必要があろう。それがファイル⑧で示した次元を理解しなければならない事なのである。抵抗は電気ロスを生むと考えがちであるが、エネルギーの変換器と観る解釈がよりその物理的認識には重要である。

(2013/5/18追記) 電流と電圧の正体でオームの法則に関連記事を書いた。負荷抵抗をR[Ω](=[(H/F)^1/2^])、負荷電力をP[W]とすれば、電流はI=√(P/R) [(J/H)^1/2^]、電圧はV=√(PR)[(J/F)^1/2^]の電力と抵抗との関係である事を示している。

電磁エネルギーの発生・伝播・反射および吸収に関する考察

前のブログが「空間瞬時ベクトル解析法云々」で電力系統解析に関する少なくとも自分の専門性に関わる内容であった。それは当時の『中曽根臨時教育審議会』に絡んだ教育界の事件の一端を含んでもいた。しかし2年近い『電気磁気学』の授業担当で、その本質的矛盾を感じ取り、すでに研究意識は「物理学理論と光速度」に集中していた。昭和61年8月の電力研究会での発表と同時に、研究の方向は物理学理論に向かっていた。世間知らずの愚かな自分が今は情けない。8月の中旬、松の山温泉に義理の母を伴い3人で一泊旅行をした。そこでリポート用紙で、「無限長導体電流の空間描像」を計算した。9月に成って、高専の雰囲気が陰鬱に急変し、同時に「殺害される危険な兆候」を感じ取った。後半年はただ生命を守る対策を整え、『静電界は磁界を伴う』の実験に取り掛かる。高専から逃げれば何とかなるかと考えたところが幼稚である。

(2017/05/08)追記。今以ってこの時期のこと、大学事件と言える事態に、どう対処すれば良かったかも分からない。2年間長岡工業高等専門学校に行って元の所に帰るという約束であったので、ただその通りに約束を果たした。高専で助教授であったが、助手で戻ると言う約束であった。世間の常識では許されない事だったとは知らなかった。新潟県から『割愛』という異動が助手であったから、高専からやはり『割愛』人事であったらしいので助手でもやむを得ないと思った。しかも大学での所属が研究分野で分けられている等という事さえ認識が無かった。研究分野が電磁界理論であれば、電力分野に所属できない事ぐらい常識であると今は分かるが、当時は全く考えもしなかった。当時どうも自分の関係したことで、世間が騒いでいるらしいとは分かったが、誰に聞く訳にも行かず、その意味が理解できず精神的にも混乱の中に居た。初めて電気学会の電磁界理論研究会での発表に臨んだ。千葉県の国民宿舎『館山』での発表であった。なお、宿舎の部屋は金沢大学の満保教授と同室の筈であったが、顔を合わせずに過ぎたてしまった。発表当日、会場入り口で話しかけられて誰も初めての人ばかりであったから、名刺(助手の肩書)を渡したらびっくりした様子であったので、こちらが意味が分からず驚いてしまった。多分九州大学の電磁核融合の研究をなさっておられた青木教授であったかと記憶している。8月はじめに、資料論文を書きながら電流棄却を決めてまとめた内容であれば、電力分野に所属しながらできる訳が無かったと恥ずかしい。発表内容も『静電界は磁界を伴う』の実験内容への期待(?)に添えずであったと思う。関口教授(後で、質問される等特別なことだと、何方かに言われた)に質問された。帰りは東海岸沿いに灯台に登ったりしながらの帰途を辿った。その間中、前後ろにネズミやカラスに付き纏われながらの旅路であった。誠に無知故とはいえ長岡科学技術科学大学で電磁界理論の研究をすることは無理だったのだろう。なおもう一つ気掛かりがある。館山の宿舎で、広間での夕食時に、突然呼び出し放送が掛った。用件は家からの電話であった。内容に驚いたが、新潟県の騙し討ちのような話。役人が突然家を訪れての頼みごとであった。留守を知って居てのことだろう。県道の用地確保のための土地の売却契約要請の話であった事後で知る。その内容も良く電話では分からず、特別のことでは無かろうと了解したが、後で県道用地だったのかと分かった。社会常識と合わない己一人の採りようのない世渡りの恥の道であった。昭和63年秋にはとても精神的に耐えられる状況ではなく逃げざるを得なかった。電気磁気学の物理的意味を理解するに今日までの長い道のりを必要としたと思い、己の無知を恥じる。

ここに書いた論文内容は、現在までに日本物理学会での発表会で論じて来た内容と比べて、当時から余り進歩していないと思う。ただ、「光量子の空間描像」および「マグネットのエネルギー流」で進歩したかと。

下の研究資料は何も知らない、世間知らずで大学の組織体制にも無頓着な愚かな自分を曝していた時のものである。この論説を研究会で発表した訳は、内容について多分物議をかもしたと思うが、『静電界は磁界を伴う』と言う意味が当然理解される筈が無いと考えたことが理由である。その理論的根拠を示した。実験データは持っていたが、翌年に回せればと先ずは理論で論拠を示した。それがこの資料の意味である。