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禪に導かれて

 1985年7月1日付辞令

(松永 光 文部大臣):長岡工業高等専門学校助教授は直ちにその日に履歴書で『以下余白』と消えた。高橋校長名で!本人が知らずに何十年も過ぎて気付く人事問題は、法治行政(憲法上)としてどの様な論拠が在るのか、その訳が不可解❓1979年7月の文部省主催の『工業教員指導者講習会』への、公立学校共済組合非加入者のアルバイト教員の参加の有意性の意味と合わせて考えれば、ますます不可解だ❓1980年3月31日と1980年4月1日の職歴はどう理解すれば良いか?

 禪と科学 (2011/06/20) の冒頭に載せた達磨図だ。『空』は世界のすべてがそこから始まる。そんな思いを表現した。

家の宗派が『曹洞宗』の関係もあってか、禪を身近に感じていた。然し、その説く思想は理解しかねる不可思議な魅力を秘めていた。その事は禅と日本文化 を読みながら考えた (2013/09/08)-Zen Buddhism and its Influence on Japanese Culture. (1938) の訳本-にも述べた。

今日再びその本を開いて、偉大な 鈴木 大拙禅師の思想に触れたくなった。第一章 禅の予備知識 だけでも理解困難である。2013年頃より、今は少し、電気回路現象で自然の深い姿に触れられたかと思う心境にある。その道標は、長く禪の御蔭に負っているように感じる。基本的に、禪は生きる上での、異変、緊急事態にその真価が現れるように思う。異変に気付いた最初が、昭和61年春4月、ずっと後から気付けば、そこに歌があった。『愛燦燦』、『暴れ太鼓』、「みだれ髪」そして「川の流れの様に」と。まさか舞鶴鎮守府が待っていたとは知らなかった。

ここには七つの文章にまとめられている。

『精神』と言う言葉がある。その意味はこの禅的思想の中でどのような具体的な事を指すのか。

と自問してから考えた。『精神』の対極語は何か。何時も使う言葉でありながら、その意味を即座に述べられない事に戸惑った。対極語は「物」として見えるものになるかと思う。そこで初めて『精神』が目には見えない事に気付いた。言い換えれば「心」とも言うかもしれない。「心」も見えないから。『精神』とは何かは、これぞ禅の問答かも知れない。人は見えるものに意識が向く。科学理論も、物理学理論もその科学的検証が求められる。それは見えるもので無いと検証できない事であるとも気付かされる。だから科学と禪は両極に対する事に成りそうだ。

科学は⦅見えるもの⦆が対象で、禅は⦅見えないもの⦆が対象となる。と言い切っても良さそうだ。

⦅見えないもの⦆の代表が『精神』だ。その『精神』が司る対象、その結果に起こる事象、それも目に見えない『エネルギー』だ。意識、心も『エネルギー』の及ぼし合う現象世界と言えるようだ。

ニューロン。情報伝達信号も『エネルギー』が担う。決して物では困難だ。『精神』と言う言葉の意味を今までほとんど考えてこなかった。会話も、人同士の間の、その精神活動なのだ。そこには何も⦅見えるもの⦆など無い。それは人や生物が生きるに、基礎代謝と言う『エネルギー』を消費して体温を賄う生体の物理現象と同じく、基本的には見えない『エネルギー』に因って司られている自然現象の真理なのだ。過去に素人ながら、この生理的意味を考えた事があった。ここで少し振り返ってみよう。

脳の機能と個性 (2014/11/02)に

載せたのが右図だ。当時は無意識であったが、今思えば、『エネルギー』と言う目に見えない自然界を支配している空間に実在する物理量を意識して描いたものと分かった。

その他、脳の生体制御の謎 (2014/03/21) や悟りとは?₋色即是空の世界観‐ (2014/o3/25) (とても僭越な物言いでお恥かしい内容だ)。最初が、『基礎科学』とは何だろう (2010/11/02) であった。これらはみんな、素人の感覚的解釈論と言われても良いものだ。何も科学論と言うべき、所謂科学的データによる裏付けが何も無いから。電気回路と同様、生体情報伝達機能を担うものは電流でもなければ、『電子』でもない。それは『エネルギー』の波形とその光速度伝達現象である。『物質』では高速度反応に応えられず、生体の総合的制御機能を統合できないと考える。生体の『エネルギー』に負う意味を考えるべきだ。物理学は「物」の理学だから、「物」でない『エネルギー』の科学論には成れないのかも知れない。精神・心が物で測れない訳だから。

考えてみれば、電気回路現象の『エネルギー』伝播の解釈も基本的には、殆ど実験データによる裏付けが有った訳でもない。ただ、直覚的な思いを元に世間の常識を無視して、勝手な解釈を展開していると見做されるかも知れない。しかし、どう考えても自然界に『電荷』など有り様がない。そこだけは科学の常識が間違っている。常識で「在る」と言う『電子』などを「無い」と言う論拠を示すことが如何に困難かを知った。『静電界は磁界を伴う』の実験的データを発表してから。科学理論と不立文字の関り論だったかもしれない。

質量とエネルギー

質量とエネルギーの関係  E = mc²  [J]

が質量とエネルギーの相互変換を捉える原則である。アインシュタインが唱えた。

この式で、質量 m とエネルギーの等価性を定義していると理解する。しかし、その式の厳密な導出については理解していない。

自然の表現形式 自然世界は質量とエネルギーによって自己表現をする。

質量とエネルギーの関係を詩に表現した。下手な筆字で心苦しいが、思いを表現した。

言葉とその意味(日本国憲法に観る)

日本国憲法前文。

日本国民は・・・。・・ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

とその前文に在る。とても崇高な現代精神がうたわれている。

戦後75年を振り返り、今ある大切な日本を思う時。日々思い感じる事どもに、何か深い悲しみを覚える。この日本国憲法は、昭和22(1947)年5月3日に発布され、新しい民主主義の国として出発したことを祝い、憲法発布記念日として、その5月3日が祝日に指定されている。2000年代に行政改革の名のもとに、行政を監視する「行政管理庁」も現在の総務省内にお隠れになった。政府提出の法律が憲法違反でないかを監視する役割は内閣法制局ではないのか。憲法前文の精神はどのように法律に反映されるのか。

戦後多くの苦しみと屈辱を受けてきた法制度がある。優生保護法による人権侵害が何処に憲法精神の意味を具現していると言えるのか。法律は憲法精神によって、それに反することは許されない筈だ。時効が20年とは、憲法前文に反した違法の法律に正当な意味が有るのか。この度の最高裁の判決(泉佐野市の故郷納税訴訟問題)では、誠にその通りと理解できた。

最高法規という意味が理解できないのだ。

第10章 最高法規 第98条 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部または一部は、その効力を有しない。 ② 日本国が締結した条約・・。

人権保障の日本国憲法の精神は日本にはないのか。最高法規という意味に理解が出来ない。

裁判官には、憲法の精神を肝に銘じて裁判を行う権威と義務が課せられていると思う。

第3章 国民の権利及び義務

第10条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。と言う法律とは何か?

この国民たる要件はどの様な法律で定めるのか。具体的に誰でも分かり易い事が求められる。

その亡霊の如き「法例(明治31年)」が憲法を支配しているようだ。昭和39(1964)年改正(池田勇人内閣)。昭和61(1986)年改正(中曽根康弘内閣)。平成元(1989)年改正(竹下登内閣)。これらの改正の意味は何か。

法例第3条[行為能力] 人ノ能力ㇵ其本国法二依リテ之ヲ定ム②外国人カ日本二於テ法律行為ヲ為シタル場合二・・・。

この「人ノ能力」とは日本国憲法の基本的人権を明治時代の「法例」が規定する異常な日本の法律体系に思える。

聞こえてくるのだ。昔の声が。「アジャパー」とか「無茶苦茶で御座りまする」などと仕組みを嘆く声が。

日本国憲法は日本の手本 (2015/06/03)  、日本語に愛を―憲法と日本人― (2015/07/31) 。

燃料はエネルギーに非ず

科学者に『エネルギー』の定義を問う。
『エネルギー』を検索すると、化石燃料や原子力発電所あるいは再生エネルギーなど様々な内容が挙がる。
『エネルギー』の定義を述べてください。
何故燃料がエネルギーなのか?石油も石炭も決して『エネルギー』ではない。それは『エネルギー』を作り出す原料でしかない。

(2020/01/08)追記。『エネルギー』とは物理的に単位はジュール[J]であろう。燃料の単位はキログラム[kg]や体積ガロン[gal]で計量するものであれば、それは『エネルギー』ではない筈だ。あくまでも『エネルギー』を生み出す化石燃料である。ウラン鉱石も同じである。化石燃料を消費して、熱エネルギーを発生させ、その熱エネルギー量で過熱水蒸気の保有エネルギー量に変換して、次に発電機の回転動力源として蒸気タービンの回転エネルギーに変換する。その蒸気タービンで断熱膨張をして仕事をした残りの水蒸気はまだとても多くの熱エネルギーを保有したまま蒸気タービンから放出される。その蒸気タービンを効率よく回すには、タービン出口の水蒸気圧力を低気圧状態にする必要が有る。そのためタービン出口に水蒸気体積を急激に圧縮するための冷却装置が必要である。その冷却装置を『復水器』と呼ぶ。その『復水器』は海水を冷却材として水蒸気の熱エネルギーを吸収しなければならない。その冷却装置の『復水器』が吸収する熱エネルギー量がボイラーで燃料を燃焼して得た熱エネルギー量の半分以上となる。それは結局海を加熱するために無駄に放出しなければならない発電の熱エネルギーサイクルの宿命なのである。結局発電熱効率は40数%にしかならないのである。核ウランや重油、石炭を燃焼して得た熱エネルギー量ジュール[J]の40数%しか有効に利用できないのである。燃焼熱エネルギー量の50%以上は海の加熱エネルギー量となっているのである。水蒸気の熱サイクルの技術的発電機能は電力エネルギーを消費する我々が知っていなければならない基本知識なのである。水蒸気機関による発電システムの宿命なのである。燃料の保有する熱エネルギー量の40数%しか有効な電力エネルギーを作れないことが科学リテラシーとしての現代社会に生きる人の基本的認識に無ければならないことである。地球温暖化に果たす悪い基本的原因が海水温の上昇であることを知らなければ地球温暖化の論議ができない筈である。『エネルギー』の何たるかを知らなければならない。地球温暖化の原因が海を加熱する発電システムにあることを知らなければならない。『エネルギー』は物理的単位がジュール[J]の意味である。またよくエネルギー研究所などと使われているから、それも誤解の原因かもしれない。エネルギー源材料とか資源とかの意味に『エネルギー』と言う用語が使われているのは物理的『エネルギー』の意味が曖昧になっている原因かもしれない。そんなことでエネルギー像(物理学基礎論)も参考にしていただければ。更に追記。丁度発電所蒸気機関の『復水器』の働きは、気象の上空の寒気が地上の水蒸気の熱エネルギーを冷却して、水蒸気体積を減縮させ急激な地上低気圧を発生させ、竜巻や台風を起こす機構と同じ意味で解釈すればよかろう。

(2020/01/23)追記。地球温暖化原因が海水温度にあると考える。関連記事、地球温暖化と海水温 (2015/05/21) および、地球温暖化原因・CO2説は嘘だ (2014/07/29) 。

『エネルギー』の物理的概念がないから世界の認識が曖昧なのだ。
地球温暖化を論議するに、『エネルギー』の物理的定義が無くて、そこにどのような有意義な未来構想を構築することが可能だと言えるのか。
0.04%の二酸化炭素が何故この異常気象の温暖化の原因だなどと言っておられるのか?海水温度の上昇の地球規模の熱エネルギー量・ジュール量を計算してほしい。太陽熱が云々などという非科学的業界論に支配されてはいけない。

『エネルギー』の物理学的定義を明確にすることから始めてください。決して燃料は『エネルギー』ではありません。『エネルギー』の発生源材料でしかありません。

イオン化傾向とは?

はじめに

イオン化傾向と言う用語は高等学校の化学で学んだと思う。化学が不得意でなかなか理解できない。化学知識は今でも高校生のレベルが遥か遠くに思える状況だ。しかし電気回路と電磁気現象については特別に深く理解していると思う。『電荷』や『電子』が如何に曖昧な概念であるかを解説できるから。そこに当然のこととして、『イオン』と言う用語の概念が関係してくる。イオン化傾向という化学の用語の意味が理解できないことに悩む。原子の周りを周回する「電子」の存在が科学理論の根幹をなす常識であろう。それを否定すれば、科学の世界では所謂「話にならない門外漢」と無視される。それでもイオン化傾向の物理的意味を理解したい。

周期律表とイオン化傾向

周期律表の中にどのような配置で順番が決まっているかを描いてみた。赤い番号がイオン化傾向の順番だ。昔と少し違うのは、リチュウムはなかったと思う。カリウムの次がナトリュウムだったと記憶している。中に水H2Oと酸素Oも書き込ませていただいた。化学反応で水は重要な意味を持っていると考えるから。

水の電気分解

水の電気分解が何故可能かが理解できない。基礎の基礎が分からないので、水の電気分解について別に改めて考えたい。エネルギーと結合 (2018/10/10)。

電池とイオン化傾向

電池は化学物質の分解と結合の反応によって、エネルギーが生まれたり(発電)、加えられたり(充電)の機能製品である。そこにはアルカリ金属元素のイオン化傾向などでの『イオン』が重要な原理として関わってくる。『イオン』と『電子』は同等な役割を担って解釈されている。電解質内の移動などは『イオン』が主体である。それは『電荷』概念に依るクーロンの法則が支配する科学認識世界である。本当に科学者はそのクーロン則で、論理的科学理論が成り立つとお考えなのだろうか。電解質の場は真空の空間とは違う。化学物質の誘電特性などで『イオン』の移動力学方程式がどのように影響されるか等ほとんど論理的な考察もなく、伝統的な曖昧な論理で結論を付けているだけではないのか?原子構造が電子の周回軌道論で本当に成り立つと考えているのだろうか。『イオン』に如何なる力が働くというのか?決して自然界に存在しない『電荷』などで論理的な解釈ができる訳が無いのだ。そこに「イオン化傾向」という言葉で特徴付けられる厳然たる元素間の化学結合活性化力の差があることの意味が何に依るのかという、真の自然の原理を解き明かさなければならない課題が突き付けられている。それは少しも経済的利益を生むとは限らない本当の「基礎科学研究」の筈である。それは科学者の教育に関わる社会的責任でもあろう。ナトリュウムNaとカルシュウムCaの間に生じる活性化力の違いは何が原因で生じるのだろうか。その差の発生する訳は何だろうか。それは原子物理学の課題かもしれない。周期律表に関係して、周期律表と抵抗率 (2016/06/09) 。

むすび

『電荷』あるいは『電子』がどのような物理的実体を定義しているかを、科学技術の広い分野に亘ってその論理性の確認をすべき時代にあると考える。全体に矛盾の無い統合された論理性を。次代を担う子供たちへの教育の責務として、あらゆる疑問に答えるべき基礎の確立が望まれる。

電流 1[A] の論理性 -考える理科教育への科学者の社会的責任‐

花1匁の心の重さ。有るような無いような重さを計ってどうする心算かと自分に問うても詮無い乍ら、やっぱり問わずにいられない。自分が納得できない。電流1[A]の社会的意味もそれに近いかも知れない。現実は実用単位としてMKSAの[A]が世界を繋いでいる。科学理論もその1[A] によってすべてが組み立てられている。糠に釘を打つ様なことはしたくないが。

電流 1[A] の意味。1秒間に1クーロンの電荷が通過する。電線を流れる電流1アンペアの意味はそのように理解してきた。今各種電線路(三相回路、単相回路及び同軸ケーブル)の特性インピーダンスの算定法の論理を考察している。教科書では「電荷」と「電流」によって算定される。しかしその論理はエネルギーとの関係で整合性が取れていなければならない筈だ。電界、磁界あるいは電荷、磁束が決まればそれはエネルギーの空間分布に換算できるはずだ。その課題が解決できない矛盾に困惑している。そこにどうしても電流と電荷の物理的概念の論理性が壁になる。

1[A]の電流の電線の電荷分布は如何にあるか? 1[A] の電流が流れている電線には 1[m] 当たり何[C] の電荷が分布しているか?その問いに答えられないからと言って、他の人に責任を擦り付ける訳ではないが、電荷の流れる速度が決まらないと答えようがないのだ。信号やエネルギーは光速度で伝播するのに、電荷はおっちら、こっちらと超低速では論理のギャップが大きすぎて決まりが付かない。科学の論理性からも世界の科学者の社会的責任として、子供達に分かる説明がなければならない筈だ。

1[A] の電流によるインダクタンス算定とその時の電荷による静電容量算定及びそのエネルギー分布とが、その論理性でうまく合致できればと願いながら。

既に、電流は電子の逆流か?ということを電子とエネルギーと質量に述べてあった。そこに載せた図で、電線路に電子が満ちて

電流は電子の逆流か?流れるとすれば電圧は、負の電荷だけで線路電圧となる理屈が見えない。電荷論での、電流が電子流だとの解説は電圧の発生源の正の電荷をどう説明するのか。前の記事を振り返って改めて追記した。

おまえはどこから生まれ

どこに向って行くのか

その行方も見えない

だが確実なこと

それは

おまえが世界を

創っているということ

目に見えない現実の中に

ずっとひそやかに

その世界を

支えて来たのだと

光によって世界を見る。しかしその光の本質を知っているだろうか。光の本質と言えば、その物理的空間像の意味で捉えたい。光は空間を光速度で伝播する物理的実体である。プランクの理論によって観測上の評価法が確立された。観測の基準は振動数である。振動数によってその光の物理的特性が評価できる。可視光線なら、その色によっても目で大まかな波長(振動数)は理解できる。それでも光は振動する実体を持ってはいない。しかもその光の一波長のエネルギー量は測れない。空間を光速度で伝播するエネルギーの縦波を計測することなど不可能であろうから。光の本質を知ることは電気磁気学の本質を知ることにつながる要でもある。電界や磁界の意味を知ることにつながる。『エネルギー』の意味を知ることにつながる。

 

 

エネルギーとは何か

科学論としては『エネルギー論』が核となっている。ようやくその意味の全体像が捉えられるような心境に在る。そこで、改めて『エネルギーとは何か』と検索してみた。とても有益なエネルギー論考に出会った。少し古い(2009年)が、とても論理的で、よく考えられた記事の小人さんの妄想(リンクを削除)である。(2021/04/24)追記。小人さんの妄想を読み返したら、少し数学的な標準の関係に論旨が流れていて、変ってしまった面がある。今まで、エネルギー(ENERUGY)とは? (2011/09/07) などをはじめとして電磁気現象の自然世界を『エネルギー』一つによって捉える論理的世界を捉えたかと思いたい心境に在る。それでも、『エネルギーとは何か』に答える助けになれればと論考を重ねる。(2019/06/15追記)また、EMANの物理学・力学・エネルギーとは何か(リンクを削除)と言う記事が有る。136万件の検索のトップに在る。この記事は所謂物理学教科書の解説に成っている標準的内容であろう。「エネルギーとは仕事をする能力」と言う定義に因って、「力×移動距離=仕事(エネルギー)」の解説に成っている。しかし、ここで考える内容はその解釈では通らないものに成っている。重力場(加速度g[m/s^2])での持ち上げる力も必ずしもf=mg[N] とは限らない。

小人さんの妄想の論考に応えたい。位置エネルギーを主題にして、重力加速度g[m/s^2]と力の関係を論じている。そこで論じられていることはその通りである。考える拠り所として、図に表した。m[kg]の質量が有る。基準からh[m]の高い位置に有れば、その物は位置エネルギー E=mgh[J] を保有していると解釈する。小人さんが論じていることは、物体を持ち上げる時重力 f1 と 持ち上げる力f2 の間に力が釣り合っていて、物体に掛る力は常にゼロではないか。それなら位置エネルギーは増加しないだろうと言うことの論理的矛盾を問うものと理解する。しかしそこのところは少し違うだろう。物 m[kg] に掛る力 f [N] はその物に生じる加速度によって捉えることが力学論の定義であろう。もし加速度  α[m/s^2^] で運動するなら、それが力の意味になる。その時は力 f [N] はゼロではない。だからと言って、小人さんが指摘した力の関係の問題に納得出来る訳ではなかろう。そこで更に問題となることが図の(※)の場合だろう。上昇速度が一定なら加速度はゼロである。従って、加速度ゼロなら力の定義からやはり力はゼロとなる。エレベーターを一定速度で上昇させた時、加速度ゼロだから力学論の定義によれば、エレベーターに掛る力はゼロとなる。力と距離の積で解釈するエネルギー即ち位置エネルギーはゼロと言うことになる。幾らなんでも、それは理屈に合わない。エレベーターを上昇させれば運転動力を使いエネルギーを消費する。エレベーターが高く上がれば、それだけエレベータは位置エネルギーを増加して保有することになる。少し付け加えて置くが、エレベーターの場合は平衡重りが掛けれれているので、重力あるいは位置エネルギー量には注意しなければならないことが有る。 それにしても加速度ゼロでの運転では、位置エネルギーの問題は小人さんの仰る通り、運動力学の理屈に合わないことは事実である。それを『力と位置エネルギーのパラドックス〈理屈と実際の間の矛盾〉問題』としておこう。

力と位置エネルギーのパラドックス問題。この問題の解釈の仕方について筆者の考え方を述べよう。地上から高くなれば、そこに在る物体は地上に落ちる時そのエネルギーを利用できることは間違いない。その物理現象は十分エネルギーの意味を説明するに役立ち、正しい。それが力学理論の『エネルギー』とは仕事をする能力として定義したことに対応した正にその意味でもある。しかし、重力に基づく位置エネルギーの増加の意味の力の概念は一般的力学理論による解釈に因る理屈で素直に受け入れられない矛盾が残る。(2019/12/31)追記。我々はただ地上に居るだけで重力加速度の支配下にある。加速度運動は勿論のこと、全く運動して居なくても「加速度」運動しているかの力を受けているとなる。一般の力学理論の「加速度」の意味とは全く異なる運動方程式の解釈を強要されているような感覚に陥る。偉大な権威付けされた物理学理論に従うべき科学論社会のパラハラを受けている様だ。運動していないのに何故加速度運動となるのか?地球の回転運動エネルギーの視点で解釈する必要が有るのではなかろうか。そこに位置エネルギーの意味も重なって明らかになって来るのだろう。地球上の座標で運動を論じるに、地球自身の運動エネルギーが関わらない訳が無かろう。

追加されるパラドックス。人が重い荷物をじっと持ち上げて居るとする。荷物を動かさないで、静止状態とする。それは仕事をしていることに成るのか?運動力学の問題になるか。力学が人の日常生活に結びついた、生きた学問となるにはどうしても『エネルギー』に視点を置いて納得できるものでなければならない筈だ。子供を負んぶしているだけで、人はエネルギーを消費し、仕事をしていることに成る。力と移動距離の積が零でもエネルギーのジュール[J]の消費に成る。この場合の力は、速度ゼロであるが、正しく重力に等しい値だ。エレベーターで、モーターに電源を繋いで回転停止の途中階で静止した状態の運転に等しかろう。モーターをロックしていないから重力に平衡した上向きの力で、運転エネルギーは消費している。法則は解釈の手法としては便利である。科学的な一律の解釈法が実際の世界の真理を示しているとは限らないことも有ると言う事を意識の片隅に認識しておくべきであろう。

結論と解答。 以上、小人さんの妄想の論考に応えたい で考えを述べた。しかし何も答えに成っていない。如何にも尤もらしい解釈をしたが、加速度と力の関係で間違いが有った。多分気付かれた方も多いと思う。何が間違っていたかの問題としてそのまま残しておく。図で再び訂正する。それは『加速度とは何か』の問題であった。重力場で、上昇力ベクトル fo  の加速度ベクトル αo [m/s^2] とする。今、質量m[kg]が地表面に対する加速度α [m/s^2] で上昇しているとする。その場の重力加速度 g [m/s^2] が高さに関係なく一定と仮定すれば、上昇力 fo [N] の加速度 αoα と更に重力加速度 g の合成加速度となる。静止した質量mを支えるだけで、重力加速度に対抗した力を掛けることに成る。その時位置エネルギーは増加しないが、力を掛けるだけでエネルギーは消費する可能性がある。mを荷台に乗せたとする、その時は荷台がエネルギーを消費するとは考えない。エレベータのモーターを機械的にロックしておけばエネルギーは消費しない。さて、速度が如何なる値でも、加速度α=0 ならfo=mg[N]で上昇するから、その力 fo と上昇距離との積の分だけ位置エネルギーは増加することに成る。従って、位置エネルギーは E= mgh [J] となる解釈に矛盾はなかった。しかし、α≠0 の時にE=mgh が成り立つかは分からない。そこには、位置エネルギーと言う概念が規準面からの高さh [m] だけで決まり、過程の状況には無関係に決まると言う意味にみえる。一つ簡単な例で確認してみよう。質量 1 [kg] の物体を1秒間だけ加速度α=0.2{m/s^2] で上昇したとする。その時の力の加速度はαo=10[m/s^2] となるから、力はfo=10[N]となる。この1秒間の上昇距離⊿hは0.1[m] だから、力との積は10[N]×0.1[m]=1[J] となる。しかし、位置エネルギーの算定は E=mg⊿h=0.98[J]となる。これは 1≠0.98[J] で等しくないから、力と距離の積に因るエネルギー量[J]の関係は成立しないことが検証される。そこに、位置エネルギーの高さ h[m] とは何か?と言う意味が持ち上がる。暗中模索式導水路。暗中模索さんに水力発電所の導水路の設計をお願いした。誠に穿った設計をなさった。途中の水流速度が複雑に変化する。速度v1の位置は水流が加速度の有る状態で、速度v2の位置では低速度の定常流に成る。ベルヌーイの定理で解釈するが、位置エネルギーはすべて規準面からの高さ h[m] だけで捉える。水の加速度や速度が如何なるかには関わりなく、ただ高さのみで位置エネルギーだけは決まることに成っている。速度エネルギーや圧力エネルギーのような相互間の変換は考慮されていない。位置エネルギーと言う物理概念も、考えればその論理性で単なる科学技術概念でしかないのかも知れないと。規準面を何処の位置とすればよいかは論理的に厳密ではない筈だ。地上5mの高さに10kgの重りのハンマーを設置し、地表から100mの深い穴に楔を打ち込むハンマーに利用する。利用するエネルギーは幾らか?しかしそのハンマーを地表面に戻すにはエネルギーがいる。差引科学技術利用エネルギーはやはり地表面を基準とした解釈に成る。さて、自然現象としての位置エネルギーを物理学理論として定義付けるには、本質的な意味で納得出来るかと言う疑問が残る。地表面に居るだけで、我々は地球の自転・公転の運動エネルギーの支配する自然環境に居ることに違いはない。折角回転運動エネルギーの意味を物理学で学んでいながら、地上高さがその回転運動エネルギーとは関わりのないものだとは解釈出来なかろう。位置エネルギーの『位置』と言う意味は、エネルギー利用技術からの量と看做したい。結論としては、地表面での重力加速度概念の場での位置エネルギーは、上昇力や消費エネルギーがどの様であろうと、過程には関わりなく、ただ高さ h[m] に在る質量 m[kg] の地表面で利用できるエネルギーは E=mgh [J] であると言う科学技術概念でしかないのだ。

恩義に応えたくても・・

體に松亨の壽有り

野上様 (雅号:無我):1月ほど前に、ある美術館にお邪魔して、教えていただいた。小柳様と思っていたが、落款に「野上」の名前があると教えて頂いたので訂正させていただいた。誠に申し訳なく、野上様には失礼をお詫びします。

こんなに我が身を思って頂いたのに、お恥ずかしい限りだ。ロイヤーインバータの研究と言うほどでもないが、昭和46年春誘導電動機の運転をしてみようと、公益法人産業教育振興中央会の研究申請で、研究費を頂いた。しかし、体調が悪く急性肝炎で4月末に病院に入院した。眼が黄色くなり黄疸で絶対安静となった。その同室に入院されていた方が野上様であった。細野先生の特別のお計らいで、3カ月ほど入院させて頂き生命を救って頂いた。野上様が退院されて後、何も仰らずに掛け軸の書を下さった。その時も詳しくお聞きしないで、其れっきりとなり何も知らずに過ごしてしまった。ただ、三条市下田村、あの有名な漢学者、諸橋徹次博士の生家の村であるとは聞いていたように思った。当時は、書道にも筆にも縁が無く、殆ど忘れて過ごした。今から十何年か前に、何軒かその村でお尋ねしたが、分からず仕舞いできた。今その書を見れば、その恩義に答える術もないかと思うだけだ。ただ御蔭さまで、少しは健康で新しい科学論を展開できることを感謝したいと思う。野上様の消息を知ることが出来ればと念じていたい。

後になった振り返っては後悔ばかりだ。当時の新津工業高校の源川 誠校長(後県教育委員会、管理課長に転出)や、電気科の実習の割り振りで先生方にもご迷惑を掛けた。本当に大変だったと思うと申し訳なかった。しかしそのことも全く意識していなかったことを恥じ入るばかりだ。また初代の校長田中 敏夫は学事課長に転出。田中校長は全てを知っていた筈だ。知らぬは自分だけであったとはなさけない。新潟県教育委員会と言う役所の怪だ。

何かロイヤーインバータが現在の科学論の原点になっているようで、不思議な思いがする。