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ハミルトンの風車からエネルギーを観る

「今日(2024/05/01)のダッシュボードに載っていた。人事問題の意味を考え始めた切っ掛けだった。周りで何を騒いでいるのか、その意味が分からずに混乱の中かでじっと我慢しながら日々を過ごした。然し年末に雲隠れをした。根本問題に何か在るかと?

根本的疑念が昭和20年8月15日の終戦の日に、京都府舞鶴市溝尻海軍住宅の住所だった事に関わると認識している。舞鶴市の市民ではなかった。だから、東舞鶴国民学校で4月から4カ月以上勉強したが、入学者名簿には存在しない事を知った。人事問題は、何処で生れ、何処に住み、どの様な経歴を辿ったかが全て確認されて居なければならない筈だ。昭和14年12月1日、貝野村から舞鶴鎮守府所管に『戸籍転籍』。昭和16年9月1日、召集令状。父はその10月巡洋艦「香取丸」の在役艦。その年12月19日、「香取丸」に戸籍異動。昭和19年2月、「香取丸」被弾沈没。同19年3月31日、「香取丸」船籍除籍。その後戸籍に関する行方不明。追記、2024年5月1日。末尾に関連して」

はじめに (またの文末の自分の恥さらしで御免なさい。憲法と市民権など全くの無知であった。権力と市民権の関係の教育を受けた記憶も無い)。ハミルトンの風車はブログの最初の科学の記事で、放電現象と電荷・電流概念(2010/08/02)にある。何故ハミルトンの風車を取上げるかには理由がある。新世界ー科学の要ーで示した静電界のエネルギー流についての解釈を早合点したようだ。訂正しなければならないと思ったからである(2017/11/07追記・修正した)。それはコイルとコンデンサの磁気ループについても訂正になる。

ハミルトンの風車

極性とエネルギー流 ハミルトンの風車を検索すると、その回転現象の解説にはイオン風と言う電荷が原因となった説明が成されている。マイナスの3万ボルト程で大きな卍型の針金が相当の速度で勢いよく回転する。しかもプラス側の電極が無いのに、マイナスを印加するだけで良く回転する。昭和40年頃の高等学校での公開実験での強い印象が残っている。1.6mmΦの屋内配線用銅線で構成した直径30,40cm風車実験結果が思い掛けずも成功したのも不思議であった。何も傍にプラス電極が無い、空間に置かれたマイナス電極の風車である。針金の先端からジーと音を立てて噴射しながら回転する。ただし、印加電圧が正極性の時はそれ程強い回転力は得られない。明らかに極性によって異なる電気現象であることははっきりしている。放電管内の流れがマイナス電極側からしか流れない事も良く分かっている事だ。その流れを陰極線と名付けたのだ。その流れる実体を『電子』と呼んで解釈するのが現代物理学理論の根幹である。『電荷と質量』を備えた素粒子が『電子』である。その電荷と質量の空間的描像も明らかに説明できないにも拘らず、『電子』と言う素粒子(レプトン)が実在し得るとの前提で構築された電磁界理論である。その電子と言う『電荷』概念への疑問を抱いたのが電磁界の新世界に踏み込む事になった原点である。ハミルトンの風車の回転現象を電子とイオンで解説されているのが常識論である。結局、電子もイオンも『電荷』と言う実在しない物理量概念で、見えないが故に、簡便な解釈で伝統的に積み重ねてきた理論体系の基礎概念となって、社会的な常識論の根幹となって来たという事であろう。今唱えたい事は電子やイオンに替わって、それに対応する『エネルギー』一つで統一的に解釈すべき基礎理論が求められていると言う結論になる。

針電極 針電極のような金属の先端を尖らせて、負の高電圧を掛けるとコロナを噴射する。それは導線に沿ってエネルギーが針先端から空間に噴射されるからと解釈する。導線周辺にコンパスを近付ければ導線を周回する向きに磁気ループが存在するだろう。それは電流で解釈すれば、それが先端部から流れ込む向きと同じ方向ではある。このエネルギー流の解釈は、電子・電流の解釈との明確な違いを説明するだけの根拠を示せないのが残念ではある。残念であるというより、目に見えないものを科学技術で自然現象を利用するように概念化して来た多くの先人の業績を讃えるべきであろう。然しながら、自然の真底に横たわる眞髄は科学技術概念の奥に隠れているのだ。それはを認識するのは各人の自然科学的感性に委ねられていると言えよう。

平板コンデンサ内のエネルギー流 そのエネルギー流での解釈は、平板コンデンサ内へのエネルギー貯蔵をどう捉えるかに、その有意性があろう。『電荷』貯蔵に因る解釈よりも矛盾は少ないだろうから。コンデンサ内でのエネルギー消費は殆ど無かろう。従って、エネルギー流は平板コンデンサ内で何らかの回転流として貯蔵されるだろうと考える。二枚の電極板に対して、エネルギー流がどのようであるか、上下二つの流れであるか、一つの流れであるかは見えないものを解釈する訳で、そこに悩ましい決断が求められる。新世界ー科学の要ーで示した解釈は二つのエネルギー流で決断した。それは下部電極表面での磁界の方向が決まるエネルギー流を上部と同じ電極表面に沿って流れ込むと解釈したからであるが、その点が少し早合点であったと反省している。それは新世界への扉ーコンデンサの磁界ーで示したように、下部電極表面でのコンパスの指示方向が電極表面に流れるエネルギー流との合成流に因ると解釈したことに因った。コンパスの磁気の意味をそのエネルギー流が原因と解釈する捉え方そのものが新しい科学的世界観でもあり、その事との関係で迷いがあったと反省している。今回上に示した図の平板間の一つのエネルギー流で解釈する方がコンデンサ内でのエネルギー貯蔵の姿としては共感し易いと言う感覚的な意味合いをも含んで決めた。誠に科学実験による検証方法という手法が採れずの感覚論で誠に不甲斐なさも抱かざるを得ないと同時に、混乱を与えたらと申し訳ないと思う。コンデンサ内のエネルギー貯蔵で、二つの流れは不自然であろうと感じるからである。以上の考えから、結論を図のようなエネルギー流で捉えた。この平板電極内の空間とその外部との関係は明確な描像を描くことはできない。コンデンサ貯蔵エネルギーが完全に電源との繋がりがなく、独立したエネルギー流になるかと考えれば、それは無いだろうと思う。その曖昧なまま表現した図である。負極性の場合で示したが、エネルギー流は電源の負側からの供給が主流になるとの解釈をハミルトンの風車から類推したことで、正極の電極板に対して少し反発する流れになるかと考えざるを得ない。それがその電極近傍でのコンパスの指示方向の原因となる貯蔵エネルギー流とコンパスのエネルギー流との兼ね合いの問題であるから。基本的にはそのエネルギー流がコンパスの指示方向・磁気ループの解釈の拠り所と考えざるを得ない点にある。

アーク・火花放電 高電圧工学と言う分野がある。それは電力系統の保全対策として、送電線路への落雷に対する対策や、支持絶縁碍子の性能向上に欠かせない研究分野である。その電気的特性は高電圧試験によって基礎研究が成される。平板電極間でのアーク放電現象はその基本観測である。電界強度の空気限界は大よそ30kV/cm位と考えられている。それ以上の電界で火花放電し、絶縁は破壊される。その火花放電現象の原因は電極間に塵などが入り込めば、その局部的エネルギー密度が高くなり、局部のコロナが全体としての放電に移行してしまうだろうと考えられる。その辺の現象を電極板の『電荷』で解釈しようとしてもなかなか難しいと思う。丁度、雷が空間の状況と水蒸気の熱エネルギーの供給・放出との兼ね合いで決まる事から思えば、電気現象も『電荷』では捉え切れない謎が多いだろうと思う。

『電荷概念の否定』の観点 伝統的科学理論が常識として世界に受け入れられてきた。正と負の対称な二つの『電荷』が世界の根源を支えていて、その『電荷』無しには科学理論を論じられない事になっている。伝統的科学の世界観で共通理解に在る社会的安定性の観点から観れば、『電荷』否定の反社会的科学論は誠に迷惑な事ではあろうと理解はしている。2000年にワープロ代わりにパソコンを購入した。雨蛙や日本カナヘビ、揚羽蝶など身近なものを眺めて、生活の術もなくただ漫然と流されて来た。科学研究の機関に所属する事も不可能な人生の状況に追い込まれた。今過去を知って見れば、職歴も書けない現実が身に染みている。退職の手続き一つした覚えが無い現実。翻弄され続けている身には日本国憲法(特に、第98条1項 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部または一部は、その効力を有しない。とあるが、その条項は何の為のものか理解できない。)が欲しい。まさか昭和14年12月1日や昭和39年4月1日に戻る訳にもいかないし、どうしたら良かろうか?平成7年7月(11月の間違い?)には、国会で事務局職員にわざわざ筆者の正面写真までお撮りいただいたので、不審者リストにでも御登録されているかも知れない。身分が不明のまま捨て置かれているかと疑いたくもなる。昭和63年2月にも国会で物議の基になったかもしれないが。当の本人筆者は何も知り得ないまま今日に至る(*1)人定証人喚問。しかし正規でなくても幾らかの現場での経験から、身に付いた電気工学の技術感覚から物理学基礎概念の意味が腑に落ちず、光の伝播現象と物理学基礎概念の実相を我儘勝手な解釈で追い求めてきた。今思う、『電荷』概念否定の感覚に間違いは無かったとそれだけは安堵した。種々雑多な内容をITの世界に恥ずかしげもなく、恐ろしさも知らず綴って来た。パソコンでの情報発信で、学会での正規の学術研究には成らないかもしれないが、専門的学術に無関係の方々にも科学の基礎とは何かと考える意味は伝えられたと感じる。どれも特別科学研究となる様な新しい事でもなく、日常生活で感じる科学感覚が基での考えを発表して来た。しかし、『電荷』否定一つが、科学理論と自然科学の解釈論に未来への課題として無視できない処に在ることだけは示せたように思う。未来に向けた、子供たちへの教育の問題として。

(*1) 人定証人喚問:昭和63年1月中頃、自宅に何処からか『長岡工業高等専門学校の健康保険証』が送付されて来た。長岡技術科学大学の電気系事務室で電気系長にこんなものが送られて来たと見せた。そんなものを持って居てはいけないと取り上げられた。その後、その保険証がどのように処理されたかを確認していない。その数日後、長岡工業高等専門学校の事務職員がやはり自宅に「未だお返し頂いてない保険証をお返しください」と封書が届けられた。身に余る不可解に対処し切れずに、無知を曝して今日まで彷徨って来た。今も不届きなへリコプターが飛んでいる。畏れ多くも国会で不届き者と人定喚問でもして、我が身の悪行の所業を解明して頂かないと死に行く人生に辻褄が付きそうもないと考えている処でございます。(2018/10/12)追記。誠にお恥ずかしい次第であります(追記:昭和55年3月新聞紙上の教員移動記事に、筆者が退職となっていた。しかしそれはその4月新潟県立新津工業高等学校での離任式で、恥ずかしながら長岡技術科学大学に転勤と生徒に話をした。しかし、実際は新潟県教育委員会には筆者の正式に採用した履歴は無かったようだ。だから、どうも免職処分となっているようだ❓さらに、平成2年7月長岡技術科学大学で、もう一度免職処分に成ったようだ。しかし、新潟県からも、長岡科学技術大学からも直接『免職辞令』を貰ったことが無い。平成2年に精神病院に投獄されて4年に世間に戻ってからすべてが「免職」になっていた事を知った。その免職理由も知らない。今も理解できないで居る。以上、2024年5月1日追記。)。『静電界は磁界を伴う』電気学会全国大会(1982)の発表から、脱藩したと観られる 瞬時電磁界理論の実験的検証とその意義 電気学会電磁界研究会資料 EMT-88-145 (1988) の発表まで、すべてロゴスキー電極間の静電界中の磁界模様の実験写真である。電場が磁場であることの証明写真である。電気磁気学の電荷概念を否定しなければ、この写真は嘘になる。世界の構成根源要素は『エネルギー』一つに集約される筈と、ハミルトンの風車の実験(1965年頃実施)に結びついた。

摩擦電気から見る迷走科学理論

(2024/04/26).

 摩擦電気の事を述べようと思った訳がある。雷のエネルギー像 について考えている。その雷と電気の解釈が専門家の学会誌での解説記事が余りにも不可解な曖昧論である。その内容で、上空での氷が落下時に摩擦で『電荷』が発生するとある。摩擦電気の専門家の奇妙奇天烈な解釈である。『正電荷』は陽子でもなく、『負電荷』が電子でもなく、要するにプラスとマイナスの『電荷』がどの様な原子との関係であるかも何の説明もなく、氷の摩擦で分離・発生すると成っている。そんな非論理的な解釈が専門家の学術論である?そこで摩擦電気の意味を考えた。

 『電気』と言う用語はとても曖昧な内容である。静電気、摩擦電気などが代表的曖昧例である。電気エネルギーと言えば少しは具体的な意味が見えるかも知れないが、やはり誰もその物理的意味、現象を理解できない状態にある。電気物理学と言う分野の専門家さえよく理解できていないのだ。『電荷』や『電子』が自然世界に実在していると考える科学者には誠に申し訳ないが、それは明らかに古い物理学概念を踏襲した方々の、間違った理論の、教科書の間違いの内容に従った考え方である。

 摩擦電気❓ (2022/12/20) にも述べた。前の記事、物理学理論の混迷と基礎概念の矛盾 (2024/04/20) にも関係する内容でもある。

 摩擦電気とコンパスの記事、Friction heat and Compass (2020/03/22) でも述べた。この記事でも述べたが、要するに物理学理論で、空間の『エネルギー』の流れと言う物理現象を認識していないのだ。だから、仮想的にその『エネルギー』を『電子』などで取り扱う理論体系になってしまったのである。コンパスは地磁気や磁界を検出する検出器だ。電界を検出する器具はないが、磁界だけは簡単に検出できる、それが磁気のコンパスだ。然し磁気についても物理学理論は磁束で解釈するから、マグネットの表面の『エネルギー』の流れと言う認識はない。それが物理学理論の決定的間違いである。マグネット表面は軸性エネルギー流の場なのだ。磁気も熱も同じ『エネルギー』と言う物理量の空間的形態でしかないのだ。コンパスを準備して、何かプラスチック系の定規などを紙にでも擦って摩擦して御覧なさい。『摩擦電気』じゃないが、定規に熱が籠る。その定規をコンパスに近付ければ、コンパスが反応して回転移動する。逃げるか、近付くかの運動を起こす。決して摩擦で『電荷』が発生した訳でなく、摩擦熱がプラスチックなどの絶縁物質の近傍空間にその『エネルギー』の流れる状況を生じた結果である。『熱』も『静電気』と物理学理論での誤解による解釈の意味も同じ『エネルギー』の形態なのである。静電界と言う場も静磁界と言う場も同じ『エネルギー』の空間形態でしかないのだ。

 先ずは『摩擦電気』とい物理学理論の根幹を成す誤解の意味を解説して置く。

 更に大切な物理的認識が無ければ、物理学理論の矛盾は解消できない。それは『光』の空間像の認識である。光が『エネルギー』の光速度伝播現象である意味を理解する事だ。光には振動する物理的実体など無いのだ。

 

純粋・自然の実相

(2024/03/31).


 自然現象は極めて『純粋』であるとの認識に至った。その意味を表現してみた。空間に流れる『エネルギー』には光のように、空間的寸法も無限に細分化される。素粒子なる概念も『エネルギー』によって構成されるものと解釈する。

 長く電気回路現象の物理的意味を考えて来た。特にこのブログ記事として投稿しながら、自己問答を繰り返してきた。学術機関では何処か不可解な自己に気付いて、研究室が無いことから、雲水の様な天下での研究に費やした。終戦時(1945年)に舞鶴鎮守府、溝尻海軍住宅で迎えた意味はどの様な身分であったかと考えた時、社会的な存在が❓❓筆者の過去の職歴、所属歴及び「退職、免職など」極めて不可解に気付かずに過ごしてきた。市民権で、長く選挙権も無く、投票の権利が無かった意味まで、行政としては理由を明らかに示して欲しい。

 漸く、電気回路現象の物理学的理論が極めて曖昧で、子供達の教育内容として不適切であるとの確信に至った。
 現在の教科書の内容は、科学技術による経済競争の視点から見れば、それなりの教育上の成果を収めて来た。しかし今、ハッキリした事は、『電荷』なる解釈用の概念が論理的には全くの間違いであったのだ。
 如何にこれからの子供達に対する物理学教育を整えるかは、科学理論としての根幹から立て直さなければならないところに在るのだ。理論物理学者が如何に『電荷』なる概念を、その物理的意味を子供達が分かるように解説できるかに掛かっている社会的責任と思う。世界に問うのはその一点だ。

 そのような科学理論の意義を問う題材として、全ての人に考えて頂きたい高周波伝送回路現象での『定在波』の物理現象を提起したい。

 筆者が初めて、研究報告として1967年、新潟県工業教育紀要に投稿した、
 金沢喜平(何故か『沢』だ):分布定数線路実習に対する考察、新潟県工業教育紀要、第3号(昭和42年)の内容に関するものになる(新潟県立図書館所蔵)。
 
 その関係で、エネルギー流と定在波 (2021/02/27) がある。
この内容で、『定在波』が発生する物理現象を如何に解釈するかを問うのだ。決して電気回路で『電子』が導線内を流れる等と言う解釈論では、この『定在波』の発生理由を理解できない筈だ。
 
 『回路定数L[H/m]、C[F/m]に対する訂正』。ここで過去の記事に対する訂正をさせて頂きます。電気回路の『エネルギー』伝播空間構造係数を k として、
    L= μ₀k [H/m], C= ε₀/k [F/m]
 と訂正させて頂きます。ただし、μ₀およびε₀は真空空間の透磁率および誘電率とする。

 
 電気回路での電気物理現象は、電線路空間の『エネルギー』の光速度流である。こんな単純な電気物理現象が、過去の長い科学技術的解釈概念の多くによって、特有な理論で構築されてきたのだ。電流[A=(C/s)] あるいは電圧[V=(C/F)]などと電荷量[C(クーロン)]によって解釈、定義されてきた。それは誤りであった。
 

火花放電と物理学理論

(2024/02/19).

 何十年かに亘って、『俺の出番はきっと来る』に儚い望みを抱いてここまで科学常識から外れた世界を彷徨ってきた。結局、何の繋がりも持てなかったのか?みんなの期待にも応えられずに、先行きの命の❓『電荷』否定の科学論の旅。

 雷の物理的解釈は『電荷』による放電現象と言う科学常識の解釈論の世界になっている。それは間違った解釈である。元々『電荷』が自然世界に存在する訳がない。では何故『電荷』が物理学理論の根幹を成す基礎概念となっているか?物理学の専門家は余り『電荷』に疑いを持つ人はいないだろう。また、自然世界の目の前の空間に、『エネルギー』が流れていると認識する人も恐らく余りいないだろう。

 『電荷』が科学論の基礎概念として、長い科学論の歴史を通して確立してきた。そこには、空間を流れる『エネルギー』に気付かないでしまった事が原因と言えよう。それは科学研究において、実験による検出が不可能な物理量が『エネルギー』であった事に因ると言えよう。さて、ここではやはり学校教育で、子供達が自然世界の不思議に興味を抱き、その事が子供達の未来への希望を膨らませる基になると思い、分かり易い教育内容であって欲しいと願って、自然の真理を解説したい。決して『電子』では電気回路の物理現象など理解できないのだ。今回は『エネルギー』がどの様に電気回路を流れ、その流れる空間での火花放電現象と空間の絶縁特性の関係に、認識を深めて欲しいと願ってのことである。

 電気配線での、火花放電。それは空間の絶縁と絶縁破壊の意味を物理学理論で如何に解釈するかの問題である。電線間の空間は普通は空気である。空気の絶縁耐力は1cm当たりの長さで30万ボルトである。それ以上の電圧では空気が絶縁破壊と言う状態で、火花放電になる。ビニルも1cm当たり幾らの電圧で火花放電と言う現象になるか?塩分やゴミはもっと低い電圧で火花放電を引き起こすだろう。その『電圧』が掛かると言う物理的意味と空間を流れる『エネルギー』との関係が物理学理論で如何に解釈されるかの問題である。

 実は、昨年2023年11月28日の新聞「新潟日報(27面)」で報じられたものである。家庭への配電線からの引き込み線での、火花が出ているとの通報が多くあった。2日ほど強風が続き、その後電線から火花が出ていると。

 配電線について参考に。右図に示す。 市内配線は高圧6600ボルトと100/200ボルトの単相3線式配線から構成されている。柱上変圧器で家庭用電圧100/200ボルトに降圧して配電されている。その電圧は100ボルトであるが、3本の導線をビニル絶縁した電線である。問題は、誰もが電気エネルギーを利用している筈だが、その『エネルギー』がどの様なもの(物理的実体)かを知らない。電気配線は、電線導体(金属の銅)で配線されている。電線と電線の間には『電圧』が掛かっている。とても不思議な事に、物理学理論では、その『電圧』の物理的意味が理解できていないのだ。どの物理学者も答えられない不可解な状態に在るのだ。その解釈の為に『電荷』が考え出されたのだが、ここまで何世紀も掛けて、科学技術は隆盛を極めたが『電圧』の物理的意味が解らなかったのだ(恐らく最近まで)。『電圧』は『電荷』では説明しようがないのだ。『電圧』は見えない、実験で測れない空間を流れる『エネルギー』によって決まる科学技術的定義量なのだ。だから決して、電線の中を『電子』が流れる等と言う教科書の解説は、ハッキリ言って『嘘』なのだ。例えば『電子』が電球の中を通過したとしても、どの様にして電球が光るかを説明出来ないのだ。

 自然の仕組みで知って欲しい事。電線路は、電気エネルギーを配電する設備だ。皆が使っているのは、『電気エネルギー』なのだ。その使っている『エネルギー』は電気配線の導体で挟まれた空間を光速度に近い速さで流れているのだ。

 引き込み線で火花が発生したと言う、今回の新聞報道が、電気回路の意味を理解するに良い事例となる筈だ。決して導体内を『電子』など流れない。ビニル絶縁電線のビニルの被覆体(絶縁体)内を『エネルギー』が流れるのだ。強風で、劣化したビニル被覆が傷付きそこに塵芥や塩分が貯まる。そこは電気エネルギーの流れる空間である。流れる空間がビニルと異なる塩分などになれば、『エネルギー』に因って丁度抵抗断面積が減少したような状態となり、そこが部分的に加熱され遂には発火現象を引き起こす。それが火花放電である。その現象は決して『電荷』など無関係の事なんだ。

温度の物理概念

  28aEB-10 温度とは何か 日本物理学会 第66回年次大会 (2011).に取り挙げた問題であった。
 新潟大会で期待していたが、残念ながら東日本大災害で中止となった。その大会には不思議にも、筆者の標題と全く同じ表題の投稿があった。

 誠に単純な『温度とは何か』を問う、物理学の問題である。

 『電荷』概念と同じく、『温度』の概念も理論物理学の基礎概念でありながら、極めて意味不明な解釈が採られている事項である。その解釈論は、気体分子運動論が後生大事に教育されているようだった。即ち、気体分子の速度エネルギーが温度を決めるような認識が教育されている。とても意味不明で筆者には理解出来ない大学の御講義内容に思えた。

 運動エネルギーが何故『温度』になるか? そこには熱エネルギーと言う意味が筆者の解釈とは異なり、『何』を温度計で測定するのか理解できないのだ。少なくとも『熱エネルギー』と言う空間に分布する物理量ではないようだ。

 それは核融合反応でも基礎概念に於いては、同じような意味に思える。

 ここでは、御高尚な学術論には及びも付かないが、卑近な日常生活からの自然観察眼での解釈を述べたい。

 例に『ホッカイロ』を具体例に取り挙げて論じたい。右がそのホッカイロだ。中味は良く知らないが、鉄の酸化反応を利用しているらしい。身体に貼るホッカイロと貼らないホッカイロがある。最近貼らないホッカイロを使ってみた。とても不思議に、それを布団の中に入れて睡眠、するとその発熱体の放射熱は信じられない程強烈なのだ。小さな10㎝程の袋なのに湯たんぽを抱いて寝るに等しい保温器なのだ。

 さて、何を論じたいかと言うとホッカイロの温度をどの様に解釈するかと言う事だ。まさかホッカイロの素材・鉄分が酸素を取り込んで、美味しいと興奮して、振動や運動し始める訳ではなかろう。振動や運動速度(?)に依っても温度にはどう考えても成りそうもない。『温度』は温度計で測定する。温度計が何を測定するかを考えれば、物理学者の御講義の様な『運動エネルギー』や『振動エネルギー』には『温度』の意味が繋がるような解釈は産まれない筈だ。温度計に発熱体からの放射エネルギー、所謂輻射熱と言う空間を流れる『熱エネルギー』が入射する結果、その定常入射エネルギーの時間当たりの強さを評価する量的解釈法を技術として完成したのが温度計の測定法である。ただそれだけの単純な解釈で『温度』の意味を捉える。複雑な振動や運動は、『温度』には全くの無意味なものである。

エネルギー像なしに理論物理学は成立しない

(2023/11/24).

 このブログも『エネルギー』概念から始まった。

エネルギー[J(ジュール)]とJHFM単位系
エネルギー(energy)とは?

エネルギーの空間像を認識するには、光の正体およびプランク定数の概念が基本だ。プランクの定数の物理的概念を理解するには、その次元が [Js] である意味を空間的物理像から認識する事が欠かせない。

 光は決して振動する物理的実体など持っていない。エネルギーの空間分布密度の光速度流である。ましてや電子などと言う物理的仮想概念では物理学理論の論理性は保証できない。

 【何故エネルギーが認識されなかったか】
 その訳が『電荷』と『電子』と言う自然世界に実在しない物理概念を仮想的につくり挙げたからだ。
 『電子』の知覚機能像と科学理論の論理
電荷と言う科学的汚点概念
『電荷』という虚像

電気エネルギーの測定法(電流と電力)

はじめに(2020/4/28)
『オームの法則』によって電気回路現象を誰もが容易に理解できる。『オームの法則』は1826年ドイツの物理学者 ゲオルク・オームによって独自に発見、公表された。(実は1781年ヘンリー・キャベンディッシュが発見したが死後数十年後まで知られずにいた、とある。)その優れた技術法則であるが故に『電流』、『電圧』さらに電力の物理的意味を深く考察する必要もなく今日に至った。ちょうど200年少し前の19世紀の初めに『電流』と言う概念が磁気によって電気導体から離れた、空間にその姿を示すという新しい発見が『アンペアの法則』として捉えられた。その『電流』の単位アンペア[A]が電気現象解析の根本技術概念となって、すべての電気量の基本単位系 [MKSA] の基となっている。しかし、ブログの初期の記事に電流は流れず (2010/12/22) を、さらに去年電子は流れず (2019/6/6) を投稿した。それは『電流』と言う技術概念が自然認識の曖昧さを許す科学理論の根幹をなしている現代的社会問題として捉えた論説でもある。科学理論がその特殊な専門家集団の中で、特に分かり難い理数的表現に特化した形式で醸し出されて、一般の市民の科学認識に如何に曖昧な理解の混乱と弊害を及ぼしてきたかを唱えざるを得なかった。世界には決して『電荷』など実在しないのだ。世界の本源に『エネルギー』が存在していることを分かって欲しいからである。

光の正体-エネルギー-

光の正体とは、空間を光速度で伝播する『エネルギーの流れ』がその正体である。電気回路の電線間の空間を伝送するのが電気エネルギーの流れである。決して『電子』など電気回路には必要が無かったのだ。

 光の正体

 プランクの定数の意味も光の振動数も全て『エネルギー』の流れの物理学の解釈上の評価概念である。それが自然世界に『電荷』の存在しない事を認識する基本になる。 

電圧とエネルギー

 観えなくて測れない物理的実在量、それが空間の『エネルギー』。しかし、それは物理学理論の概念にはない。その空間像の象徴が『光』だ。光に因って物は見えてもその光およびその『エネルギー』は観えない。

 『エネルギー』とは不思議だ。誰もが言葉にするが、その姿を見る事が出来ない。物理学理論で『エネルギー』と言えば、運動エネルギーと位置エネルギーがその意味になる。その物理学理論の『エネルギー』は何となく見えるような気がするかも知れない。ボールが飛んで行けば、その速度で運動エネルギーを感覚的に理解できたように思う。しかし、その飛ぶボールを見ても、ボールが見えるだけで『エネルギー』などどこにも見えないし測れない。速度と質量から計算式で算定することはできるが。

 また、蓄電池は電気エネルギーを蓄えた電気製品だ。しかしその貯えたエネルギーを認識できない。どんな像であるかを理解できない。代わりに『電子』で代用して理論を作り上げる。しかしそこでも『エネルギー』を説明出来ない。

 貯蔵電気エネルギー。電気回路で『エネルギー』を貯蔵できる要素はコイルとコンデンサである。しかしその『エネルギー』を、その像を見る事はできない。また、抵抗も『エネルギー』を貯えない訳ではない。抵抗もその構造体の中に『エネルギー』を貯えるから、時間積分で温度が上昇する。だから『エネルギー』を貯えたことには間違いがない。しかし、電気回路にその『エネルギー』を再び戻す働きを持っていないのが抵抗体の不思議な機能である。

『エネルギー』

 エネルギー W[J] を青色で描いた。それが電気要素の空間に存在する『エネルギー』である。描いて示したと言っても、それは科学的な検証に耐える証明が出来ない。だから物理学理論の概念には成り得なかったのかも知れない。見ることの出来ない『エネルギー』を、その空間像だと言って描いても、物理学理論の概念として受け入れられる論理性もないし、実測できる保証がないから、絵に描いた「餅」と言われても当然のことである。その意味ではこの空間の『エネルギー』の概念認識が無い物理学理論を非難できないかも知れない。それでもこの空間の『エネルギー』を認識することが自然現象を理解するには欠かせない。何か「電荷」の実在を頭ごなしに押し付けるのと、空間の『エネルギー』を押し付けるのと何処か似ているかも知れない。それは電気回路の現象を多くの観点から、各人が確認しながら納得する以外ないのかも知れない。磁石の周りの空間の『エネルギー』の流れと同じことなんだろう。見えないものを在るとは強制的に押し付けるべきではないから。とは言っても、電気回路の動作現象を突き詰めれば総合的に『電荷』と『エネルギー』のどちらがより論理的で、矛盾なく理解できるかで結論は出よう。

電気理論による数式で表せば、

コイルのエネルギー     W =(1/2)L×i^2^ [J]           (1)

コンデンサのエネルギー  W = (1/2)C×v^2^ [J]         (2)

となる。このような数学的表現で纏められる意味はとても大きな科学技術の業績である。いくらコイルの中に『エネルギー』があると力説してみても、その量を計れないことを知れば、(1)式が如何に優れた技術的表式であるかを理解できよう。『電流』と言う技術概念とその測定技術が如何に優れたものであるかを。しかし電線導体の中を『電流』や『電子』などは流れていないことも知らなければならない。そこに科学技術と自然現象の真理との差を知る必要が有るのだ。『電子』での解説者は、そこに『エネルギー』の認識を解説する義務がある事もまた分かってほしい。

電気技術論によってこの数式で算定はできるが、決してコイルやコンデンサの中に蓄えられた『エネルギー』は観えないし、測れない。コイルの空間に『エネルギー』があると理解するためには、電気回路技術の多くの計算を通して、感覚的に認識することが大事だ。学んで、そこから深く理解するには、疑問を抱き分からない不思議に直面して、そこを乗り越えて感覚的に納得できるのだろう。『電流』が流れていないことを理解する迄には、長い難しい道を辿る必要があるかも知れない。

電圧は『エネルギー』の評価技術量。見えない『エネルギー』と電圧の関係を考えてみよう。不平衡の空間の『エネルギーギャップ』を電圧として解釈している。コイルとコンデンサの貯蔵エネルギーに対する、その端子電圧には特徴的な差がある。コイルの中の『エネルギー』量を外から推し量ることはできない。一定値の安定した『エネルギー』の貯蔵状態では、端子電圧は零になり、『エネルギー』の量を推し量れない。一方コンデンサの場合は、その貯蔵の『エネルギー』量は端子電圧に直接現れる。コイルもコンデンサも貯蔵する『エネルギー』に違いがある訳ではない。同じ『エネルギー』を貯蔵するのである。同じ『エネルギー』を貯蔵する、その金属導体によって作られる空間構造が違うだけだ。貯蔵するのは『電荷』でもなければ『磁束』でもない。それは見えない『エネルギー』なのである。

電圧 [V] の次元は [(J/F)^1/2^] 。

電気物理(電圧時間積分とエネルギー) (2019/03/26) との関係での記事となる。

線路定数L[H/m]、 C[F/m]の『エネルギー』と端子電圧の関係を考える。線路容量Cに関わる『エネルギー』分布密度をw[J/m]とする。負荷のコイルとコンデンサの貯蔵エネルギーをW_L[J] W_C[J]とすれば、次の式で表される。

貯蔵『エネルギー』量はそれぞれの要素の端子電圧との関係で決まる。

wL は端子電圧が掛かる限り、その時間積分で増減する。コンデンサのwc は端子電圧そのものが貯蔵エネルギーを表す。この式から、端子電圧は次の図のような意味と解釈できる。

(1) コイルの端子電圧の意味。電線路に繋がれた負荷のインダクタンスLl[H] とする。コイル端子の電圧もその次元は [(J/F)^1/2^] である。コイルが繋がれた電線路は回路定数 C[F/m]の『エネルギー』分布空間である。コイル端子が繋がれた外部条件によってコイルへの『エネルギー』の入出力が決まる。電線路の『エネルギー』がコイル端子の電圧を表している訳である。電圧がコイルに掛かれば、コイルの『エネルギー』は変化し、その微分がまた端子電圧でもある。

(2) コンデンサの端子電圧の意味。容量 Cl[F] のコンデンサ負荷が線路に繋がれている。コンデンサの場合は、線路『エネルギー』分布により、コンデンサとの『エネルギー』は線路定数 L[H/m] を通して行われる。そのコンデンサの端子電圧はコンデンサ自身の保有『エネルギー』量によって直接決まる。コンデンサ内の空間ギャップでの『エネルギー』の空間分布構造が如何なる形態であるかを判断しなければならない。誘電体の分子構造内に貯蔵される訳であろうから、『電荷』否定の上での捉え方としては分子内での軸流以外予想できない。電極の負極側の高密度分布が予想されるが、未だにその誘電体分子構造内の空間エネルギー分布流は不明だ。結局は、磁性体内と誘電体内で同じような軸性エネルギー流になるかも知れない。前にコイルとコンデンサの磁気ループ (2016/07/13) に考え方を示したが、誘電体での微視的分子構造までは考えていなかった。電極間の『エネルギー』不均衡分布が電圧だという解釈との整合性をどう認識するかの課題かもしれない。

何が電池電圧を決めるか?

電池電圧と『エネルギーギャップ』 (2016/05/08) で考察したが、『電子』ではその訳を説明できない筈だ。電池は『エネルギー』の貯蔵器で、『エネルギー』を使っても端子に現れる電圧は常に一定値である。その電圧を決める意味には『電圧』とは何か?の「問」が示されている。『エネルギー』と電圧の関係が問われている筈だ。ここにまとめの意味を含めたい。

電池における電子の役割を問う

リチュウム電池の解説を読んで思う。『電子』の役割が全く理解できない科学理論だ。

はじめに 半導体のpn junction (pn接合部)のエネルギーギャップの意味を考えてみた。電池の意味との関連を考えた。電池の原理を問う (2014/11/27) があった。

電池電圧とエネルギー 電池はエネルギーの貯蔵庫であり、エネルギーの供給源である。人の思考における常識が如何に自己に立ちふさがる障壁となるか。すべてが『エレクトロニクス』の支配する世界に居る。その語源でもある『エレクトロン(電子)』の存在の意義を問うことになる。人は高いことを低いより有利と考えがちであろう。電圧が高ければ高い程、それは影響力が強いと考えるだろう。電圧が高いという表現は良くないのであるが、技術用語としては電位が高いとなろう。科学技術用語の持つ常識に『電圧』が有り、プラス極とマイナス極でその電圧の高い方と低い方を区別している。電池はエネルギーの供給源であることは誰もが知っていよう。しかし、誰もがその『エネルギー』とは何かを知っているかと問えば、さて答えられるであろうか。答えられなくても、決して気にしなくてもよい。『電子』に因って解説している人は『エネルギー』の意味を考えていない人が殆どであるから。ましてや化学方程式に因って解説する場合は、殆どその方程式の変換過程の中でその空間に実在する『エネルギー』を意識することは無い筈である。乾電池も蓄電池も+端子から電流が流れて、負荷にエネルギーを供給すると考える。しかし電流と言うものが電池のエネルギーを負荷に運ぶことなど出来っこない。電気理論では、電池のマイナス端子から電子が導線の中を流れて、負荷を通り電池の+端子に戻ると解釈している。電子の逆流が電流であると電気理論の常識が世界の共通認識になっている。それではその電子が電池からエネルギーを負荷に運ぶか?と解説者に問えば、答えないであろう。『電子』あるいは『電荷』に『エネルギー』をどのような意味で結び付けて解釈しているかが明確ではなかろう。2年程前に電圧ーその意味と正体ー (2016/05/15) に纏めてあった。

電池のエネルギー供給端子は-極である 直流の電気回路はプラスとマイナスの2本の導線でエネルギー供給回路が構成される。電池からのエネルギーは-極から送り出される。プラス側の導線は殆どマイナス側のエネルギー供給を支える脇役と考えて良い。負荷にエネルギー供給時、プラス側導線を通して電池へエネルギーは戻らない。電池のプラス端子はエネルギー供給に直接関わらない。電池の負側端子からエネルギーは放出され、負側導線近傍空間を通して主に負荷までエネルギーが伝送される。勿論導線の金属内などエネルギーは通らない。電池は-極がエネルギー放出源である。そのエネルギー(電気や熱あるいは光)を陰極線や電子と考えてきたのである。

エネルギーを運べない電子(科学的願望との乖離) 原子核の周りを回転する電子で世界の構成源を捉える原子像が世界標準である。電子が回転すると解釈する科学的根拠はどこにあるのだろうか。『電荷』否定が結局とんでもない現実にぶつかってしまった。科学理論の根源さえ信用出来ない自己を観る。そんな意味を卑近な日常生活の電池の意味に探し求めて見ようと考えた。簡便な科学的解釈を示すに『電子概念』がとても便利であろう。電池のマイナス極から電子が外部回路を通りプラス極に戻ればすべてが説明出来たことに成る。その不思議な論理が科学論理の正当性を世界標準として認められるのだから。 『エネルギー』を置き忘れていませんか? 電池はエネルギーの供給源です。電子論であれば、電子がそのエネルギーをどのように負荷に届けるかの問に答えてこそ科学論と言えるのではないか。そこに電子の実像が問われることに成るのです。電子の特性:質量me=9.1083 ×10^-28^ [g]、 電荷e=1.60206 ×10^-19^ [C] と質量と電荷の混合素粒子。この桁数の算定基準の厳密らしさと混合空間像の認識不可能の不思議に包まれている電子。電子が背負い籠に『エネルギー』を入れて負荷まで届けるのですか。帰りは『エネルギー』分だけ身軽に成ってプラス極に帰るのですか。 『エネルギー保存則』とはどんな意味なんですか。 『エネルギー』が観えますか?そこで、エネルギーに対して電子に求めると無理に仮定した時の科学的願望を絵図にしたみた。

電子の責務と珍道中。 電池はエネルギーの貯蔵庫である。そのエネルギーを負荷で利用する訳だ。どのようにそのエネルギーを電池から負荷に届けるかを科学論として完成しなければならない。高度の量子力学は電子に重い責務を課しているように思える。太陽光発電で電子にどんな物理的機能を果たして欲しいと望んでいるのだろうか。電子がエネルギーを担うべき責務を無造作に要求しているようである。電子の身に成ってその心情を汲んで少し考えてみた。電池も太陽発電パネルも電源としては同じものである。ただ太陽発電パネルは負荷の前にエネルギー貯蔵庫(蓄電池)に繋がっている。負荷の影響は直接受けない。さて電池のエネルギー貯蔵庫からどのように負荷に必要なエネルギーを供給するかを考えるべきだろう。検索で電池の原理を尋ねると電池のマイナス極から化学方程式の反応によって、電子が外部導線を通って陽極に廻り込み、その電池内で電荷を遣り取りして解説が終わっている。電子は何の為に負荷を通ったのか。 『子供の使いじゃあるまいし、ただ通り過ぎるだけじゃ理屈も通らぬ!!』 何故電子が通り過ぎるだけで電池からエネルギーが負荷に届けられると考えるのだろうか?電子は何故マイナス端子から導線を通ってプラス端子に行くことが出来るのだろうか?電子の移動はどんな理論で可能だったか?電界と電荷の関係は無視されても理屈が通るのか。上の図は電子に御足労願う訳だから、その科学認識に寄り添って何とか電子の責務とエネルギー運搬の道筋を考えて描いた図である。電子の(行き道)は、重い責務に喘ぎながら。負荷にエネルギーを届けた(帰り道)は、身軽に成って鼻唄まじり。そんな電子に期待された仕事の責務が想像できる。電子も行きと帰りで異なる姿に。しかし、量子力学には背負い籠でエネルギーを運ぶ意味はない。むしろ質量に頼った運動エネルギーの増加で電子がエネルギーを身に纏う意味に似ている。その場合は電子の帰り道は速度の遅い電子の姿を描くことに成るのか。当然理屈の通らぬ無理な道理ではあるが。もう一つ、化学方程式で『電荷』の辻褄を合せようとしても『負荷御殿の主から必要なエネルギー量が発注される』のである。エネルギーの発注に合わせたエネルギーの発送をしなければ電源・送配電線路・負荷間の辻褄が合わなくなる。勝手に化学方程式に従って、電子を送り出す訳にはいかないのである。負荷の要求をどのように電池側で処理するかが極めて重要な瞬時電力の話に成るのだ。電子に自動的にそんな責務まで負わせては酷と言うものだろう。

(2020/08/14)追記。上の絵図を書き換えた。img298

電子にエネルギー伝送責務は無理な注文である 電子は不要である。電池からのエネルギー(熱エネルギー即ち電気エネルギー)そのものが負荷の要求に応じて電線路空間内を伝送されるのである。電子不要の科学論。