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原子と分子の妙

自然を見つめて、その心・生命を感じ取りたい。しかし、余りにも多様な現象に彩られていて理解も難しいと脱帽する。古代から物質の本質は何かと、人はその頭脳で問い続けて来た。『原子』という極微の世界が物質の基と理解した。しかしそれでも悟れない。様々な原子が繋がると「分子」になる。自然世界の生命とは何か?がとても大きな不思議を突きつける。何故か?人間が生きる活動を原子が造るかの、その単純性に驚かざるを得ない。生命の驚異はDNAがたった4個の塩基A、C、GおよびTが基礎になって作られている点にある。そのDNAと生命との関連性を感覚的に理解する事を含め、感覚的会得を遥かに超えた不可思議に世界が彩られている。また、原子と言う極微世界は、様々な粒子の複雑な結合による未だ未知の不思議を秘めていると解釈したい。周期律表で示される程明快に捉えられているとは考えにくい。全ての本質は『光エネルギー』ただ一つに集約されよう。世界の全てが、生命の全てが光から出来ているとも言えると解釈する。

原子の周期律表 (2012/07/13) 追記。下に提示した「原子と対極性(絵図)」を考えている内に、感覚的に捉えきれない疑問に突き当たった。それは「化学」の科目で初めに学習する周期律表である。今まで気付かずに過ごしてきた疑問がある。

それは、原子の中心核が陽子と中性子の組み合わせで構成されているという単純性である。例えば、不活性ガスのネオンNeと次のナトリュウムNaの2つの元素を比べた時、その原子核の結合の違いが余りにも異なる元素の性質を示す事に驚く。Neより中性子が2個、陽子が1個増えたのがNaである。Naは極めて危険な金属である。水と接触すれば、激しい反応で熱と水素放出を起こす。Neは通常では、何も化学反応を起こさないと思う。その違いは何が生み出すのかとても不思議に思う。こんな基本的な事、元素の特性の差も感覚的に感じ取れない訳だから、分子結合の特性などさらに複雑な意味を含んでいて納得出来ないのもやむを得なかろう。この周期律表をまとめた先人の偉業に改めて感心と尊敬の念を抱く。原子の特性を表から考えるだけで、無限の未知に入り込めるようだ。

金属と気体の配列順序 原子の特徴を考えながら、周期律表を眺めて見る。その原子配列を見ると、そこに大事な疑問点が見える。通常で、気体の原子を拾ってみれば、水素、ヘリュウム、窒素、フッ素、ネオンそこから飛んで、塩素およびアルゴンと順番に並んでいる。原子の特徴を構成する基は、やはり原子の核であろう。即ち原子の性質は陽子と中性子の結合核が示すものと考えたい。塩素 Cl が金属元素 Na . Al . Si より核の原子量即ち質量が大きいにも拘らず、気体の特性を示す事をどのように解釈したら良いだろう。気体と金属の違いはその密度に違いがある為と考える。ナトリュウムが金属であると言う事はナトリュウム原子同士が金属としての特性である高密度の結合をするからであろう。ナトリュウムは空気に触れると反応するので、石油等に貯蔵するらしい。塩 NaCl の分子については、それが地球の誕生とも関係して、生命の環境の基『海』に産する事から考えても、その Na および Cl に特別な深い意味を感じる。塩水の電気分解を考えるに、原子の周期律の意味を考えておきたいと思って、疑問点を挙げた。ここでも答えらしきものが示せず、ただ疑問提示のみである。(2012/07/15)記。

標題について。『妙』という漢字の意味のとても深い事を知った。漢和辞典によれば、「物事が到達する善美完全の極域、神髄、精微、極致。などとある。「神妙」は人知を超越した、霊妙不可思議な働きや現象。等という解説もある。漢字「妙」の意味が自然世界の不可思議を表現するに合っているように思う。今回こんな表題で書き始めた訳は幼稚で単純な疑問が浮かんだからである。生命に欠かせないと言う塩分の塩化ナトリュウムNaClと塩酸のHCl の分子の特性が余りにも異なる。その訳は何が原因かと思ったからである。こんな単純な疑問は、素人に特有な幼稚な発想であろう。科学論には成らないものであるかも知れない。ともに塩素原子Clがある。あとは水素 H とナトリュウム Na が結合しているだけで、想像できない異なる特性を示す。化学の授業で、先生はその訳など簡単に解説できるのかも知れない。我ながら専門家で無い者は勝手な事を書き記して、社会的混乱を引き起す様な事があれば邪魔者になり、実に恐れ多い事で恐縮します。この疑問が、後日良い『問答』になれば嬉しい。不得意な化学と言う教科は現在も変わらない不可解さに戸惑っている。電荷概念を棄却したらどんな分子論になるかを考えて見たくなる。上の絵図の題で原子と対極性とした。『対極性』とは、プラス、マイナスでのイオン原子結合論に対して、電荷概念を棄却する論点からの2つの対極的特性と言う捉え方で解釈しようとする事の意味を表現した。水素イオン表記はH^+^であるが、+に対して、H^○^のように○で表記する。水酸基OH^-^はOH^●^で表記する。+、-の慣れ親しんだ表記と変わりないようであるが、少なくとも電荷のプラス、マイナスの実在的空間像を示せない曖昧さを排除するには十分意味の有る試みと思う。上の絵図を基に、幾つかの疑問を採り上げて、論じるつもりである。

不活性原子像 原子は多くの種類があり、それぞれ規則的な周期性で特徴づけられる。外殻電子数でその特徴を解釈している。電荷を否定すると、別の解釈を提示しなければならなかろう。それを説明するに、「不活性ガス原子」を採り上げる。原子の外形はほぼ球形で捉えれば良かろう。その寸法も外形も本質的には固定されていないと解釈する。ほぼ球形で空間を占有する実体と思えば良かろう。そこに周期性が八で特徴付けられると言うなら、球表面を8等分して印を付ければ分かり易かろう。しかし図形表現が難しい。そこで、正8面体構造を表現してみた。それが右図の正三角形での8面体構造である。球の中心に対して、印(赤丸と青丸)を付けた方向に原子周期性の特徴を捉える解釈である。この赤丸、青丸の意味は炭素結合の秘め事に示した意味である。原子間の結合力の基本を電荷概念に基づく『クーロン力』が現代物理学の基本法則になっている。それは原子核理論に於いても同様である。電荷の『クーロン力』を排除したら、現代物理学の理論的論拠を失うと思う。その『クーロン力』の代わりに『磁気エネルギー流』が極微世界の結合を支配している全てであると解釈する。上の正8面体の展開図を示そう。原子間結合力は磁気力である。それは地球磁場と同じ、地球表面のエネルギー回転流と同じ解釈に繋がる。不活性原子の表面は八周期性の安定分布状況に在る状態と解釈すれば良い。N極とS極の隣同士の表面のエネルギー回転流方向もそれぞれ安定化を強める方向性を示す。極めてバランスの良い状態にある。この磁極の内の幾つかが欠けると、原子の安定性が損なわれると解釈する。そこに異種原子間の結合が起き易くなる原因が存在するとの解釈である。ナトリュウム原子と塩素原子の結合が塩NaClになると言う。日常生活に、また人の細胞の活動に欠かせない物が塩である。そんな意味で、化学を素人の見方で解釈してみようと思う。

原子と対極性(1)の① 塩の結晶と原子結合 先ず初めに、塩の原子結合の模型を提示する。塩は結晶構造を示すようである。ありふれた日常生活の中の結晶であり、雪の結晶に次ぐ単純性を示すと思う。ナトリュウム原子と塩素原子の結合をどの様な仕組みで捉えれば自分が納得できるかで考えた。ナトリュウムは周期律性で、1番目の性質を示す。塩素は7番目の飽和一つ手前の性質を示す。そのナトリュウムNaと塩素Clの結合を考慮した原子模型が上に示したものである。Naは不活性ガスのネオンNeの飽和状態から一つ何かが追加されて、不安定な金属元素と考える。その原子表面の不安定性を磁極Sの飛び出しとして解釈する。逆に、塩素原子Clは飽和原子アルゴンArに対して一つ表面に欠損が有ると解釈する。その欠損磁場がN磁極とする。

塩の原子結合 その二つの原子NaとClは右図の絵のように磁気結合として解釈すれば、自分は納得できる。余りにも単純過ぎて、論理性を数学公式で捉えたい科学論から見れば、魅力は無いだろう。しかし逆に、外殻電子の運動理論は原子結合には空間像として捉えるには矛盾が多過ぎて信用出来ない。運動電子間での結合などとても論理性で耐えられない筈だ。ここに示した分子結合は、単に外殻電子の周回運動論では決して分子結合の説明は出来ない事を指摘し、その解決法としての磁気結合が感覚的にも納得できようと言う意味で提示した。しかし「塩」の結晶まで考えると、疑問が解消しない。

塩の結晶に関する疑問 塩は精製されると結晶になる。しかしNaClという分子で完結したら、結晶には成らず、単なる分子の粉末状にしか成らないだろう。塩の分子同士が結合しなければ結晶構造には成らない。その分子同士を結合させる結合の仕組みは何かが分からない。塩を結晶として捉えれば、単なる分子NaClでなく、・・ClNaClNa・・・と無限に繋がった「塩」と解釈したい。方形状の結晶になる訳も理解できない。

(1)の②水分子 水は生命の水とも言われ、生きるに欠かせない物質である。考えて見れば不思議なものに思える。酸素Oと水素Hの原子結合として捉えられている。一般の水は不純物も含み、水素Hと水酸基OHのイオンに分離していると言う。しかしイオンという電荷解釈を否定すれば、磁気的結合で解釈する以外なかろう。自然を観察し、理解する事は学校教育では科学・理科の分野に入る。どうしても古い仕来りを踏襲する為、決まり切った事に偏り、日常の素朴な疑問から取り組む事には指導者側に、検定教科内容に縛られる事からの躊躇や怖気もあろう。例えば『水』を採り上げて、その意味を探ろうとしても、とても難し過ぎて手に負えない。水素と酸素が結合して水の分子になると言う。それでは水素とはどんな性質を備えているか?酸素とはどのような物か?と考えて、それが結合して水になった時、水素と酸素の特質がその水の特性にどのように現れているかと『問答』をして見る。全く分からない。それは水素と酸素の性質が良く未だ分かっていないからじゃなかろうかと思いたい。ありふれた水を採り上げて考えても、そこにはとても大きな疑問がある事に気付く。そんな疑問を大切にして考える事が、学校教育に求められているように思う。安易に答えが分かっているような事のみで済ます教育はもう時代遅れと思う。『疑問』を沢山子供たちに伝えることこそ本当の教育と思う。電荷概念を否定することにより、化学分子構造とその本当の意味が未だに分かっていないと考えるべきではないかとの思いに至る。水分子の妙と言えよう。ここでは疑問を拾い出しただけで、申し訳ない。答えるだけの能力が自分には無い。ただ水素と核分裂放出時などの陽子とは、エネルギー量に違いがあるだけで、同じものであろうと考える。

(1)の③,④塩水と電気分解 塩水は水分子と塩の結晶が混合されて、教科書的にはそれぞれがある比率でイオンに分離していると考えている。塩と水の溶け具合が分子論で、どのような関係であるかも私は知らない。Na と Cl が溶けると言う分離と、分子 NaCl のままでそれぞれが水に溶けると言う分離と塩水の濃度パーセントとの関係が如何にかも私は分からない。この疑問と不可知はそのままに覚えておきたい。そこで電気分解に進もう。この電気分解は「苛性ソーダ製造工業」に繋がる。『イオン交換膜法』が取られているようだ。情報検索すると、中学生の理科実験が出て来る。水素ガスと塩素ガスが二つの電極に分かれて発生する。しかし、塩素ガスと水素ガスの発生分量は同じくない。解説では塩素は水に溶けやすいから、分量が異なると説明している。そんな中学生の理科実験の問題さえ自分には理解できないのである。塩素が水に溶けると言う現象はどのような意味なのかが分からないのである。塩素分子は Cl_2_ と2個の分子が対に成っていると言われる。そのままの結合分子の形で水の分子の中に溶け込むのだろうか。あるいは、またイオン形に分離して溶けるのであろうか。そのイオン形に分離するのは電気分解を逆に戻さなければならないと言う矛盾から、不可能の論理に成る。では、塩素原子で水に溶けるのだろうか。ここにも大きな『問答』の謎が隠されているように思う。工業製造過程ではそんな事はもう解り切っている事かも知れない。やはり知りたい事である。無知は誰にでもあろう。気付かない無知より気付いた無知は希望になろう。気付いても知らぬ振りで、過ごす教育は犯罪に近い。気付いた無知の疑問は進む道しるべ。「問答」何故水素分子は H_2_ と二つの原子が対になるのか?基礎が大事と言うが、基礎ほど難しい事は無いのだ。学校教育で、詰め込む『基礎教育』という指導要領・内容は過去の踏襲の道標でしかないかと常に疑う事が欲しい。

(2)の⑤ Naは増殖炉『もんじゅ』の冷却材として使う、とても危険な元素でもある。配管破損で、重大なNa漏れ事故を起こした。世界はその危険性から、この冷却方式の原子炉の建設から撤退した。増殖炉は、ウランからプルトニュームPu燃料を造る原子炉で、水冷却では高温度の原子核反応が起きない為に、ナトリュウム冷却方式に成らざるを得ないのであろう。『文殊・普賢』菩薩が悲しむ未熟・危険発電などトンデモナイ事である。水との反応は反発性の激しい動きが特徴的である。その時おそらく発熱を伴うのであろう。その現象を⑥として表現した。Naが水分子を分解し、H2ガスを放出するのだろう。この現象がどのような訳で起きるかを知らない。自然現象は、「何故か」と問う事によって、その深い意味の理解に繋がる。しかし、ナトリュウムNaは余りにもありふれた元素でありながら、自分にとってはその単独の性質から当然であるとの感覚的会得には程遠い存在である。⑥の熱は何の質量が変換したものかを説明するのが科学論である。エネルギーと質量等価性は自然界の大原則である。

(3)の塩素 家庭での消毒剤が多く使われる。人間の都合で自然環境を破壊している。塩素Clはどのように河川で分解されるのか、どんな微生物に期待するのか。その廃棄物が最終的にどう浄化されるかまで科学的に環境評価アセスメントとやらは人間の生命の尊厳から知恵を出さねばなるまい。「秋アカネ」の日本の秋の象徴が消えた人間の罪悪。水が生命なら、水中生物の生命をどうするのだろう。塩素も塩の元素でありながら、塩と塩素との化学的特性の差に全く手も足も出ない無知を自覚している。

体温と身体活動エネルギー「理科基礎(仮称)」を想定して

すべての市民が現代社会においては科学技術に関わることの大きな比重を占めて生活している。私も、少しは自然科学の事を記事にして公開している。そこで高等学校の理科(物理、生物、地学および化学)教育で習得して置かなければならないと決められている文部科学省の『学習指導要領』の内容を知る為に、『生物』の参考書(新課程版2012年4月以降入学生対象 大学入試で云々・・)を読ませて頂いた。高校生が学習する内容は一般市民として理解していなければならない内容なのだろうと思う。しかし能力不足で、内容がまったく理解できなかった。そこで『アメリカ版 大学生物学の教科書 第1巻 細胞生物学 D・サダヴァ他著 石崎泰樹/丸山 敬 監訳・翻訳 BLUE BACKS 』で勉強させて頂こうと購入した。

恥ずかしい生物学理解不能力 私は殆どの記事を読んでも、全く理解できない。こんな難しい生物学を高校生は理解できるのかと驚きだ。そこで、自分の生物学的能力の無さの原因はどこにあるのかと考えた。確か高校の1年生で、生物を習った覚えはある。赤ガエルの足の皮をむいて(今は生物生存環境が人間に因り劣悪化して、殿様ガエル、赤ガエルなど殆ど見掛けない)、神経の反応で筋肉がピクピクするのを電極を使って調べた記憶がある。先の細胞生物学の教科書の中で、第3章 エネルギー、酵素、代謝 の部なら『エネルギー』の事が関係しているから少しは理解できるかと思って読み進んだ。世界は、医学・生物学の分野で新しい認識に因り、細胞の再生医療が現実味を帯びている。高度医療に因る恩恵の一方、医師不足が社会問題として将来に暗雲さえも感じられる事態に成った。余りにも自分の医学的理解力の欠如と現実的医療内容の高度化との乖離が大き過ぎて、社会的不安感が自分を苛む。そんな現実の中で、己の生物学に対する無知が恐ろしくもある。高等学校の理科教育の未来の指標「理科基礎(仮称)」を想定してみれば、その内容がどのようであるべきかと己の無能を一つの基準として考えるのも有効な視点に成るかと思った。エネルギーとアデノシン三リン酸(ATP)の解説を読みながら疑問を拾い上げて考えてみようと思った。

アデノシン三リン酸とエネルギー

ATPとエネルギーATPとエネルギー アデノシン三リン酸の意味は細胞をはじめ生物の身体活動の『エネルギー』との関係で理論的解釈が示されている。その説明の殆どが理解できないので、図のように?マークを付けざるを得ない。解説を読んでも理解できない能力不足の自分を曝すことで、高校生が理解できると言うその意味を確認してみたい。先ず基本的視点として『エネルギー』とは何かが問題なのじゃないかと思ったのでその点を考える事から始めたい。

?体温とエネルギー 生物学的理論では、分子構造とその合成・分解に伴うエネルギー論が主体的論点に成っている。しかも解説によれば、エネルギーは物理学的認識に基づいて運動エネルギーと位置エネルギーの二つを基本的認識に据えている。さらにエントロピーやエンタルピーと言う熱力学的概念を取上げて基礎と説明されている。しかしATPの化学反応過程の説明では、『エネルギー』と言うが、それがどのような運動エネルギーなのか、位置エネルギーと関連する事なのかの理論的結びつきの説明が全くない。その解説の中味を追っても論理性がまったく見えず、ただ解説内容をそのまま鵜呑みして覚えなさいと強制されている様な圧迫感を受ける。どこにも「考える」意味が見えないのだ。これが自然科学の論理性なのかと恐ろしくも感じる。『エネルギー』の実体がまったく解説の中に見えない。不図思った。素人ながら、電気磁気学の考察感覚から考えて、生命を保持する基本的身体的条件があるのじゃないかと。『体温は生命体の保全環境基準』と言う意味で捉えるべきなのじゃないかと。送配電線路のエネルギー伝送設備で、線路電圧と言う電気概念がある。今まで『電流は流れず』に因り、電線内を電荷が流れると言う電気概念は間違っていると説明して来た。『電荷』概念に基づく電磁気学理論に矛盾がある事に留意して、送配電線路の『電圧』とは何かを探って来て、結局エネルギーで観る線路電圧 においてその本質を示した。何かその電気回路の『エネルギー』と身体の『エネルギー』とが同じ意味に見えた。そこからの類推しての解釈でもあるが、体温は身体全体に分布した『エネルギー』の姿であると。送配電線路は発電所でただ電圧を制御すれば末端までのエネルギー供給が成され、電力系統は保持される。身体もただ体温を制御すれば、どこの筋肉の動作にも必要な『エネルギー』が容易に得られる筈である。『熱エネルギー』が光や電気信号(神経)のエネルギーとまったく同じものである。医学・生物学について全くの素人解釈ではあるが、高校生が学習する初めに同じ思いを持つかと思って、アデノシン三リン酸のエネルギー論に対する疑問を拾い上げておきたい。それは高校生の考える『生物学』の参考にもなるかと思うからでもある。

?1 最初の?としてアデニンと言う分子(遺伝子DNAを決める塩基)を取り上げたい。この分子は?2のDNA(4種の塩基)の中の一つである。大よその理解で考えれば、この4種の分子が全ての生物の遺伝情報を支配する基本分子であるようだ。人間に必要な『必須アミノ酸9種』は人が外部から取り込まなければならないとされている。しかし、このアデニンはどこで合成されるのか。植物の光合成でのみ得られるものなのかと疑問がある。人が細胞内で合成生産できるものなのか。他の3種の塩基も同じくどこで産生されるのか。細胞内での細胞分裂では無限に必要な分子であるから、常に細胞内に取り込まれていなければならない筈だ。4種の塩基、リボースの糖およびリン酸が十分に供給されなければならない筈だ。その上で、生命活動に必要な『エネルギー』の供給に何故ATPだけが論点に成るのかも知りたい。他の3種の塩基チミンT、シトシンC更にグアニンGはなぜ『エネルギー』論の対象から外されるのか。例えばグアニンGもアデニンと似た分子構造であるから、リボース、リン酸と合成されGTP等と言うものも有っても良かろうと素人は考える。何故アデニンだけが『エネルギー』論の対象に成るかが考える理科教育には重要な論点ではないかと考える。教育者及び『学習指導要領』関係者はその辺の事も「考える」疑問に答えて欲しいのだ。そこに今、今日からの子供達の未来が掛っているのだ。

?3(リボース) 勉強不足で申し訳ありませんが、時どき結合手の表現でこのような太線表現がある。炭素結合の表現法であろうが、特別の意味があるのだろうか?

?4 ATP アデノシン三リン酸の『エネルギー』論の解説で、ATP→ADP+エネルギーと示される。リン酸が3個から2個に減少して、その結合分の『エネルギー』が放出される意味らしい。じゃあ、2個から1個にもならないのかと疑問が浮かぶ。更にそんなリン酸1個が分離するだけで『エネルギー』が得られて、そのエネルギーはどこにどのように使われるのかと質問したくなる。自分の高校時代を思い出すが、授業中に質問ばかりして、授業の進行を妨げた事をお詫びしなければと思いだした。御免なさい。それにしてもリン酸1個が合成されるか分解されるかで、『エネルギー』が論じられるなら、アデノシンの部分は大げさで、図体だけの邪魔なのじゃないかと思った。そのアデノシンの部分は『エネルギー』供給にどんな役割を担っているのだろうか。アデノシンの分子構造が酵素との結合に重要らしい事は説明されているが、『エネルギー』の発生にどんな役割があるのかが見えない。結局『エネルギー』とは何かが見えないのだ。

?5 結合手 結合手の2本線と1本線の違いは意味があるのか。ベンゼン核の分子構造とその立体構造の問題であろう。『電荷』の電気結合手表現であるのだろうが、ベンゼン核の炭素は6個とも対等であろうから結合手1本と2本の違いは無い筈だ。しかも空間構造も平面的ではなかろう(2018/01/03 考えが変わった。ベンゼン核が平面構造であるとすれば、その対称性は軸性とエネルギー貯蔵の機能を担っているのかと考えられる)。そのことから、アデニンも立体的な構造を考慮した表現では、結合手1本、2本の差は無かろう。もし窒素Nに1本と2本の差があるとすれば、その立体空間構造でもその差異を示さなければならない筈だ。すべてが『電荷』概念の結合手に基づく科学理論の根本的問題なのだ。この世界に『電荷』等実在しないのだ。なお生物学においてはベンゼン核は殆ど無関係のようで、取り上げられない。

?6 水素とプロトン 分子結合には必ず水素-Hがある。水素とプロトン(陽子)にはどんな違いがあるのだろうか。水素は世界に存在する最小の原子で、質量の構成単元とも言えよう。その陽子と水素原子は質量で差はなかろう。元々もし電子・電荷を仮定しても、その『電荷』は核の陽子と電荷的に釣り合っていて、外部と結合する電気的力の働きを持てない筈だ。だからもし水素原子の結合があるとすれば、素粒子の陽子が張り付いて、質量のバランス程の意味しか持たなかろうと思う。陽子なら水素原子以上に小さな質量単位と考えられる。

「理科基礎(仮称)」の生物学 化学とも関係する分子構造に関して、その詳細が解って来たように見受けられる。その構造の決定法が教科内容のトピック的に取り上げられれば、科学技術として有効な教育効果をもたらすと思う。それは素人的にはとても興味がある問題だ。また、人間の身体的機能、臓器の働きあるいは循環器系など保健教科と重なるかもしれないが細胞理論より大切と思う。

神経細胞とその機能 常日頃の疑問。出来たら教えて欲しい。身体活動全てで、その働きを支配し制御するのが神経伝達系だと言うように解説されているようだ。神経細胞を通して指令信号が『脳』から発しられ身体活動が起こると解釈されているように思う。しかし、神経伝達方向は末端から『脳』に向かって神経細胞を通るのではなかろうか。『脳』からの発信信号は神経細胞を通るより、身体構造全体、骨格、靭帯などを通して伝達される。神経細胞はすべての情報を検知し、理解するフィードバック信号の伝達機能を担っているように思う。五感で受け取る情報を常に『脳』で把握していなければならないから。こんな人間臭い素人の話は、高尚な学理の問題として取り上げるべきでないと言われそうだが、蛙の受精論より身近な大切な話と思う。日常生活に根差した新しい理科教育を行うべきと考える。関連記事に脳の機能と個性および脳と生態制御の謎がある。

アミノさん(amino acid)を追って

何故かと『問答』に落ちる。生物に関する基礎知識が、自然科学分野の中でもいびつな程欠落している自分を知る。生命活動の全体像を認識する等とても無理ではあるが、少しでもいびつさを無くしたいと思って、アミノ酸を追いかけてみようかと奮起する。水や酸素を誰が地球上にもたらしたか等の疑問を解けずに、更にアミノ酸をも疑問の仲間にしてしまう。追いかけることは、疑問を膨らませて、はじめて全体像への取り組みが出来るかと思う。高等学校の1年生で、生物の授業を受けた。蛙を解剖して、皮を剥いだ太ももの部分に電極で電流を流して、神経の動く様子を実験した記憶がある。それ以来生物には無関心で来た。無知識の愚痴かと笑われそうだが、理解できない愚かさを曝してみる。一般的市民の常識が自分程お粗末ではないと思うが、桁違いの無知をお笑いください。

疑問 愚か者の大疑問としてアミノ基を問う。アミノ基NH2- は窒素原子Nに水素H2が結合した分子の一塊りと理解する。その原子結合はどのように確認出来るのだろうか。本当に水素が二つ結合していると実験的にどう確認出来るのか。水素と陽子に違いはないと認識する。電荷否定の現在、原子結合論を根本から考え直さなければならない。タンパク質、酵素の分子構造の確定とその意味を問う為の原点として問う。その他の疑問を拾ってみよう。①地球上の生命は全てが20種のアミノ酸で賄われるのは何故か。それはDNAがたった4種のヌクレオチドであることを考えれば、不思議と言えないかもしれない。アミノ酸は側鎖によって規定される。②何故植物が全てのアミノ酸の合成機能を持ちうるのか。③フェニルアラニン、チロシン等の必須アミノ酸のベンゼン環を合成する機能は何者が担うか。植物が合成するのか。新たなベンゼン環合成経路を微生物で発見、その詳細を解明参考。④直接太陽系の根源のエネルギー源、日光を生命の生合成に利用しているのは植物である。その吸収したエネルギーの質量変換が地球の形体を増加させて来たと考えざるを得ない。太陽の恵みに直結した植物に全てのアミノ酸生合成を託した意味は何だろう。人間にも光合成に当たるものがあるようだ。太陽光線を浴びると、副腎皮質が鍛えられ。皮膚からビタミンDの合成が行われると言えるかも知れないから。太陽光線が人の生合成の一端を担っているのか。⑤その地球の生命の基を人間が破壊し続ける愚かさは何故だろう。森林破壊と環境過熱化の人間の業は?⑥ビタミンは天然で、何が合成するのか。レモンにはビタミンCが多いが、それもDNAが関係するのか。全てのビタミンの分子構造は決まっているのか。⑦タンパク質に似たものに酵素(細胞によりつくられる、触媒の働きを持つタンパク質と定義されるらしいー追記ー)がある。酵素もアミノ酸の生合成から出来ると思うが、どんな機能で、何が造り出すのか。酵素はDNAには関係していないのだろうか。

今日ITで、高等学校の生物学の授業風景を見た。ニューロンの解説授業だ。余りにも無味乾燥で科学授業という感じを受けられない。只用語を伝達しているだけであり、記憶は科学論ではんない。そんな教育は科学への興味を失わせるに十分の効果満点であることだけは間違いない。科学論と成らない内容は題材に取り上げるべきでない。理解できない疑問点を取上げて教える事が重要である。

思い付く疑問を羅列してみた。こんなに理解できない、疑問だらけの自分を曝しても、みんなが納得できる生物学になって欲しい。最先端の医学の実情を理解する事が市民の務めでもあろうから。血液から全ての身体の状況が調べられる現実を考えた時、科学リテラシーという社会的課題を克服しなければならない。『電荷』という偽概念で論じる全ての科学論は排除しなければならない。

染色体と遺伝の仕組みは?

(2023/08/15) 追記。全くの素人がこのような記事を書いていた事誠に申し訳ありません。赤面の至りです、🙇。

染色体と遺伝について 『相同染色体』と言う専門用語がある。概略それは同じ染色体が対を成している事を指しているようだ。だから46個の染色体があるが、23個の染色体が二組だと言われる。その中に、xとyあるいはxとxの性染色体も含むと。それを信じれと言われても疑わざるを得ない。確かに、形状が似た染色体が対を成しているのだろう。しかしその対と考える『相同染色体』は、遺伝情報が似ているだろうが、決して同じとは考えられない。『相同染色体』は何が同じで、何が異なるかと言う基本的な意味が隠されていると思う。

専門用語『相同染色体』の意味するものは? 大体の意味は、同形で同大の似た染色体が分裂への移行時にはっきり見えるらしいので、その対の物をそのように表現しているだけのように思える。わざわざ相同染色体と言う程の意味があるのだろうか。専門用語はその厳密な定義がはっきりしている事が必要だ。その意味で、その対の染色体が互いにどのような働きをするというのかが明確なのだろうかと疑問に思う。もしその対の染色体が全く同じであると断定できないなら、その違いが細胞分裂時に果たす意味はどうなるのか。そこまで明確に論理的に説明できるならまだしも、もしそうでないなら『相同染色体』などの用語自体を使うべきでなかろう。ほぼ形、大きさが同じであるだけなら、分裂時にどのような組み合わせで遺伝情報が伝わるかの説明が出来ない筈である。分裂時ごとに次々とその場限りの遺伝情報が伝わる事になる。結局44個の染色体と性染色体2個の合計46個の情報が伝わらなければならないという細胞分裂理論と異なる話にもなってしまう。同形、同大の対の遺伝情報が細胞分裂ごとに同じ組み合わせに必ず成るという保証も確定している訳ではなさそうに見える。特に教育の場の指導内容になると、指導者・教育者が専門家としての専門性を業界用語で不明確な部分を曖昧に誤魔化して過ごす傾向があるように思う。この『相同染色体』と言う専門用語に、象徴的に現れているように思う。未だに細胞分裂時における遺伝情報がどう伝わるかの細かい部分は分かっていないのじゃないかと思う。

男性の場合は 全ての細胞の核はx、yの染色体を持っているのだろう。xだけとかyだけと言う一方だけの情報伝達ではなかろう。ならば全ての染色体の情報46個が分裂時にそのまま全て伝わると考えたい。素人なりの疑問である。

受精卵 受精卵の対の『相同染色体』は存在し得ない訳である。その46個の染色体は対を成し得ず、異なる筈だ。それがどのような細胞分裂を起こすか、対の染色体からの解釈では細胞分裂の意味が説明できない。受精卵の最初の細胞分裂はどのように蛋白質合成の遺伝情報をコード化するのか?46個の染色体は母親と父親から半分ずつ、23本ずつ別の遺伝情報の染色体と考えるのだが間違いだろうか。その場合の最初の細胞分裂から説明がつかなくなってしまった。

人間だけの特有性 人間だけでなく、染色体の遺伝情報は多くの場合に似ていると説明を見たように思う。人間だけの特有なものは何だろうか。相同染色体の用語で疑問だけの記事になってしまった。細胞分裂と遺伝の関係くらいは理解したい。

生命の法典を探るの記事を書きかけで投げ出している。兎に角、生物学の基礎は難しい。脳と生体制御の謎細胞分裂の意味を問うで素人の疑問を記した。高校生の教科『生物』の内容くらいは勉強しようと参考書を見る。とても理解できない内容だ。生徒も記憶の訓練の我慢の教科かと同情する。大学入試受験対策は無意味な負担が多過ぎると思う。しかし、また生物の記事、DNAや生命誕生と生体についての記事「生命のはじまりと脳」を書くつもりだ。

細胞分裂の意味を問う

(2014/04/23)追記。昨日初めて理解した事。以下の記事(本文)は基本的なDNAの解読コードの存在を知らなかった無知の上での認識で、実に恥ずかしい限りである。しかし、記した疑問などは、解読コードの無知による非難を受けるかも知れないが、余り変わらないように思う。生物学基礎の教科書の内容にはアミノ酸結合の重要なコードに一言も触れていないため、意味が全く理解できなかった。遺伝子解読されて、DNA配列にアミノ酸の情報が隠されている事は、生物科学の教科書で、最初に解説すべき事柄と思う。DNAとアミノ酸の暗号表に明快にコードの意味が示されているので参考に挙げさせてもらう。その重要な知識解説の無い教科書など意味がないと思う。20種のアミノ酸の結合から蛋白質合成がされる仕組みがDNA配列に隠されていた等、その生命の神秘さは単純さの中の自然の極意と理解したい。単純こそ素晴らしいと。遺伝情報コードの存在を知り、また新たな疑問が湧きだしそうな予感がする。

(本文)生命活動の生化学的意味を探ろうとして、初歩的な知識を得ようとしてみた。余りにも高度で、複雑な為どこから学習すれば良いかも分からない。先ず初めは『細胞分裂』と言う現象を確認しようと、いろいろ調べるが、欲しい知識が得られない。何か漠然と彷徨っているだけのようだ。遺伝に関する不思議はダーウインからメンデルの法則を通して、細胞核のDNAの知見に辿り着いた。生命の不思議に寄り添うと、生物学の細胞分裂の解説に辿り着く。しかしそれ以上深みの知見には辿りつけない。何か『細胞分裂』の解説で全て終わったかの如くに、専門家の論説を見ると思える。

蛋白質の生合成は? 細胞分裂とは細胞の死滅と細胞の増殖を司る、生命の保全の基本的仕組みの現象と理解して良いかと思う。しかし、それは『細胞分裂』の教科書的説明からの理解でしかない。細胞がどのような蛋白質かと考えて問うても答えが得られない。DNAと言う決まった4種類のデオキシリボ核酸の配列で、遺伝情報を保持し、その分裂現象で同一の細胞を作り出すという事しか理解できない。それでは例えば『筋肉細胞』を取上げて考えた時、その筋肉は蛋白質で特徴付けられた細胞であろう。筋肉の身体運動を制御する収縮動作を説明する筋肉高分子の遺伝情報はどのような形で再生に働くのかと考えても理解は出来ない。『細胞分裂』がどのように蛋白質の合成に役割を果たすのかが基本的な基礎知識と考える。細胞分裂などを知っても役に立たないように思う。

細胞分裂と生体分化 受精卵が細胞分裂の始まりと言う。細胞分裂で、同じ細胞が増殖しても生体には成らない。単一細胞が増えるだけでは細胞の塊でしかない。全く生体・生命には成らない。だから細胞分裂と言う意味には、何も重要な命の仕組みが言い表されていないのだ。ips細胞などが時代の最先端の医学生理学の研究対象となっている。そこでは再生医療としての最先端研究が進んでいる。細胞がある環境に置かれる事で、様々な細胞に変化するということらしい。それが生体の生成の意味で重要な訳である。たった一つの細胞・受精卵が分裂をして、シーケンシャルに様々な細胞に変化しながら細胞増殖を計る訳であろう。人なら10カ月で生体が完成して誕生する。何が細胞分裂に生体分化の指令を命令するのかが大きな疑問である。『細胞分裂』は何も説明していない。細胞分裂が蛋白質へのアミノ酸合成に何の意味も示していない。中には蛋白質は肝臓で作られるとも説明がある。医学生理学の学問体系は素人が理解できるほど容易なものでないとは分かるが、余りにも市民的な理解に啓蒙的役割を果たしていないようで残念である。細胞の核酸は身体のどの組織の部分でもすべて同じものなのだろうと解釈している。それなら、様々な生体組織が同じくは無い訳であるが、それはどのような細胞の核酸の働きで異なる生体を作り出しているのだろうか?筋肉も神経も皮膚もその細胞の核酸はどのように遺伝情報を細胞分裂で機能を発揮するのだろうか?

専門的研究者に求められる事 細胞分裂がどれだけの意味を持つかを解り易く市民に解説して欲しい。それにはどのような事が解らないかを指摘することが重要と思う。疑問点を明確に示す。それがこれからの専門家に課される課題であり、それに答える義務があると思う。多くの公的予算を使うからには其れが市民に対する義務であり、役割となろう。勝手な要求かもしれないが能力の無い者の言うことと御勘弁の程。

細胞分裂とは何か? 結局筆者には今のところ『細胞分裂』の生命に対する意味が理解できない事だけが分かった。残念ながら、細胞分裂にはあまり重要性が読み取れないのだが、どう理解すれば良いか。

細胞分裂に関して浮かぶ素人の疑問 ①生体維持を司る機構は何だろう。身体に傷を負う。単純すぎる疑問であるが、その傷は細胞分裂で修復するのだろうか。②古くなった細胞を何が何を原因に判断するのか?一つの細胞は自分の細胞の維持管理を支配するのか。あるいは隣同士の全体の繋がりとして評価するのか。③皮膚細胞一つの意味も難しい。皮膚細胞も異なる細胞の層で構成されている。表皮、真皮、皮下細胞と複雑な組織から成り立っている。それらも様々な蛋白質で構成されているのだろう。皮膚の感覚を司る機能はどのような仕組みかも理解できない。微妙な接触感覚の神経細胞は?等も疑問だ。④細胞分解と癌。細胞分裂では生命維持の機能は説明できない。不要な細胞を正常に分解する事が必要である。それは素人なりに考えれば、『細胞分解』の機能と言えよう。細胞の古さを何が判断し、その細胞をどのように分解するかで、細胞の正常な機能が保持される筈だ。もし細胞が正常に分解できないとしたら、その細胞は正常な状態でない訳だから、異常細胞すなはち『癌細胞』の状態に近いものとして残る事になろう。最近は食品にも多くの異常な化学物質が添加されるから、所謂食品添加物が細胞の組織に悪影響を与える事を否定は出来ない筈だ。科学技術の恩恵と同時に有毒か無害かの境界の危険な生活環境に生きているだけ、複雑な身体状況に陥り易くもある。⑤運動する筋肉細胞の働きは細胞連結による機能。細胞分裂で筋肉細胞の身体的運動の仕組みは解釈できない筈で、筋肉細胞がどのようにアミノ酸合成をされるかも不明である。身体運動は筋肉細胞同士の全体の連携作用で機能される訳だと思う。素人としてはその辺の基本的生命活動の仕組みが知りたいと願う。など幾つかの思い付きを上げて見た。余りにも『細胞分裂』が中心になった専門的解説では物足りないのである。

自然・科学・哲学

科学、自然科学について様々な面から眺めて来た。その過程で、闇雲に取っ付いて彷徨う事も多かった。今まで何かを求めて来たが、何を得たかも分からない。ただ、少し安心出来る精神的なゆとりを得たかもしれない。昔「臨教審」で話題となった「ゆとり」の意味が理解出来たかもしれない。(自分のゆとりを得たかもしれないと言う意味は、余り学問として常識化している学術的専門領域に囚われないで自由に自然を観測し、解釈をしてもそれ程「誤った結論」には成らないかの安心と言う意味で?)現在の「学校教育態勢」は、残念ながらまた以前の「詰め込み教育態勢」に逆戻りしてしまった。子供達は忙しく、机に向かう時間だけが増えて、余裕の中に生まれる「個性的発想」の余地は無くなるだろう。自然・科学・哲学そんな中で、今思う事を筆にしてみた。生物多様性の世界が、この地球星の宝物である。それは「自然」の世界である。人が関わる世界は自然を犠牲にして築いて来た世界である。先日も「日本かわうそ」の絶滅が表明された。その生物多様な世界を破壊する人の活動の一つが「科学」と言う分野で捉えられよう。科学的知見である「生命科学」のDNA一つを採り上げても、「何故DNAか?」の本質には答えられないのである。光とプリズムの関係を採り上げても、本質的理解には到達できないのである。「科学」とは人の社会の世界観でしかない。自然を理解しているかと言えば、殆ど知らない世界と言って良かろう。法則で捉えるが、それなりの仮想的社会評価の手段の一つでしかない。そこに『哲学』と言う分野が生まれる。自然科学と言う言葉を使う。『自然』と「科学」を合わせた使い方である。自然科学の意味は、自然を分析して、その本質を分かり易く理解する手法を整えるぐらいの捉え方で良かろう。しかし、標題のように『自然』と『科学』を分けた訳は、そこにそれぞれに特有な意味の違いが有る事に視点を絞って解釈してみようと考えた。

自然 nature  改めて自然とは何かを考えてみたい。字句の意味は「自ずから燃える」であろう。自然の特徴は束縛されない自由にあろう。自然は全裸無垢の生命と観た。植物も動物もその生きざまを精いっぱい生かし切ることに専念している。何も隠しだてが無い。人も初めから衣服を纏う事は無かっただろう。群生する草木、群れをなす動物などそれぞれの生命の生態は多様である。地球の生命の多様性を見て、その全てが水、海、風、陽、土、時の偶然と必然の運命に任されて、産まれたと解釈できよう。植物と水の初めの産まれ来た謎ー天然の精水ーは解けないが、生命と生命の関わり合いで地球の歴史の歩みに盛者必衰の影を残して現在に至ると見られよう。その来し方も僅かな手掛かりで推測するしか知りえない。例えば、化石と硯もその謎を見せる。人類もその自然の一部として生まれて来た。この人類を自然の生命の多様性の一部として見ようとすると、人間だけは他と違うと異論が聞こえそうだ。何故この人類を地球に生んだかは自然の意味を解くにも大きな疑問にして良かろう。確実に言える事は、地球に人類を生む必然性と偶然が有った。それも謎である。今の地球の環境に思いを馳せれば、人類は現在の地球上の生命の全てを入れ替える為の仕組みに生み出した「神=自然」の仕掛けかもしれない。未来に辿り行く先に生命の危機が仕掛けられていると。全てが「自然」の力である。地殻変動も地球の中心部からの必然的要請で有れば、どんな「天変地異」が有っても、想定外などとは言えない筈だ。人知を超えた地球の営みの上に人類も踊らされていると見て良い。核兵器も人間の驕りによる、その自然破壊の引き金としての人類自身の仕掛けとも見られよう。人類に『智慧』が有れば未来を切り開けようが?こんな自然の見方は、反発・非難の対象となろう。

科学 science  自然の本質・真実を説き明かそうとする学問が「自然科学」であろう。他にも科学と付く学問分野は数知れない。社会系の科学は、人を理解するには謎が多過ぎる、人の集団化に伴う行動、それ等を社会性と見た解釈など対象とした学問の重要な分野の科学をなしている。しかし、時と言う尺度に乗せて、その科学論を眺めれば、その論理が本当に『真理、原理』として間違いなかったと言いきれない場合も多かろう。社会科学は言うに及ばず、自然科学においてさえ、多くの怪しさに包まれている。何故そんな事に成っているかを考えて置くことが未来に対して重要と思う。その事は、科学は人間的世界観でしかないからと言い切れよう。人がその時代時代で、諍い、抗争あるいは戦争の宿命の中でより有利な権力支配の標準的評価基準を纏める手法として構築して来たものであるからであろう。時代に合う『法則・原理』の有効性を求めて来たと考える。社会的な原則で、「国家」と言う統治概念の正当性もその意味の中で解釈する事も出来よう。「国家」と言う存在形式が絶対的真理とは言えない筈だ。自然科学も歴史の中で、それぞれの時代の偉人達によって、その努力の賜物として生み出された『法則・原理』である。しかし、時代が変われば、その解釈も変わるのである。特に自然科学に於いては、自然は複雑性を持ち合わせていない。その自然の原理・原則は「単純性」にこそその特徴を秘めている。だからこそ複雑な多様性を実現できるのである。ここで一つ言わせて頂きたい。世界を構成する素粒子が17個と言う論を信じる事は出来ない。特にヒッグス粒子が質量を生む基の素粒子などと言う科学論は受け入れられない。そんなに複雑性は無いと考える。質量はエネルギーの局所化した姿である。『エネルギーと質量の等価性』はヒッグス粒子を必要としない。ヒッグス粒子の不可解

哲学 哲学と言うと大変難しい学問と見るかも知れない。しかし、その意味は簡単な内容と思う。実践では困難が伴うだけであろう。哲学は破壊、恐怖そして安心。哲学は孤独である。それを筆に表した。「デカンショ節」も昔の唄になる。昔、蛮カラ学生の街に自動車も無い時代の良き学生の高揚歌であった。デカルト、カントあるいはショーペンハウエルと得意になって口にした哲学の話も今は昔だ。知識はITで検索でき、携帯端末の電磁器械と話をする。大学の哲学も哲学の歴史教育になる。本来哲学は時代を切り取り、新しい解釈をする学問と思う。新しい解釈は大学での教育としては困難が大き過ぎよう。真の「哲学」は時代の常識を破壊し、社会との亀裂を覚悟し、恐怖に打ち勝たなければ、新しい解釈は唱えられないから。その行き着く先に、透徹した眼力が無ければ、最後まで辿り着く事は至難の業であるから。そんな哲学の道は学生には向かない。決して集団での活動に、真の革新は生まれないと考える。孤独での自分との戦いに入るのが哲学と思う。自分が納得する為の道程であろうから。単純な言葉で表現すれば、哲学は気違いと世間から罵られる懼れの道である。哲学は社会常識を破壊する道である。今でも科学常識は『電荷』が物理学、科学理論の基礎概念と捉えられている点に集約されよう。

ゆとり 精神的な安堵が得られれば、一安心と言えよう。しかしそれは「科学理論」の世界に対しての事でしかない。ゆとりが常識の中に潜む『嘘』を見抜く力を得たように思う点にあるだけでしかない。何百年と世界に浸透した社会常識は簡単には崩れないだろう。学校で使う理科の教科書を電荷や電流なしに書けないだろう。『電流』をどう取り上げるかが問われていよう。電流は流れず で電流の教育的意味を考えてみた。社会体制を維持するためには、真実と真理は都合が悪く見られ易いのだろう。地動説を唱えて、宗教裁判(1613)で「有罪」の宣告を受けて1633年に幽閉され、三百何十年後に名誉が回復されたと言う偉人、ガリレオ・ガリレイの例も有る。生活にゆとりが欲しい。

原子と分子の妙

自然を見つめて、その心・生命を感じ取りたい。しかし、余りにも多様な現象に彩られていて理解も難しいと脱帽する。古代から物質の本質は何かと、人はその頭脳で問い続けて来た。『原子』という極微の世界が物質の基と理解した。しかしそれでも悟れない。様々な原子が繋がると「分子」になる。自然世界の生命とは何か?がとても大きな不思議を突きつける。何故か?人間が生きる活動を原子が造るかの、その単純性に驚かざるを得ない。生命の驚異はDNAがたった4個の塩基A、C、GおよびTが基礎になって作られている点にある。そのDNAと生命との関連性を感覚的に理解する事を含め、感覚的会得を遥かに超えた不可思議に世界が彩られている。また、原子と言う極微世界は、様々な粒子の複雑な結合による未だ未知の不思議を秘めていると解釈したい。周期律表で示される程明快に捉えられているとは考えにくい。全ての本質は『光エネルギー』ただ一つに集約されよう。世界の全てが、生命の全てが光から出来ているとも言えると解釈する。

原子の周期律表 (2012/07/13) 追記。下に提示した「原子と対極性(絵図)」を考えている内に、感覚的に捉えきれない疑問に突き当たった。それは「化学」の科目で初めに学習する周期律表である。今まで気付かずに過ごしてきた疑問がある。

それは、原子の中心核が陽子と中性子の組み合わせで構成されているという単純性である。例えば、不活性ガスのネオンNeと次のナトリュウムNaの2つの元素を比べた時、その原子核の結合の違いが余りにも異なる元素の性質を示す事に驚く。Neより中性子が2個、陽子が1個増えたのがNaである。Naは極めて危険な金属である。水と接触すれば、激しい反応で熱と水素放出を起こす。Neは通常では、何も化学反応を起こさないと思う。その違いは何が生み出すのかとても不思議に思う。こんな基本的な事、元素の特性の差も感覚的に感じ取れない訳だから、分子結合の特性などさらに複雑な意味を含んでいて納得出来ないのもやむを得なかろう。この周期律表をまとめた先人の偉業に改めて感心と尊敬の念を抱く。原子の特性を表から考えるだけで、無限の未知に入り込めるようだ。

金属と気体の配列順序 原子の特徴を考えながら、周期律表を眺めて見る。その原子配列を見ると、そこに大事な疑問点が見える。通常で、気体の原子を拾ってみれば、水素、ヘリュウム、窒素、フッ素、ネオンそこから飛んで、塩素およびアルゴンと順番に並んでいる。原子の特徴を構成する基は、やはり原子の核であろう。即ち原子の性質は陽子と中性子の結合核が示すものと考えたい。塩素 Cl が金属元素 Na . Al . Si より核の原子量即ち質量が大きいにも拘らず、気体の特性を示す事をどのように解釈したら良いだろう。気体と金属の違いはその密度に違いがある為と考える。ナトリュウムが金属であると言う事はナトリュウム原子同士が金属としての特性である高密度の結合をするからであろう。ナトリュウムは空気に触れると反応するので、石油等に貯蔵するらしい。塩 NaCl の分子については、それが地球の誕生とも関係して、生命の環境の基『海』に産する事から考えても、その Na および Cl に特別な深い意味を感じる。塩水の電気分解を考えるに、原子の周期律の意味を考えておきたいと思って、疑問点を挙げた。ここでも答えらしきものが示せず、ただ疑問提示のみである。(2012/07/15)記。

標題について。『妙』という漢字の意味のとても深い事を知った。漢和辞典によれば、「物事が到達する善美完全の極域、神髄、精微、極致。などとある。「神妙」は人知を超越した、霊妙不可思議な働きや現象。等という解説もある。漢字「妙」の意味が自然世界の不可思議を表現するに合っているように思う。今回こんな表題で書き始めた訳は幼稚で単純な疑問が浮かんだからである。生命に欠かせないと言う塩分の塩化ナトリュウムNaClと塩酸のHCl の分子の特性が余りにも異なる。その訳は何が原因かと思ったからである。こんな単純な疑問は、素人に特有な幼稚な発想であろう。科学論には成らないものであるかも知れない。ともに塩素原子Clがある。あとは水素 H とナトリュウム Na が結合しているだけで、想像できない異なる特性を示す。化学の授業で、先生はその訳など簡単に解説できるのかも知れない。我ながら専門家で無い者は勝手な事を書き記して、社会的混乱を引き起す様な事があれば邪魔者になり、実に恐れ多い事で恐縮します。この疑問が、後日良い『問答』になれば嬉しい。不得意な化学と言う教科は現在も変わらない不可解さに戸惑っている。電荷概念を棄却したらどんな分子論になるかを考えて見たくなる。上の絵図の題で原子と対極性とした。『対極性』とは、プラス、マイナスでのイオン原子結合論に対して、電荷概念を棄却する論点からの2つの対極的特性と言う捉え方で解釈しようとする事の意味を表現した。水素イオン表記はH^+^であるが、+に対して、H^○^のように○で表記する。水酸基OH^-^はOH^●^で表記する。+、-の慣れ親しんだ表記と変わりないようであるが、少なくとも電荷のプラス、マイナスの実在的空間像を示せない曖昧さを排除するには十分意味の有る試みと思う。上の絵図を基に、幾つかの疑問を採り上げて、論じるつもりである。

不活性原子像 原子は多くの種類があり、それぞれ規則的な周期性で特徴づけられる。外殻電子数でその特徴を解釈している。電荷を否定すると、別の解釈を提示しなければならなかろう。それを説明するに、「不活性ガス原子」を採り上げる。原子の外形はほぼ球形で捉えれば良かろう。その寸法も外形も本質的には固定されていないと解釈する。ほぼ球形で空間を占有する実体と思えば良かろう。そこに周期性が八で特徴付けられると言うなら、球表面を8等分して印を付ければ分かり易かろう。しかし図形表現が難しい。そこで、正8面体構造を表現してみた。それが右図の正三角形での8面体構造である。球の中心に対して、印(赤丸と青丸)を付けた方向に原子周期性の特徴を捉える解釈である。この赤丸、青丸の意味は炭素結合の秘め事に示した意味である。原子間の結合力の基本を電荷概念に基づく『クーロン力』が現代物理学の基本法則になっている。それは原子核理論に於いても同様である。電荷の『クーロン力』を排除したら、現代物理学の理論的論拠を失うと思う。その『クーロン力』の代わりに『磁気エネルギー流』が極微世界の結合を支配している全てであると解釈する。上の正8面体の展開図を示そう。原子間結合力は磁気力である。それは地球磁場と同じ、地球表面のエネルギー回転流と同じ解釈に繋がる。不活性原子の表面は八周期性の安定分布状況に在る状態と解釈すれば良い。N極とS極の隣同士の表面のエネルギー回転流方向もそれぞれ安定化を強める方向性を示す。極めてバランスの良い状態にある。この磁極の内の幾つかが欠けると、原子の安定性が損なわれると解釈する。そこに異種原子間の結合が起き易くなる原因が存在するとの解釈である。ナトリュウム原子と塩素原子の結合が塩NaClになると言う。日常生活に、また人の細胞の活動に欠かせない物が塩である。そんな意味で、化学を素人の見方で解釈してみようと思う。

原子と対極性(1)の① 塩の結晶と原子結合 先ず初めに、塩の原子結合の模型を提示する。塩は結晶構造を示すようである。ありふれた日常生活の中の結晶であり、雪の結晶に次ぐ単純性を示すと思う。ナトリュウム原子と塩素原子の結合をどの様な仕組みで捉えれば自分が納得できるかで考えた。ナトリュウムは周期律性で、1番目の性質を示す。塩素は7番目の飽和一つ手前の性質を示す。そのナトリュウムNaと塩素Clの結合を考慮した原子模型が上に示したものである。Naは不活性ガスのネオンNeの飽和状態から一つ何かが追加されて、不安定な金属元素と考える。その原子表面の不安定性を磁極Sの飛び出しとして解釈する。逆に、塩素原子Clは飽和原子アルゴンArに対して一つ表面に欠損が有ると解釈する。その欠損磁場がN磁極とする。

塩の原子結合 その二つの原子NaとClは右図の絵のように磁気結合として解釈すれば、自分は納得できる。余りにも単純過ぎて、論理性を数学公式で捉えたい科学論から見れば、魅力は無いだろう。しかし逆に、外殻電子の運動理論は原子結合には空間像として捉えるには矛盾が多過ぎて信用出来ない。運動電子間での結合などとても論理性で耐えられない筈だ。ここに示した分子結合は、単に外殻電子の周回運動論では決して分子結合の説明は出来ない事を指摘し、その解決法としての磁気結合が感覚的にも納得できようと言う意味で提示した。しかし「塩」の結晶まで考えると、疑問が解消しない。

塩の結晶に関する疑問 塩は精製されると結晶になる。しかしNaClという分子で完結したら、結晶には成らず、単なる分子の粉末状にしか成らないだろう。塩の分子同士が結合しなければ結晶構造には成らない。その分子同士を結合させる結合の仕組みは何かが分からない。塩を結晶として捉えれば、単なる分子NaClでなく、・・ClNaClNa・・・と無限に繋がった「塩」と解釈したい。方形状の結晶になる訳も理解できない。

(1)の②水分子 水は生命の水とも言われ、生きるに欠かせない物質である。考えて見れば不思議なものに思える。酸素Oと水素Hの原子結合として捉えられている。一般の水は不純物も含み、水素Hと水酸基OHのイオンに分離していると言う。しかしイオンという電荷解釈を否定すれば、磁気的結合で解釈する以外なかろう。自然を観察し、理解する事は学校教育では科学・理科の分野に入る。どうしても古い仕来りを踏襲する為、決まり切った事に偏り、日常の素朴な疑問から取り組む事には指導者側に、検定教科内容に縛られる事からの躊躇や怖気もあろう。例えば『水』を採り上げて、その意味を探ろうとしても、とても難し過ぎて手に負えない。水素と酸素が結合して水の分子になると言う。それでは水素とはどんな性質を備えているか?酸素とはどのような物か?と考えて、それが結合して水になった時、水素と酸素の特質がその水の特性にどのように現れているかと『問答』をして見る。全く分からない。それは水素と酸素の性質が良く未だ分かっていないからじゃなかろうかと思いたい。ありふれた水を採り上げて考えても、そこにはとても大きな疑問がある事に気付く。そんな疑問を大切にして考える事が、学校教育に求められているように思う。安易に答えが分かっているような事のみで済ます教育はもう時代遅れと思う。『疑問』を沢山子供たちに伝えることこそ本当の教育と思う。電荷概念を否定することにより、化学分子構造とその本当の意味が未だに分かっていないと考えるべきではないかとの思いに至る。水分子の妙と言えよう。ここでは疑問を拾い出しただけで、申し訳ない。答えるだけの能力が自分には無い。ただ水素と核分裂放出時などの陽子とは、エネルギー量に違いがあるだけで、同じものであろうと考える。

(1)の③,④塩水と電気分解 塩水は水分子と塩の結晶が混合されて、教科書的にはそれぞれがある比率でイオンに分離していると考えている。塩と水の溶け具合が分子論で、どのような関係であるかも私は知らない。Na と Cl が溶けると言う分離と、分子 NaCl のままでそれぞれが水に溶けると言う分離と塩水の濃度パーセントとの関係が如何にかも私は分からない。この疑問と不可知はそのままに覚えておきたい。そこで電気分解に進もう。この電気分解は「苛性ソーダ製造工業」に繋がる。『イオン交換膜法』が取られているようだ。情報検索すると、中学生の理科実験が出て来る。水素ガスと塩素ガスが二つの電極に分かれて発生する。しかし、塩素ガスと水素ガスの発生分量は同じくない。解説では塩素は水に溶けやすいから、分量が異なると説明している。そんな中学生の理科実験の問題さえ自分には理解できないのである。塩素が水に溶けると言う現象はどのような意味なのかが分からないのである。塩素分子は Cl_2_ と2個の分子が対に成っていると言われる。そのままの結合分子の形で水の分子の中に溶け込むのだろうか。あるいは、またイオン形に分離して溶けるのであろうか。そのイオン形に分離するのは電気分解を逆に戻さなければならないと言う矛盾から、不可能の論理に成る。では、塩素原子で水に溶けるのだろうか。ここにも大きな『問答』の謎が隠されているように思う。工業製造過程ではそんな事はもう解り切っている事かも知れない。やはり知りたい事である。無知は誰にでもあろう。気付かない無知より気付いた無知は希望になろう。気付いても知らぬ振りで、過ごす教育は犯罪に近い。気付いた無知の疑問は進む道しるべ。「問答」何故水素分子は H_2_ と二つの原子が対になるのか?基礎が大事と言うが、基礎ほど難しい事は無いのだ。学校教育で、詰め込む『基礎教育』という指導要領・内容は過去の踏襲の道標でしかないかと常に疑う事が欲しい。

(2)の⑤ Naは増殖炉『もんじゅ』の冷却材として使う、とても危険な元素でもある。配管破損で、重大なNa漏れ事故を起こした。世界はその危険性から、この冷却方式の原子炉の建設から撤退した。増殖炉は、ウランからプルトニュームPu燃料を造る原子炉で、水冷却では高温度の原子核反応が起きない為に、ナトリュウム冷却方式に成らざるを得ないのであろう。『文殊・普賢』菩薩が悲しむ未熟・危険発電などトンデモナイ事である。水との反応は反発性の激しい動きが特徴的である。その時おそらく発熱を伴うのであろう。その現象を⑥として表現した。Naが水分子を分解し、H2ガスを放出するのだろう。この現象がどのような訳で起きるかを知らない。自然現象は、「何故か」と問う事によって、その深い意味の理解に繋がる。しかし、ナトリュウムNaは余りにもありふれた元素でありながら、自分にとってはその単独の性質から当然であるとの感覚的会得には程遠い存在である。⑥の熱は何の質量が変換したものかを説明するのが科学論である。エネルギーと質量等価性は自然界の大原則である。

(3)の塩素 家庭での消毒剤が多く使われる。人間の都合で自然環境を破壊している。塩素Clはどのように河川で分解されるのか、どんな微生物に期待するのか。その廃棄物が最終的にどう浄化されるかまで科学的に環境評価アセスメントとやらは人間の生命の尊厳から知恵を出さねばなるまい。「秋アカネ」の日本の秋の象徴が消えた人間の罪悪。水が生命なら、水中生物の生命をどうするのだろう。塩素も塩の元素でありながら、塩と塩素との化学的特性の差に全く手も足も出ない無知を自覚している。

原発-安全の盲点-

今日本の原子力発電は全て運転停止になっている。関西電力の大飯原発再稼働が問題になっている。夏の電力不足がその運転を望む声を大きくしているようだ。運転再開の判断基準は「安全性」の評価に掛かる。政府はその再稼働を進めるための方策に苦慮している。監視カメラの設置等でその安全体制を強化する対策を取るようだ。しかし、それは殆ど意味が無いと思う。何を監視して安全評価を誰がするのかが理解できない。

安全基準 安全性は設備による機能強化と運転上の危機管理能力の二つに大別出来よう。自然災害の的確な評価とそれに基づく設備機能強化が当然求められる。しかし、ハード面の体制を万全にしたとしても、決して安全が保障されたとは言えない。運転要員とその人的態勢が最大の「安全対策要諦」と考える。殆ど未経験の事態が突然起きる。それでなくても「人間的」操作の不確定性が入り込み易い。人間の操作ミスが大きな事故に繋がる。高速鉄道運転事故や燃料自動車の水素ボンベ爆発事故(?)などとは原発の事故は規模が違う。原発の巨大科学技術の危険性はとんでもない規模である事は昨年の福島原発崩壊事故が示している。想定外の事象に対して、的確に対処するソフトのマニュアルが不完全であった事は明確である。それは極めて人間的な「非安全性」の問題が大きい事を示したと思う。科学技術が巨大なシステムでは、その安全性に人間の不確定性が大きく関わるところに「危機の問題」があると思う。人工的な技術は「安全性への自己制御」が利かないのである。自然の創り出すものは安全性が自動的に担保されていると見たい。「DNA」が生物を自然の設計で安全性への制御を担保していると思う。工学の科学技術の安全性は「帰還フィードバック制御」で暴走を抑えるように設計される。自動的に制御され、人間の思惑で暴走する危険が無いように抑えられる。しかし原発のような巨大技術は、人間の想定外の外乱が進入し、その対処に人間の不安定性が操作に介入し易い状況が本質的に隠れている。何時如何なる危険な事態が生じても、絶対に誤り無く対処できると言う人間側の対策が出来ているかという問題が大きい。その人間性の問題が『原発事故』の最も大きな人間的課題であろう。