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意味不明の訳語『放射能』

専門用語『放射能』が広く使われている。しかし、専門家はその用語の意味を的確に説明できるのか。私には全く理解できない用語だ。日本語の曖昧用語の代表格に取り上げたい。英語で、radioactivityを引くと、訳語に「物理」放射能、放射性などと示されている。辞書にあるので、使うのは当然で、異論を唱えるお前がおかしいと言われそうだ。それでは『・・能』と言う文字の意味は何を表しているのか。普通は「能力の高さ・強さ」等と有る現象を起こす強さのレベル、程度を意味する。『能』が実在するものではない。専門記事で、『放射能』の影響、あるいは『放射能』が有る、等と使う。『放射能』は存在するものではない。世界に存在しない。放射性物質が存在するのである。放射性物質の量により放射される、その放射線の人体への強度・影響などが問題なのである。存在するものは放射性物質あるいは放射線量であり、その人体への影響の度合いを的確に問題視しなければならないのだ。用語はその科学論の論理の明確さ、曖昧さを判断する基準の言葉である。訳語が紹介された時は、未だ放射性物質等と言うものの存在も理解されなかったであろう。今は時代が違う。
医学の専門家が、空気中のラドン、食物中のカリウムなどと言うものを取上げて、その放射線を浴びているから、原子力発電の放出した放射性物質の影響を過度に危険視するべきでないというような記事を書いている。そんな記事を見ると、その人は危険性を量的に的確に評価し切れていないと観なければならない。その方(ある大学の放射線医学県民健康管理センター長)の記事は 放射線と健康リスク(平成24年6月20日発行、消化器now No.57) の題で、こんな書き出しだ。「東京電力株式会社福島第一原発の事故後、放射能や放射線は私たちの身の回りにも存在することが広く知られるようになりました。空気中のラドンや食物中のカリウム、また、大地や宇宙から常に浴びている放射線もその例です。生物は過酷な地球環境で進化してきましたので、酸素毒(フリーラジカル)と比べても微量な放射能や放射線の影響への過剰な心配は無用です。」専門家が記事に書けば、普通はそれを信じる。しかしその記事は曖昧な世間的常識で記述しているとしか見えないから問題なのである。この書き出しは、その記事の主旨をまとめてあると観る。原発事故による放射線も普段の自然界による放射線も同じように存在するから心配無用だ。と言っているようだ。どうして無条件にそんな事を放射線医学の専門家が言えるのか。また、その方は「すでに私たちの体の構成成分には成人で7000ベクレル程度の放射能があります。そのうち4000ベクレルがカリウム40と言う放射性物質です。」と書いている。上の記事を、医学の他の専門家はどのように思うだろうか。7000ベクレル、4000ベクレルと言う値が人体に対する影響の度合いを評価できる物で無いことが解っていると思うが、何故殊更にそのような大きな数値を示さなければならないのかを考えると、記事全体に対するその専門家の意図を怪しいと解釈せざるを得ない。水素でも、酸素でもその原子のエネルギー保有状態と環境のエネルギーレベルにより、エネルギー放射をする。原子核分裂だけをベクレルと言う数値で区別することさえ怪しいのであれば、何千ベクレル㏃と言っても何の意味にもならないのだ。㏃ベクレル値が人体へのリスクを示し得ないのだ。蛍光灯の放射線でも水銀の紫外線もあり、蛍光物質からの放射線もあり、1秒当たりの放射と言う意味で考えれば同じ放射線だから。光でさえ放射線だ。光は目に見えて可視光線と言うけれども、原子・分子からのエネルギー放射に変わりはない。ただ違うのは、何ベクレルとは言わない。ベクレルと言う数値が厳密に何を計測しているかさえ曖昧であると考える。上の7000㏃の意味は、人体の構成成分の原子が全体で1秒間に7000回の核分裂をしていると理解して良いのだろうか。それではその元素は半減期がどのくらいと解釈すれば良いのか。そんな核分裂が人体の中で起きていると解釈すること自体が怪しい。それは一体何なのだろう?カリウム40の半減期は12.48億年と検索すると出て来る。そんなのが人体リスクに何の関係があると言うのか。専門家とは?放射能と発熱の正体は何か?(自分も使ってしまった放射能)等に関連記事。

原発-安全の盲点-

今日本の原子力発電は全て運転停止になっている。関西電力の大飯原発再稼働が問題になっている。夏の電力不足がその運転を望む声を大きくしているようだ。運転再開の判断基準は「安全性」の評価に掛かる。政府はその再稼働を進めるための方策に苦慮している。監視カメラの設置等でその安全体制を強化する対策を取るようだ。しかし、それは殆ど意味が無いと思う。何を監視して安全評価を誰がするのかが理解できない。

安全基準 安全性は設備による機能強化と運転上の危機管理能力の二つに大別出来よう。自然災害の的確な評価とそれに基づく設備機能強化が当然求められる。しかし、ハード面の体制を万全にしたとしても、決して安全が保障されたとは言えない。運転要員とその人的態勢が最大の「安全対策要諦」と考える。殆ど未経験の事態が突然起きる。それでなくても「人間的」操作の不確定性が入り込み易い。人間の操作ミスが大きな事故に繋がる。高速鉄道運転事故や燃料自動車の水素ボンベ爆発事故(?)などとは原発の事故は規模が違う。原発の巨大科学技術の危険性はとんでもない規模である事は昨年の福島原発崩壊事故が示している。想定外の事象に対して、的確に対処するソフトのマニュアルが不完全であった事は明確である。それは極めて人間的な「非安全性」の問題が大きい事を示したと思う。科学技術が巨大なシステムでは、その安全性に人間の不確定性が大きく関わるところに「危機の問題」があると思う。人工的な技術は「安全性への自己制御」が利かないのである。自然の創り出すものは安全性が自動的に担保されていると見たい。「DNA」が生物を自然の設計で安全性への制御を担保していると思う。工学の科学技術の安全性は「帰還フィードバック制御」で暴走を抑えるように設計される。自動的に制御され、人間の思惑で暴走する危険が無いように抑えられる。しかし原発のような巨大技術は、人間の想定外の外乱が進入し、その対処に人間の不安定性が操作に介入し易い状況が本質的に隠れている。何時如何なる危険な事態が生じても、絶対に誤り無く対処できると言う人間側の対策が出来ているかという問題が大きい。その人間性の問題が『原発事故』の最も大きな人間的課題であろう。