カテゴリー別アーカイブ: 日本の風物

名も知らない植物

(2023/07/14).
 
久しぶりに花の記事。

 2021年春、吉祥草の傍に咲いていた。
その名も知らない。花の名は❓ に咲いた花だ。

 この植物の葉も、上の花との繋がりを何か不思議に覚えた。同じ場所に現れたから。

 もし繋がったら、自分にとっては、驚きの発見になる。2年前は春の花。今年は花でなく美しい葉の姿で現れたから。
(2023/07/20)追記。この葉は吉祥草の花の傍に既に小さく見えた。気付かなかった。

 (2023/07/19).追記。
 この狭い庭には、不思議がいっぱい詰まっている。庭に石器か?

 庭の土を掘り返した。今振り返れば、突然吉祥草の花が咲いた。その辺りの土は思い出せば、質の良い粘土の塊があった。その土の中に不思議な石器らしきものが詰まっていた。その石器らしきものを纏めて上の記事とした。手ごろな刃物になる石器と鏃が粘土に包まれていた。その粘土の有った処に、吉祥草が咲いた。

 その吉祥草や不思議な冒頭の花が咲いた。石器時代の土が、その秘めた過去を呼び起こしたように❣ 

鳥海山の山頂岩石を見て

今日テレビで、鳥海山の山頂が映されていた。

改めて、検索した。

鳥海山 新山山頂の岩-木めぐり像めぐり。の記事の写真。

岩石に罅(ヒビ)が入り、独特の姿を現している。その解釈に溶岩という意味が記されている。しかしそれは間違いだ。庭に一つの石がある。その石にいつの間にか罅が入り、独特の割れ目を呈してきた。

その割れ目。

(1)

石ころの全体像。花壇の仕切り石にした最初の、硬い石の面影は既にない。数十年の時で、崩壊し始めた。見える自然の姿は儚いのかも知れない。

(2)

何時頃かから、石ころに割れ筋が入り、徐々に全体に罅割れが広がった。

(3)

先端部の割れ目の拡大。

岩石の罅割れ。岩石が溶岩によって出来たという専門家の解釈が信じられない。

山の山頂の岩肌には、その姿が火山噴火による溶岩に依った過去の姿を背負っているとは考えられない。山は巨樹の化石化した姿と、その岩石の形から捉えたい例が多くみられる。

川、大河には、その川独特の石が多い筈だ。信濃川には浅葱色(葱の葉色)の硬い石が多い。川によって、そこに在る小石も独特の特徴をもっている。代表的な例は新潟県の糸魚川に流れる姫川であろう。翡翠という石も、過去に地球の歴史を秘めた物として今ある筈だ。決して火山噴火の溶岩からとは観えない。

棲む近くの山を御覧なさい。高い山も、低い丘も、その山はどの様にできたのか。長い地球の歴史を背負って、今そこに在る筈だ。決して初めから有った訳ではない。太陽光線によって成長する生命体は植物しかない。植物、巨木が岩石となり、その石、岩石が徐々に崩壊して土となり、今そこに山となって有ると観る。植物によって成長する動物も多い。その過去の長い歴史を秘めた化石が無数に、人が知らないままに在る。宝石も当然その歴史の産物だ。

庭に在った石を花壇の仕切り石に使っていた。いつの間にか気が付けば、罅割れて、間もなく石の形を保てない程に崩れて行くであろう。そんな変化を見せてくれた。

鳥海山の岩肌を見て、庭の石の変り方からの観察観の披露とする。

奇跡の遭遇

日本雨蛙。

この写真は名刺にも使ったものを額に収めて、傍に飾っているものだ。『いつも脇にある』雨蛙と幼生生殖 (2012/10/04)の写真だ。

偶然とはいえ、こんな表情をされたら、撮る自分の気持ちをすべて見通しているよと言われているように思わざるを得ない。

普通の雨蛙の写真は多く検索結果に出ている。それは普通に昆虫を撮ったものに見える。少しも、特別の感情は起きない。しかし、この狭い箱庭に現れる雨蛙は、鳥などに捕食されずに残れば殆ど何処にも行かず、ずーとその狭い中で過ごすようだ。いつも現れる自分の姿も見慣れて覚えているから、こんな表情で写真に納まったのかとさえ感じさせる。他にも、梅の盆栽に毎日、毎日同じ枝で過ごし、筆者が近付こうが、写真を撮ろうが全く意に介せず、暑い陽を背に浴びて平然と日中過ごす、茶色の保護色(梅の木の茶色と同色)の大きな親雨蛙が居た。そんな生態の虫が雨蛙なのだ。冊子『雨蛙 その謎』(2006年7月)の裏写真の一部、上(2000/04/30 .撮影)がその蛙だ。

いつも脇にある、こんな表情を見て、皆さんは何も感じませんか?他にも、信濃川での鯉との出会い。雀の恩返し(稲穂)など考えられない不思議に出会った。

心は、その情報は空間伝播の『エネルギー』であれば、不思議も夢の出会いと思っても良いだろう。

こんな日本雨蛙に出会うこと自体が奇跡と思う。しかし、日本雨蛙が水中の「オタマジャクシ」の生態を採らないとの解釈に至るまでには他にも大きな観察の不思議があった。

それが右図の観察経験である。植木のため、土を掘った。其処に白い精々2㎝程の見たことも無い白い昆虫が、無数に塊となって絡み合いながら、蠢いていた。その時は、まだ雨蛙の事には関心も無く、青ガエルと捉えていたからそのまま意識も無く、埋め戻した。しかし、その後何年か経って、何故こんな水の溜まりも無い狭い庭に毎年雨蛙が30匹以上も棲んでいるのか?と気付いた。その当時は、まだ雨蛙の生態を常識の通りに水中の「オタマジャクシ」から成長すると思っていた。その不思議に気付いて、雨蛙に注意しながら、日々観察を無意識にするようになった。今は、年に1,2匹しか新生の雨蛙は出ないが、当時は相当多く居た。雨蛙は親雨蛙になるには相当の年数掛かるようだ。新生のものから、2年、3年と年数も幅が広いものまで居る。そんなことを観察しながら、土の中の白い虫の群れが居た事を思い出した。2度とそんな白い虫の群れを観ることは無い。その奇跡の遭遇が日本雨蛙についての、「オタマジャクシ説」の否定につながった。

蠢く(ウゴメク)の文字は?

春の新芽が生えて日差しが強くなる頃に、その草の下で虫が動き出す情景を象形文字にしたのが『蠢く』の文字に思える。白い虫の塊に成って、蠢くという意味に土の中の雨蛙の幼虫がそれに合うように思う。

しかし、日本雨蛙の土の中での生態は全く不明だ。幼生生殖かどうかの確認も出来ない。雄の雨蛙がどの様に関わるかは全く不明だ。何年土の中で過ごして誕生するかも分からない。生れ出る年数もまちまちで、異なる様な気がする。

拾遺科学論題考 (2021/ /  後日投稿) の一つとしてもう一度取り上げておきたかった。私と雨蛙 (2021/07/08)。

視力とビタミン

2012年に白内障の手術をして頂いた。お陰様で、視力も回復し特に支障なく生活できる。

ブルーベリージャムと視力の関係が気になったので、疑問を述べる。

白内障はレンズが濁る為に視力が落ちるのかと理解している。手術はそのレンズに相当する部分を入れ替えるようだ。レンズと言っても、ガラスと違い、それはタンパク質の様なものと思う。

その手術後、暫くしてから、視力の低下を感じた。ブログ記事(眼球の光ファイバーと色覚)に、有り難いお医者さんからのコメントを頂いた。黄斑にオプシンと言うレセプターを持つ細胞があり、そのビタミンAの形を光が変える。その結果神経細胞に信号が流れ、色覚を脳が認識する。と言うようなご説明と理解した。

その説明を受けて、少しは効果が有るかと、朝食のパンにブルーベリージャムを使うことにした。それまでのイチゴジャムに変えて。

もう5年以上は続けているだろう。前に心配した視力の衰えが感じられなくなった。先生が仰ったビタミンAの効果がブルーベリージャムの御蔭ではないかと感謝している。光ファイバーの終端部の『黄斑』が人の、あるいは生物の視覚の要となっていると強く思うと同時に、色彩の赤、緑、青の波長に感応する細胞の形状変化と言う空間構造の物理的現象と光の正体 (2018/01/25)の関係が納得できた。分子結合と言う空間構造変化と光の関係から、『エネルギー』放射現象との意味で納得でき、色覚の生理現象の原理の一端が垣間見られた感じがする。原子、分子の化学変化には必ず『エネルギー』の放射や吸収が伴う事から、感覚的なものではあるが、納得できる。『結合エネルギー』と言う言い方でもあろう。燃料電池も同じ意味であろう。

光の波長変換現象はその対象の空間構造がその原因である。揚羽蝶やクジャクの極彩色の色模様はすべて、その羽根の空間構造が生み出す現象である。光には本来色は無い。光と色彩の謎をどう解釈するかは光の『エネルギー』をどの様な物理的な認識に在るかに掛かっている。絵具も顔料も、その色はすべてその物質の空間構造が生み出す物理現象である。

懐かしき W の大花火

今日も古い投稿記事を見直した。光が世界を華やかにする色彩の意味を考えて、色の世界を尋ねて (2012/01/05) との関係を取り上げる心算だ。

初めの頃に、Wordpress から記事に文字[W]の大花火が揚がった。新年の最初に、前の年の記事に対して嬉しい花火だった。思い出に纏めさせていただきます。

超電導とは何か? (2011/03/18)。日本雨蛙 (2011/05/16)。庭に驚きの世界 (2011/08/05)。雷と指数関数 (2011/11/15)。原子と分子の妙 (2012/06/28)。小真弓 (2012/11/16)。電圧計が計るもの (2014/03/01)。おにやんまの飛翔の極意 (2014/04/13)。私は役立たず (2014/05/14)。『熱』の正体 (2014/05/16)。地震発生の原因 (2014/06/15)。空間感覚(詩心 124号) (2014/07/21)。浮足立った基盤技術劣化社会 (2014/08/27)。花筏に蝶 (2014/10/03)。pq理論のリサジュ―波形を見つけて (2014/11/21)。心に刻む歴史 に触れて (2015/03/13)。戦争とは破壊だ (2015/07/06)。手習いに (2015/09/24)。磁気特性(B-H曲線)と計量単位の意味 (2015/11/30)。

確かにと、嬉しく思う。

朝のひと時

お寝坊さんの黄揚羽。

済みません安物写真機での寝姿写真。

昨日夕方5時過ぎに、お休み処と決めて頂き今日の朝まで御逗留でした。陽が射した8時には旅に御出立。珍しく、久しぶりの黄揚羽にありがとう。

 

 

 

佛相崋。🌺❣

夏が過ぎた秋に残り香を、花の化粧の朝模様。

自然と言う万能の神の造形美だ。光を操るその匠・ご師匠様の技だ。何処にも論理的な矛盾はない。自然は完全だ。振動数では解釈したくない。

 

 

露草も朝に彩を。水色の天然の美を奏でる。

写真機が良ければと、天然の美を収めきれずに、済まぬ思いだ。

 

 

 

 

 

 

 

雨蛙と自然

梅雨の終わりには豪雨災害に悩まされる。最近は災害の犠牲が尋常でない。

自然の巡り会わせで、気になるのが雨蛙である。今日は7月4日、ネジバナの咲くころだ。日本雨蛙 (2011/05/16)をはじめ関連記事を書いてきた。英語では Tree frog と言う。木のカエルで、雨と関連した意味が見えない。その意味には水に関連したカエルでなく、木に生息するカエルという意味で解釈したい。日本語では雨との関係で表現する。しかし、雨蛙は余り水が好きではないようだ。何故「雨」の文字を付けて呼ぶかと言えば、梅雨の時期の雨が降った頃に多く発生するからという意味で付けたと解釈したい。丁度今頃の特に梅雨の終わりごろ、ネジバナが咲く頃に雨蛙は多く生まれることに関連して付けたと思う。不図気づけば、小さな雨蛙が幾つか全く水辺の無い庭に生まれていた。

先ず一つ。

 

 

 

 

 

 

2匹目。

 

 

 

3匹目。

 

 

 

 

4匹目。

 

 

 

 

 

5匹目は素早く逃げられた。今年の雨蛙を見て、少し気になることがある。どうも雄系ばかりの様な気がする。雌はもう少しぷっくり太った形の筈だから。それにしても、それ程逃げ足が速くないから、2,3匹目あたりは形態から雌かも知れない。

少し雨が降ったから、土が柔らくなって、土の中から生まれ出たのだ。最近は以前のように3,40匹も生まれることは無くなったが、数匹は生まれ出る。時には9月頃になっても生まれる蛙もいる。

ここは全く水が無い場所だから、土の中から生まれ出るのだ。親雨蛙は春に既に土の中から這い出している。雨蛙がオタマジャクシから成長すると言う、専門家の自然認識は間違いである。雨蛙は、人の目に触れ時には決して尻尾は見せないのが雨蛙の自然の生態だから。学校教育で、水田の中からオタマジャクシを採って、育てる愚かな観察がある。とんでもない間違いだ。

最初から常識的な、頭で決めてかかる自然解釈が間違った論理を広めるようだ。

自然をじっくり観察し、疑問を持ってから自分の感覚と自然との間の関りを見つめ直すことをしてほしい。

専門家と言う使命。専門家は受けた教育を受け継ぎ、広める業界の枠組みの中で社会的役割を担う事に成る。だから、津波の解釈やあらゆる科学論がその先輩の指導の枠の中での社会活動の定めに在る。さもなくば指導に反旗を翻した道しか残されない。 雨蛙―その謎― (2011/08/31) にその意味の一端(2006年7月の事)がある。

雨蛙の「オタマジャクシ説」をその代表例として挙げる。

 

花の名は?

(2021/04/07)追記。先程削除された記事を書き直した。しかし再び削除された。何故、誰が削除するのか。ボールドにした。気味が悪い!!

不思議だ。吉祥草に似ている。しかし、春に咲くとは考えられない。10月頃に咲く筈だ。

(2021/04/06) 名を知らぬ。

吉祥草の株根の処に咲いている。何故か文章が削除される?花迄削除された?下書きに移して公開し直す。

2020年まとめ[4]自然と災害と哲学

(1/23)  無為自然

(3/18)  クロッカスと太陽

(3/27) 津波とその速度

(3/29) 津波とそのエネルギー

(5/7) 巡る季節の花

(5/10) 自然と科学理論の懸け橋はいずこに

(5/14) 度胸と可憐さ

(5/15) The electron did not exist in the world.

(5/22) エネルギーの虹

(7/4) 分かるという事

(8/14) 観自在菩薩

(9/9) 信濃川

(11/13) 植物二題

(11/18) お日様と日向ぼっこ

(12/16) 山が呼ぶ 謎が囁く

(12/25) 自然は『エネルギー』の象形

 

植物二題

白花頂上華。
灌木と言えようが、細い枝を伸ばし、その先に1cmにも満たない真っ白い多弁の花を咲かす。

 

 

花瓶に挿して部屋を飾ったが、余り輝かない。きっと寒い外気に輝くのだろう。

 

 

 

 

 

 

ポトスと気根。
もう十数年部屋につるしている。不図気づけば、長い気根を伸ばしている。適度に水は差している。調べると根が充分張れなくなると伸びるような解説がある。ほぼ30cm前後の長さに伸びている。
植物の命と地球の古代の不思議に思いが飛んでゆく。

 

 

 

最近の壁紙に米国、ミシガン州スペリオル湖の情景が出た。地質学の専門的解説はとても詳しく、岩石について語られている。しかし、このスペリオル湖の岸の岩も、地球が成長してその痕跡として今ある。初めから地球がこの大きさであった訳はない。すべて太陽からの光の『エネルギー』が創り上げたとしか考えられない。地球の命はすべて植物が創り上げたと空想が広がる。どんな火山もその噴火する溶岩も古い地球の何かの命が噴出したものと思う。太陽の『光』が命の基の⦅エネルギー⦆であると。植物の細胞一つの姿も筆者には理解できない不思議が詰まっている。白花の花弁一つも、ポトスの気根の命の仕組みもみんな驚嘆の自然の姿だ。その自然の姿にはどこにも物理学理論の『電荷』も『電子』も不要だ。