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国家・民族とは何なのか

人類発祥に対する解釈はアフリカ説などの学説にある。アフリカ大陸がどのような時の話か分からないが、地球上の至る所の、様々な海と陸の境界地点で生まれたと考えても許されよう。人類の発祥の起源が単純ではなく、発祥形態も複雑であったと考えたい。その人類の発現形態自体が複雑なら、その後の人類の歩みも様々な違いを辿る筈である。現代の地球上の紛争が絶えない原因はどこにあるかを皆が理解し、認識し合っているのだろうか。発祥から人類に種別があれば、その後に民族意識が消える訳は無いだろう。そんな過去を夢想して、現代の紛争の意味を考えて見ようかと無駄な抵抗をする。そこで、人類という歴史に視点を当てて考えた時、どこからどのように民族に分離され始めたのだろうか。世界は宗教紛争・民族紛争あるいは政治的権力闘争等で混乱と悲惨な姿を曝している。地域社会とその連帯の絆が人々の助け合いで希望を支えた。国家・民族などと言う途方も無い事を考えたのは、東日本大震災後の復興が遅々として進まない惨状を、日本と言う社会制度の中で理解できない苛立ちを覚えたのが切っ掛けでもある。また、世界は「テロ」もあれば、ウクライナなどの政治的混乱などが世界の至る所で起きている。それは「人間」の持つ本質なのだろうか。他の動物や植物にはこんな大規模な暴虐無人な所業は無いだろう。人間とはそれ自体が悲しい存在なのだろうか。広大な宇宙の果てにもこんな人間のような生物が存在するかもしれない。

日本国憲法と原子力発電所災害 福島県の震災と原発事故から3年経ったのに、復興も回復も無い惨状をNHKで放送している。これは「日本国憲法」の意味を重ねて、その意義を問わなければならない。基本的人権を保障しているのだ。誰もが自然災害はどこにおいても遭遇する事を覚悟していなければならない。しかし、『原子力発電所』の崩壊事故は人間の人間に因る科学技術の犯罪行為と認識しなければならない。日本のどこに住もうが、皆その故郷の絆によって結びあって生活を営むのである。その『衣・食・住』の権利は、人間が基本的に保障された最大級の人権の筈である。その法的社会基盤の根本が『日本国憲法』で定められている事なのである。そこを考えなければ、『日本国憲法』の存在理由も怪しくなる。原発事故は自然災害ではないのだ。日本人全体が引き起こした人権侵害の犯罪行為なのだ。直ちに元の状況に戻すことが『内閣・行政機関』に課せられた『日本国憲法』に基づく緊急に要求される業務の筈だ。日本人がその生活を奪ってしまった。こんな時に民族意識や国家意識が役立たなければならないのに、難しいで済むまい。皇祖皇祖・・などと日本民族を声高に唱える者がいるが、そんなのは戦争用の戯言である。復興庁の職員が全て災害被災地に常駐するのが当然のことである。その事で、その言動がその役割を果たす説得力に成る筈だ。それがなければ、何時までも復興は進まない。どうか民族意識を言うなら、こんな時こそ一体に成りたい。

民族という人間区別の族化社会意識 それはどこから始まったのか。人は何故世界の平和と唱えながら、民族や国家あるいは宗教に固執する意識が強いのだろうか。その帰属意識を満足する為なら、近隣の異なる集団との『戦争』も厭わないようである。何かおかしい人間の意識に見えないだろうか。そんな戦争の殺し合い、破壊闘争にどうして突き進まなければならないのか。単に殺人行為でしかなかろう。人間以外にそんな殺害の憎しみ合う『動物』がこの世界に居るか。人間ほど下劣な、欲張りの醜さを曝す動物はいない。人間の尊厳などと何を基準に言えるのか。如何にも『軍事力競争』は世界の国家正義のように際限なく膨張している。人間の恥と思わないのか。『イマジン』と言う歌がある。何の為に「国家」があるのか?そんなに「国家」の為なら犠牲を厭わないのか。国家の為に生命を捧げる行動など真っ平御免だ。殺人用軍事産業がのさばる世界に平和など有る訳がない。日本の『愛国心』と言う政治の仕掛けによる戦争用用兵など糞位だ。サバンナの動物にも縄張りや群れの戦いはある。そこには人間の醜さは無い。『愛国心』の正体を尋ねて戦争と平和

民族と言語 世界中には多くの言語がある。恥ずかしながら、筆者は日本語しか使う機会がなかった。国家と言う生活共同体毎にそれぞれ共通の言語を使うように区分されている。言葉がその生活共同体で共通語として定着するまでにはそれぞれに特徴的な歴史の変遷があっただろう。初めに言葉を発したのが誰かと考えても、その謎を解き明かす術は遠くに埋もれて辿り様がない。しかし、社会共同体の分離統合を繰り返す中で、統合権力者や智慧者に因って共同言語に纏められたと考えたい。日本の文字文化の歴史を辿れば、大陸、中国の偉大な漢字文化を取り入れて、その文字に共通会話言語を当てはめて出来上がったということだろう。この漢字文字の事には感謝しなければならい。それ以前に日本語の文字表記が全くなかった訳でもなかろう。しかしそんな歴史の痕跡はもう探しようがない。どこの民族・国家もそれぞれの歴史の上で共同生活体としての集団的意識構造を築いて来たのであろう。その過去に執着するが故の歴史的団結意識が強く働くのかもしれない。もうそんな過去の国家意識や民族意識は捨て去らなければならない。言語が異なるから反目しなければならない理由など何処にも無い。皮膚の色や経済力あるいは学歴あるいは家系そして民族、国家で人は区別すべきでない事ぐらいみんな共通認識している筈だ。ところが紛争や戦争の悲惨な人間の愚かさに走る。それは何が原因なのだろう。

国家権力者の柵(シガラミ) 国家の政治の統合責任者がその時々の政治的采配を任されている。民主主義国家なら、三権分立と言う社会制度の枠組みの中で、許された範囲の責任と権限がゆだねられる。現在、日本の安倍総理大臣のような、突出した全権被委任者の如き誤った意識の人にはなかなか認識が改まらないだろう。日本の社会制度の極端な変更は総理大臣の思惑で決められない筈なのであるが、制度の不備を逆手にとって利用しているのが現状である。時の権力者は政治家であり、その時々の様々な組織からの軋轢(アツレキ)・柵に縛られる。経済・社会状況・外交環境・時代の様相などが時の権力者の思想・信条との関わりで醸し出される空気によって、危険な方向に走り出すことが有り得る。その些細な事で重大な事件の引き金に成る。その人格により、権力と支配権を持つ優越感の魔力の虜に成るのじゃなかろうか。独裁的支配に与しないように覚悟を皆が決めなければ危ない。争いの戦争など全てが独裁的支配者によってもたらされる人間の悲劇であるから。殊更民族・国家の尊厳、自立などと声高に唱える人間は元々危険人物である。

グローバルな絆世界の政治 これほど経済活動が世界中と繋がって展開され、それぞれの国民との共同、共有社会の仕組みで成り立っている事はなかった筈だ。戦争は、軍事力強化はそんな世界をも否定する国家的罪悪なのだ。もう国家・民族などと唱える政治思想意識は世界の不正義なのだ。全て紛争は、自国の経済的優位と世界支配への権力者(それを支える資本主義の美名の下の利益獲得の正当性の柵)の欲望が世界の平和的均衡を揺るがすことにより引き起こされる。資源確保と他国より競争的優位さを暴力的に、軍事力で獲得しようとの政治指導者の闘争心が原因じゃないか。植民地支配が過去の、平和で力の弱い社会組織に強圧的に土足で踏み込み、勝手な横暴の支配力を駆使した事実を物語っている。この経済競争の戦いとその世界支配の欲望をどう世界的に均衡させ得るかが政治指導者の粘り強い会話に因る努力義務なのであろう。自ら積極的に、話し合う努力をして機会を模索する事が政治指導者の責任と義務と思う。こんな事を記す自分が愚かに見えてくる。恥ずかしい。「恥愚」の赤面。

宗教とは何だ

(2015/03/11)追記。今も読んでくださる方がいる。嬉しいので、少し考えた。「神」の存在を信じるか信じないかはそれぞれの個人の心の中で決まる。もともと人の心は強くもあり、弱くもある。一人になると、寂しさから耐えられない心に支配されるかもしれない。そんな時手を合わせてお祈りしたくなるのだろう。そのお祈りの対象として、「神」を心に思い描くのかもしれない。自分の事を考えれば、例え手を合わせて祈るとしても、心に描く「神」に相当する対象が無い。尋ねたい。『お祈りする時、貴方は何にお祈りするのですか』と。様々な宗教が世界にはある。その「神」は皆違う。宗派間の闘争の醜さも生む。だから宗教とは何だと疑問に思う。人がこの地球上に生まれた時には宗教など有る筈が無い。言葉も文字も無い。生命だけの裸の人の原始動物でしかない。その形も今の人とは似てもいない。それでも、心だけは生命を支配していた筈だ。生きる事を支配していた。全てが未知との遭遇の世界であっただろう。そんな未知への恐れが心を支配するから、心を救う指導者を求めた。部族の酋長が、その知恵によって安心を与える術を持った。そんな統率の智慧が広がれば、宗教の原型になる。しかし「神」などは存在しない。何か「宗教」と「国家」は似たようなものに思える。現代は昔のように、宗教指導者が智慧で人々に生活の道を説く意味を成さなくなっている。生命科学や、自動車、情報端末が全く生きる価値・意識(心)を変えてしまった。心の智慧より生活の経済力が人を支配してしまった。

先日から、宗教を考えている。摩訶般若心経という経典がある。それは、『観自在菩薩』から始まる。この語句は経の前書きであり、経典全体の主旨を述べていると観る。「皆、自分の中に在る智慧を悟りましょう、それが心の安心に繋がる道である」と解釈する。普通は、「観自在という偉い菩薩様が述べている」と解釈されている。般若心経を禪の意味に解釈すれば、皆が平等に真理に向かいましょうと言う意味になるから、偉い菩薩様という考えは無い筈だ。 宗教の定義 宗教の意義を考えて、定義を試みるが、なかなか難しい。日本における宗教の状況を考えても困難である。何とか自分なりに定義してみようと思う。定義:極めて精神的で、個人的な信仰心に基づきながら、共通の信仰対象(神・偶像・聖者)の下に団体として、心の安心を支え合う社会的な組織体。とまとめてみた。 信仰心と宗教 ここで、信仰心の対象とは何かの問題がある。キリスト教はイエス・キリストであろう。仏教は釈迦であろう。イスラム教はイエス・キリスト、モーゼに対して第三番目のムハンマドを信仰する等と少し複雑である。日本特有に思える宗教に神道がある。神道は信仰対象が無いようだ。神道は日本だけしか存在しない宗教形態のようにも見える。また儒教は宗教に分類できるのだろうか。ただ、中国における宗教を考えると、益々理解できなくなる。現在の中国における宗教は何だろうか。道教とか、儒教とかが宗教色を持って社会的組織体を成しているのかどうかも知らない。儒教なら信仰対象は孔子ということなのだろう。日本の宗教は中国の文明・文化として吸収し、大陸から受け継がれて完成したと観て良かろう。ならば、その中国に宗教の源泉がある訳だが、現在の中国の宗教の姿が余りはっきりとは観えない。しかし、中国の思想史は東洋哲学に偉大な足跡を残していることを示している。老子、荘子等の思想はどこかとても禪に近いものと思う。『道』という概念にもひかれる。しかし、宗教色は持たないようにも思える。 印度哲学と日本の宗教 禪が達磨禪師により、印度から中国に伝えられた。西暦500年頃らしい。その後の西暦645年頃に、玄奘三蔵が印度から大量の経典がもたらすと共に、その翻訳で仏教が伝来されたと観て良かろう。その中国、更に朝鮮などを通して日本に、印度の宗教・仏教が取り入れられたと言えよう。しかし、現在の印度の宗教は仏教よりもヒンドゥー教徒が80パーセント程を占めているらしい。更に、イスラム教徒が14パーセント、シーク教、ジャイナ教(マハトマ・ガンジーも信仰)そして0.7パーセントの仏教徒ということになっているらしい。印度が東洋哲学の源流を成すと考える。それがどれほど遠いものであるかも全く分からない。しかし東南アジアの文化・思想・哲学の主流を成している事は疑いなかろう。その本質は、ヒンドゥー教に在るのではないかと考えたい。何故かと言うと、特定の信仰すべき偶像がある訳でもなく、多くの数えきれない神がいる。多神教と言われるようだが、あらゆるものに神を観ると言えるかもしれない。自然そのものを信仰対象の神と観る東洋哲学の方向性を備えていたのではないかと解釈したい。それはまた、自由を基本とする思想形態に繋がっているものと考えて良かろう。そこから禪への変遷・変化を読み取れる。禪は現在、禅宗としての宗教性が強いが、本来の禪は達磨禪師の9年間の面壁座禅がその意味を示していると思う。宗教性の社会的集団化も何もない。あくまでも個人の自由な悟道の修行がその本質を示している。それは特定の権威や偶像を求めないものであろう。自然の神ならどこにも偶像性は無い。それがインド哲学の本流ではなかったかと思いたい。日本の神道がそれに近いのだろう。何も信仰対象が見当たらない。人は朝日を迎えれば、その神々しさを拝みたくなる。夕焼け雲も自然と心が和む。自然の生命の仲間である人間が、その自然に触れて心が高揚する、そこに生命の意味が現れていると。日本の神道は、本来自然を崇め恐れる心の現れとして、自然に抱く恐怖とその恵みの豊かさへの感謝の気持ちとを合わせ抱く畏敬の念に生まれたものであろう。しかし、社会的に組織化が進むと自ずから統一の権力との関わりが強まる。そこに政治権力からの干渉による精神的信仰への関与が強まる虞もある。また、靖国神社は神道でも無いようだから、宗教でもなく明治時代に富国強兵を目的として造られた特殊なものと観る。 死生観と自然 現代科学が生命の秘密を解き明かした。DNAという単なる4つの塩基が生命の全てを創り上げていると。何故4つかは自然科学の基礎の課題ではある。それらも単に(蛋白質ではない)炭素、窒素そして酸素からなる単純な環状の分子結合体で、原子・分子から出来ている。生命は『死』によって全てが消え去るのである。その分子結合も死によりすべて分解されると観るべきだ。だから生命の形を特徴づけるDNAそのものが消滅すれば、心や精神は完全に消滅するのだ。(残る物も一つある。DNAとして遺骨には残ると言う。事件捜査にも鍵を提供する。ただ疑問が残る。骨は焼いてもDNAが残るのだろうか。それは細胞の意味を考える視点を提供するかもしれない。)当然霊魂等も決して残らない。亡霊も出ない。誰かが好きな崇拝対象の「英霊」など決して存在しない。生きている人間の脳の中に想像して、作り上げる対象でしかない。生命の意味もDNAによって最近説き明かされた訳で、それまではなかなか『死後の世界』への恐怖を取り払うことなど難しかった。そこに安心を得る宗教が生まれたと考える。自然は恐ろしい。豊かな恵みと凶暴さを備えている。津波や雷の恐ろしさは避けようがない。古代の生贄の儀式も自然への恐怖が生みだした、精神的統制の祭り形式を兼ねた政治手法と看做せよう。未来の宗教は如何に在るべきかは困難な課題となりつつある。宗派間の争いの道具になるべき筈が無いのに、宗教が世界の殺戮を引き起している原因になるのは何故であろうか。政治権力が主導的役割を果たしていないと言えるだろうか。宗教の目的は争いを無くする筈ではないのか。死生観を解きほぐす道を自然科学が解き明かしたが、人の心の自然は難しい。