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悟りとは?-色即是空の自然観ー

面壁達磨は、まる9年間只ひたすらに洞窟の中の壁に向かって座禅をした。壁は何も答えてくれない。世間の生活とは隔絶して、壁に向かい、己に問いかけ、自問自答の壁が己の出す答えを反射して来るにまかせて過ごしたのだろうと勝手に解釈する。しかし、全く世間と途絶しては生きて行けない。近隣で、食べ物を差し入れてくれたり、身の回りの世話を陰で支えた人は居ただろう。そんな壁に向かった姿は尋常には映らず、無意味な業と蔑まされるような所業であっただろう。しかし、必ずや納得する『悟り』を得たと思う。その悟りとはどんなものであろうか?

般若心経と自然科学 『般若心経』と言われる経典がある。それは一体誰が膨大なインド仏教の経典から、要約して取りまとめたのだろうか?こんな短い文章に纏めるとは至難の業である。当然『悟りの人』でなければできない事である。その経典を読んでも、なかなか理解できない。しかし、世界を「色即是空 空即是色」と看破した眼力・勘力には悟り人の真骨頂が現れていると観る。筆者はただ『エネルギー』一つしか見えないので、それが『色(シキ)』に当たるとの解釈である(2023/12/22/ 訂正。実はこの捉え方は間違っていた。『色』は目の前に見える自然界の姿である。焚火の炎や花の形や色彩あるいは物理量の質量などを指す。更に、『エネルギー』は決して人が見る事が出来ない。その観ることも、空間に在ることを科学実験で測定することも出来ない。それが『空』と言う対象の意味になる)。しかし、『エネルギー』は『色』に成って現れるかと思っても、それは変幻自在の『空(クウ)』の中での幻みたいなものである。だから形として『色』に成って現れても、何時消え去るかは分からない。それが『色』があると思えば、『空』の何もなかったと思い当たると言う意味であろう。今筆者は『エネルギー』と言う自然世界を統べる根源として、言わば素粒子論での「素粒子」に当たる基本に到達したと思っているから『色即是空』の意味に共感できるのである。科学論のしかし自然科学などと言う物理学的な思考を昔の人は採らなかった筈である。それにも拘らず、現代物理学論の根源(もし、筆者が唱える『エネルギー』の世界観をそこにあてはめられるなら)に到達していたと考えざるを得ない悟り人の精神的な感性に驚く。現代物理学の世界はとても複雑で、宇宙論から素粒子論まで、素人の筆者が理解できる訳は無いのであるが、とても納得し、信じられる世界観ではない。

(2023/12/22)追記。『色』と『空』の意味として、一つ具体的な例を挙げたい。誰もが日常使うもの、マグネットを例にする。マグネットには、物理学理論では磁束があると成って居るいるがそれは無意味な解釈論である。マグネットの物理的特性はその接合力である。金属面でのメモ止めの力。その力は目の前で、確実に認識できる自然界の『色』に当たる。しかし、その自然界の真相を物理学理論では理解していない。磁極のN極側からマグネットを見た時、時計回りにそのマグネット面の周辺を『電気エネルギー』が流れているのである。その『エネルギー』は見ることも出来ないし、実験的に測ることも出来ない。その見えない『エネルギー』こそ『空』なのである。以上追記。

科学理論と市民感覚 先日も『重力波』の検出云々の科学者の話がニュースに流れていた。例えビックバンにより、爆発があったとしても、その衝撃波が検出に掛かるのは有り得る訳であるが、何故それが衝撃波と異なる『重力波』と言うことになるのかの論理性が誰にも理解できるように説明されなければ、その論は信用出来ない。市民の科学認識力で理解できないような説明で済ます専門家の牙城での論には閉口する。そもそもビックバンと言う自然事象が起きたと言うことさえ、何の証拠も無ければ、検証も出来ない事なのである。宇宙に初めと終わりが有ると考える事自体が、何の証拠も無い論に惑わされているのである。人間は寿命が有るから、宇宙にも初めと終わりが有ると考えるのが理に叶うと感じ易いだけなのであろう。人間初め動植物には男性・女性と言う二つの対照的な世界が有るから、『電荷』にもプラスとマイナスが有るとの社会的合意・認識が生まれた。それは、それが当たり前と考えやすい人間的性(サガ)から生まれた概念解釈法に基づいているからであろう。日常生活で遭遇しないような世界を科学論として唱えれば、一般市民は偉い科学者がいうことだから、兎に角専門家として敬い、黙って信じればその仲間に入ったと安心出来る錯覚に浸れるからではないかと思う。結局原子核理論の専門性など当てに成らない事を『福島原発事故』が示した。放射性・放射線の正体も厳密性は示せない事ははっきりしてしまった。そこに政治、経済が関係し、業界の特殊性が加わるととても複雑になり、益々曖昧性が幅を利かせる話に成る。論理的とか、真実等は掻き消されて流されるのである。東洋哲学の禪は複雑さは排除する。科学論さえ日常生活感覚から判別する。余計な概念は捨て去る事が禪の本筋である。原子は電子と同じく現代物理学の論拠である。しかし禪は、原子さえ基本粒子とは見ないだろう。素粒子論のあらゆる素粒子さえ一つの『色』と『空』で解釈する。『エネルギー』はさまざまな姿に変幻自在に変化するから、これという形・実像でとどまらない。だから『原子』もエネルギーの局所化した、宇宙構成の流れゆく一つの仮の過程の姿でしかないと観る。世界に留まる物・確定した物・変化しない物など無いと言うのが「色即是空空即是色」の意味である。どうすれば『悟り』に辿り着くかは未知の中。日常生活の中での市民感覚での科学的認識の共有が出来た時に世界は悟りに到達したと言えるのかと。長岡技術科学大学の第2代学長 斎藤進六先生が就任時の話で、創造性の『創』の字の意味を話された。心に痛手を受ける深い傷の意味と。その時は自分がそんな思いを経験するとはつゆ知らず感心して聞いていた。禪と科学

日常生活での発見 自然現象に見る不思議の具体例を挙げよう。世間的常識、科学的学説否定の見解を拾い上げておく。『雷の正体』で、雷は空気中の水蒸気の熱エネルギーが原因である。日本雨蛙は、土の中に産卵し、土から生まれる。水の中でのオタマジャクシの生態を取らない。雨蛙と幼生生殖ドアノブの火花ー熱電変換ー。雷と同じく『電荷』など存在しない。電圧計が計るもの。技術の意味を解説した。大津波の発生原因を探る。地震の学説を否定した。地球の生い立ちを問う。石は何から出来たかを問う。石炭の意味も併せ考えて欲しい。こんな単純な自然観に辿り着いてしまった。これ以上何を求めれば、自然世界に心が共鳴できるのだろうか。それにしても科学技術と自然界の真理との間の関わり方に、人間の思考を重ねて見るとあるいは物理学者などの専門家の論理を手繰ると、人間の知識とは何かと考え込まざるを得ない。