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専門家とは?

2014/3/5/朝日新聞記事「東日本大震災3年 リスクと向き合う オピニオン」。が気に入った。専門家という言葉から受けるその意味は、権威がありしかもその分野のことに関して何でも知っている、特別信頼できる知識人と認識していた。特に、弁護士・裁判官等の司法関係者、経済学者更に会計士等は特別の専門的知識人と思っている。筆者が幾らか一般市民より理解している自然科学の分野については、その専門家の専門性に対して疑念を抱いてはいた。その疑念を一気に確信にしてしまったのが東日本大震災の津波と原子力発電所崩壊事故であった。原子核理論および原子力ムラの専門性という虚像がその災害・事故で、人間性の暗部と共に曝け出されたと確信した。

放射能 『放射能』という言葉にその虚像が写されている。原子核および原子構造とその放射原理そのものがいい加減な村的知識であるのだ。そこに専門性を確かめても自然現象としての物理的意味を説得するだけの知識が確立されていないのである。曖昧性が専門家を牙城の中に守っているのだ。原子という物質的単位がどんな構造をしているかさえ明確ではない。核子とか外殻電子とかの話になると怪しいものである。原子から『放射線』という人体に極めて危険な『エネルギー流』が放射されることは確実である。その放射されるエネルギーは様々な空間的形態・様相を備えたものである。専門家に言わせれば、α線、β線あるいはγ線等と表現している。しかしそんな単純な物でもなかろうし、その意味そのものが曖昧でもある。『放射性元素』が「放射線」を放出するのは確実である。『放射能』等を放出するのではない。『放射能』という用語は曖昧で、何を表すかを掴めない。放射線を放出する能力を持つ元素くらいの意味で、放射性物質・元素とその放射線という異なる物と現象を混合した意味で使っているようである。『放射能』等というものは無いのである。こんな不明確な用語を伝統的に使う専門性が専門家という実態なのである。

津波 更に「津波」の高さという意味がとても大きな矛盾を持っている。陸に上陸した津波の波の高さは海の津波の高さとは異なるのである。何が津波をもたらすかの認識で専門家が間違っている。津波のエネルギーが高さを決定するのである。どんどん海から押し寄せて来る津波のエネルギーが陸上に上がってから行き場が閉ざされれば、エネルギー量でどんどん水の高さは高くまで上昇するのである。その到達の高さは津波の高さという意味をどう分析するかに掛かっているのである。海の水面が示す津波の高さとは異なるのである。陸地の形状で上昇する高さは同じエネルギーの津波でも異なるのである。防波堤の高さ設計における認識が曖昧である。止めれば高くまで上昇するのが津波の本質である。防潮堤の高さについて、設計基準の認識が間違っていませんか?エネルギーで見る世界ー津波ーに計算例。海と共に人は生きる。海を遮ってどう人が生きるのですか。海の恵みは危険な自然の生命と共にある。

専門用語 『用語』特に『専門用語』が厳密な意味で使われているかという点で、改めて専門性を問わなければならないのである。専門家が市民に説得するだけの専門性を備えていないと言わなければならない。放射性物質(ウランが分裂した後の分裂元素の集団物プルトニューム等)が放射する放射線を線量計で計る。その放射線は人の内部に入るから、人の細胞の遺伝情報に影響を与え、場合によれば細胞分裂時にその悪影響が生じる可能性が大きいということであろう。宇宙からも、地上からも放射線は人に注がれてはいる。太陽光線も人の内部に入る。同じ現象である。しかしその影響の度合いが強いか弱いかがある。原子核分裂の放射線は極めて放射エネルギーの強度が強い場合が多い。危険な度合いが大きいということである。レントゲンを長く浴びれば危険であることは知っている。強ければ時間が一瞬でも人体のダメージは大きくなる。しかし、その計量単位が曖昧な業界用単位なのである。シーベルトやベクレルという計量単位が何を表しているかを専門家は説明できないのである。それは何も原子核理論に限ったことではない。光の計測量の『ルーメンlm』も同じ事である。統計的に過去の計測量の単位を踏襲しているだけで、厳密にその単位が何かと説明できないのである。しかも、それがどれだけ人体に影響を及ぼすかは医学的な統計情報に基づいて評価されるものであろう。医学的評価はそれなりに、過去の統計から算定されるから、ほぼ正しい評価を下せると観て良かろう。だからと言って、計量単位がそのままで良いかは分からない。ベクレルとは核分裂の度合いを表すようである。ある物質の放射性の強さを評価したいとする。その物体に、どんな核種の、どれだけの放射性物質の量が含まれているかによって、単位重量当たりの計測量に違いが出る訳だ。数値が低ければ安心かと言えば、そうは言えなかろう。その物質の傍に居ても影響は少ないだろうが、それを食するとなると統計的な意味からだけで安全とは言い切れない。放射性のプルトニューム原子がどんな割合で放射線を放出して強度が減衰してゆくかは分からないが、放射性原子を人体内に取り込んだとき、内部被曝の影響を受けるであろう。その確率は評価するとしても分母の集団に対する確率論からの評価でしかない。個人に対する影響は分からないのであろう。私が気になることは、例えば一つのプルトニューム放射性原子核が一度放射線を放出した後、もう放射線を放射することがないのかどうかである。それほど明確に放射性の有る無しが決まる訳ではないだろうと思う。プルトニュームという原子はどのような意味で、人体への危険性が認識されるのがが分からない。骨の成分として取り込まれる確率が高いらしいが、一度の放射だけで危険な放射性が減少するなら、それ程では無かろうとも思える。が実際はそうでないようだから、ベクレルという単位時間当たりの崩壊分裂の意味が人体への危険性という意味では曖昧に思える。単位と次元についてエネルギー[J(ジュール)]とJHFM単位系に記す。

専門家 それぞれ人はその天分を生かして、得意な分野を職業として選び、その仕事を通して生計を営む。何らかの仕事を通じて社会的存在としての自己実現を成す。ところが、生計の為の収入があれば、その人はそれで専門家であるとは一般的には言わない。専門家の定義は何かとなる。具体例として、原子力に携わる人たちを考えて見よう。原子力発電所の運転要員は極めて特殊な業務に携わり、原子力プラントの安全性を保つ為の日常の運転意識で、緊張を持って働く専門家(専門家と言わないで専門技術者・管理者と言うかもしれない)と言えよう。しかし、問題は原子力ムラという『原子力発電』に関わる利益誘導業務の業界・官僚のお偉い責任者群にある。しかも政治家絡みで専門性が疑われる者も、その利益誘導力で裏から集団に属する者まで専門家らしく思われるところに問題が隠されている。兎角深く自然科学の論理性を考察する訳でもなく、ただ単に人の理論を有り難く利用するだけの業界集団が問題なのである。みんな原子の周りに電子が廻っている有り難い社会的常識に乗った専門家である。そんなところに、原子力発電の危険性等論議できる訳がないのである。経済成長と金銭的利益だけで物事を評価する、特殊な疑似専門家集団が幅を利かしているのである。そんな利益集約集団業界関係者がその専門家になっている場合が多いように思う。それが「ムラ社会」の特徴であろう。原発崩壊事故まで、経済産業省の役人がどれだけ安全性に責任を果たし得たかを考えれば、結果に示されている。役人性専門家であると言えよう。原発再稼働を進める集団がその怪しい専門家を支えているのである。生活が掛っているから、政治家が暗躍して、再稼働推進を策略するのは、その政治専門家と言えば良いかも知れない。

エネルギー[J ]とJHFM単位系

(2020/07/12)追記。

 

 

 

 

 

 

物理学の矛盾に戸惑いながら、その基礎理論に切り込むための基準量[J(ジュール)]で単位系を新しい形で提唱した。それは1998年春の事である(日本物理学会講演概要集 第53巻 第1号 第1分冊 13頁)。

不明単位の追加

2011/03/11 の東日本大震災で福島第1原子力発電所が大きな2次災害を引き起した。その放射能関連の問題が湧きあがった。放射能(?)の次元・単位・用語の問題である。ベクレル[Bq]とシーベルト[Sv]がその計測単位である。しかし光のルーメンと同じく、その単位の意味は理解できない。所謂業界用語の計測単位なのである。物理学の教科書には、1[Bq]=1[event/s]および 1[Sv]=1[J/kg]と示されている。eventとは原子崩壊の回数を言うものである。1秒間に何回原子崩壊が起きようと、その原子から放射されるエネルギーが人体に影響するものもあれば、何の影響も与えない放射エネルギーもある。だから「何ベクレル」と言われても全くその放射能(?)の人体に対する危険度を認識できないのである。シーベルトも同様に、エネルギー量の単位ジュール[J]を放射能(?)量に換算して、計測しているとは信じられない。空間の光エネルギー量を的確に捉えられているとは信じられない。放射能(?)の計測量と人体への危険性との関係は、今でも私には理解できない業界独自単位に見える。その計測単位を明快にする事も「科学技術社会」の重要な課題である。(2012/06/20) 『放射能』という用語の概念が不明確である。放射性核物質の『放射性能・放射性強度』程度の意味を込めた用語であろう。その使い方を考えると、放射性核物質からの「放射線強度」あるいは「放射線量」と言う意味と解釈できる。放射能と発熱の正体は何か?に考えを述べた。放射能の用語に(?)を付けた(2014/03/10)。

放射線計測に科学技術・理論への不信  (2012/09/16) 追記。先日ある食品の放射線量が190㏃で、限度基準値を越えた。そんなニュースがあった。2011年3月11日の原発事故で、放射線計測値に疑問を持った。報道される度に、その定義値の意味を確認して来た。しかし、1年半経った今でも内容が不明のままで堂々と測定値として罷り通っている。文部科学省は『モニタリングポスト』も設けて、大気中の浮遊放射性物質濃度を測定している。何を計っているかも明確に説明できないままで、科学技術に関する重要な行政の役目が果たせるかと信じられない状況である。厳密な定義、辞典で説明しているシーベルトが [J/Kg] やベクレルが[event/s] と言うものがどの様に測定値に意味付けられるかを説明する必要が有ると思う。こんな単純な疑問にお答え頂けないままで放射線測定値が独り歩きしている事に戸惑いを抱かざるを得ない。この状態で、どこに「科学技術・科学理論」への信頼が得られましょうか。食品から検出された190㏃とは、食品の中に含まれている『放射性物質』から放射された線量値である。食すれば、体内に取り込まれる。放射性物質の種類までは特定できないので分からないが、プルトニュームかセシウムでその生理学的危険性は異なる筈だ。その物質の単位時間当たりの放射回数(events)ではどのような危険性かが理解できない。放射性物質の1原子が1回の原子核放射で、その原子の放射現象が終了するのかどうかもはっきりしていなかろう。放射性物質の集合体として、全体で放射が指数関数的な半減期減衰特性に従うものであろうと解釈する。シーベルトと言う計測単位も、理論で言う「J(ジュール)/Kg」のエネルギー量の単位ジュールがどのように計測されるのだろうか。しかも空間を通過する放射線量(光速度)あるいはα、β線粒子等を、モニタリングポストの検出器でどのように捕え、それをどのようなジュール値として検定して、測定値を決められるのかを問わざるを得ない。以上の論点は、辞典や教科書の定義や理論解説に基づいた解釈からの考察である。それ以外の新しい私の知り得ない知見で、放射性物質に関する測定値が定義・解釈されているなら、希望が持てるかも知れない。