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生体電流と生体制御

生体電流と言う言葉が有ることを知った。ブログのダッシュボードに質問らしい言葉が載る。そこに「生体電流って何か高校生」とある。その事に触れて、述べよう。電流と言うのだから、電気現象の電流と同じ意味で使っている用語であろう。しかし生体に流れる電流と言うには電流の概念とそぐわないと言う意味で無理がある。電気現象で電流と言うのは必ず2本以上の往復導線が必要である。生体内の神経細胞やニューロンの神経索のようなエネルギーの伝達経路は光ファイバーに近い1本の通路であろう。元々電気現象の『電流』と言う技術概念(『電子』の流れ)が『エネルギー』の電気現象の真理を語れる訳ではないのであるから、生体電流と言う意味に疑問を抱くのは当たり前のことである。『エネルギー』は電荷などの移動現象ではなく、空間を伝播する光と同じ縦波なのである。だから生体電流と言うものも、神経細胞の伝達空間が有れば、そこを流れる縦波の『エネルギー』なのである。近年は義手の開発も進み、脳信号を義手に伝えることも可能になっているが、検出器と脳との間の空間を通して、脳の考える情報の制御エネルギーが自由に伝達可能になっている。それは電流と言う2本の導線の電荷の移動などと言う古い電気現象解釈では理解できない事を示していると思う。少し前に細胞に関する疑問などを書いた。脳の機能と個性脳と生体制御の謎が有る。

電流は流れずと言う電気現象に対する解釈から、生物学は全くの素人ではあるが、生体電流と言う意味の理解に役立つかと思った。『電荷』での科学理論には綻びが多過ぎるように思う。

生命のはじまりと脳

ヒトゲノムの解析が済んで、遺伝の仕組みが相当明らかになったのだろう。高校生の学習教科科目『生物』の内容を見てもとても難しい。せめて高校生の学習内容位は、それこそ常識として理解していなければならないだろうと思う。ところが歯が立たない程難解である。最近理化学研究所の生命科学に関する論文投稿問題の事件が世界を揺るがしている。生命科学はその最先端の研究が我々市民から見れば、余りにも内容が専門的すぎて、内容を理解するにはかけ離れ過ぎてしまった。そんな事で、少しは細胞分裂の基礎くらいは知らなければならないと思う。しかし、筆者の感覚と巧く噛みあう生物学になっていないようで、我が能力の無さを噛み締めるだけである。そんな中で、勇気づけてくれる写真に出合えた。生物とこんな形で関わる事の偶然が人生と言う意味なのかと感謝する。日本雨蛙の生態に触れた時と同じ自然の神秘かもしれない。その写真集が次の本である。ライフ写真講座ータイム ライフ ブックスーを見て に挙げた例の写真に感動した。その写真をここに載せさせてもらう。ライフ写真―輸卵管組織ー

ライフ写真―生きている胎児―

 

 

 

 

 

 

 

 

この二枚の写真は、ライフ写真講座全15巻の内の1巻、特殊撮影からの拝借である。その人体の神秘をさぐる部の中で、生命のはじまりと言うページp.178(レンナルト・ニコルソン「輸卵管組織」1970年)とp.179(同 「生きている胎児」1965年)の二枚組である。

素人無鉄砲流感覚 素人は柵(シガラミ)が無いから自由奔放に解釈できる。その素人なりに、生命のはじまりについて考えた。ここでは『生物学』の学問的解釈と違った観点からの考えを述べる事になりそうだ。自分の脳細胞が減少している中での生命解釈など当てにならないと見られよう。しかし、結構得意になっているのである。しかし、意見を公開するには、それなりの緊張と不安が入り混じる恐ろしさを抱えている。その緊張は精神に刺激を与えるから、脳の活性化には役立つかと甘んじて受け入れる。生命のはじまりは母の胎内での卵子の受精から始まる。その受精卵が生命の源として、新たなたった一つの世界に育つのである。人だけでなく生物に二つと同じものは無いと観る。その生命の原型が人に育つまでの第一歩がどんな神の秩序で船出するのかと思うと、その謎の深さに言葉も無い。それを『受精卵の秘密』とでも名付けようかと思う。おそらく第一の『細胞分裂』程、生命の輝く瞬間は無いだろう。そこに全てのはじまりがある。どんな意味の細胞分裂なのだろうか。

受精卵の秘密 何の手掛かりも無く、ただ感じるままに思い描くのである。しかし、そこには上に載せた「生きてる胎児」の写真が切っ掛けになっている。思えば今まで自然の生物の成長する姿を眺めていた事の中に見た光景が重なって来るのである。例えば、オタマジャクシを見れば、その卵塊からの成長の過程で、頭だけが大きいのは誰もが知っている。当然お腹も頭のように見えるだけかも知れないが。何故尻尾がそれほど長く伸びなければならないのかも理解に苦しむ不可解な成長過程である。結局尻尾は不要となり体の中に収まってしまう。あるいは尻尾の長さまで腹部が成長して、尻尾の役目を終わるのかもしれない。そこまで詳しく観察はしていないから曖昧である。何を考えているかと言えば、成長の秘密になっている事は、先ず『脳』から始まる点に有ると言いたいのである。脳が生命のはじまり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無色無受想行識

 

学識経験の無い素人が生命のはじめの姿を想像に任せて描いたものである。何かオタマジャクシに似てしまった。細胞分裂と言う生物学の理論からは程遠い絵図である。母体の中の暗闇で、生命の輝きが始る。受精卵と言うたった一つの細胞が生命を形作って行く。何も見えない、何も聞こえない何の導きも無い全く何も無い『無』の世界から歩み出すのである。この初めの『受精卵』も既に細胞としての生命である。エネルギーからなる原子分子で構成されて、複雑なDNA、蛋白質など必要な要素を備えた立派な生命となっている姿と言えよう。受精卵が起こす生命の革命は父方母方の両方からの遺伝情報のDNAをどのような何方の軍配の采配で46個の遺伝情報に組み替えるかに掛かっていよう。そこから遺伝情報の生命の法理に従った伝達が始ると解釈する。細胞分裂と言う伝達の方程式に載せて、どのように生命の形を構築して行くのだろうか。DNAの染色体に依って、教科書的な、大学入試対策方式解釈で、細胞分裂が続くとしたら、その結果の生命体は同じたんぱく質構造の肉塊にしかならないように感覚的に思える。人体構成の采配は細胞分裂論等及びもつかない神秘の営みで進む筈である。教科書的複雑な論説等特別覚えなければならない意味など何処にも無いと思う。遺伝情報を伝える人体構成の『シーケンシャル制御』の基に起こる細胞分裂の変幻する意味が最も重要な事である。人も『脳細胞』、『中枢神経』そして『末端神経』の生命構成の指令伝達系が初めに構築されると読んだ。それは農作物の生長を見れば、その姿の変化に生命の営みが読み取れると思う。どこが成長するだろうか。初めは先端の春の息吹と言う『新芽』が伸びるのである。同じ生命現象と観ればそう基本的な違いは無いだろう。DNA、ゲノム解析で、相当の部分であらゆるものに似た傾向があると聞いた。それは生命の成長方程式にそれ程の違いが無いからと観なければならない。最先端は常にその環境を認識しながら、成長する方向や成長方法を『中央神経系の元締め・脳基幹』に情報を伝えながら生命の構成を計っている筈である。だから『細胞分裂』は自然の摂理に従った変幻自在の基で進んでゆく筈だ。同じ細胞分裂では肉の塊にしかならない。生命など決して生まれない。くだらない生物理論の一面的な内容を『金科玉条』の如くに信奉する宗教教義様教育だけは止めなければならない。何故そのような自然の仕組みなのかと考える内容の教育にしなければならない。少ない内容でその訳を『問答』する考え力の養成の教育にすべきだ。文科省の検定教科書制度が考える教育の最大の阻害になっている。自主性を踏み潰す政府(国家)主導全体主義教育だから。この事は日本の行政全体、日本人の政治意識に深く染みついた体制指向に原因があろう。新潟県教育行政の過去と未来ー犯罪?-はその個人的事実である。

神経系統の意味 ここで生命の成長する姿を想像して描いた事には神経伝達の方式に関係しているのである。脳から制御信号が『神経細胞』を通して伝達されるとの認識が常識であるように思う。しかし筆者の解釈は違う。全て末端からの外部事象の情報を伝達するのが神経細胞の役割と解釈する。その事が上に述べた成長の過程での神経系統構成の意味に繋がると確信できた。生体構築過程ですでに外部事象の検知機能の役割を創り上げていると考える。制御工学的手法に有る『フィードバック制御』の制御対象の状況を伝える役目が「帰還回路」に課せられている。その「帰還回路」が『神経細胞組織』に対応する。その関係は脳と生体制御の謎や『基礎科学』とは何だろう に述べた。

脳と生体制御の謎

朝日新聞2014年3月16日のGLOBE No.131 脳のふしぎ に触発されて、自分の『脳』の働き方をまた考えて見たくなった。

脳の発心 筆者は脳は外部の情報に触発されて、その個人的な特性に従って機能を発揮するというのが基本的な脳機能と解釈している。『基礎科学』とは何だろうの記事を書いた。そこで考えた自己流の解釈を更に身体制御の面まで広めてみようかと無駄な挑戦をする。身体には神経が脳から脊髄などを通して全身に張り巡らされている。指先の皮膚の微かな感触も脳は感知する。嗅覚、触覚、聴覚、味覚あるいは視覚とその身体を取り巻く外界事象を常に脳は統合して、認識し、身の安全を保つように監視している。般若心経に「無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。」と言う文言がある。人の感覚器官と人間の意識・脳との関係を考える起点を述べていると解釈したい。『無』の文字が頭に着く意味は何か?そこに般若心経を読み取る鍵があろうと、蛇足かも知れない挿入。さて、感覚器官も睡眠時はそれさえ休むことに成る。生命全体を統合する役目が脳であろう。その外界事象を認識する為の機関が『神経細胞』と考える。こんな素人考えを言えば、医学の専門家には、またトンデモナイ出鱈目を言うと非難されよう。しかし、自分の感覚的認識では、そう考えざるを得ないのだ。脳が働くのは、基本的に外界事象の刺激を切っ掛けとしているという解釈に基くことからの見方である。脳が基本的に始めに物事を考えるのではないと思う。世界の事件、自分の失敗、商売上の損失、流れ星等、身の周りに起こる外部事象が脳を働かせると思う。物理学理論に取り組むにしても、その基には何かそうしたいと行動・思考する切っ掛け、原因がある筈だ。ペンを取る事でも、何かを書きたいからであり、そこにペンがあるのを見ての行動である。そのペンを取る為に、手を伸ばす時の身体の動きはほとんど全身の動きが絡んでいると考える。各部の身体制御をする統制された制御信号はどのようなエネルギー波であろうかと言うのが基本的な疑問点である。神経細胞を通して物質的な質量の伝送と言う情報信号ではないだろうから、物質によりコントロールされると言う風には考えたくない。身体制御信号は電磁信号と言っても良い、エネルギー波であろう。その波形が脳の発する放射信号として複雑に統合されているだろうと考える。(2018/12/14)追記。ただし臓器間での生命制御物質はエネルギー波ではない。あくまでも脳と身体活動の間の情報のやり取りの信号はエネルギーの縦波の波形のように思える。

制御信号伝送路 どこを通るかは、骨組や靭帯・筋肉などのあらゆる身体全体が通信伝播路として働くと解釈したい。脳から発信される生体の制御信号はどこを通って生体の末端に届くか。2002年7月に腰痛に見舞われる。どの辺が原因かを手で探って、腰の部位の仙骨や寛骨当たりかと疑って調べた。しかし診断は椎間板ヘルニヤであった。その後ストレッチに励み、靭帯を鍛えるのが効果的であろうと思った。その時に書き写した図が残っていたので下に挙げる。制御信号の伝送路の主体は骨格であろうと考える。

その信号伝送路の一部の参考図。 ①は肩。②は後右腰部。仙骨と寛骨などを繋ぐ強烈な靭帯。③は手と指の図。骨と骨を繋ぐのが靭帯である。よく話に出るのがアキレス腱である。腱は骨と筋肉を繋ぐ。腱は鞘に保護された靭帯と解釈しても良いのかな?よく腱鞘炎と聞く。手、指の働きが鈍く、痛みを伴う症状である。鞘と中の筋が付着して動き難くなる炎症だ。靭帯

動作は骨格の骨を動かすことである。骨を動かすのは筋肉であり、その筋肉に制御信号を伝えて脳の指令動作を実行させるのだ。骨と骨は軟骨を介して互いの動きを滑らかに保つ。軟骨を通しているから、骨と骨は直接繋がってはいない。骨と骨を繋ぐのが靭帯であるから、制御信号は制御対象の骨の動きに迄届くには、骨と靭帯を通して最後の筋肉制御信号となる迄が伝播経路となろう。軟骨より靭帯を経路と考える根拠は、骨から筋肉に信号が伝播するとすれば、腱を通す訳だから、靭帯がその意味で可能性が大きかろうと言うことである。また、途中で信号はそれぞれの制御量に応じて、各部の筋肉(骨)を動かすエネルギーとして配分される筈である。その配分と統合制御信号との波形成分がどのように識別されるかという問題が脳機能の仕組み解釈に重要となろう。脳の各部からの制御信号が複雑に組み合わされて纏まった統合制御信号となっているのかも知れない。そこには波形(エネルギーの縦波)の組み合わせ方として現れる可能性が大きかろう。最終的には、筋肉内のカルシュウムやエネルギー消費物質の消費によって運動量が支えられるのであろう。その消費に脳からのエネルギー波がエネルギー変換作用として機能すると考える。主に骨に関わる運動機能で見て来たが、他に眼球の動きで物を見る事象を考えてみよう。動きとしては、首全体も方向を変え、眼球と虹彩を制御する。全てその動きを司る筋肉などの制御に成る。物を見る動作でも、多くの運動が統合されて機能を果たす訳である。その制御信号は首の骨を伝わるだけでは説明できないから、直接眼球の筋肉に伝わるのであろう。特に取り上げたかった考えは、生体の活動を制御する脳指令は神経細胞を通して伝えられるのではなかろうと言うことである。神経細胞は身体の動きや状況など外部の情報を脳に伝える『フィードバック回路』であろうと考える。『無色聲香味觸法』の感覚信号の通路が神経細胞であろうと。話が飛ぶが、身体機能を保つにはストレッチによる靭帯や腱を柔軟にする事と思っていると、蛇足。

初めに挙げた、GLOBE脳のふしぎの中にも記されている、念じて動くロボットの記事は以前から取り上げられている話題の科学技術の研究である。脳の内部、表面から外部に放射される電磁信号がコンピュータを通してロボットを動かす実験の話である。身体の各部がそのエネルギー波のどのような成分に反応するかの問題と考える。それぞれ各部に特有な信号認識、仕分けの意味が隠されていると考えたい。工学では『シーケンシャル制御』と『フィードバック制御』と組み合わせで統制される訳である。脳発信制御信号との身体制御量との付き合わせの偏差値「ゼロ」の制御が脳で計られる筈である。神経細胞はその『フィードバック信号』の伝達路と解釈したい。一言追記(2015/03/30)。電磁波はすべてエネルギーの縦波である。光も同じく縦波である。その認識が上の脳の生体制御信号の解釈の基になっている。マックスウエル電磁場方程式の横波解釈では理解できないエネルギー波かもしれない。

『基礎科学』とは何だろう

『科学』の始まり、それは人の心に始まる。                           

(2012/08/27)  神経(細胞)と情報伝達機能 について末尾に追記。

基礎科学の大切な事には誰も異論は無いであろう。ところで、『基礎科学』とは何だろうかと考えてみると余りはっきりしていないように思う。その事を9年ほど前に、自分自身の考えを整理するためにも、思い巡らしてみた。そのことをここに公開する意味があると考える。人類の歴史の足跡に刻まれたものが全て科学の心に彩られたものと言っても良いであろう。人が考えること、それが科学のすべてと言いたい。動物だって生きることは考えること。しかし、火を使うのは人間だけである。乾燥した木っころがあれば、摺り合わせて火も起こせる。この「火を起こす」事には大変深い意味が含まれている。道具として石の矢じりや弓を使う事の意味には、さらに心と科学の関わりで興味のあることである。アンデスの山岳地帯で、食べ尽くした動物の骨を上空から落とし、割れた骨の髄を食べる禿鷹の行動。その行動も自由落下の意味を感覚的に捉えた、科学の心に基づいていると言えるかも知れない。弓矢を使う人間には、自然の法則を認識した科学の心があっただろうか。この辺の疑問・解釈にどのように軍配を采配すれば私が納得できるだろうか。こんな調子で、自分を追い込むことで、頭を抱える己の姿を客観的に見詰めるのが考えるときの癖である。この滑稽さに自身で苦笑。この問いに対する答えは教科書には無かろう。だから勝手に自分で答えを決めなければならない。人それぞれで答えが違うかもしれない。違って良い。

私の自分自身への答え                                           「心」と「考える」の言葉の意味の違いが分からない。「考える」のは『脳』の機能の働きであると言えよう。しかし、「何を考える」かの「何を」を決めるのは『脳』であろうか。確かに『脳』の働きなしに思考・行動のすべての生命活動は成り立たない。しかし「何か」を考える基に成るもの、即ち「切っ掛け」は『脳』ではないように思う。何故なら、思考・行動の「考える」切っ掛けを『脳』自身が決めるとしたら、恐らく生命活動の全体が混乱することになると思うからである。「切っ掛け」は全て外界の状況やその人を取り巻く外との関わりであると見る。「考える」と「心」の言葉の含む意味の違いはこの辺にありそうだ。「心」の大切なことは、その人が己自身と己自身以外の対象(社会的、経済的環境、人間関係の環境、自然環境などのすべての外的状況)との関わりに対して、どのように『脳』に「考える」切っ掛けを生みだすかを決めるものであるからである。言わば「心」は、その人の「感性」と同じ意味を表す言葉と考えても良かろう。だから「感性を磨く」と「心を磨く」は究極で一致した意味であろう。外界の事象に対峙した時、その事象の捉え方にそれぞれの個性と言われる特質が表れるのである。「感性を磨く」とは、外界の事象をその奥深くに隠されている核心にまで踏み込んで、その眞相を見抜く力を鍛えることであろう。人間は強いが、際限のない欲望の虜にもなり易い面を持っている。その時点までに積み重ねてきた訓練や経歴によって、さまざまな性向として、その人自身の感性が磨かれてゆくのであろう。欲望に目が眩んでしまう、自分の理論に固執し過ぎる、等の状況によって事の真実を見失う事も多かろう。教科書に書かれたことをすべて鵜呑みにする、あるいは棒暗記するなど、深く考えずに済ます学習態度を長年続けていれば、それがその人の「感性」の感度や性向を決めてしまうものであり、事象の眞實を見抜く力にはならない結果を来たす。そこには「輝く個性」などは生れようがないのである。このような過去の『脳』の使い方が、人間の優れた脳機能のお陰ゆえに(工学的には、帰還作用の蓄積効果とでも呼べば良いのであろう※)、自ら「感性」の良し悪しを作り上げてしまうことになるのである。『脳』の機能は多面的で、様々な経験を通してこそ、外界の事象に対して鋭く、深く見取る「感性」に磨き上げることが出来るのである。ここまで来て、最初の自分に提起した「問い」の一部に対して、「心」と「考える(脳機能)」の意味の違いにだけは一応の自分の納得できる「答え」が得られたと思う。私、素人の独断と偏見であると言われても。

脳の不思議に踏み込んで                                         ※ 帰還作用の蓄積効果 とは何かを、図解によって説明したい。図一 脳の構造。    図二 脳の機能。図三 生命(心)の脳。の三つの図に分けて、「帰還作用の蓄積効果}と言ったことの意味を説明したい。図一は脳の構造と知覚器官(般若心経の文言の眼耳鼻舌身意から意を除いた意味を込めた)を単純化して示したものである。図の各部の番号(1)、(2)及び(3)の関連を脳の機能と言う面に絞って表現したのが次の図二である。                                         「外界事象」とは自分自身を取り巻く外部の自然環境や社会的状況等すべての事柄を含めたものである。その外界事象を情報として内なる自身に取り入れ、またその事象に対する自身の意思や行動を外界に発するものを(1)検知・発心動(※)器官として表した。その出力には危険から身を守る行動、獲物を捕獲する知恵、愛の思いに生まれるときめき、発汗その他の分泌物、言葉や書画での心の表現・芸術活動などの生命活動のあらゆる外的形象が含まれる。

(2)脳基幹(※)として纏めた部位は脳の中心部の深くに位置した諸器官(脳幹、海馬、小脳、視床下部、さらに脊髄をも含めた)であり、この脳基幹が生命を司る中枢部位であり、その人の生命の全象の源になる「こころ」の在りかと私は考える。あらゆる外界からの情報、大脳での思考情報のすべてを融合して、全体を統合した最も有効な調和情報として生命の姿を決めている。その意味を込めて、その部位の機能を情報統合・指令・管理中枢と考える。医学書の説明では、その部位の近辺に「橋」と言われる部位がある。しかし、その「橋」の働きについて詳しい説明が見当たらない。そこで、「橋」と言う言葉の意味を、私の考える『脳』の全貌をどのように捉えれば良いかの一つの手掛かりとして意味付けたいと思った。情報は決して単純な一方通行の形態ではないと思う。だから、特に大脳との情報のやり取りは、この脳基幹との間で複雑なやり取りを繰り返しながら、ある思考結果に収斂するものと考える。その為の情報の配送機能を受け持つ器官が必要であろうと考え、その役目を「橋」に託したのである。当然、(1)の出力器官に対しても、情報伝達の「橋」の役目の存在は同じように必要であろう。結局、脳全体の機能はある部位ごとに独立しては意味を成さず、全身の機能が一体の生命の塊としてしか意味をなさないものであろう。

(3)大脳は脳梁によって支えられ、脳の全体を覆うように大きな体積を占める。ここは脳基幹からの情報に基づいて、思考(分析・判断・評価・整理)する中枢と観て良かろう。(2)脳基幹と(3)大脳は外界事象の情報に基づいて、さまざまな処理情報に変換しながら、二つの間で情報の交換・分析様態を作り続けて、常にある方向性あるいはその瞬間対応の最適化をなすことに努めるように働くものと考える。この「ある方向性」と言うものが、その時点までのその個人の辿ってきた『脳』の履歴に大きく関わるものであろうと考える。『脳の履歴』とは元々あるハードとしての『脳』に、如何なる脳機能の鍛錬をしてきたかを『脳』のソフト機能としてそれぞれの個人の脳特性(個性と言ってよかろう)になっているのであろうと言うことを、そのように表現した。このように全くの独断によって自分の『脳』の内部を自分で分析して、その脳機能の全体像を解釈してみて、何とか自分を納得させられるだけの結論が得られたと思う。

以上の脳機能の解釈を、心(生命)の外界事象との関わりをどのように意味付ければよいかを1つの図案に表現してみた。それが図三である。生命(心)は単一ではその意味を失うものと思う。その生命すなわち『心』は己を取り巻く外部との関わりがあってこそ生きている。その『心』に生命の意味の重心を置いて、『脳』の機能の意味を考えた結果を図案化したものである。(辛巳カノトミ 神無月 20日  記 2001.10.20)

「基礎科学」の話から大変それてしまった。何故こうなったかは自分でもよく分からない。しかし、「科学する(用語?)」と言う事はその人の『心』と自然の姿との共感・共鳴があって初めて成り立つものと思う。そのことから心と外界事象との関わりに思いが向いた結果であろう。結局は図三の表現に「基礎科学」の本源があることを述べたかったのであろう。私が物理学会で発表するときに、必ず『心』にこだわりを感じるのも、科学者の感性と言うものへの疑念があるからである。科学者に求められるものは「純粋な真理への憧憬の心」であろう。素心での自然との対話こそ科学者が立ち戻るべき道であろう。そこに至るには、子供の頃の無欲な心に磨き続ける環境で育てられなければならないだろう。親が子供に接するときの躾や小言が「将来に高収入を得るため」や「高い地位に就くため」に勉強しなさい等と言うようでは、気掛かりだ。現代物理学の基礎理論は基礎に値するだけの価値が無い程、その論理性の欠落と矛盾の上に展開されている。『教育』は決して点数で評価できない処に、その本当の意味が隠されている。「勉強」と「教育」の深い意味を込めて、やはり図三の「生命(心)の脳」を噛み締めたいと思っている。

図三 生命(心)の脳                                             図三で、外界事象(現在)と人の生命の中に「過去と現在」と言う表現で、現在と過去・未来を分けた。この図案は自分でも満足している。ここに再掲したい(2012/08/27 追記 )。外界事象を現在としたが、そこから心窓(知覚器官ー視覚、触覚、嗅覚等ーを通して入る情報の入り口を表した)の情報を人は現在と感じる意味である。しかし、夜空の星を見上げれば、その光は現在の光とは言えない。百年前の星の光かもしれない。現在とは人の認識に関わり、その人がどのように解釈するかにもかかっている事である。太陽でも8分前の光である。星座の姿も現在と言う時間の解釈で、星座の位置関係は全く異なるものである。宇宙と言う世界まで含めれば、現在と言う時刻もどう解釈すれば良いかと、外界事象の意味も大変深い意味を持つ事になる。目で見た情報の時刻の意味まで「眼」に責任を負わせるのは酷であろう。それはその人の心の中『脳』に責任を取ってもらわなければ真実は見えない。専門と言う学問分野では、天文学のみに限らず、殆どが自らの集団の理論体系に『脳』が染められてしまうのである。それは私自身が経験したことである。電気理論の「電流」を一つの信仰のように自然の真理として認識していた。長い教鞭で、生徒、学生に得意になって指導法を工夫しながら教えてきた。ところが、それが『嘘』であることに気付いた。電線の中に「電流」などが流れ得ないことは、論理的に全体像を統合すれば、当然のこととして悟ることが出来る筈である。自分の『脳』の中に蓄積された専門理論、即ち電磁界理論の基礎概念が瓦礫のように崩れ去るのである。電流は流れず にその事を記した。『脳』に蓄積された知識が全て曖昧で、頼りないことに気付いた時、初めて学問の奥深さと意味を知ることになる。今となれば、「電流」などと言う物理概念がなんと滑稽なことかと思うと同時に、人間の『脳』と『基礎科学』との関わりに、その社会的意義を重ね合わせて、考え込まざるを得ない。

神経と情報伝達機能(2012/08/27) 全くの素人が生命科学の領域に口を挟む事を恥ずかしいと思いながら、一言書きたい。科学技術の安定性を保つには「帰還制御」の機能が自動的に働く事が必要条件である。そんな工学的な見方が、いつも頭にある。人間の行動を考えた時、脳で行動の指令を出すと見て良いだろう。しかしその指令が何を判断基準に発せられるかと考えると、なかなか難しいことのように思える。小刀で、物を斬り込む作業を考えても、脳からの指令とその行動の状況の情報とが合致しているかどうかを、比較して整合性が取れている状況下で初めて、脳からの指令が伝わったと言えるのであろう。鉄棒の離れ業をこなす空中運動の指令と身体状況の関係も同じ事であろう。『神経細胞』の働きの機能は、本当に脳の指令の「伝達」がその役割であろうか。その信号の伝達速度の限界はどの程度であろうか?等素人には理解できない疑問が多過ぎる。どうしても、工学的観点から考えると、全ての外界情報・身体位置情報などを脳に伝える機能が『神経細胞』の役目に思えて困っている。脳からの発信情報は本当に『神経細胞』を通しているのかと理解できないでいる。『信号は全て縦波の電磁エネルギー波である』から、身体の空間を通してどこからでも伝達できる筈である。しかし指先の痛みや、位置、熱さ等は神経細胞を通さなければ、その的確な情報は脳に伝わらないと思う。だから、「神経細胞」の機能は「帰還フィードバック機能」のように思える。以前「ストレッチ」で体の関節を調整しながら、その効果は骨と骨を繋ぐ「靭帯」の柔軟性の鍛え方が重要であると思った。そんな運動を通して、頭を巡らしていた事が「神経細胞」の機能であった。