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『賃上げ』の意義を問う

日本では3月が労使交渉の一つの区切りとなって来たものだ。最近は低成長で、その陰も薄かった。今年は「アベノミクス」の過剰な金融緩和策で、久しぶりの『賃上げ』問題が話題になっている。みんな賃金が上昇すれば、生活が物質的に豊かになるから、人より幸せ感にひたれると思うのかも知れない。豊かさの獲得のための経済競争が『正義』だ、との無意識での感情的思いからであろうか。

賃上げは幸福につながるか 移動手段の高速・長距離化を手に入れたことが、地球の相対的短縮化を招いた。世界規模で経済競争が展開され、天然資源の獲得競争、人件費の買い叩きによる利益獲得競争が経済競争の当然の手段であるかの如くに過熱している。世界的に人件費が平準化されるのは行く先に見える当たり前の姿である。戦後日本の経済的変化の状況を振り返れば、そこに『賃上げ』の意味を読み取る視点が見えよう。1960年の岸内閣の『安保闘争』事件から、池田内閣の『所得倍増』政策の下、戦後の経済的困窮の時代から脱皮したいと思う国民全体の強烈な願望と欲望が我武者羅な物質的豊かさを追究することを進めた。電化製品が次々と生まれ、それを手に入れる事が生活の豊かさを実感する目的になっていた。洗濯は「盥(タライ)」の中で、洗濯板の上に衣類を載せ、硬い固形石鹸を付けて、手でゴシゴシ擦り合せて洗濯をするのが当たり前の日常生活の姿であった。おそらく江戸時代以前からの洗濯の姿であっただろう。稲を足踏み脱穀機(それでも最新式の科学器械であったかもしれない)でこなしていた姿と同じ、長い間の人の日常生活の姿であった。その長い時代の辛い毎日の生活の苦労が、電化製品で革命的な生活の時間的余裕と労働からの開放を手に入れられることを経験した。今では、洗濯を洗濯板でする手の皮がむける冬の手仕事等、若い人には想像が出来なかろう。そんな苦労からの開放への願望が新しい経済競争の正当性を『賃上げ』に思いを載せて進んで来た。『賃上げ』は正義とさえ思うことになっていた。労働組合も活発な時代であり、『賃上げ』に国民の集団が生きる目的化していたようだ。今振り返って、その時代の精神的な、幸せな成長路線はもう二度と得られない時代に突入したと観なければならない。『賃上げ』は幸せを生まない。

経済学者に問う 素人が考える。専門家が考える経済政策が理解できない。今、科学技術はその革新性が飽和状態にある。新しい科学技術製品で、新しい時代を拓くような希望はもう無い。安倍内閣の『第三の矢』に相当する様な革新性は既にない。過去の行き過ぎを修復する必要性が、大きな負担として財政に覆い掛かって来る。道路・橋などの老朽化はその代表になろう。原発事故もその専門家の村意識の正当性を破綻させて、巨額な負債の修復にその財政負担が掛って来る。世界の人件費の低い地域での製造計画も、当然の人件費平準化へ進んでゆく。その先にどんな姿を経済競争と言う従来の手法に見越しているのか。日本国内での、『賃上げ』が人件費高騰を招き、物価上昇を来たし、生活費の高騰から生活苦を強いられることは必定である。経済学者は専門家として、どんな未来への希望を構築するのか。

軍需産業の人間的正義は? 世界規模で当然の如く軍需産業が華やかである。世界には正義など無い。人殺しや人権侵害が正当の如くに世界を支配している。どう考えて意識を繕えば良いのか。

チョコレートの人権搾取 カカオ豆収穫がどんな労働環境化で行われているのだろうか。低年齢少年の労働に支えられているという話だ。バレンタインで美味しいチョコレートを御馳走になる。その陰に悲惨な労働搾取が現実なのだ。経済競争はとてもまともな姿に見えないのである。書きながら悲しい思いに・・。

ドアノブの火花-熱電変換-

(2020/06/11) 追記。Friction heat and Compass (2020/03/22) に熱と磁気を話題にした。

寒中に誰もが経験する指先の火花放電。感電ショックの後味の悪さ。火花放電あの瞬間の気分は例えようがないものだ。来るかと薄々感じながらに油断を突かれたような後の祭りである。それは自然現象である。物理学では、『電荷』の放電現象と解釈されている。雷と同じもので、電気の放電とされている。しかし、世界に『電荷』など存在しないのである。じゃあ何が原因かとなる。その答えは『熱エネルギー』の振る舞いの現象でしかないのである。電気磁気学の専門家、世界の科学者はおそらく皆が『電荷』で説明していると思うが、それは『嘘』である。自然は極めて単純である。そんなに器用にいろいろの物理量を作り出せはしないのだ。自然世界の本質を見極めれば、『エネルギー』一つの世界なのである。熱エネルギーのことを、昔の解釈で、『熱素』と言うものと捉えていた事もあるようだ。熱が何から出来ているかは、研究対象としては素粒子物理学の専門家が究めなければならない課題の筈である。しかし、素粒子論では次々と新しい世界構成粒子を仮想的に作り出すだけで、自然の本質に迫ろうとする意識に欠けている。自然は単純である。電気磁気学の矛盾から、『電荷』を否定すれば、自然の単純で、純粋な姿が視界に浮かび上がって来るのである。

電気現象 電気と言う言葉は現代社会の科学技術を論じるに欠かせない用語である。それと同じく『電荷』と言う用語も科学論のあらゆる基礎概念として社会的認知の基本を成している。だから『電荷』を科学論から排除したら、科学の解釈が不可能になるだろう。世界中の基本概念として位置付けられているから。だから『電荷』を否定しても電気と言う用語まで排除し切れない現実的困惑に居る。標題で副題にー熱電変換ーとしたのも、本当は電気には物理的に無関係なのであるが、熱エネルギーが『電荷』でない電気エネルギーに形態変換した現象であることには間違いないので、電気の電に字を使うのである。しかし、物理現象としては、電気と言う曖昧な用語で厳密には論じられない筈である。それは世界の物理学の認識が深さで十分でない現実の中の話である。

ドアノブ放電の用語 火花放電と言う用語も電の字が付いている。電の字が付くと、従来からの『電荷』概念で解釈する習慣になるけれども、それは各人の認識の深さの違いとして考えれば良いことであろうから、『電』の字を付けて論じざるを得ない事をご理解頂きたい。

放電現象の原因 寒中は寒さと共に、空気が乾燥している。空気中の保有する『熱エネルギー』は水分の水蒸気量で湿度として、空気中に含まれるエネルギー量が決まる。外気に触れているドアは冷気により冷やされて、ドアの保有エネルギー量は極端に低い状態にある。一方人が、ドアノブに触れる時、その人が保有する熱エネルギー量はどうかと考えれば、暖かい車の中から外に出て、外気の冷気に触れて、衣服の持つ熱エネルギー量が外気温度に対して、余分に過飽和状態になる筈である。その身体に溢れた余分の熱エネルギーがドアノブの外気に平衡した保有エネルギー量との間の差が大きくなり、指先とドアノブの間でエネルギーの差分が移動する現象なのである。それが火花になるのである。火花は光エネルギーである。熱エネルギーが光エネルギーとして空間を通してエネルギーの平衡状態を採る為の現象でしかない。また、衣服の摩擦でも身体のエネルギーが増加する。衣服の材料によりその摩擦の発生エネルギー量も、エネルギーの漏れ逃げ方にも影響されるであろう。その辺の違いが色々放電現象の差となる筈である。電気火花ショック、感電ショックの大きさの違いとして影響して来る筈だ。関連記事に雷の正体がある。 (クーロンの法則を斬る )も参考に挙げておきましょう。

太陽電池の解剖

半導体の利用分野に太陽電池がある。エネルギー源としての太陽光発電である。太陽光を電気エネルギーに変換するエネルギー変換装置である。そこに半導体が使われる。アモルファスSiと言うシリコンの結晶構造でない非晶質体が利用されているようだ。太陽電池の単位セルの構造や製造過程も企業毎にいろいろ違いがあるようだ。基本接合はpin構造で、p型とn型で、i型(真性半導体)が挟まれた構造になっているようだ。従ってその場合には、pn接合には成っていない訳である。半導体の特性は、そのpn接合部での『電子』と『正孔』の云々というバンド理論で解釈される筈であるが、pin接合ではそんなバンド理論の説明は困難であろう。しかし、それでもそんな太陽電池の解説には相変わらず同じ論理の説明がなされている。全くその解説では、半導体の動作原理を理解することができない。理解できる人は自分から見ればやはり科学論の天才に思える。しかし本当の気持ちは複雑だ。IT、量子力学論の科学書等何処を見てもバンド理論であり、フェルミレベルである。誠に恥ずかしい自分の未熟さを曝さなければならない。半導体とバンド理論の解剖に始まった関連論である。

光電変換と空間構造 光のエネルギーを電気のエネルギーに変換して、エネルギー源とする方式である。光は光自身がエネルギーである。電気エネルギーも同じ一つの『エネルギー』である。『エネルギー』は光も、電気も違いは無い。太陽電池と言う半導体構造体の中で、光が光形態から目に見えない空間伝播(電気)エネルギーに変換されただけである。その変換過程に半導体と言う特殊な空間構造体を介して光が直接エネルギー変換作用を受けただけである。そのエネルギー変換過程に半導体の接合組み合わせがどのような機能を発揮しているかが物理学として解明されていないだけなのである。真実は理論解明されていない。科学技術が理論解明されることを待ち望んでいると観て良い。揚羽蝶の翅の光変換と同じ意味合いを半導体構造の中に秘めているとしか考えられない。色の世界を尋ねてに可視光線間の変換を空間の「Color cell」で解釈することを述べた。半導体内で光エネルギーが貯蔵され、別形態のエネルギー放射(いわゆる電気)に変換されると解釈すれば良い。全ては実在する『半導体空間構造』に秘められている。何も『電子』や『正孔』などと言う実在しない概念を持ち出す必要はない。この『エネルギー』と言う一つの実在物理量を感得できるかである。

『電子』『正孔』説の論理的欠陥 量子力学では、エネルギーを原子構造の外殻周回電子群が運動エネルギーの増減をするという軌道変換で解釈している。その時は電子質量を運動エネルギーの基礎に据えている。しかし、バンド理論や電流概念においては、電子の質量等全く論理外に置かれている。電子流で電流を解釈する時、電流値は電荷の時間微分で定義する。しかし、電子を電流の基礎に据えるなら、電子に付随する質量も一緒に考えなければならない筈だ。それでは電荷の時間微分と同じく、質量の時間微分も同時に論理の中に組み込もうとすれば、その意味をどう繕うのだろうか。質量/時間=dm/dt[kg/s]はどんな電気的解釈に繕うのか。電子科学論の無責任。持論で誠に恥ずかしい。

素人大工ー棚ー

工作が趣味。空間立体構造には考える事が多い。自作棚20年も前に造った棚を事情で取り壊すことになった。未練たっぷりで、足跡を残したい。釘を使わないで組み立てる事が、自然が造りだした木材への感謝の気持ちを表せるかとの自己満足になっていたかも知れない。天張り。。棚組しかし、工作しようと思えば、その木材の表情・顔は自然が造りだした木目にあり、材質の質感に共感できて初めて素人の材木に繰り込む思いが伝えられる。鉋掛けをするにも、鑿穴一つの切り込みを付けるにも樹の表情を無意識に感じながらとなる。張り合わせ材では、気分が乗らない。少し切り込みの様子を残しておきたい。天張りと棚の組み方を分解して撮る。

日本には『天杉』と言う巨樹が少し残っている。地方の天然杉として大事に守られても居る。その板目の美しさは、天然であるが故の人の手心の入らない表情に活き返っている。天井張りの板目として重宝がられている訳は、その表情を仰向けに眺めた時、見飽きない心の安らぎを覚えるからであろう。自然の木目はとにかく美しい。材木一つをとっても、生活から自然が消え去っている。どうか木のぬくもりが残る生活空間が有って欲しいと願うだけである。pcや携帯端末の世代と何も無い自然が相手て育った古い世代とのギャップが現実の世界を形作っているのだろう。政治が戦後世代の戦争を知らない危険に走るのと同じ事か?

棚分解後の姿。足枠だけは強度補強のため、金釘を使っていた。それ以外は柱と棚板等との組み込みで強度を持てせた。ただ天井の棚との間に、つっかい棒(突っ支い棒)役の板が仕掛けられていた。柱、棚板

足枠等