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自然の世界と科学論の世界

(2024/04/30).

 今年も桜の世界はほとんど終わった。桜の花見は春に人の心をも華やかで、平和な一時に浸れる世界に連れて行ってくれる。

 自然の世界は人の心を縛らない。科学理論の世界は人の心を決まった法則に縛り付け易い。

 学校で、教科として理科や物理学を学ぶ。教えられた事を記憶し、その解釈法を学習して修得しなければならない。

 最近思う。物理学理論と自然世界の間には大きな断裂が深い溝となっていると。科学理論は経済競争の手段として、自然界を利用する視点での解釈法に取りまとめられたものだ。それが多くの『法則』となって人々の意識を縛り付けている。自然界を利用する共通の手段の統一化が図られた。それが物理学理論であり、多くの何々の法則だ。

 科学理論の法則とは何か?

 科学理論は自然世界の現象を利用する為に、人がその便利な利用法を共通理解の手段としてまとめた解釈法である。決して自然世界の真理を捉えたものではない。便利な解釈方法を述べただけである。それを信じれば、自然世界に抱く恐れや、恐怖から解放される安心感が得られると言う事もあろう。みんなと共通意識で繋がる安心感が得られる。

 科学理論の法則の欠格問題。

 それは、その法則の唱える内容を『何故か❓』と言う視点で考える事から、人の意識を遠ざける欠格問題を含んでいる事である。決して、『電荷』とは何か?『電子』とはどんな空間構造体か?等と殆ど人は疑問を抱いて、考える事をしない。

 〈問答〉の欠落した科学理論体系。

 理論:解釈法の羅列が科学理論体系となった。

 〈万有引力の法則〉:代表的法則だ。
 ニュートンが唱えた万有引力の法則。リンゴの落ちる現象を見てその解釈法に閃いて、法則を生み出したと言われている様だ。確かに重力加速度G[m/s²] が地球表面に在ると解釈すれば、殆どの運動の現象は実際の運動を正しく計算できるのだろう。しかしその「万有引力の法則」はどの様な法則かと言えば、自然世界に『質量』が有れば、他の『質量』との間にすべて引合う引力が存在すると言う解釈法を唱えたものだ。地球と月の間に、〈万有引力の法則〉を適用したとしても、地球も月もその『質量』が分からないから、その法則が正しいかどうかを検証はできないと思う。太陽の周りに地球が一定の規則で、公転し、更に地球が自転している物理的現象の意味を知りたいと思っても、〈万有引力の法則〉では理解することはできない。確かに〈万有引力〉で運動の意味を解釈できると思えば、何となく精神的な不安からより安心に居られるかも知れない。何も考えなくて済むから。そんな意味を、社会的安定化の意味を学術理論の権威は備えていると思う。

 『禪問答』がある。その究極の到達点の一つが、『色即是空 空即是色』であるのだろう。『質量』は『エネルギー』である。E = mc² [ J ] がある。その『エネルギー [J] 』が目の前にある事実を人は認識できない。光が『エネルギー』の空間分布構造体であることを認識できない。

 「クーロンの法則」、「アンペアの法則」は『電荷』に関する法則だ。その『電荷』概念を基にして、新しく『磁束』が自然世界に存在すると言う意味を生み出した解釈法だ。『電荷』と『磁束』の間の物理的意味を、その空間における物理的関係をどの様に解釈すれば良いか等と、『禪問答』は殆どしない。『何故か❓』とは問わないで済ます。

 光の屈折問題。何故光は伝播媒体間の境界で、その進行方向を変える『屈折』現象を起こすか?その解釈法にホイヘンスの原理がある。確かに光は境界面で屈折する現象の在ることは誰でも理解できる。ホイヘンスの原理の解釈法が唱えられたとしても、『何故か❓』と言う疑問には全く答えて居ない。それは一つの解釈便法でしかなく、何もその『屈折』の物理的現象に答えていないのだ。単なる解釈法を唱えただけでしかない。光を『エネルギー』光速度伝播現象と捉えない限り、プリズムの屈折現象の物理的意味など理解したとは言えない筈だ。科学技術は幾らでも精密なレンズを作り出し、高度の写真撮影技術は開発できる。光の空間像を理解しなくても。だから光が『振動』する物理的意味など無いにも拘らず、科学理論は『光の振動数』で高度な学術理論が展開される。教育では、『光の振動数』が重要な指導内容となって、子供達に記憶させる。『振動』する物理的実体など光には存在しないのだが、実験室での科学論的解釈法の共通手法に成っているからでしかない。『何故か❓』と疑問を持って、考える事は車座社会では邪魔者として排除され易いのだ。参考(#):プリズム問題で、ご迷惑を掛けたことお詫びしたい。所属が無いことで、大切な内容であったが、発表を故意に欠席した。気持ちに整理が出来ずの所業で、関係者に御迷惑をお掛けしてしまった。他にも多くの発表を無断で欠席し、御迷惑をお掛け致した。しかし内容は全て貴重なものである。

 しかし、科学法則は社会的共通解釈法の世界の構築によって、科学論の専門家の集団体制には大切な事なのだ。

 (#) 金澤:28aYE-2 プリズムと光量子の分散 日本物理学会、第64回年次大会。64-1-2. p.405.(2009).

 

人の色覚と光の三原色

人の色覚。人が身の周りを見渡せば、そこには彩り豊かな世界がある。何故こんなに豊かな色の感覚が目に備わっているのか。光に色がある訳ではない。光に色が無いのに周りは色彩の世界だ。色彩は光が運んで目に入ることで生まれる、脳の認識世界なのだ。人は共通の色彩感覚を備えている。こんな常識外れの疑問や『問答』は、経済的な利益からは全く無関係の領域の科学論考と言えよう。むしろ科学と言うより哲学の領域かもしれない。きっと誰もが薄々気付く事であるかも知れないが、社会的・時間的束縛や置かれた競争的立場から、追究するだけの余裕が無いのが現実である為の、無関心の部類に捨てているのであろう。しかも科学論文にするだけの、説得できる資料・データを揃える事が難しい。論ずる視点も、論点も広い範囲を俯瞰しなければならないから、データを揃えられない。そこに描く世界は、自分の感性に響く現象の姿を、感覚的認識の世界を、矛盾のない未来像として示す論述になるだけである。光の物理的本質と人の光に対する神経細胞の間に存在する総合的統合の解釈を示すことが必要になる。IT検索すると、光は横波の振動波だと決め付けられる。その教科書的論理を筆者は理解できない。光の振動波ではとても色覚について論じるべき筋道は見えてこない。光はエネルギーの縦波である。この光の捉え方で初めて色覚の疑問に沿える話になる筈だ。眼球内の光伝播現象が最初の論点になる。眼球の構造認識の問題である。光伝播の導路である『硝子体管』の光ファイバーの認識が関門である。眼球の光ファイバーと光量子 第65回日本物理学会年次大会で、発表資料のOHPシートの印刷が濃すぎて、投影できなかった恥ずかしい経験がある。研究機関にも所属していないため、予行練習も出来ず、ブッツケ本番で臨む。その資料が次のものだ。

OHP朝日の分散OHP資料(襖上の模様は金魚鉢の傍の襖に映った朝日の分散模様である。暫くした時間経過後にその分散模様が移動して、畳上に投影されていた。その二つの太陽光線の分散模様を、運良く捉えた写真である。自然が語りかける一瞬の姿である。)

眼球の色覚の説明資料が示せなかったので、失礼な発表であったと後悔。眼球の光ファイバーと色覚 に既に論考を示したが、光の三原色と言う観点を含めて、改めて考えてみる。なお分散に関するIT解説で光の分散がある。

写真224光の三原色と分散 (疑問追記、2015/01/03)絵具は24色などがあるが、光の三原色は紫や土色など何色を演色出来るのだろうか。

光の三原色という大変重要な人の色覚に関係する原理がある。TV等の色彩はこの原理によって可能になっている。この光の原理は人の色覚と色彩世界の間に秘められた不思議を提示している。科学技術との結びつきと言う面で見れば、この三原色の色の関係そのもので十分である。しかし、色の世界の物理的意味は何も理解できていない。何故かと言う『問答』に何も答えられないのだ。たとえば、赤(R)と緑(G)の混合色が何故黄色(Y)になるかに答えられるか?人の色の認識が何によって決まるかと言う本質的疑問には何も答えられないのである。生理学と物理学の統合した科学論の問題であろう。生理学で、神経細胞の情報伝達の物理的認識が如何なるものであるかに掛かっていよう。光ファイバーのタンパク質の繊維構造がどのようであるか?情報はすべてエネルギーの縦波である。電磁波ともいうエネルギーである。それはおそらく『熱エネルギー』とも言えるであろう。エネルギー波の解釈は電気磁気学の教科書的解釈では捉え切れない問題である。電界、磁界論では神経細胞を伝達する情報網の解釈には対応できない筈だ。電界、磁界と言う概念そのものが如何にも人間臭の科学概念であるのだ。電磁エネルギー伝播現象は空間であれ、細胞内であれ横に触れる波の実体など何処にも存在しないのだ。その物理的解釈・認識が科学論の基本的認識にないと、矛盾や混迷から脱する事が出来ない筈だ。そこで改めて、赤と緑の混合色が何故黄色になるかと言う『問答』を取上げる意味が成り立つ。物理学と言うものはその問答を拾い上げて初めて成り立つ学問であろう。この『問答』に今答えられるもの等何もない。しかしその答えられないと言う事を認識した上で考えを深めるべきと思う。なお、上の朝日の分散の色で、緑色が殆ど無い。その訳も理解できないが、畳上の分散模様には緑色がはっきり分かれている。一つの疑問として置きたい。

色の世界を尋ねてを参考に挙げておく。

追記(2014/12/13) 疑問に疑問が重なり続ける。単純な疑問が不図浮かぶ。光の三原色で「茶色」はどのように構成されるか。土色は自然のありふれた茶色だ。TVで「黒色」は光を零にすれば得られる。しかし茶色は三原色には無い。IT検索にはいろいろ質問があるが、満足できる回答が余り無いようだ。光と絵具の混同した質問もあるが、絵具の発する色彩の物理的意味が光の場合と何故異なるかも明確に理解できている訳ではなかろうから、混同するのも当然であろう。絵具を混合すれば、その混合絵具の分子構造により、光の変換特性が決まるからと解釈したい。分子の空間格子のColor Cellが光変換の原因であろうと解釈する。蝶の鱗粉と同じ意味である。絵具と光の三原色の間の関係も放射光と人の色覚との関係で全てが決まる訳である。だからその間の物理的意味合いは理解できる筈である。光が色を持っている訳ではない。解決できなくても、疑問が理解を深める基になる望みにしたい。